下谷龍泉寺町での生活は一年と続かず、一葉一家は明治27年5月1日に本郷区丸山福山町に移住した。以後一葉は死ぬまでの二年六か月余りをこの地で暮らす。この時期の日記を一葉は「水の上」日記とか、「みずのうへ」と題している。自身を舟にたとえ、水の上をただよう姿をイメージしたのであろう。日記は、明治29年の7月22日を最後に途絶えている。病気が悪化したためだ。その4か月後に一葉は24歳の短い生涯を閉じるのである。
最初の「水の上日記」は、移住して十日後に書かれている。あわただしい移住だったから、多忙で日記を書く余裕がなかったのであろう。だいたい龍泉寺時代は全体として多忙かつ貧窮で、日記を書くだけの精神的なゆとりがなかったはずだ。かなり途絶えがちである。それが丸山福山町に移り、当初はあいかわらず貧乏に苦しんだが、小説の成功がかさなり、次第にゆとりを感じることができるようになる。そのゆとりが一葉を日記に気をいれて取り組むようにさせたのだと思う。一葉の日記は単なる備忘録ではなく、創作の訓練でもあったのだ。
「水の上」日記の最初の部分は、久佐賀との腐れ縁とか、人丸とのやりとりとか、浪六への借金申し込みの記事が主体である。龍泉寺から引き継いだ借金のために首が回らなくなっており、金の算段に明け暮れていたのである。その中で異色の記事は、隣家なる銘酒屋の女小林愛から助けを求められたことである。丸山福山町は、もともとは大名の屋敷地であったが、その後一帯が開発されて新開地になっていた。新開地には色々な人間が集まってくる。それを目当てに銘酒屋が進出する。銘酒屋というのは、酒を飲ませながら春を売ることを商売にしているところだ。一葉はすでに、かつて住んでいた上野西黒門町あたりに銘酒屋の進出する光景を眺め、銘酒屋の何たるかは承知していた。その銘酒屋が、自分の家の近所に立地し、そこの女が自分の助けを求めてきたのである。小林愛からの懇願に一葉は応える。「すくひ給へとすがられしも縁なり。我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然」(7月20日)と言いながら。小林愛とのかかわりあいは、後に小説の中で生かされる。
下谷龍泉寺の店をたたむ気持ちになった理由は、商売が成り立たなくなったことが主なものだが、作家活動を本格的に再開したいという気持ちが強まったこともある。明治26年10月に文学界の平田禿木が一葉を訪問し、寄稿を求めてきた。それに応えて一葉は、「琴の音」と「花ごもり」を寄稿している。丸山福山町に移ってからは「大つごもり」をものにする。これは一葉の作家としての転機になった作品で、以後奇跡の14か月と呼ばれるような、充実した作家活動を展開する。
「大つごもり」には一葉自身の貧困が反映されている。この小説のメーンテーマは、主人公の女が主人から2円の金を盗むことにあるが、じつは一葉自身師の歌子から2円の金を無断で手にしていた。歌子との間では、手伝いの報奨として毎月2円支払うという約束があったが、歌子がそれを果たさずにいたので、一葉は当然自分がもらうべき金額だと考えて、それ手にしたというのが真相のようである。しかし、一葉にとって不快な出来事だったと見え、そのことに関する記述は日記の中には見当たらない。
「大つごもり」に続いて「たけくらべ」を「文学界」に連載するようになると、一葉の名声は俄かに高まり、多くの文人が接触してくる。明治29年以降日記が中断するまでの間、そうした文人たちとの交際の記録が日記を彩ることになる。一葉に交際を求めた文人は、当初は馬場胡蝶ら「文学界」の関係者が多く、その後斎藤緑雨ら「めざまし草」の関係者が加わる。ここでは、一葉とかかわりのあった文学者たちを個々に取り上げて一葉との関係を追ってみたいと思う。
「文学界」の窓口として一葉に接触したのは平田禿木である。平田が最初に一葉を訪問したのは明治26年3月21日である。その際の印象を一葉は次のように記している。「国子の取次に出たるを呼びて、とし寄りかと問へば,否まだいと若き人なりといふ。やましけれど逢ふ。高等中学の生徒なるよし。平田喜一とて日本はし伊勢町の絵之具商の息子なりとか。年は廿一といふ。何用ありて来給ひしとも流石にいひがたければ、物語少しするに、詞多からず、うちしめりて心ふかけなれど、さりとて人柄の愛嬌あり、なつかしき様したり」。年寄りかと思ったのは禿木という名からの連想だろう。じつは自分と同じ21歳なのであった。この禿木に一葉はニュートラルな友情を感じたようである。
平田禿木にぶら下がるようにして、馬場胡蝶、戸川秋骨が接触してきた。馬場胡蝶が初めて一葉のところへやってきたのは明治27年3月12日のこと。禿木と一緒だった。「禿木氏及胡蝶君来訪。胡蝶君は馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平不平のことばを聞く。うれしき人なり」。一葉は馬場の悲憤慷慨的な雰囲気が気に入ったようである。翌28年4月24日には次のような記述がある。「午後馬場君来訪。本町にておもしろからぬ事ありしにや。ものいひいとど激したるやう也。夕げともにしたためて更くるまで語る。雨俄かに降り出ぬるにかさを参らす」。結構親密な様子が伝わってくる。おもしろからぬ事とは、「文学界」の内紛をさすらしい。
明治28年5月7日には、平田、馬場に上田敏が加わって来訪し、一葉の前で丁丁発止の論戦を繰り広げる。その様子は「酒なけれども酔へるが如く、ひとさらのすもじをかこみて三人の客が論難標語」といったものであった。その折の上田の様子を次のように書いている。「上田君。名は敏。帝国大学文科生にて『帝国文学』の編集人なるよし。温厚にして沈着なる人がらよき人也」。
明治26年5月26日には、平田、馬場が川上眉山を伴ってくる。眉山にはかなり強烈な印象を受けたらしい。「としは二十七とか、丈たかく、色白く、女子の中にもかかるうつくしき人はあまた見がたかるべし。物いひて打笑む時、頬のほどさと赤うなるも男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家ともおぼえず、心安げにおさなびたるさま、誠にしたしみ安し。胡蝶子のうるはしきを秋の月にたとえば、眉山君は春の花なるべし」。
以上は文学界の関係者たちとの交友である。この交友は若い人たちを相手にかなりざっくばらんだったように思える。一葉はこれらの青年たちを丁寧にもてなしている。これらの人たちとは以後ずっと付き合い続けるが、やがて「めざまし草」の関係者との交友が始まる。一葉最後の日々を飾るのは、それらめざまし草の関係者たちである。目覚まし草の関係者の中では、斎藤緑雨がもっとも親密に交際した。それにあわせて、幸田露伴や三木竹二が加わる、三木は鴎外の弟である。鴎外本人は、日記の中には現れない。
斎藤緑雨は、一葉の日記では、一貫して「正太夫」の名で出てくる。緑雨は一時期正直正太夫の筆名を用いており、一葉はそれをずっとかれの名として用い続けたのである。一葉の最晩年において最も重要な役割を果たすのは、正太夫こと斎藤緑雨といってよい。
めざまし草を実質的に仕切っていたのは鴎外である。鴎外自身は日記には出てこないが、弟の三木竹二を通じて一葉によしみを求めている。めざまし草の呼び物は、鴎外、露伴、緑雨の三人による会談「三人冗語」だったが、その三人に一葉を加えて四人冗語ともいうべきものを、鴎外はやりたいと思っていた。要するに一葉をめざまし草同人に迎えたいと思ったのだ。この構想は実現しなかった。一葉は病気の結核が悪化して、床に伏せるようになり、ついには帰らぬ人となったからである。
晩年の一葉を訪れた人々の中で、一人異彩を放っているのは横山源之助だ。横山が一葉を訪ねてきた日付は明らかではないが、明治29年1月だったようだ。その頃「かどを訪ふ者日一日と多し」という状況の中で、横山は天外茫々と名乗ってやってきた。かれについて一葉は、「茫々生はうき世に友といふ人なき人、世間は目して人間の外におけりしとおぼし」という印象を語っている。初見の日に半日がほど語ったというから、意気投合したのだと思う。横山はいわずと知れた社会主義者である。一葉にも社会に対する批判意識はあったから、その部分で意気投合したのだと思う。
最初の「水の上日記」は、移住して十日後に書かれている。あわただしい移住だったから、多忙で日記を書く余裕がなかったのであろう。だいたい龍泉寺時代は全体として多忙かつ貧窮で、日記を書くだけの精神的なゆとりがなかったはずだ。かなり途絶えがちである。それが丸山福山町に移り、当初はあいかわらず貧乏に苦しんだが、小説の成功がかさなり、次第にゆとりを感じることができるようになる。そのゆとりが一葉を日記に気をいれて取り組むようにさせたのだと思う。一葉の日記は単なる備忘録ではなく、創作の訓練でもあったのだ。
「水の上」日記の最初の部分は、久佐賀との腐れ縁とか、人丸とのやりとりとか、浪六への借金申し込みの記事が主体である。龍泉寺から引き継いだ借金のために首が回らなくなっており、金の算段に明け暮れていたのである。その中で異色の記事は、隣家なる銘酒屋の女小林愛から助けを求められたことである。丸山福山町は、もともとは大名の屋敷地であったが、その後一帯が開発されて新開地になっていた。新開地には色々な人間が集まってくる。それを目当てに銘酒屋が進出する。銘酒屋というのは、酒を飲ませながら春を売ることを商売にしているところだ。一葉はすでに、かつて住んでいた上野西黒門町あたりに銘酒屋の進出する光景を眺め、銘酒屋の何たるかは承知していた。その銘酒屋が、自分の家の近所に立地し、そこの女が自分の助けを求めてきたのである。小林愛からの懇願に一葉は応える。「すくひ給へとすがられしも縁なり。我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然」(7月20日)と言いながら。小林愛とのかかわりあいは、後に小説の中で生かされる。
下谷龍泉寺の店をたたむ気持ちになった理由は、商売が成り立たなくなったことが主なものだが、作家活動を本格的に再開したいという気持ちが強まったこともある。明治26年10月に文学界の平田禿木が一葉を訪問し、寄稿を求めてきた。それに応えて一葉は、「琴の音」と「花ごもり」を寄稿している。丸山福山町に移ってからは「大つごもり」をものにする。これは一葉の作家としての転機になった作品で、以後奇跡の14か月と呼ばれるような、充実した作家活動を展開する。
「大つごもり」には一葉自身の貧困が反映されている。この小説のメーンテーマは、主人公の女が主人から2円の金を盗むことにあるが、じつは一葉自身師の歌子から2円の金を無断で手にしていた。歌子との間では、手伝いの報奨として毎月2円支払うという約束があったが、歌子がそれを果たさずにいたので、一葉は当然自分がもらうべき金額だと考えて、それ手にしたというのが真相のようである。しかし、一葉にとって不快な出来事だったと見え、そのことに関する記述は日記の中には見当たらない。
「大つごもり」に続いて「たけくらべ」を「文学界」に連載するようになると、一葉の名声は俄かに高まり、多くの文人が接触してくる。明治29年以降日記が中断するまでの間、そうした文人たちとの交際の記録が日記を彩ることになる。一葉に交際を求めた文人は、当初は馬場胡蝶ら「文学界」の関係者が多く、その後斎藤緑雨ら「めざまし草」の関係者が加わる。ここでは、一葉とかかわりのあった文学者たちを個々に取り上げて一葉との関係を追ってみたいと思う。
「文学界」の窓口として一葉に接触したのは平田禿木である。平田が最初に一葉を訪問したのは明治26年3月21日である。その際の印象を一葉は次のように記している。「国子の取次に出たるを呼びて、とし寄りかと問へば,否まだいと若き人なりといふ。やましけれど逢ふ。高等中学の生徒なるよし。平田喜一とて日本はし伊勢町の絵之具商の息子なりとか。年は廿一といふ。何用ありて来給ひしとも流石にいひがたければ、物語少しするに、詞多からず、うちしめりて心ふかけなれど、さりとて人柄の愛嬌あり、なつかしき様したり」。年寄りかと思ったのは禿木という名からの連想だろう。じつは自分と同じ21歳なのであった。この禿木に一葉はニュートラルな友情を感じたようである。
平田禿木にぶら下がるようにして、馬場胡蝶、戸川秋骨が接触してきた。馬場胡蝶が初めて一葉のところへやってきたのは明治27年3月12日のこと。禿木と一緒だった。「禿木氏及胡蝶君来訪。胡蝶君は馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平不平のことばを聞く。うれしき人なり」。一葉は馬場の悲憤慷慨的な雰囲気が気に入ったようである。翌28年4月24日には次のような記述がある。「午後馬場君来訪。本町にておもしろからぬ事ありしにや。ものいひいとど激したるやう也。夕げともにしたためて更くるまで語る。雨俄かに降り出ぬるにかさを参らす」。結構親密な様子が伝わってくる。おもしろからぬ事とは、「文学界」の内紛をさすらしい。
明治28年5月7日には、平田、馬場に上田敏が加わって来訪し、一葉の前で丁丁発止の論戦を繰り広げる。その様子は「酒なけれども酔へるが如く、ひとさらのすもじをかこみて三人の客が論難標語」といったものであった。その折の上田の様子を次のように書いている。「上田君。名は敏。帝国大学文科生にて『帝国文学』の編集人なるよし。温厚にして沈着なる人がらよき人也」。
明治26年5月26日には、平田、馬場が川上眉山を伴ってくる。眉山にはかなり強烈な印象を受けたらしい。「としは二十七とか、丈たかく、色白く、女子の中にもかかるうつくしき人はあまた見がたかるべし。物いひて打笑む時、頬のほどさと赤うなるも男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家ともおぼえず、心安げにおさなびたるさま、誠にしたしみ安し。胡蝶子のうるはしきを秋の月にたとえば、眉山君は春の花なるべし」。
以上は文学界の関係者たちとの交友である。この交友は若い人たちを相手にかなりざっくばらんだったように思える。一葉はこれらの青年たちを丁寧にもてなしている。これらの人たちとは以後ずっと付き合い続けるが、やがて「めざまし草」の関係者との交友が始まる。一葉最後の日々を飾るのは、それらめざまし草の関係者たちである。目覚まし草の関係者の中では、斎藤緑雨がもっとも親密に交際した。それにあわせて、幸田露伴や三木竹二が加わる、三木は鴎外の弟である。鴎外本人は、日記の中には現れない。
斎藤緑雨は、一葉の日記では、一貫して「正太夫」の名で出てくる。緑雨は一時期正直正太夫の筆名を用いており、一葉はそれをずっとかれの名として用い続けたのである。一葉の最晩年において最も重要な役割を果たすのは、正太夫こと斎藤緑雨といってよい。
めざまし草を実質的に仕切っていたのは鴎外である。鴎外自身は日記には出てこないが、弟の三木竹二を通じて一葉によしみを求めている。めざまし草の呼び物は、鴎外、露伴、緑雨の三人による会談「三人冗語」だったが、その三人に一葉を加えて四人冗語ともいうべきものを、鴎外はやりたいと思っていた。要するに一葉をめざまし草同人に迎えたいと思ったのだ。この構想は実現しなかった。一葉は病気の結核が悪化して、床に伏せるようになり、ついには帰らぬ人となったからである。
晩年の一葉を訪れた人々の中で、一人異彩を放っているのは横山源之助だ。横山が一葉を訪ねてきた日付は明らかではないが、明治29年1月だったようだ。その頃「かどを訪ふ者日一日と多し」という状況の中で、横山は天外茫々と名乗ってやってきた。かれについて一葉は、「茫々生はうき世に友といふ人なき人、世間は目して人間の外におけりしとおぼし」という印象を語っている。初見の日に半日がほど語ったというから、意気投合したのだと思う。横山はいわずと知れた社会主義者である。一葉にも社会に対する批判意識はあったから、その部分で意気投合したのだと思う。
最初の「水の上日記」は、移住して十日後に書かれている。あわただしい移住だったから、多忙で日記を書く余裕がなかったのであろう。だいたい龍泉寺時代は全体として多忙かつ貧窮で、日記を書くだけの精神的なゆとりがなかったはずだ。かなり途絶えがちである。それが丸山福山町に移り、当初はあいかわらず貧乏に苦しんだが、小説の成功がかさなり、次第にゆとりを感じることができるようになる。そのゆとりが一葉を日記に気をいれて取り組むようにさせたのだと思う。一葉の日記は単なる備忘録ではなく、創作の訓練でもあったのだ。
「水の上」日記の最初の部分は、久佐賀との腐れ縁とか、人丸とのやりとりとか、浪六への借金申し込みの記事が主体である。龍泉寺から引き継いだ借金のために首が回らなくなっており、金の算段に明け暮れていたのである。その中で異色の記事は、隣家なる銘酒屋の女小林愛から助けを求められたことである。丸山福山町は、もともとは大名の屋敷地であったが、その後一帯が開発されて新開地になっていた。新開地には色々な人間が集まってくる。それを目当てに銘酒屋が進出する。銘酒屋というのは、酒を飲ませながら春を売ることを商売にしているところだ。一葉はすでに、かつて住んでいた上野西黒門町あたりに銘酒屋の進出する光景を眺め、銘酒屋の何たるかは承知していた。その銘酒屋が、自分の家の近所に立地し、そこの女が自分の助けを求めてきたのである。小林愛からの懇願に一葉は応える。「すくひ給へとすがられしも縁なり。我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然」(7月20日)と言いながら。小林愛とのかかわりあいは、後に小説の中で生かされる。
下谷龍泉寺の店をたたむ気持ちになった理由は、商売が成り立たなくなったことが主なものだが、作家活動を本格的に再開したいという気持ちが強まったこともある。明治26年10月に文学界の平田禿木が一葉を訪問し、寄稿を求めてきた。それに応えて一葉は、「琴の音」と「花ごもり」を寄稿している。丸山福山町に移ってからは「大つごもり」をものにする。これは一葉の作家としての転機になった作品で、以後奇跡の14か月と呼ばれるような、充実した作家活動を展開する。
「大つごもり」には一葉自身の貧困が反映されている。この小説のメーンテーマは、主人公の女が主人から2円の金を盗むことにあるが、じつは一葉自身師の歌子から2円の金を無断で手にしていた。歌子との間では、手伝いの報奨として毎月2円支払うという約束があったが、歌子がそれを果たさずにいたので、一葉は当然自分がもらうべき金額だと考えて、それ手にしたというのが真相のようである。しかし、一葉にとって不快な出来事だったと見え、そのことに関する記述は日記の中には見当たらない。
「大つごもり」に続いて「たけくらべ」を「文学界」に連載するようになると、一葉の名声は俄かに高まり、多くの文人が接触してくる。明治29年以降日記が中断するまでの間、そうした文人たちとの交際の記録が日記を彩ることになる。一葉に交際を求めた文人は、当初は馬場胡蝶ら「文学界」の関係者が多く、その後斎藤緑雨ら「めざまし草」の関係者が加わる。ここでは、一葉とかかわりのあった文学者たちを個々に取り上げて一葉との関係を追ってみたいと思う。
「文学界」の窓口として一葉に接触したのは平田禿木である。平田が最初に一葉を訪問したのは明治26年3月21日である。その際の印象を一葉は次のように記している。「国子の取次に出たるを呼びて、とし寄りかと問へば,否まだいと若き人なりといふ。やましけれど逢ふ。高等中学の生徒なるよし。平田喜一とて日本はし伊勢町の絵之具商の息子なりとか。年は廿一といふ。何用ありて来給ひしとも流石にいひがたければ、物語少しするに、詞多からず、うちしめりて心ふかけなれど、さりとて人柄の愛嬌あり、なつかしき様したり」。年寄りかと思ったのは禿木という名からの連想だろう。じつは自分と同じ21歳なのであった。この禿木に一葉はニュートラルな友情を感じたようである。
平田禿木にぶら下がるようにして、馬場胡蝶、戸川秋骨が接触してきた。馬場胡蝶が初めて一葉のところへやってきたのは明治27年3月12日のこと。禿木と一緒だった。「禿木氏及胡蝶君来訪。胡蝶君は馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平不平のことばを聞く。うれしき人なり」。一葉は馬場の悲憤慷慨的な雰囲気が気に入ったようである。翌28年4月24日には次のような記述がある。「午後馬場君来訪。本町にておもしろからぬ事ありしにや。ものいひいとど激したるやう也。夕げともにしたためて更くるまで語る。雨俄かに降り出ぬるにかさを参らす」。結構親密な様子が伝わってくる。おもしろからぬ事とは、「文学界」の内紛をさすらしい。
明治28年5月7日には、平田、馬場に上田敏が加わって来訪し、一葉の前で丁丁発止の論戦を繰り広げる。その様子は「酒なけれども酔へるが如く、ひとさらのすもじをかこみて三人の客が論難標語」といったものであった。その折の上田の様子を次のように書いている。「上田君。名は敏。帝国大学文科生にて『帝国文学』の編集人なるよし。温厚にして沈着なる人がらよき人也」。
明治26年5月26日には、平田、馬場が川上眉山を伴ってくる。眉山にはかなり強烈な印象を受けたらしい。「としは二十七とか、丈たかく、色白く、女子の中にもかかるうつくしき人はあまた見がたかるべし。物いひて打笑む時、頬のほどさと赤うなるも男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家ともおぼえず、心安げにおさなびたるさま、誠にしたしみ安し。胡蝶子のうるはしきを秋の月にたとえば、眉山君は春の花なるべし」。
以上は文学界の関係者たちとの交友である。この交友は若い人たちを相手にかなりざっくばらんだったように思える。一葉はこれらの青年たちを丁寧にもてなしている。これらの人たちとは以後ずっと付き合い続けるが、やがて「めざまし草」の関係者との交友が始まる。一葉最後の日々を飾るのは、それらめざまし草の関係者たちである。目覚まし草の関係者の中では、斎藤緑雨がもっとも親密に交際した。それにあわせて、幸田露伴や三木竹二が加わる、三木は鴎外の弟である。鴎外本人は、日記の中には現れない。
斎藤緑雨は、一葉の日記では、一貫して「正太夫」の名で出てくる。緑雨は一時期正直正太夫の筆名を用いており、一葉はそれをずっとかれの名として用い続けたのである。一葉の最晩年において最も重要な役割を果たすのは、正太夫こと斎藤緑雨といってよい。
めざまし草を実質的に仕切っていたのは鴎外である。鴎外自身は日記には出てこないが、弟の三木竹二を通じて一葉によしみを求めている。めざまし草の呼び物は、鴎外、露伴、緑雨の三人による会談「三人冗語」だったが、その三人に一葉を加えて四人冗語ともいうべきものを、鴎外はやりたいと思っていた。要するに一葉をめざまし草同人に迎えたいと思ったのだ。この構想は実現しなかった。一葉は病気の結核が悪化して、床に伏せるようになり、ついには帰らぬ人となったからである。
晩年の一葉を訪れた人々の中で、一人異彩を放っているのは横山源之助だ。横山が一葉を訪ねてきた日付は明らかではないが、明治29年1月だったようだ。その頃「かどを訪ふ者日一日と多し」という状況の中で、横山は天外茫々と名乗ってやってきた。かれについて一葉は、「茫々生はうき世に友といふ人なき人、世間は目して人間の外におけりしとおぼし」という印象を語っている。初見の日に半日がほど語ったというから、意気投合したのだと思う。横山はいわずと知れた社会主義者である。一葉にも社会に対する批判意識はあったから、その部分で意気投合したのだと思う。
最初の「水の上日記」は、移住して十日後に書かれている。あわただしい移住だったから、多忙で日記を書く余裕がなかったのであろう。だいたい龍泉寺時代は全体として多忙かつ貧窮で、日記を書くだけの精神的なゆとりがなかったはずだ。かなり途絶えがちである。それが丸山福山町に移り、当初はあいかわらず貧乏に苦しんだが、小説の成功がかさなり、次第にゆとりを感じることができるようになる。そのゆとりが一葉を日記に気をいれて取り組むようにさせたのだと思う。一葉の日記は単なる備忘録ではなく、創作の訓練でもあったのだ。
「水の上」日記の最初の部分は、久佐賀との腐れ縁とか、人丸とのやりとりとか、浪六への借金申し込みの記事が主体である。龍泉寺から引き継いだ借金のために首が回らなくなっており、金の算段に明け暮れていたのである。その中で異色の記事は、隣家なる銘酒屋の女小林愛から助けを求められたことである。丸山福山町は、もともとは大名の屋敷地であったが、その後一帯が開発されて新開地になっていた。新開地には色々な人間が集まってくる。それを目当てに銘酒屋が進出する。銘酒屋というのは、酒を飲ませながら春を売ることを商売にしているところだ。一葉はすでに、かつて住んでいた上野西黒門町あたりに銘酒屋の進出する光景を眺め、銘酒屋の何たるかは承知していた。その銘酒屋が、自分の家の近所に立地し、そこの女が自分の助けを求めてきたのである。小林愛からの懇願に一葉は応える。「すくひ給へとすがられしも縁なり。我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然」(7月20日)と言いながら。小林愛とのかかわりあいは、後に小説の中で生かされる。
下谷龍泉寺の店をたたむ気持ちになった理由は、商売が成り立たなくなったことが主なものだが、作家活動を本格的に再開したいという気持ちが強まったこともある。明治26年10月に文学界の平田禿木が一葉を訪問し、寄稿を求めてきた。それに応えて一葉は、「琴の音」と「花ごもり」を寄稿している。丸山福山町に移ってからは「大つごもり」をものにする。これは一葉の作家としての転機になった作品で、以後奇跡の14か月と呼ばれるような、充実した作家活動を展開する。
「大つごもり」には一葉自身の貧困が反映されている。この小説のメーンテーマは、主人公の女が主人から2円の金を盗むことにあるが、じつは一葉自身師の歌子から2円の金を無断で手にしていた。歌子との間では、手伝いの報奨として毎月2円支払うという約束があったが、歌子がそれを果たさずにいたので、一葉は当然自分がもらうべき金額だと考えて、それ手にしたというのが真相のようである。しかし、一葉にとって不快な出来事だったと見え、そのことに関する記述は日記の中には見当たらない。
「大つごもり」に続いて「たけくらべ」を「文学界」に連載するようになると、一葉の名声は俄かに高まり、多くの文人が接触してくる。明治29年以降日記が中断するまでの間、そうした文人たちとの交際の記録が日記を彩ることになる。一葉に交際を求めた文人は、当初は馬場胡蝶ら「文学界」の関係者が多く、その後斎藤緑雨ら「めざまし草」の関係者が加わる。ここでは、一葉とかかわりのあった文学者たちを個々に取り上げて一葉との関係を追ってみたいと思う。
「文学界」の窓口として一葉に接触したのは平田禿木である。平田が最初に一葉を訪問したのは明治26年3月21日である。その際の印象を一葉は次のように記している。「国子の取次に出たるを呼びて、とし寄りかと問へば,否まだいと若き人なりといふ。やましけれど逢ふ。高等中学の生徒なるよし。平田喜一とて日本はし伊勢町の絵之具商の息子なりとか。年は廿一といふ。何用ありて来給ひしとも流石にいひがたければ、物語少しするに、詞多からず、うちしめりて心ふかけなれど、さりとて人柄の愛嬌あり、なつかしき様したり」。年寄りかと思ったのは禿木という名からの連想だろう。じつは自分と同じ21歳なのであった。この禿木に一葉はニュートラルな友情を感じたようである。
平田禿木にぶら下がるようにして、馬場胡蝶、戸川秋骨が接触してきた。馬場胡蝶が初めて一葉のところへやってきたのは明治27年3月12日のこと。禿木と一緒だった。「禿木氏及胡蝶君来訪。胡蝶君は馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平不平のことばを聞く。うれしき人なり」。一葉は馬場の悲憤慷慨的な雰囲気が気に入ったようである。翌28年4月24日には次のような記述がある。「午後馬場君来訪。本町にておもしろからぬ事ありしにや。ものいひいとど激したるやう也。夕げともにしたためて更くるまで語る。雨俄かに降り出ぬるにかさを参らす」。結構親密な様子が伝わってくる。おもしろからぬ事とは、「文学界」の内紛をさすらしい。
明治28年5月7日には、平田、馬場に上田敏が加わって来訪し、一葉の前で丁丁発止の論戦を繰り広げる。その様子は「酒なけれども酔へるが如く、ひとさらのすもじをかこみて三人の客が論難標語」といったものであった。その折の上田の様子を次のように書いている。「上田君。名は敏。帝国大学文科生にて『帝国文学』の編集人なるよし。温厚にして沈着なる人がらよき人也」。
明治26年5月26日には、平田、馬場が川上眉山を伴ってくる。眉山にはかなり強烈な印象を受けたらしい。「としは二十七とか、丈たかく、色白く、女子の中にもかかるうつくしき人はあまた見がたかるべし。物いひて打笑む時、頬のほどさと赤うなるも男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家ともおぼえず、心安げにおさなびたるさま、誠にしたしみ安し。胡蝶子のうるはしきを秋の月にたとえば、眉山君は春の花なるべし」。
以上は文学界の関係者たちとの交友である。この交友は若い人たちを相手にかなりざっくばらんだったように思える。一葉はこれらの青年たちを丁寧にもてなしている。これらの人たちとは以後ずっと付き合い続けるが、やがて「めざまし草」の関係者との交友が始まる。一葉最後の日々を飾るのは、それらめざまし草の関係者たちである。目覚まし草の関係者の中では、斎藤緑雨がもっとも親密に交際した。それにあわせて、幸田露伴や三木竹二が加わる、三木は鴎外の弟である。鴎外本人は、日記の中には現れない。
斎藤緑雨は、一葉の日記では、一貫して「正太夫」の名で出てくる。緑雨は一時期正直正太夫の筆名を用いており、一葉はそれをずっとかれの名として用い続けたのである。一葉の最晩年において最も重要な役割を果たすのは、正太夫こと斎藤緑雨といってよい。
めざまし草を実質的に仕切っていたのは鴎外である。鴎外自身は日記には出てこないが、弟の三木竹二を通じて一葉によしみを求めている。めざまし草の呼び物は、鴎外、露伴、緑雨の三人による会談「三人冗語」だったが、その三人に一葉を加えて四人冗語ともいうべきものを、鴎外はやりたいと思っていた。要するに一葉をめざまし草同人に迎えたいと思ったのだ。この構想は実現しなかった。一葉は病気の結核が悪化して、床に伏せるようになり、ついには帰らぬ人となったからである。
晩年の一葉を訪れた人々の中で、一人異彩を放っているのは横山源之助だ。横山が一葉を訪ねてきた日付は明らかではないが、明治29年1月だったようだ。その頃「かどを訪ふ者日一日と多し」という状況の中で、横山は天外茫々と名乗ってやってきた。かれについて一葉は、「茫々生はうき世に友といふ人なき人、世間は目して人間の外におけりしとおぼし」という印象を語っている。初見の日に半日がほど語ったというから、意気投合したのだと思う。横山はいわずと知れた社会主義者である。一葉にも社会に対する批判意識はあったから、その部分で意気投合したのだと思う。
コメントする