樋口一葉の短編小説「この子」は、一葉の小説としてはかなり毛色の変わった作品である。一葉の小説は、「大つごもり」以降晩年の傑作群についていえば、女性の貧困とか男尊女卑の観念による社会的な抑圧とか、女性の生きづらさをテーマにしたものだった。一葉はそれらの作品を通じて、女性の置かれている悲惨な境遇を批判し、できうれば女性が自立できるような社会を展望していたといえる。ところがこの小説は、自らすすんで、封建的な社会に適応しようとつとめる女性を描いている。つまり、一葉らしさとはもっともかけ離れた作品なのである。そのことは早い時期から指摘され、これは一葉の作品としては失敗作だという評価が多かった。
一葉がこの小説を書いたのは、明治二十八年の暮れのことで、「わかれ道」脱稿後のことである。つまり一葉最晩年の作品ということになる。その最晩年に、封建的な社会との妥協に甘んじる女性を描いたのはどういうわけか、という疑問が当然起きる。その疑問を解くカギは、一葉がこの小説をどのような動機から書いたのか、という執筆事情に求められる。一葉にこの小説の執筆を依頼したのは、当時刊行されたばかりの雑誌「日本乃家庭」である。この雑誌は、家庭教育なるものを標榜していて、家族の団らんと家族の主婦としての女性の心構えを説教するという特徴をもっていた。そうした意図から、創刊号では家族の結びつきを重視する加藤錦子の文章を載せ、また発刊の言葉では、家庭こそが日本社会の礎だとの認識が表明されていた。一葉はそんな雑誌の第二号の付録のために小説を書くように依頼された。依頼されるにあたっては、家族団らんとか家族における主婦の役割とか、具体的な指示が出されたに違いない。一葉は、とりあえずその指示に見合うような小説を書いたということだろう。金のためにそうせざるを得なかったと考えられる。だから、一葉としては妥協の産物ということができる。
この小説の特徴をごく簡単に言うと、一つには、自分の生活に大きな不満を抱いていた女性=妻が、出産を契機に家族愛(母性愛を含む)に目覚める様子を描いていること、もう一つには、ですます調の言文一致体で書かれていることである。一葉の小説のうち言文一致体で書かれているのは、この作品だけである。
この小説は一女性の独白という形をとっている。その女性の独白の前半で、彼女がなぜ自分の境遇に不満を抱くようになったか、その理由がことこまかく語られる。色々なことを言っているが、要するに夫が自分を大事にしてくれないことへの不満である。夫が憎らしい、夫が憎けりゃその子も憎いとばかり、自分が身ごもった子まで呪詛する始末である。子がなければ家を出て自由にもなれるが、子がいてはそうもいかない、という理屈である。ところがいざ子どもが生まれてみると、途端にその子が可愛くなる。子が可愛くなると、その父親まで可愛くなる、という具合に、この出産を契機に女の家族愛が一気に目覚めるのである。家族愛とはそんなに単純なものかといぶかしく思うところだが、そこは一葉の限界であって、家族を持ったことのない(夫や子のいない)一葉には、家族愛を緻密に捉えることができなかったのかもしれない。
語り手の不満は、どうみても理にかなったものとはいえない。この女性は、一葉の他の作品に出てくる女性とは違って、表向きは何不自由のない生活をしている。夫は裁判官として社会的な信用があるし、暮らし向きも楽である。複数の下女を雇い、自分が家事に忙殺されるということはない。それに、彼女の理不尽ともいえる駄々のこね方に、夫は感情を爆発させることなく、冷静に対処している。そんな夫がなぜ憎らしいのか、そこが読者には伝わってこない。しかもその憎しみが、子が生まれることによって霧消してしまう。そんなに簡単に霧消するというのは、彼女の夫への憎しみが、そんなに深いものではなかったからではないか。
それでもこの女性の言葉に迫力があるのは、いざ語り出すと止まらなくなり、しかもその語り口が他の小説の主人公、たとえば「にごりえ」のお力の語り方に類似しているからである。この小説の語り手も、お力同様の語り方で夫や社会を呪っている。それは一葉の地の性分が出たということだろう。一葉は、自分と同じような境遇の貧しい女たちには感情移入できたが、金持ちで何の不足もない女たちには感情移入することは難しかったのであろう。
この小説の二つ目の特徴である言文一致について。一葉のほかの小説は、西鶴流の雅俗混交文であって、地の文章と語りの部分とが混然一体化しており、しかも文語調である。この小説が言文一致なのは、女性による語りであるということに大きな理由があると思う。雑誌の読者が、教育のない女性を含めて広い層の女性を対象としていたことも、このような言文一致をとらせた動機であろう。とはいえ、完璧な言文一致とは言えない。「そこがわからぬなれども」とか「ござりまする」とか文語的な表現が随所に出てくる。それも一葉の一つの限界だといえなくもない。
以上、この小説を読んでの印象は、一葉らしくないテーマを日頃慣れぬ文体で書いたために、中途半端なものになってしまったというものである。一葉自身そのことを自覚していたと思う。この作品を書いた後、一葉は最後の傑作「われから」を書く。「われから」は一葉の一葉らしさがもっとも純粋に現れた作品である。雅俗混交体で女の直面する社会的矛盾を力強く描いたものだ。
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