樋口一葉の作家としての名声を高めるうえで決定的な役割を果たしたのは、明治29年4月発行の雑誌「めさまし草」に載った鼎談「三人冗語」である。これは、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨による文芸批評で、鴎外を中心として新作の批評を展開したもの。連載が終わった小説「たけくらべ」が「文芸倶楽部」に再掲されたことに反応して、そのすばらしさをほぼ無条件にたたえた。鴎外が頭取の立場で小説の概要を説明するのを受けて、露伴が「此作者の此作の如き、時弊に陥らずして自ら殊勝の風骨態度を見せる好文学を見たは、我知らず喜びの余りに起って之を迎へんとまで思ふなり」と言い、鴎外が「第二のひいき」として二たび発言し、「われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも。此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と断言した。
この三人冗語の評価が、以後さまざまな一葉論に大きな影響を与えることになる。かれらの評価は、一葉の作品の叙情性に注目したものであり、一葉の持つ社会的な視線にはほとんど注目していない。一葉は日本の文学的伝統の継承者であり、日本的な情緒を豊かに感じさせる、その情緒は詩情というべきものであり、一葉は詩情豊かな作家である、というような評価をしているわけだが、それが、以後の一葉論のステロタイプとなっていくのである。かれらは、とりあえず「たけくらべ」を材料にしており、その「たけくらべ」が少年少女らの成長の過程を情緒豊かに描くという側面を色濃く持っていたことを踏まえれば、かれらの着目したところはそれなりに理解できる。しかし「たけくらべ」においても、美登里が少女の身としてすでに花魁になることを運命づけられていることに自覚的になるなど、社会的な問題意識は現れている。かれらは、そうした社会的な視野を捨象して、もっぱら抒情的な雰囲気を強調したわけである。
一葉文学の持つ社会的な問題意識に注目した批評がなかったわけではない。たとえば、内田魯庵の「にごり江」論である。「にごり江」は銘酒屋の売春婦を主人公にした作品であり、単に抒情的な雰囲気ばかりを描いているわけではない。売春婦の抱えている問題を、広い社会的な視野を感じさせながら丁寧に描いている。一葉にはそうした社会的矛盾に正面から立ち向かうという姿勢もあったわけで、鴎外らが捨象したそうした視線に、魯庵は注目したということだろう。
そうした一葉の社会的な視線を、斎藤緑雨は「冷笑」という言葉で表現した。緑雨は「三人冗語」の常連でありながら、「たけくらべ」の批評にあたっては、発言を控えている。どうも鴎外や露伴の一葉に対する批評のスタンスに共鳴できなかったフシがある。そこでかれは、自分自身の一葉に対する批評の視点を、個人的な形で表出する。その緑雨の指摘を、一葉は日記のなかでかなり具体的に記している。緑雨が一葉を訪ねてきて次のように言う。「世人は一般、君が『にごり江』以下の諸作を『熱涙もて書きたるもの也』といふ。こは万口一斉の言葉なり。さるを、我が見るところにしていはしむれば、むしろ冷笑の筆ならざるなきか」。緑雨のこの指摘に、一葉は微笑で応えたばかりであったが、我が意をあてられたと感じたのではないか。一葉が日記の筆を折るのは、この一週間後のことであり、体力の衰えが切羽詰まっていた。
一葉は、貧しい境遇から一躍時の人になったので、中には妬む人もあったようだ。萩乃舎の先輩で女流文学者のさきがけと言われる三宅花圃はその一人だ。初めて一葉に会ったときの印象を語ったりしているが、先輩という立場から、一葉に対しては上から目線である。対等な人間として見ていない。自分の立場をわきまえぬ小生意気な女として見ている。小生意気というだけではなく、いかがわしい境遇に身を沈めているとるに足らない女だというような見方もしている。そこに我々は日本のブルジョワ女のいやらしさを感じる。
日本のブルジョワ女のいやらしさは、平塚らいてうも感じさせる。らいてうは一葉の同時代者ではなく、したがって一葉を過去の人として、客観的に見ようとする姿勢を打ち出している。彼女の一葉に対する見方は、教養のない作家ということである。教養がないから、「一葉には一葉自身の思想がない。問題がない。想像がない」ということになる。らいてうが何を以て教養の条件と考えているか、はっきりとしないが、男をとりかえながら女としての快楽を追求することが、女の教養の原点だとらいてうが考えているならば、一葉はそんな教養とは無縁である。一葉は、たしかに公的教育は14歳までしか受けておらず、もっぱら自分の努力で自己の教養を培ってきた。しかしその教養は、日本の近代文学に大きな足跡を残すには十分だったはずだ。らいてうの言葉をもじれば、らいてうにはらいてう自身の思想(女の快楽)はあったかもしらぬが、時代を生きる日本人としての思想はなかった、といわざるを得まい。
花圃やらいてうに比べれば、萩乃屋で仲良くしていた伊東夏子は、一葉に対してずっと寛大である。伊東は、一葉の経済的な苦境をよく知っていて、せがまれて金を貸したことも多々あった。金のやりとりは、とかく人間関係を破綻させるものだが、伊東は一葉に始終寛大だった。一葉が死んだとき、その葬儀に参列したものは十人程度であり、萩乃舎からは伊東と田中みの子の二人だけだった。
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