日本文学覚書

断腸亭日乗昭和十一年一月三十日の条に、帰朝以来馴染を重ねたる女の一覧表なるものが載せられている。これは明治四十一年に数年にわたる欧米滞在から帰国したあと、この日までに荷風が馴染を重ねた女十六人について簡単なコメントを付したもので、女の数は十六人にのぼる。この数だけでも荷風がいかに女好きだったかがわかるというものだ。荷風はここに記された以外にも多くの女たちと情交を重ね、その中から創作のエネルギーを汲み取った。なにしろ荷風が生涯に書いた文章のうち小説の部類に入るものはことごとく男女の情交をテーマにしている。荷風はその材料やら構想をそれらの女たちとの触れ合いから汲み出した。したがって女への執念が薄れるとともに、荷風の創作意欲も失われたのである。

荷風の小説「踊子」は戦時下の息苦しい時代に発表のあてもなく書いたものだ。そんなところからこの小説には荷風の本音のようなものが込められている。その本音というのは自分と女性との望ましい関係についてのもので、自分は女を愛玩動物のように可愛がりたいと思う一方、自分の生き方を女によって拘束されたくないというものだったように見える。実際この小説に出てくる二人の踊子、彼女らは実の姉妹なのだが、その二人とも主人公の男を拘束することがない。姉のほうは自分の亭主が妹に手を出しても文句を言わないばかりか、亭主が妹に産ませた子どもを自分が引き取って育てようとまでする。妹は妹で姉の夫にさんざんいい思いをさせてやったうえで、自分は踊子をやめて芸者になり、身を売った金を姉たち夫婦に気前よく与えるのである。その金で主人公の男は勝手気ままな暮らしをすることができる。スケコマシとまではいわないが、それに近い、女によって養われているような男である。

小説「浮沈」は昭和十四年前後の東京を主な舞台としている。昭和十四年と言えばヨーロッパで第二次大戦が始まった年であるし、日本では対中戦争が泥沼化し、太平洋戦争に向かって坂を転げ落ちるように突き進んでいった時代である。そんな時代を背景にして、この小説は作者永井荷風の反戦意識というか厭戦気分のようなものを色濃く反映している。この厭戦気分を荷風は日記「断腸亭日常」の中でも吐露していたが、小説では日記ほど露骨に言うわけにもいかぬので、かなりモディファイされた形においてではあるが、荷風日頃の厭戦気分を表現している。

小説「浮沈」は、荷風散人晩年にして最後の傑作と言ってよい。この最後の傑作の中で荷風は、自分なりに抱いていた女性の理想像を描いた。その理想像を荷風は、作中人物越智をして語らせているが、この越智こそは荷風の分身と言ってよい。その分身が自分なりの女性の理想像を次のように表現するのである。

荷風散人の小説「濹東綺譚」を傑作と言ってよいかどうかは異論があるだろう。しかし荷風散人の小説を集大成したものとは言えよう。この小説には散人の特徴ともいうべきものが遺漏なく盛り込まれている。世相に対する懐疑的な視線、随筆風の文章を以てなんとなく話を進めてゆくところ、しかもその文章になんとなく色気が感じられるのは女を描いて右に出る者がいないと言われるような女へのこだわりがあるためである。実際荷風散人ほど女、それも賤業婦と称され身を売ることを商売とする女を描き続けた作家は、日本においてもまた世界中を探しても、荷風散人をおいてほかにはない。

荷風は娼妓や売笑婦たちを賤業婦と呼んだが、彼が小説で描いたのは、一貫してこの賤業婦たちだった。日本を含めた世界の文学界で、生涯賤業婦だけを描き続けた小説家は荷風をおいてほかにはいないだろう。何が荷風を駆り立てて賤業婦の描写に向かわせたのか。それ自体が興味あるテーマと言えよう。

「あじさゐ」は三十枚ほどの小編ではあるが、なかなかに味わい深い。いわゆる賤業婦に生涯こだわりを持ち続けた荷風散人が、賤業婦の花ともいうべき芸者について、自分なりの趣味・主張を開陳して見せたもので、荷風の芸者観がもっともあからさまな形で表現された作品である。

荷風散人が昭和六年に小説「つゆのあとさき」を発表したとき、谷崎潤一郎が早速読後感を寄せて、ユニークな荷風論を展開して見せた。谷崎が言うには、荷風には洋風の審美主義と和風の骨董趣味とが混在しており、自分としては審美主義の方が好きなのであるが、荷風のこの新作は骨董主義へ逃げ込んだものとして、自分としてはあまり高くは評価できないと評した。これは批評上の一見識と言えなくもないが、そこにはやはり谷崎なりの美意識が絡んでいるとも言えるので、読者の中には、荷風のバタくさい審美主義よりいさぎよい江戸趣味(骨董趣味の別名だ)をより好む者もいよう。筆者もそうした荷風の江戸趣味を好む者の一人だ。そう言う点でこの小説などは、非常に筆者の感性に合っていると言えるのだが、この小説にはそれを超えたところもある。谷崎は同じ評論の中で、荷風の小説、とりわけこの新作の中の登場人物には、人間の血が流れていないように感じると言っているのだが、筆者などはその正反対に、この小説の登場人物、とりわけ主人公の女給君江に強い人間性を感じるのだ。

「雪解」は小品ながらよくできた作品だ。雪解け水の点滴の音の描写で始まり、わずか二日間の出来事を淡々と綴ったものだが、その短い時間の中に人間の生涯が凝縮されている。その生涯と言うのは、主人公の初老の男にとっては敗残の一生であり、その男が二階を間借りしている出方の女房にとっては偽りの生涯であったらしく、また初老の男が数年ぶりに再会した実の娘にとっては、これから始まるべき一生がすでに清算されてしまっているかのように見えると言った具合なのである。

雨瀟瀟とは、雨が物悲しい音をたてて降る様子を表した言葉で、主に秋の雨について用いられる。荷風散人の短編小説「雨瀟瀟」は、そんな秋雨の描写から始まる。曰く、「その年二百二十日の夕から降り出した雨は残りなく萩の花を洗い流しその枝を地に伏せたが高く伸びた紫苑をも頭の重い鶏頭をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降り続けたあげく三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花をおずおず昼のうちから咲きかけたほどであった」

「おかめ笹」には小説としてはめずらしく「はしがき」がついている。その中で小説の題名の由来が触れられている。曰く、「そもそも竹は風雅のものなり。しかるに竹に同じき笹のなかにてもおかめ笹は人にふまれ小便をひっかけられて、いつも野の末路のはたに生い茂り、たまたま偏屈親爺がえせ風流に移して庭に植えよとたのみても園丁さらに意とせざる気の毒さ。つまらなき我が作の心とも見よ」

荷風の小説「腕くらべ」の舞台は新橋の色街である。新橋というと、今日ではJR線新橋駅の西側一帯をさしていうようになったが、この小説の中の新橋は、いまでいう銀座八丁目から五丁目あたりまでの一帯をさしていた。新橋の地名は、外堀にかかる橋からきたが、その橋の近くに東京で初めての鉄道の駅が出来て、それが新橋ステーションと呼ばれた。そのステーションの真ん前の大通り、これは従来の東海道の一部であるが、その通りを洋風に飾って新時代の目抜き通りに仕立て上げた。するとその目抜き通りの周辺に様々な業種の店が集まってきたが、なかでも芸を売る店の勢いがすさまじく、この一帯はあっというまに東京有数の色街になったというわけである。

荷風言うところの賤業婦とは、性を売り物にする女のことである。これは人類史上最古の職業と言ってもよく、日本でも万葉の時代にすでに浮かれ女という名称の賤業婦があった。この賤業婦を荷風は、生涯のテーマとして追い続けた。対象が対象であるから、とかく堕落しがちなこのテーマを、荷風はあくまでも文学的に扱った。であるから荷風の小説の中の賤業婦たちは、みだらさは感じさせるが、堕落したところはない。みな自分の気持に忠実に生きている。その生きざまに荷風は同感したのだろう、彼の賤業婦の描き方には、愛するものをいとおしむ気持ちがこもっている。

永井荷風には、随筆だか小説だか区別のつかない曖昧な作品が多くある。それらは、小説の体裁を借りて随筆を書いているのか、あるいは随筆に小説の趣を添えることで文章に色を添えているのか、どちらともとれない曖昧さがあって、それがまた荷風の良さだとするような見立てもあったりするのだが、ともあれそういう曖昧さを身上とする一連の作品が荷風にはあるということだ。荷風畢生の傑作といわれる「濹東綺譚」はその代表的なものである。初期の短編「妾宅」は、作家としての荷風が自分の作風を確立する過程で楽しんだ寄り道のように見えるが、そこにもすでに「濹東綺譚」で華麗に展開された随筆風小説の技法の冴えがすでに十分に見られるのである。

荷風の小説「すみだ川」は、盂蘭盆会が過ぎたばかりの八月なかばの夏の終わりに始まり、翌年の春と夏の境目で終わっている。一年足らずの期間だが、その間に季節は確実に巡り行く。その季節の巡り行きに重ね合わせるように、物語はあわただしく進行してゆく。その物語とは、一人の青年の切ない恋が破れる話だ。恋に破れた青年が、自暴自棄で自分の命を縮めるところで小説は終わっている。

「すみだ川」は、荷風文学の出発点に位置すると言ってよい。荷風はそれまでも、多数の小説を発表し、いっぱしの文学者として一目置かれるようにはなっていたが、それらは、今読めばそらぞらしい習作の域を脱してはいない。洋行体験を踏まえて書いた小説などは、啄木の罵倒を待つまでもなく、到底読むに堪えるとは言えない。それがこの「すみだ川」に至って、荷風は自分なりの世界を確立した。それは一言で言えば、古い日本へのこだわりと言ってもよいが、その古い日本へのこだわりが、この小説のなかで形を整えたというわけである。以後荷風の小説は、この「すみだ川」の延長上に、ある意味華麗な世界を繰り広げてゆくことになるであろう。

村上春樹は川上未映子が気に入ったらしく、彼女との対談集(「みみずくは黄昏に飛び立つ」)では腹蔵のない会話を楽しんでいるのが伝わってきたが、村上はまた川上の小説家としての才能にも敬意を表していて、その理由として川上の文体の独自さをあげていた。村上自身、作家の才能は文体によってはかられると考えており、また作品の価値も文体によって左右されると思っているようなので、ユニークで迫力のある文体を駆使する川上を高く評価するというわけであろう。

「みみずくは黄昏に飛び立つ」は、女性作家である川上未映子による村上春樹へのインタビューである。「騎士団長殺し」の執筆前後になされたということもあり、「騎士団長殺し」についての舞台裏的な話が多い。タイトルに出てくるみみずくにしてからが、「騎士団長殺し」の中に出てくるキャラクターだ。そのみみずくが黄昏に飛び立つというと、ヘーゲルの有名な言葉「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」を想起するが、ミネルヴァの梟は哲学を体現して飛び立つのに対して、村上のみみずくは物語を抱えて飛び立つのだそうだ。

「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の小説の代表作といってよい。短編ながら、坂口らしさがふんだんに盛られている。筋書きもユニークだし、文の運びも軽快だ。それでいて幻想的な雰囲気を存分に醸し出している。こういう幻想的な世界は、上田秋成以外には絶えて描ける人がいなかったもので、そういう点では坂口は、非常に珍しいタイプの作家といってよい。

「白痴」は、作家としての坂口安吾の名声を確立した作品だ。表だったテーマは、一人の男と白痴の女の奇妙な共同生活だが、彼らが直面する東京大空襲の阿鼻叫喚の地獄が、もう一つの大きなテーマになっている。今日的な視点からこの作品を評価するとすれば、東京大空襲をリアルに描いたことに価値があるのではないか。戦後活躍した作家のなかでは、東京大空襲を正面から取り上げたものはいない。歴史の専門家の中にさえ、東京大空襲は人気のないテーマだった。ひとりだけ、これは自分自身が被災者だった早乙女勝元の、地味な努力があるくらいだ。

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