日本文学覚書

「騎士団長殺し」は、語り部の私が夜毎に鈴の音を聞くことから物語が発展してゆく。その鈴の音は、私が住んでいる小田原郊外の家の裏手の藪の中から聞こえてきた。私がその音の聞こえてくるところを確かめようとして家の裏手を探したところ、祠の裏側の藪のなかに井戸を一回り大きくしたような穴があった。鈴の音はどうやらその穴の中から聞こえてくるようだった。しかし、鈴がひとりでに鳴るということは考えられないから、その穴の中に鈴を鳴らしたものが存在するに違いない(人間ではないとしても)。しかし、これまで長い間誰も手を触れた形跡のない穴の中に、生きている人間がいる可能性は考えられない。そこでもしかしたら、即身仏とかその亡霊のようなものが鈴を鳴らしたのではないか、という仮説が持ち上がる。その仮説を持ち出したのは、一つ谷を隔てた山の上に住んでいる不思議な男免色だ。免色は私に上田秋成の作品「春雨物語」の中から「二世の縁」という話を取り上げて、その話に出てくる男が私と同じような体験をしたと語るのだ。

村上春樹の最新作「騎士団長殺し」は、発売早々大きな反響を呼んでいるようだが、そうした反響の中にはファナティックなものもある。そのファナティシズムが槍玉に挙げているのは南京事件をめぐる次のような一文だ。

村上春樹には、ほぼ七年おきに大作を書く性向があると見えて、今回も「1Q84」から七年を経て長編小説「騎士団長殺し」を発表した。上下二巻であわせて千ページを超える大作だ。読んでのとりあえずの印象は、これまでの彼の仕事の集約のようなものだということだ。集約といって、集大成とか総仕上げとかいわないことには、それなりの理由がある。それについては追って言及したいと思う。

「箱男」を読んでまずうならされるのは、その構成の奇抜さである。この小説にはどうも複数の語り手がいるらしいのだが、それらがどういう関係にあるのかよくわからないうえに、その一部は実在しない語り手らしいのだ。というのも、語りかけられている人物が実在しない人物で、その実在しない人物が実在したかに思われる出来事を語ったりするからだ。しかもそれら様々な出来事の間に、実在的な関連がない。語り手の夢の内容がそのまま現実性を帯びたかのようでもある。とにかく、出来事の相互関係が輻輳し、そのために何がどうなっているか、その道筋が遂には見えなくなってしまうのだ。だからこの小説を読み終わった読者は、深い疲労感を覚えるに違いない。

すぐれた小説の重大な要素として、小説を締めくくる最後の言葉がある。安倍公房の小説「燃えつきた地図」は、次のような言葉で終わる。「轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」

安部公房は、処女作「壁」の中で、名前を失った男の話(S・カルマ氏の犯罪)や影を盗まれた男の話(バベルの塔)を書いたが、それらは人間にとってアイデンティティとは何かという、ある意味根本的な問題を取り上げたものだった。そういう意味では非常に理屈っぽい作品だったわけだ。「他人の顔」も、大やけどがもとで生まれながらに持っていた顔を毀損してしまったという意味で、本来の顔を失ってしまった男の話であり、顔というものが人間にとってもつ決定的な意義を考えれば、やはりアイデンティティの危機についての話だということができる。しかもその危機へのこだわりが、前の二作品におけるよりも深化しているという点で、理屈っぽさは一層先鋭化している。この小説は、小説でありながら、ある人物の、自分の存在意義についての、堂々巡りを思わせるような、長たらしく、かつネトネトとしたつぶやきからなっているのである。

「砂の女」は、安部公房の最初の本格的長編小説だ。「壁」や「デンドロカカリア」などの短編小説で、カフカ風の不条理文学を手がけてきた安部が、この小説では「世界の不条理性」を前面に押し出して、本格的な不条理文学を追求した、というふうに語られるのが普通だが、ただ不条理だけを売り物にしたのでは、なぜあんなに大きな旋風を巻き起こしたのか、すっきりと説明できないところもある。この小説が発表されたのは1963年のことで、日本社会はいわゆる「戦後」から脱却しかかっていたが、戦争体験はまだ多くの人の心に生き残っていたし、戦後の混乱の記憶も消えてはいなかった。戦争から戦後にかけての日本人は、ある意味カフカ的な不条理性よりさらにひどい不条理性に直面していたといってよく、そうした不条理への記憶が多くのすぐれた文学を生み出した原動力にもなった。戦後の日本文学というのは、その前後の時代と比較して、きわめて旺盛な活力を誇ったといってよいが、そうした文学的活力は、戦中から戦後にかけての日本社会を覆っていた不条理性に根ざしていた、という面もあった。安部のこの小説は、そうした時代の空気を色濃く反映していたことで、ある種の時代批判になっていたわけで、それが同時代の日本人に支持されたのではないか。

安部公房は「壁」と前後して何本かの短編小説を書いている。その中で今日でも色あせて見えないのは「デンドロカカリア」と「水中都市」だ。どちらも人間の変身を描いている。「デンドロカカリア」のほうは人間の男が植物に変身する話だし、「水中都市」のほうは、肉体的には人間の外形を保ったままであるが、機能的には魚となって水中の都市を遊泳する男たちの話だ。

安部公房を始めて読んだのは高校生のときであったが、その折に受けた印象は、直前に読んでいたカフカの模倣のようで、オリジナリティを感じることがなかった。そこで若い筆者は安部の作品を読む動機を失ってしまったのだったが、どうやらそれは早合点過ぎたようだ。というのも、最近になって安部の作品「壁」を読んでみて、たいへんぞくぞくさせられたからだ。これはこれなりにオリジナリティがある。たしかにカフカを思わせるところはあるが、安部らしい独創性もある。戦後の日本文学の中でも、かなりユニークなものなのではないか。そんな印象を受けたのであった。

「千年の愉楽」もまた紀州の路地を舞台にしているが、前二作(岬、枯木灘)とは全く違う世界を描いている。前二作は、路地を舞台にして展開する家族の因縁のようなものを、日本文学の伝統である私小説的な文体で、リアリスティックに描いたものだが、この小説は全く架空の物語の世界を描く。「千年の愉楽」という題名からして神秘的な雰囲気を感じさせるが、実際この小説の主人公である「オリュウノオバ」は、百年も千年も生きたということになっている。百年も千年も生きていれば、それこそありとあらゆる経験をしただろうし、その経験の中には普通人の理解を超えたようなシュールなものもあっただろう。この小説はそうしたシュールな出来事を、きわめて肉感的と形容できるような、不思議な文体で描いている。一読してわかるように、これは日本の文学の伝統を大きくはみ出した、非常にユニークな作品と言うことができよう。

「枯木灘」は、「岬」の後日譚という体裁をとっている。「岬」の中で「かれ」という代名詞で言及されていた二十四歳の主人公が、「秋幸」という固有名詞を持った二十六歳の青年として出てくる。人物の輪郭が明確になったのと平行して、舞台設定も明確になっている。「岬」では紀州のどこからしいと思わせていただけだったが、この小説の中では、熊野新宮の門前町の、路地と言われる、周囲から孤立した特殊な空間が舞台である。

「岬」は、小説としてはオーソドックスな構造をしている。時間は直線的でかつ単線的に流れてゆくし、空間は一定の範囲内に収まっているし、出来事はいずれも現実的で、空想的な要素に乏しいし、何より人物たちが地に足をついた生き方をしている。その足のつき方に多少の癖があるにしても、大多数の日本人の生き方の軌道を極端に外れるものではない。こういう構造をした小説は、日本の文学の伝統の王道を行くもので、日本人の読者に一定の安心感を与える。こういう伝統をもっともよくあらわしたのが私小説であったわけだが、中上のこの小説はそうした私小説の伝統の延長線上にあると受け取ってよい。

現役を退いて隠遁生活に入って以来読書三昧の日々を過ごしている。そんな亭主を見て筆者の家内は、毎日一人で家に閉じこもってよく退屈しないわね、と冷やかすのだが、筆者には一向に退屈する理由が見当たらない。もともと孤独を愛する性質で、一人でいるのが全く気にならないばかりか、世俗の騒音から免れて毎日読書にいそしむ生活が非常に気に入っているのである。気に入った作家の洒落た文章を読むと心が洗われるし、たまには自分の考えを下手な文章にして乙にいるのも悪くはない。最近は村上春樹の文章が気に入って、よくこれを読んでいる。これだけでも毎日の屈託など飛ばしてくれるよ、そう家内に言ったところが、村上春樹って偏屈親爺でしょ、そんなもの読んでどこが面白いの?と言う。へえ、世の中には村上春樹を偏屈親爺と思っている人もいるんだ、と筆者は聊か驚いた次第であったが、まあ嗜好というのは人ごとに違って当たり前、筆者のように村上春樹が面白い感じる者がいれば、筆者の家内のように偏屈親父の偏屈な文章と感じる者がいてもよいわけだ。

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村上春樹の「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」は、2009年の春から一年間、女性向け雑誌 anan に連載したエッセーを集めたものである。村上は2000年の春から一年間、やはりこの雑誌のためにエッセーを連載しているから、ほぼ10年ぶりの再開ということになる。村上はこの雑誌を、エッセー発表の媒体として気に入ったのだろう。

村上ラジオ

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「村上ラジオ」は、2000年の春から一年間、女性向け雑誌「anan」に連載されたエッセーを集めたものである。この雑誌は若い女性をターゲットにしたもので、そういう点ではかなり特殊な読者層向けの雑誌といってよいが、村上はそれまでも、「アルバイトニュース」とか、それ以上に特殊な読者向けの雑誌にエッセーを連載する癖があったので、そんな彼にとってこれは別に変ったことではなかったようだ。誰が読者なのか、そんなことは気にならないといった様子で、自分の書きたいことを淡々と書いているといった雰囲気が伝わってくる。

「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」は、週刊朝日に1995年11月から1年1ヶ月にわたり連載したエッセーを集めたものである。1986年に始まる長い海外生活から日本に戻ってきて、村上にとっては10年ぶりの連載エッセーだったということだ。そんなこともあるのか、日本についての文明論的な感想がけっこう多い。そういう感想は、諸外国に比較しての日本の特殊性みたいなものを指摘しているのだが、いきおい批判的というか、悪口にも聞こえる。

「シドニー!」は、2000年シドニー・オリンピックの村上春樹による観戦記録である。村上はこの仕事を、スポーツ情報誌「ナンバー」の依頼があって引き受けたそうだ。日頃お祭騒ぎが大嫌いで、オリンピックなど退屈極まりない見世物だと思っていた村上が何故この仕事を引き受けたか、あまり説得力のある説明はない。なんとなく引き受けたというのが真相のようだ。何しろ、9月15日の開会式に始まり10月1日に終わるオリンピックの全期間を含め、その前後の数日をあわせ滞在期間の全日にわたって他人の金で旅行できるわけだから、これは儲け物と思ったのかもしれない。もっともあてがわれたホテルはエコノミークラスで、大会期間中毎日30枚以上に及ぶレポートを書かねばならぬハードなスケジュールが条件ではあったが。しかしそうした条件を差し引いても、このシドニー滞在は村上にとって損ではなかったようだ。彼は彼なりにオリンピックを楽しんだようだし、400ページを超える大部の旅行記を残すこともできた。

20世紀の最後に近い年に村上はスコットランドとアイルランドに旅した。スコットランドではシングル・モルト・ウィスキーを、アイルランドではアイリッシュ・ウィスキーを味わうのが目的だったようだ。村上は小説の中ではもっぱらビールを飲む場面ばかり書いているように映るが、個人的にはウィスキーも好きだ、ということがこのエッセーを読むとよくわかる。村上が、そのウィスキーのもつ味わいを少しでも読者に共有して欲しいという願いをこめてこの文章を書いたことは、題名からもわかる。「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という題名には、自分の言葉だけで読者がウィスキーを味わえたらどんなにかすばらしいだろか、という思いがこもっているのである。無論言葉だけでウィスキーを味わうことはできない。言葉は言葉に過ぎないからだ。それでもなお村上は、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と夢想し続けるのだという。

「辺境・近境」は、村上春樹が1990年代に書いた紀行文を一冊にしたものだ。七編の旅行記からなる。国内のものが三本、国外のものが四本だ。国内編は、1990年の夏に行った瀬戸内海の無人島滞在の記録以下、三日かけて讃岐のうどんを食い歩いた記録、そして1995年の大地震から二年後に自分の故郷である神戸の町を歩いた記録からなる。国外編は、1991年の秋に書いたイースト・ハンプトンの印象記を手始めに、メキシコ大旅行、ノモンハンの鉄の墓場、そしてアメリカ横断の記録からなる。それぞれ味わいのある紀行文だが、もっとも迫力があるのはメキシコ大旅行の記録と、ノモンハンの鉄の墓場の記録だ。

村上春樹のエッセー集「うずまき猫の見つけかた」は、村上がアメリカのケンブリッジという町(ハーヴァード大学のあるところ)に滞在していた1993年から1995年にかけての二年間の外国生活の記録ともいえるもので、本人の言うとおり、アメリカ滞在の最初の二年間をカバーしている「やがて哀しき外国語」の続編のようなものである。外国生活の記録であるから紀行文と言えなくもないが、普通の紀行文とは大分趣が違って身辺雑記のような印象も与える。中途半端といえば中途半端だが、ユニークと言えばユニークとも言える。

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