正法眼蔵第七十二は「安居」の巻。安居とは、仏教教団において、修行僧たちが一定期間一か所で集団生活をし、修行に専念すること。原始仏教の頃から行われていたといい、大乗の各宗派でも行われたが、禅宗ではとくに重視された。安居を通じて仏教修行者としての自覚を高め、また教団としての団結も強めた。夏に行われるものを夏安居というが、冬に行われるものもある。それは冬安居と言われる。道元が「正法眼蔵」の中で取り上げているのは夏安居である。
修行上の安居の意義について道元は次のように言う。「安居の頭尾、これ佛祖なり。このほかさらに寸土なし」。安居とは徹頭徹尾仏祖そのものであって、それ以外のなにものでもない。つまり安居とは、仏祖と一体化し、自分自身が仏祖となるための修行というのである。なにしろ安居は、釈迦もまた行われたものであり、仏教者にとっての最も重要な意義をもつことなのである。
安居は、原始仏教の時代にはインドの雨季、すなわち夏にかけて行われていた。それを雨安居といったり、夏安居といったりする。夏の間の九十日間にかけて行われた。禅宗を含めた大乗諸派もそれを受け継いで、原則として夏の九十日間にかけて行う。冬に行う場合もあるようだが、道元がもっぱらとりあげるのは夏安居である。
この巻は、道元の師如浄の言葉の引用から始まる。「先師天童古佛、結夏の小參に云く、平地に骨堆を起し、空に窟籠を剜る。驀に兩重の關を透すれば、黒漆桶を拈却せり」。夏安居を結成するにあたっての説法の場で先師は次のように仰せられた。平地に骨をつみ上げ、空に洞穴をえぐり、そのふたつの関をまっしぐらに通っていけば、真っ暗な桶にぶつかる。ちょっとわけのわからぬところがあるが、それは禅坊主の癖であって、言いたいことは、夏安居とは理屈で割り切れるようなものではなく、全身全霊で体得するべきものだということだろう。
安居の意義についての説明には、わかりにくいところがあるが、安居そのものの説明はわかりやすい。この巻のほとんどの部分は、安居の儀式の詳細についての説明なので、わかりにくいところはないのである。
まず、安居は夏の初めから九十日間かけて行う。安居を始めることを結制という。結制については、一定のルールがある。そのルールを道元は詳細に述べる。マニアックなほどである。おそらくこの行事を今後もずっと続けてほしいと考えて、正しい仕方を弟子たちに叩きこんでおきたいと思ったのであろう。
道元は、四月三日の朝食を夏安居の始まりと言っている一方で、夏安居の終了を七月十五日と言っている。これでは九十日を大きくはみ出す。その辺の計算には、道元はこだわっていない。九十日間行えと言っているばかりである。
結制等の儀式は大事なものであるが、しかしもっと大事なのは修行の実践である。結成が終わってから、九十日が満ちるまでの期間、集まった修行者たちはひたすら修行にはげむ。道元はその修行の内容について詳しくは述べていないが、只管打坐であることは間違いない。つまり安居とは、集団で起居しながら、それぞれが只管打坐に徹することなのである。
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