正法眼蔵第七十一は「鉢盂」の巻。鉢盂とは、僧が用いる食器のこと。俗に衣鉢を継ぐというが、衣鉢とは僧が着る衣装と僧が用いる食器をいう。先輩僧の生き方に学ぶというような意味だ。そのことから連想されるように、この巻の主題は、仏祖の教えを受け継ぐことを、衣鉢を継ぐことにたとえている。衣装を受け継ぐことを、教えを受け継ぐことの象徴として捉えることは、「伝衣」の巻でなされていた。この巻はだから「伝衣」の巻のバリエーションといってもよい。
鉢盂の正伝はすなわち仏の教えの正伝であるということを、巻の冒頭で次のように説く。「七佛向上より七佛に正傳し・・・東西都盧五十一代、すなはち正法眼藏涅槃妙心なり、袈裟・鉢盂なり。ともに先佛は先佛の正傳を保任せり。かくのごとくして佛佛祖祖正傳せり」。代々正伝されてきたものが正法眼藏涅槃妙心であり袈裟・鉢盂であるということは、袈裟・鉢盂がすなわち正法眼藏涅槃妙心であるということである。それはどういうことか。袈裟・鉢盂が無条件に正法眼藏涅槃妙心だというわけではない。ここでいう袈裟・鉢盂は、仏祖の厳しい修行を象徴しているのである。その厳しい修行が仏祖に正法眼藏涅槃妙心をもたらしたというふうに捉えるべきである。
このあたりの呼吸のようなものを道元は次のように言っている。師如浄の言葉を引きながらである。「おほよそ佛鉢盂は、これ造作にあらず、生滅にあらず。去來せず、得失なし。新舊にわたらず、古今にかかはれず。佛の衣盂は、たとひ雲水を採集して現成せしむとも、雲水の羅籠にあらず。たとひ草木を採集して現成せしむとも、草木の羅籠にあらず」。要するにここでいう鉢盂とは、物質的なものではなく、抽象的な意義を帯びたものなのである。修行とさとりの象徴としての鉢盂なのである。
以上のことを道元は、巻末の部分で次のように言い換えている。「いま雲水の傳持せる鉢盂、すなはち四天王奉獻の鉢盂なり。鉢盂もし四天王奉獻せざれば現前せず。いま方に傳佛正法眼藏の佛祖の正傳せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり。しかあれば、いまこの鉢盂は、鐵漢の舊見を覰破せり、木橛の商量に拘牽せられず、瓦礫の聲色を超越せり。石玉の活計を罣礙せざるなり。碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承當しきたれり」。
ここでいう鉢盂は、物質的な材料でできていると考えてはならない。たしかに物質ではあるが、それは単なる物質にはとどまらない。そこには仏祖たちの修行のあとが込められている。それをよくよく認識したうえで、仏教の修行に励むべきである、と道元は説いているのである。
コメントする