スピノザの著作「デカルトの哲学原理」は、スピノザが生前に自身の名で刊行した唯一の著作である。スピノザ三十一歳のことである。スピノザの公刊した著作にはほかに「神学政治論」があるが、それには偽名を用いた。「エチカ」や「知性改善論」といった彼の主著というべき書物は、生前刊行されることがなかった。デカルトが「自然論」の刊行をためらったのと同じ危惧が、それらの刊行を思いとどまらせたのだと考えられる
スピノザの時代には、デカルトはすでに迫害の対象ではなかったから、デカルトを評価することはタブーではなかった。そこでスピノザは、デカルトを論じながら、自分自身の思想を開陳しようという気になったのだと思う。この書物は、デカルトの思想の根幹を紹介することを目的としながら、それに付随する形でスピノザ自身の思想を暗示しているのである。自分自身の思想を、暗示にとどめて、積極的に押し出さないのは、あくまでもデカルトの弟子として振る舞っていることを強調したかったからであろう。
この書物は二部構成をとっている。第一部はデカルトの著作「哲学原理」についての解説、第二部は「形而上学的思想」と題して、デカルトの思想との関連においてスピノザ自身の思想を開陳したものである。もっとも、彼の思想が十全な形で開陳されているわけではない、あくまでもデカルトの問題意識に沿うような形で説明している。
第一部がこの書物の要の部分である。これはスピノザが一人の弟子を相手に、デカルトの思想の概要を講義するという形をとっている。相手を想定したものなのである。途中で尻切れトンボで終わっているのは、話しかけるべき相手がいなくなってしまったからだと言われている。この部分は、デカルトの「哲学原理」のうち、第一部と第二部への注釈で事実上終わっているのだが、第三部以降はいわば理論の適用にかかわるもので、「哲学原理」という書物の根幹は第二部までで展開されている。、だから、それを説明できていれば、デカルトの「哲学原理」への注釈という使命は果たせたとスピノザは考えたのだと思う。
デカルトはこの書物の前半(第一部)を、「エチカ」と同様の幾何学的な方法を用いて展開した。幾何学的方法とは、誰にとっても明晰判明であり、決して疑い得ない事実を公理として前提し、その公理をもとに、これもまた疑い得ない事実を定理として引き出し、公理及び定理に基づいて、あらゆる事象を説明していくというものである。出発点となる公理は、明晰判明な事実のことであるが、その明晰判明な事実の捉え方をスピノザは、デカルトの懐疑をめぐる議論に見出したのである。デカルトが方法的懐疑の結果得た明晰判明な認識を出発点として事象を解明していけば、これもまた明晰判明な知識の体系を得られるであろう。スピノザはそう考えて、自分なりに明晰判明な公理を議論の前提として提出し、それをもとに事象についての体系的な知識を得ようとしたのである。なお、小生がテクストに使った岩波文庫版「デカルトの哲学原理」(畠中尚志訳)では、明晰判明という言葉でなく、明瞭判然という言葉が訳語としてあてがわれている。
要するに、スピノザがデカルトから受け継いだものは、あらゆる知識の基礎となる認識を明晰判明なものとしての公理として設定し、それをもとにあらゆる事象を説明しようとする方法意識であった。その場合、その基礎となる認識がどのように得られたかが問題になる。デカルトはそれを、方法的懐疑を通じて得た。方法的懐疑というのは、自分自身の身体を含め、あらゆることがらを疑ったあとで、それでもなお疑い得ないものを、明晰判明なものとして受けいれるというものである。その明晰判明なものの内実をデカルトは「われ思う、ゆえに我あり」という言葉で表現した。それについてスピノザは、それがデカルトの功績だとは言っているが、かならずしも全面的に受け入れているわけでもない。
というのも、デカルトのこの言葉には曖昧なところがあるからである。この言葉を素直に受け取れば、「私は考えている、だから私は存在しているといえる」というふうに読める。スピノザはそれを、「大前提の隠された三段論法」と受け取ってはならぬ、そのように受け取っては、思考が存在の前提となってしまう、といっている。それでは「私は存在する」ということが、すべての認識の基礎にはならない。スピノザはそういう考え方を拒否する。存在は神の属性でもあり、その神がすべてのものの創造主であるからには、存在こそがあらゆるものの認識を基礎づけるのでなければならぬ。だからデカルトの「我思うゆえに我あり」という言明は厳密には「我は思惟しつつ存在する」と言わねばならぬ。思惟が存在の原因であるとは絶対に言えない。とはいえ存在が思惟の前提であるともいえない。そこでその中間をとって「思惟しつつ存在する」とスピノザは言うのであるが、しかし事実上、思惟よりも存在にウェイトを置いていることは見え見えである。スピノザの本音は、「我思う」から「我存在する」ではなく、「我存在する」からこそ「我思う」だったと考えられる。その点ではスピノザは、唯物論者に傾いているのである。
デカルトの「我思うゆえに我あり」という言明には違和感を抱いたスピノザであるが、しかし疑い得ない明晰判明な認識をすべての議論の出発点に据えたデカルトの方法意識には、スピノザは深い賛意を示している。その明晰判明な認識を、スピノザは哲学の原理としたうえで、それについて次のように言明する。「諸々の学問のための真の原理は、何らの証明も要せず、疑惑のあらゆる危険を脱し、それがなければ何事も証明され得ないといったような、極めて明瞭確実なものでなければならぬ」。
その「明瞭確実な真理」をスピノザは「公理」という形でかかげ、それをもとに知識の体系を展開する。スピノザはあらかじめ言葉の定義をしたうえで、その公理を掲げる。合わせて八つである。第一の公理は、「未知の事物の認識と確実性に達するには、認識と確実性においてその未知の事物に先立つ他の事物の認識と確実性によるほかない」というものである。言い換えれば、既知の事物の認識と確実性にもとづいて、未知の事物を認識すれば確実な認識が得られるということである。
スピノザは、この書物の中で、デカルト以上の頻度で神の名を持ち出している。それはスピノザが神をデカルト以上に尊重しているからである。デカルトの神は、理神論的な意味での神であった。スピノザの神は実在する神である。その神は、すべての存在の根拠とされる。というか存在するということが、神そのもののあり方なのである。つまり宇宙そのものをスピノザは神の名でイメージしているのである。
コメントする