スピノザにおける必然性と自由

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スピノザは神の存在の必然性を強調するあまり、人間の意思の自由を軽視しているという批判がある。スピノザ自身その批判を意識していて反論もしている。その趣旨は、批判者は人間と神の関係について誤った意見を持っているというものである。スピノザは、「デカルトの哲学原理」への付録「形而上学的思想」の第二部をもっぱら神についての考察に当てているが、その目的は「神の存在と被造物の存在が全く異なることをできるだけ明瞭に示す」ことであった。スピノザによれば、必然性と自由との矛盾に関する上記のような指摘は、神を人間と同じ次元で考えることから生じる。神と人間とが全く異なる存在であることを理解すれば、神の必然性と人間の自由意志とは全く矛盾しないのである。

この考察の中でスピノザは、神の属性と能力について「永遠」以下十一項目にわたって詳細に論じ、そのあとに人間精神を取り上げ、人間精神と神の意志とは根本的に異なる、つまり全く次元を異にするものであって、両者を混同することはできないと主張する。神の意志を人間の意思と同一視するからこそ、神の必然性と人間の自由との矛盾をあげつらうことになるというのである。

神の第一の属性は永遠性である。永遠性は持続とかそれの別の名である時間とは関係がない。時間というのは、人間の主観が生み出したものである。人間は有限な存在である。時間とは有限な存在にかかわるものであって、当然時間自体が有限なものである。人間が時間を考えるときに、とりわけ西洋人の場合にはキリスト教の影響もあって、聖書に書いてある通り、時間には始まりがあり、終わりがあると考えがちである。じっさい聖書には、神が無から存在をつくり、その存在の始まりとともに時間が始まったと教えている。また、時間には終わりがある。聖書はそれを最後の審判と関連付けて説いている。このように、時間という概念は有限な存在である人間が生み出した主観的な(類としての人間としての、という意味だが)概念である。

永遠とは、スピノザによれば無限の存在のことである。無限の存在とは、神そのもののことをいうのだが、その無限の存在としての神は、自分が創造したものの無限なありかたをすでに自分の知の中に実現している。世界に生起すべきあらゆることがらは、神の知の中で予定されているのである。この世、つまり神の創造したまうた世界で生起するあらゆる事柄は、偶然にそうなるのではなく、神の予定が実現されるものなのである。だからすべては、神の定めた必然性の実現である。人間にとって自由な意思の発動と思えるものも、神からすれば予定されていたものが実現するにすぎない。

偶然性とか自由な決断というものは、人間のあさはかな想像である。偶然に見えるもの、自由な決断の結果だと思えるものも、神の予定が実現したものにすぎない。では神自身は自分が設定した予定にしばられるものなのか。神が、自分自身の設定したものとはいえ、既定のあるものに縛られることはありえない。神の定義からしてそうなのである。神は全知全能であるから、すべてを自分の能力にのみ応じて行動する。神は自由なのである。文字通り自由であって、だからこそ、自らの設定した予定と、個別のケースにおける決断とが矛盾することがないのである。

ここで、誤解のないようにするため、スピノザが神をどのようにイメージしていたかを思いだしておきたい。スピノザの神は、ユダヤ・キリスト教の人格的な超越神ではなく、世界に内在する原理である。世界に内在するというよりは、世界のあり方そのものと言ってよい。そのようなものとして世界=神は実在している。スピノザはデカルトに従い、明晰判明な事柄を自分の哲学の原理にしたが、神すなわち世界の実在ほど明晰判明な事柄はない。宇宙全体として見た場合の神においては、あらゆるものが相互に因果の連鎖の一環であり、どんなものもそれだけで生起する、つまり外部に原因を持たない、ということはない。だから、どんな事柄も、神の摂理のもとでは必然的なのである。その必然が人間の自由意志と矛盾するように思うのは、人間の傲慢さのためである。

必然性と自由をめぐるスピノザの議論は、マルクスを予見させるものである。マルクスは、自然必然性と人間的自由とが、かれの言い方を用いれば、弁証法的な相互依存関係にあると考えた。マルクスは無神論者であるから、スピノザのように神の名を持ち出すことはしないが。スピノザが神という言葉で人間を含めた自然全体の存在をあらわしている限り、その自然の必然的な因果関係と人間の意思の自由には、密接な相互関係がある。スピノザはまだキリスト教会の権威を尊重していたので、神を無視するようなことはしないが、その議論するところの内実は、神を脇へ置いて、あるいは棚上げして、自然そのものに向き合っているといえる。






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