時間と空間についてのスピノザの議論(時空論)は、永遠を神の属性と捉える点でアウグスティヌスに似ている。永遠は無限の時間をさす概念だが、空間についても無限の空間の概念がある。両者ともに誤解されやすい。というのも我々人間は、自身が有限な存在であるので、無限を理解することが困難であり、したがって自分で理解できる範囲で、勝手な解釈をするからである。その勝手な解釈とは、時間を持続としてとらえ、空間を延長としてとらえることだ。持続と延長には限りがないという理由で、人間は限りのない持続を永遠と考え、限りのない延長を無限と考える。そう考えることから矛盾に陥る。神が世界を無から想像したというのが、聖書に書かれている疑い得ない真実である。それを前提とすれば、神が世界を創造する以前にはどんな時間が流れていたのか、また、その世界を容れるべきどんな空間が広がっていたのか、という疑問が起きる。しかしそれは偽の疑問だとスピノザは言うのだ。
時間と空間をスピノザは、神とのかかわりにおいて考える。時間も空間も神の存在の様態なのだ。だから神を離れての時間はありえないし、神の外部に空間があることもありえない。この場合スピノザが神という言葉を、宇宙全体と同義に捉えていることは明らかである。スピノザの神は、宇宙を超越したものではなく、したがって宇宙の外部にいるわけではなく、宇宙というかたちで実在しているのである。時間も空間もその宇宙の存在の様態である。宇宙とは別に時間が流れているわけではなく、また宇宙の外部に空間が広がっているわけではない。
ではその宇宙とは、いつ始まりいつ終わるのか、また、その限界はどこにあるのか。この問いは我々には答えられない。我々人間は有限な存在であって、無限にかかわることは表象すらできないからである。答えられないことについては、問を立てたりあれこれ考えたりするのは無駄である、というのがスピノザの根本的なスタンスである。現代の哲学者ウィトゲンシュタインが言ったのと同じことをスピノザは、はるか以前に主張していたのである。
時間と空間のうちスピノザがより力を入れて議論しているのは時間のほうである。スピノザの時間論は永遠を意識している。永遠とは神の存在様態を時間に即してあらわしたものだ。永遠は、一種の時間ではあるが、しかしそれは持続とは違う。持続とは時の流れをいう言葉だが、それは人間の主観に映じたものであって、神の属性としての永遠とは何らの関係もない。持続は人間の主観の産物であるから、有限なものである。限りがないように思えるのは人間の錯覚のようなものである。
延長としての空間も人間の主観の産物である。延長の特徴は、いくらでも分割できることと、かぎりなく付け足すことが可能なことである。その結果有名なゼノアの逆説が生まれてくる。ゼノアの逆説は、時間や空間を分割可能なものとして前提することから出てくるので、そのように考えなければ意味のない議論である。人間がそのように意味のない議論に夢中になるのは、自分を神と取り違える傲慢さからくる。
人間と神の関係は、創造主と被造物との関係であり、また、無限と有限の関係である。人間は神の被造物であるのだから、自ら神として振る舞うのは傲慢のわざである。また、有限な存在である人間が、無限についてあれこれ理屈を弄するのは無駄なことである。
以上、時間と空間をめぐるスピノザの議論の最大の特徴は、神を宇宙と同義に捉えたうえで、時間と空間とが宇宙の存在とは切り離しては意味がないと考えることにある。宇宙の存在に先立って時間があったわけではなく、また空間がひろがっていたわけでもない。スピノザによれば、時間も空間も宇宙の存在と同時に生まれたのである。宇宙の外部に超越的に存在している神が、あるとき無から宇宙を創造したというのは、幻想的な考えである。
とはいえ、時間も空間も人間の認識活動にとって有益な概念ではある。それは人間が世界について認識する際の、その認識の枠組みとなるものである。ということは、時間と空間といった概念は、人間が対象的な世界を認識するための主観的な枠組みだということを意味する。その場合、主観とは個人的なものではなく、あくまでも類としての人間に固有な枠組みという意味である。その点ではカントのいうカテゴリーとしての時間と空間に似ている。
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