浦山桐郎の1969年の映画「私が棄てた女」は、遠藤周作の小説「わたしが・棄てた・女」を映画化した作品。タイトルを微妙に変えているほかに、筋書きにもかなりな変更がある。原作は私とみつこという女性の関係を中心にして、みつこの不幸に焦点をあてており、二人の手記を紹介するという形で展開するというが、映画では私という男(河原崎長一郎)の視点に一本化されている。また、原作ではみつこがハンセン氏病の疑いをかけられたりするが、映画はその部分をネグレクトしている。
浦山は、「キューポラのある町」や「非行少女」において、不幸な少女に感情移入するような表現をしていたものだが、この映画もやはり不幸な女を描くものだ。だが前二作には、不幸ながらも自分を心配してくれる若者がいたのに対して、この映画の中のみつこは男にもてあそばれたあげくに捨てられることになっている。男はそのことを多少後悔するが、別の女(浅丘ルリ子)と結婚して、快適な暮らしをする。男は上昇思考なのだ。みつこはそんな男のエゴの犠牲になったわけである。
男が親友と会話するなかで、これからの日本は格差が拡大する。だから勝ち組にならねばならない、と話す場面が出てくる。勝ち組になるためには、弱いものに同情してはいられない。みつこのような女は切り捨てるのがいい、といった勝手な理屈が大手を振る。
みつこを演じた小林トシ江は、吉永さゆりや和泉雅子とはまったく違ったタイプの女性だ。福島出身のあか抜けない女性を演じているが、そのあか抜けない雰囲気を小太りした体つきで表現している。
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