発菩提心,正法眼蔵を読む

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十二巻正法眼蔵第四は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻は本体部分にもある(第六十三)。両者とも同じ日付で示衆したとある。増谷文雄によれば、本体部分は大仏寺の造営に携わたった職人集団を相手に、この十二巻部分のものは修行僧を相手に行ったものらしい。同じく「発菩提心」と題していても、その内容はかなり違う。本体部分のものは、寺の造営に従事することこそ発菩提心だと説いているのに対して、こちらは自分のさとりより他者のさとりを優先すべきだと説く。それを、自未得度先度他「自らいまだ度せずしてまず他を度す」の心という。

まず発菩提心の定義から始める。心には三種(慮知心、草木心、積聚精要心)あるが、このうち発菩提心とかかわりのあるのは慮知心である。慮知心とは文字通り慮知する心という意味である。その慮知心が則発菩提心というわけではない。慮知心を以て菩提心を発するのである。菩提心を発するとはいかなる意味か。「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと發願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり」。

菩提心というのは、自分のことは後回しにしてでも、衆生の救済を願う心だというのである。その心を持ったものを菩薩という。釈迦も如来になる前に菩薩であったのだ。迦葉菩薩は釈迦をたたえて言ったものである。
  自未得度先度他(自れ未だ度ることを得ざるに先づ他を度す)、
  是故我禮初發心(是の故に我れは初發心を禮す)。
  初發已爲天人師(初發已に天人師たり)
  自れ未だ度ることを得ざるに先づ他を度すこと不退転なれば、それが発菩提心なのである。

ところで発菩提心は一回限りでおわるのではない。たえず繰り返さねばならない。常に菩提心を起こしつづけるべきなのである。ここで、刹那生滅の説が説かれる。これは刹那滅ともいい、大乗仏教の根本思想の一つである。こころを含めてすべての事象は、一瞬ごとに消滅して新たに生ずるという思想である。これを菩提心に当てはめると、次のようになる。「おほよそ發心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の惡さるべからず。前刹那の惡いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如來ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字を説く、ひとり如來のみなり。餘聖不能なり」。

あらゆる事象は刹那生滅するものであるが、しかし菩提心を発するならば、それは永遠に持続する。これを次のように言う。「われらが壽行生滅、刹那流轉捷疾なること、かくのごとし。念念のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。この刹那生滅、流轉捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の壽量、たちまちに現在前するなり」。

ついで、禪苑清規から「發悟菩提心否」を引用し、次のように説く。「あきらかにしるべし、佛祖の學道、かならず菩提心を發悟するをさきとせりといふこと。これすなはち佛祖の常法なり。發悟すといふは、曉了なり。これ大覺にはあらず。たとひ十地を頓證せるも、なほこれ菩薩なり」。

中には菩提心を退転する者もいる。それは「おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解脱を撥無し、三寶を撥無し、三世等の法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功を失す」ということだからである。悪魔の誘惑にまけて、菩提心を退転するものもいる。悪魔が父母・師匠などに化けて誘惑することはよくあるので、気をつけねばならない。そこで悪魔の分類がなされるが、これは飛ばしてもよいだろう。

ともあれ、悪魔の誘惑にまけて菩提心を退転してはならない。そのことを確認する言葉をこの巻の最後に置いている。「上來これ龍樹師の施設なり、行者しりて勤學すべし。いたづらに魔をかうぶりて、菩提心を退轉せざれ、これ守護菩提心なり」。






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