エゴン・シーレの世界 壺齋散人の美術批評

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エゴン・シーレ(Egon Schiele 1890-1918)は、グスタフ・クリムトとならんでオーストリアを代表する画家である。鉄道員の父親のもとで、比較的裕福な生活を送っていたが、父親がシーレが15歳の時に死ぬと、残された家族「母と二人の姉妹とエゴン」の生活は、貧しいとまではいかぬが、余裕がなくなった。そこでエゴンは、工芸学校に入って職人の教育を受けた。その工芸学校はクリムトの出たところで、クリムトは卒業後職人の道に入ったのだが、シーレはウィーン美術アカデミーに進学した。しかしかれはアカデミーの堅苦しい雰囲気になじめず、当時業績をあげつつあったクリムトに師事することにした。

そんなわけで、シーレの画家としてのキャリアは、クリムトの強い影響からスタートした。クリムトはシーレに気を使い、色々と引き立ててくれた。十代にして早くも、クンストシャウ展にクリムトに招待されて出展した。クリムトの強い影響は、1909年の「ダナエ」や「ゲルトルーデの肖像」まで見られるが、1910年以後はクリムトの影響を脱して独自の画風を展開するようになる。

シーレの画風は表現主義に分類されることが多い。表現主義Expressionism は印象主義 Impressionism に対立するもので、印象主義は対象の表面を光によって表現するのに対して、人間の内面を表現したものと定義される。ノルウェーの画家ムンクは、そうした定義にぴったりあてはまる画風である。シーレもまた、人間の内面をなるべくストレートに表現しようとしている。

初期のシーレには、人物像が多い。自分をモデルにした自画像もどきの作品とか、少女の裸体像がこの時期の大部分をしめる。自画像はペニスをむき出しにし、女性の裸体画では陰部をむき出しに描いており、見方によってはポルノグラフィと言える。シーレはまた、未成年の少女をモデルに使ってかなりエロティックな絵を描いており、それが児童ポルノだと受け取られて、指弾されることが多かった。

シーレはクリムトのところで知り合ったヴァリー・ノイツィルとねんごろになり、1911年クルマウで一緒に暮らす。クルマウは母のゆかりの地である。そこのシーレのアトリエには、貧しい家の子がやってきて、シーレのためにモデルをつとめた。シーレはその子らの裸体を描いた。それを知った近所の人々が問題視し、シーレたちは追放される。

シーレらはウィーン郊外のノイレングバッハに移住するが、そこでもスキャンダルを起こす。家出の処女を一晩泊めたところが、少女の家族から未成年者誘拐のかどで告発されたのだ。シーレは一か月ほど拘禁されるはめになる。

その後、ウィーンのヒーツィンガー大通りに面したアトリエに移る。通りを隔てた向かい側に、ハルムスという人の家があり、その家の姉妹、アデーレとエディットにシーレは関心を示す。二人のうちどちらかと結婚したいと思い、結局エディットと結婚した。ヴァリーとも引き続き付き合いたいと申し出たが、ヴァリーは拒絶。二度とシーレにはあわなかった。彼女は看護婦の資格をとったあと、前線に配属され、1917年に病気で死んだ。

シーレの表現主義的画風は、1912年頃に円熟の境地に達し、「枢機卿と尼僧」(1912)、「聖家族」(1913)などを生んでいる。かれの最高傑作といわれる「死と乙女」は1915年の作品である。

結婚間もなく、シーレは兵役に従事する。1915年6月のことだ。ボヘミアで訓練を受けたのち、ウィーンやその周辺で軍務につく。軍ではシーレの芸術の才能を重視し、比較的自由を保障した。だが、シーレの意欲は低下した。意欲が再び高まるのは、1917年の後半だった。それから死ぬまで1年しかない。かれは1918年10月に、エディットともどもスペイン風邪にかかり、相次いで死んだのである。エディットが妊娠6か月で死に、その三日後にエゴンが死んだ。

死んだ年である1918年3月、第49回分離派展が開催。シーレは19点を出品して大いに好評をはくした。

わずか28年の人生だったが、十代から才能を発揮し、型破りな作品を描き続けたシーレは、20世紀の世界の美術界において、実にユニークな業績を上げたといえる。ここではそんなシーレの代表作を取り上げ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。





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