
2023年の映画「ソウルの春」は、1979年10月26日に起きた朴正熙暗殺事件(10・26事件)から、全斗煥による粛軍クーデタ(11・12事件)成功までの、韓国現代史の一齣を描く。この時期は二重の意味で重要な意義をもつ。一つは独裁者の死によって一気に民主化の機運が高まったこと。その機運を、チェコでかつて起きたプラハの春にたとえ、ソウルの春と呼んだ。それがこの映画のタイトルになっているわけである。もうひとつは、不在となった権力をめぐり、軍内部に大規模な内紛がおき。それが粛軍クーデタにつながった。そのクーデタの成功で、全斗煥らが権力を握り、軍政の復活をもたらす。
この映画自体は、史実通りとは断っていない。史実に基づいたフィクションだと、へんな理屈を述べている。じっさい歴史上存在しない人物を主役にしている。その男は潔癖な軍人ということになっており、全斗煥らによるクーデタを阻止しようと動いたことになっている。歴史の実際としては、全斗煥は大した抵抗なしに権力を掌握したということではないか。
この映画は架空の人物を主役にしておりながら、画面を支配しているのは全斗煥(チョンドグァンと呼ばれる)である。全は狡猾な人間として、また冷酷な人間として、自分の意図を実現する。かれの意図とは、朴正熙の衣鉢をついで、韓国の独裁者になることだ。
全斗煥の活躍ぶりがあまりにも鮮やかなので、主役の出る幕は全くと言ってよいほどない。こんな主役ならなくてすむ。歴史の実際としては、クーデタに成功した全斗煥は、翌1980年5月17日に非常戒厳を拡大し、民主化の運動を徹底的に弾圧し、自身の権力基盤を固めた。光州事件が起きたのは5月18日のことである。
映画は粛軍クーデタの成功で終わっており、その後の韓国社会の行方には一切触れていない。また、タイトルにかかわらず、ソウルの春と呼ばれるような民主化の動きにも触れていない。ただひたすら、全斗煥の権力への野望を描くばかりである。歴史を踏まえているので、それを大幅に書き換えるのは難しいとは思うが、ソウルの春をテーマとするからには、民主化の動きにもっと着目すべきだったろう。こんな映画を見せられると、わたしら朝鮮人は、小手先の権力争いが好きで、民主主義とは人権とか大げさなものは苦手なのです、と言われているように聞こえてくる。
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