浦山桐郎の1963年の映画「非行少女」は、前年の「キューポラのある町」につづいて少女の青春を描いた作品。「キューポラの町」では当時17歳だった吉永さゆりが中学生を演じて、貧しいながらもけなげに生きる姿を描いたものだが、この映画では当時16歳の和泉雅子を起用して、やはり貧しいながらけなげに生きる中学生少女の姿を描く。桐山はこういった趣向が得意とあって、主演に起用された吉永も和泉も光って見える。この二人の相手を、浜田光男がつとめたというのも、因縁を感じさせる。
主人公の中学生若枝は、母親が死んだあと父親が別の女を家に入れたために反抗的な気分になっている。我が強いこともあって、学校では他の生徒と打ち解けず、喧嘩ばかりしている。また、いかがわしい場所にも出入りしている。いまふうに言えば不良なのだが、当時は非行少女といったようだ。
高校を卒業して失業中の三郎という青年と仲が良い。その青年を、浜辺にある自分のアジトに案内したりして次第に親密になるが、まだ年も若いので男女関係には発展しない。仲がよいという段階にとどまっている。青年は若枝にスカートを買ってやったり、小遣いをくれてやったりする。その小遣いは、不良の男に取られてしまう。そこで、その穴を埋めるために学校へ盗みに入ったりする。その現場を用務員に抑えられて、セックスを迫られたりするが、なんとかして危地をしのぐ。
三郎は、ある家の家畜番に雇われる。その家の娘がかれに関心を示す。それを見た若枝は嫉妬する。そのあげく、家畜小屋で出火し大火事を起こす。先般の盗みの件も併せて、若枝は児童相談所送りとなり、民間の養護施設に入れられる。さいわいなことに、その施設長は人間味のある人だった。
父親が女に捨てられたり、施設で仲良くしている少女が次第に堕落していくのを見ているうち、若枝は大阪で就職する決意をする。それを知った三郎が、将来必ず結婚しようと申し出る。その言葉が若枝には身に染みてうれしい、といったような内容だ。
この少女はたしかに非行を重ねてはいるが、しかし心の中まで堕落してはいない。貧困などの境遇が彼女を打ちのめす。そういうメッセージが伝わってくる。映画が公開された当時は、日本はまだ戦後復興から立ち直る最中で、社会にはゆとりがなかった。そのゆとりのなさが、この映画の主人公若江のような不幸な少女を生み出す、と言いたいかのように聞こえる。
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