日本文学覚書

坂口安吾が「堕落論」の中で、議論の素材として取り上げたのは、日本の伝統的な価値観というべきものだ。それを坂口は、日本婦人の貞操、特攻隊に象徴される皇軍兵士の愛国心、そして天皇制への敬意で代表させたわけであるが、そのいずれについても、茶化すような言い方をして、批判というか、断罪をしている。これに対して当時の日本人は拍手喝采を以て答えた。坂口といえば、敗戦前には風変わりな小説を書くマイナーな作家ぐらいにしか受け止められていなかったのだが、この堕落論によって、いっぱしの文明批評家として時代の寵児になったのである。

「反劇的人間」は、アメリカ人のドナルド・キーンと日本人である安部公房の対話だから、どうしてもお互いの民族性が、だいたい無意識的にではあるが、背後で働くという具合になる。ところで安部公房ほど、日本人でありながら日本らしさに拘らない作家はいない。彼の小説や演劇は、無国籍と言ってもよい、いわばコスモポリタンな世界を描いている。そのことをキーンのほうも感じ取っていて、安部はなぜ日本らしさに拘らないのか、素朴な疑問を呈している。それに対する安部の答えが面白い。戦時中に満州で経験したことが、日本人に対する自分の見方に大きな作用を及ぼし、それ以来日本を斜めに見る癖がついたと言うのである。

安部公房のエッセー集「内なる辺境」に収められた三篇の小文はいづれも異端をテーマにしている。安部がこれらの文章を書いたのは、1970年頃のことだが、どういうつもりでこんなテーマを取り上げたのか。異端といえばカミュの「異邦人」の提起した問題意識につながるが、「異邦人」の衝撃は1970年頃にはもう収まっていたはずだから、その影響がこれらの文章を書かせたとはいえないようだ。やはり安部自身の内部に、異端をとりあげさせる動機が潜んでいたのだろう。安部は、正統と異端という対立軸にてらせば当然異端の部類に入るのだろうし、本人もまたそれを自覚していたに違いない。だから彼が自分の生涯の一定の時期に、異端というものを通じて自分に改めて向かい合おうという気になったとしても、それは不自然ではない。

安部公房の小説世界は、デビューしたてのしょっぱなから独特の空間感覚に彩られていた。たとえば「壁」では、現実界と異界とが壁一つを隔てて接しあっていたし、「水中都市」では現実界としての日常空間が異界としての水中空間に突然変化するといった具合だ。そうした安部独特の空間感覚が本格的に表明されたのが1960年の短編小説「賭」だ。この小説の中で安部は、日常空間の中に織り込まれた異界空間を描いている。その空間は日常空間の隙間をふさぐようにして忍び込んだ空間であるとされるから、イメージとしては歪曲しているように受け取れる。それを今流行の異次元空間といわずに歪曲空間というべきなのは、そのためである。

安部公房の短編小説「人魚伝」は、異種間結婚をテーマにした作品だ。異種間結婚というのは、人間がほかの動物との間で結婚したり愛し合ったりする物語で、世界中に分布している。日本にも「鶴の恩返し」をはじめとして、多くの伝説や逸話が流布している。それらの話は、動物が何らかの事情で人間との間の交流を求め、人間の姿となって人間に近づき、人間と結婚するのだが、いつかは真実を告白して動物の姿にもどり、異界へと去ってゆくというパターンのものが多い。ところが安部のこの小説の場合には、人間が人魚をその姿のまま愛してしまい、幸福なひとときを過ごした後、その人魚を殺してしまうという不幸な結末になっている。その辺が、安部独特の話法が働いているところだ。

安部公房は、本格的な小説を書く合間に、短編小説を書いて、コンディションを整えていたフシがある。特に、1951年の「壁」から1962年の「砂の女」までの約十年間は、長編には力作が無く、短編小説にすぐれた作品が多い。新潮文庫の「無関係な死・時の崖」に収められた十篇の短編小説は、そうした作品を代表するものだ。

カフカ的不条理を描き続けてきた安部公房が、「密会」では、その不条理を一段と掘り下げようとして、いまひとつ宙ぶらりんな仕上がりになった、ということではないか。この小説で安部は、カフカを越えようとして二つの試みを行っているのだが、それがどうも読者の目には、いかにも作り物めいてしっくりしないところがある。それがこの小説に中途半端な印象を与えるのである。

「騎士団長殺し」の最終章は、妻と縒りを戻した私の数年後のことを描いている。その数年後の三月十一日、私は「東日本一帯に大きな地震が起った」ことをテレビニュースで知って、ショックを受ける。そのショックは数年前に私がそのあたりをプジョー205に乗って、あてもなく旅していた記憶を呼び覚ます。

村上春樹には、書き物のなかで自分の趣味を披露するのを楽しむ傾向が強い。彼の趣味といえば音楽を聞くことと身体運動をすることらしく、この二つの分野について、小説やエッセーの中でことこまかく、それこそマニアックなまでに拘っている。「騎士団長殺し」も例外ではないようだ。音楽へのこだわりは相変わらずだし、身体運動についても、登場人物の一人である免色を通じて、細かく言及している。

「騎士団長殺し」は、主人公の私が妻に去られることから始まる。その点では、妻が突然消えてしまったところから始まる「ねじまき鳥クロニクル」と似ている。違うのは、「ねじまき鳥」の主人公が最後まで妻を取り戻すことができなかったらしいのに対して、この小説の中の私は、妻との関係を回復し、新たな生活を始めることができたということだ。この小説の中の主要な出来事は、妻に去られてから再び彼女を取り戻すまでの、わずか数ヶ月の間に、私の身に起きたことなのである。

村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」は二部からなっていて、第一部を「顕れるイデア編」、第二部を「遷ろうメタファー編」と題する。イデアとはプラトン以来の西洋哲学にとっての主要概念である。日本語では理念と訳されることが多い。またメタファーのほうは、西洋で発達した修辞学における主要概念である。こちらは比喩と訳されることが多い。修辞学上の概念ではあるが、哲学上の議論にもよく援用される。

「騎士団長殺し」は、語り部の私が夜毎に鈴の音を聞くことから物語が発展してゆく。その鈴の音は、私が住んでいる小田原郊外の家の裏手の藪の中から聞こえてきた。私がその音の聞こえてくるところを確かめようとして家の裏手を探したところ、祠の裏側の藪のなかに井戸を一回り大きくしたような穴があった。鈴の音はどうやらその穴の中から聞こえてくるようだった。しかし、鈴がひとりでに鳴るということは考えられないから、その穴の中に鈴を鳴らしたものが存在するに違いない(人間ではないとしても)。しかし、これまで長い間誰も手を触れた形跡のない穴の中に、生きている人間がいる可能性は考えられない。そこでもしかしたら、即身仏とかその亡霊のようなものが鈴を鳴らしたのではないか、という仮説が持ち上がる。その仮説を持ち出したのは、一つ谷を隔てた山の上に住んでいる不思議な男免色だ。免色は私に上田秋成の作品「春雨物語」の中から「二世の縁」という話を取り上げて、その話に出てくる男が私と同じような体験をしたと語るのだ。

村上春樹の最新作「騎士団長殺し」は、発売早々大きな反響を呼んでいるようだが、そうした反響の中にはファナティックなものもある。そのファナティシズムが槍玉に挙げているのは南京事件をめぐる次のような一文だ。

村上春樹には、ほぼ七年おきに大作を書く性向があると見えて、今回も「1Q84」から七年を経て長編小説「騎士団長殺し」を発表した。上下二巻であわせて千ページを超える大作だ。読んでのとりあえずの印象は、これまでの彼の仕事の集約のようなものだということだ。集約といって、集大成とか総仕上げとかいわないことには、それなりの理由がある。それについては追って言及したいと思う。

「箱男」を読んでまずうならされるのは、その構成の奇抜さである。この小説にはどうも複数の語り手がいるらしいのだが、それらがどういう関係にあるのかよくわからないうえに、その一部は実在しない語り手らしいのだ。というのも、語りかけられている人物が実在しない人物で、その実在しない人物が実在したかに思われる出来事を語ったりするからだ。しかもそれら様々な出来事の間に、実在的な関連がない。語り手の夢の内容がそのまま現実性を帯びたかのようでもある。とにかく、出来事の相互関係が輻輳し、そのために何がどうなっているか、その道筋が遂には見えなくなってしまうのだ。だからこの小説を読み終わった読者は、深い疲労感を覚えるに違いない。

すぐれた小説の重大な要素として、小説を締めくくる最後の言葉がある。安倍公房の小説「燃えつきた地図」は、次のような言葉で終わる。「轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」

安部公房は、処女作「壁」の中で、名前を失った男の話(S・カルマ氏の犯罪)や影を盗まれた男の話(バベルの塔)を書いたが、それらは人間にとってアイデンティティとは何かという、ある意味根本的な問題を取り上げたものだった。そういう意味では非常に理屈っぽい作品だったわけだ。「他人の顔」も、大やけどがもとで生まれながらに持っていた顔を毀損してしまったという意味で、本来の顔を失ってしまった男の話であり、顔というものが人間にとってもつ決定的な意義を考えれば、やはりアイデンティティの危機についての話だということができる。しかもその危機へのこだわりが、前の二作品におけるよりも深化しているという点で、理屈っぽさは一層先鋭化している。この小説は、小説でありながら、ある人物の、自分の存在意義についての、堂々巡りを思わせるような、長たらしく、かつネトネトとしたつぶやきからなっているのである。

「砂の女」は、安部公房の最初の本格的長編小説だ。「壁」や「デンドロカカリア」などの短編小説で、カフカ風の不条理文学を手がけてきた安部が、この小説では「世界の不条理性」を前面に押し出して、本格的な不条理文学を追求した、というふうに語られるのが普通だが、ただ不条理だけを売り物にしたのでは、なぜあんなに大きな旋風を巻き起こしたのか、すっきりと説明できないところもある。この小説が発表されたのは1963年のことで、日本社会はいわゆる「戦後」から脱却しかかっていたが、戦争体験はまだ多くの人の心に生き残っていたし、戦後の混乱の記憶も消えてはいなかった。戦争から戦後にかけての日本人は、ある意味カフカ的な不条理性よりさらにひどい不条理性に直面していたといってよく、そうした不条理への記憶が多くのすぐれた文学を生み出した原動力にもなった。戦後の日本文学というのは、その前後の時代と比較して、きわめて旺盛な活力を誇ったといってよいが、そうした文学的活力は、戦中から戦後にかけての日本社会を覆っていた不条理性に根ざしていた、という面もあった。安部のこの小説は、そうした時代の空気を色濃く反映していたことで、ある種の時代批判になっていたわけで、それが同時代の日本人に支持されたのではないか。

安部公房は「壁」と前後して何本かの短編小説を書いている。その中で今日でも色あせて見えないのは「デンドロカカリア」と「水中都市」だ。どちらも人間の変身を描いている。「デンドロカカリア」のほうは人間の男が植物に変身する話だし、「水中都市」のほうは、肉体的には人間の外形を保ったままであるが、機能的には魚となって水中の都市を遊泳する男たちの話だ。

安部公房を始めて読んだのは高校生のときであったが、その折に受けた印象は、直前に読んでいたカフカの模倣のようで、オリジナリティを感じることがなかった。そこで若い筆者は安部の作品を読む動機を失ってしまったのだったが、どうやらそれは早合点過ぎたようだ。というのも、最近になって安部の作品「壁」を読んでみて、たいへんぞくぞくさせられたからだ。これはこれなりにオリジナリティがある。たしかにカフカを思わせるところはあるが、安部らしい独創性もある。戦後の日本文学の中でも、かなりユニークなものなのではないか。そんな印象を受けたのであった。

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