
ラース・フォン・トリアーの2005年の映画「マンダレイ(Manderlay)」は、「ドッグヴィル」の続編という触れ込みだが、それにしては連続性がはっきりしない。主役のグレースを演じている女優が別人だということは抜きにしても、そのグレース(ブライス・ダラス・ハワード)の身分が曖昧である。「ドッグヴィル」ではギャングに追われているということになっていたのに、こちらではギャングの一味になっている。父親がギャングのボスなのだ。そのギャング団と一緒に南部を旅しているうちに、アラバマのマンダレイというところを通りがかる。そこのある農園で、黒人がむち打ちにされそうになっているところを、グレースがとめる。色々聞いているうちに、この農園で働いている黒人たちは、奴隷だということがわかる。奴隷制は70年前に廃止され、いまでは違法である。70年前というのは、この映画の時代設定が1930年代前半になっているからである。
グレースは、変な正義感から、この農園の黒人たちを奴隷支配から解放しようとする。映画はそんな彼女の正義感あふれる空回りを描くのである。空回りというのは、彼女の行動がチグハグだらけで、彼女が解放してやろうとする黒人たちにも信頼されないからだ。
「ドッグヴィル」同様、抽象的な舞台回しで、章立てになっている。とはいえ各章は密接につながっているので、ひとつの連続した物語である。グレースは、父親から何人かの手下をつけてもらい、農園の改革運動に取り組む。黒人たちの身分を自由にしてやり、農園を農場主と黒人との共同所有にする。グレースは黒人らに民主主義を教えることから始める。民主主義とは、熟議を尽くしたうえで、最後は評決で決めることだと彼女は教える。とにかく主体的な行動が肝心なのだ。ところが黒人らは、長い間奴隷として生きてきたので、主体的な行動の意味がわからない。命令されなければ、何をしてよいかわからないのだ。
そんなわけで、農園の経営はうまくいかない。だれも主体的に行動せず、したがって責任意識もないからだ。黒人のなかで重要な役まわりをするものが二人いる。一人はウィルレムという老人。この老人は黒人のまとめ役のような役割を果たしている。かれは、黒人には自由は必要ではなく、奴隷の境遇のほうが好ましいと考えている。奴隷たちの支配についての規則は、農園主ではなく、彼が書いたのだ。そこには個々の奴隷を効率よく使うためのコツが書いてある。もう一人はティモシーという若者。これは出だしのシーンでむち打ちされそうになっていたものだ。この若者にグレースは欲情する。黒人の若者のペニスに貫かれたいと欲するのだ。
ティモシーに欲情したあたりから、リズムが狂いだす。誰もグレースの言うことをまともにしなくなる。農園主の一家は出て行ってしまい、手下たちもいなくなって、グレースは一人で黒人たちに向かわねばならないが、それがうまくいかないのだ。そのうえ、黒人たちの憎しみの対象になる。早く逃げ出さないと、どんな目にあうかわからない。
まあ、こんな調子で、黒人は自由よりも奴隷の境遇のほうが似あうといったシニカルな視線を感じさせる。そこに人種的な偏見を感じるものもいるのではないか。末尾近くで、KKKが馬で行進する場面が出てくるが、これはグリフィスの人種差別映画「国民の創生」からヒントを得たのだろう。トリアーは「ドッグヴィル」では人間という生き物への不信のような感情を表出していたが、ここでは黒人への人種差別的な意識を打ち出している。どんなつもりでそんなことをするのか、はっきりしたことはわからない。あるいはイロニーのつもりなのか。
ギャングのボスが、俺が日本人と取引しないのは、奴らが信用できないからだという場面がある。これはどう考えても、差別発言乃至ヘイトスピーチだ。
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