日本文学覚書

村上春樹はヨーロッパ滞在中の1988年にギリシャのアトス半島とトルコにショート・トリップを行った。いつもと違って細君を同行せず、かわってカメラマンと編集者を同行した。村上は詳しく語っていないが、このショート・トリップは出版社の企画に乗る形で、ロハで旅を楽しんだのだと思う。だがそれにしては、ハードな体験になったようだ。彼はそのハードな体験を一冊の紀行文にまとめた。「雨天炎天」がそれである。

村上春樹は1986年の秋から89年の秋までの三年間ヨーロッパで過ごした。「遠い太鼓」はその間の生活記録である。この三年間村上はしょっちゅう小さな旅行を繰り返していたこともあって、外国での生活記録というよりも、紀行文のような体裁を呈している。本人もこれはヨーロッパ旅行中の紀行だというようなことを言っている。彼ははじめから紀行を発表するつもりで、この長期の旅行に臨んだようなのだ。

村上春樹のエッセー集「村上朝日堂はいほー!」は、「ハイファッション」という女性向けのファッション誌に、1983年から5年にわたって連載したエッセーを集めたものだ。村上はほぼ同じような時期に別の女性ファッション誌にエッセーを連載している(のちに「ランゲルハンス島の午後」となる)ので、ファッション業界から人気があるのかもしれない。といってもエッセーの内容は、ファッションとはほとんど関係なく、村上自身の身辺雑記とでもいうようなものである。題名の「村上朝日堂」は、この時期の村上のエッセー集によく使われたものだが、内容をわかりやすくするには、「ムラカミハルキ自分自身を語る」としたほうがよかったかもしれない。

「日出る国の工場」は、村上春樹と安西水丸のコラボレーションによる工場見学記である。例によって村上が文章を書き、安西がそれに絵を添えている。彼らが何故工場の見学記を作ろうという気になったか、詳しいことには触れていないが、そのきっかけの一端のようなものを村上が書いている。それによれば村上は、子どもの頃学校の遠足で工場見学をした記憶がなつかしくて、大人になってからもそのなつかしさに心ひかれて、工場を訪ねる気になったらしい。安西のほうは、それにお付き合いをしたということか。

「夢で会いましょう」は、村上春樹と糸井重里のコラボレーションである。村上が前書きを、糸井が後書きを担当している。一冊の本を読むときには後書きから読む習性を持つ筆者はまず糸井の書いた後書きを読んでみた。するとそこには、「ムラカミハルキの前書きを読んだら、すぐに私の書いたこの後書きを読むといった、そういったやさしさを私は望んでいる」と書いてあった。筆者は、ムラカミハルキの前書きよりも、糸井の後書きから先に読んだわけだから、糸井にとっては十分にやさしい読者であるわけだ。

エッセー集「ランゲルハンス島の午後」は、1984年6月から二年間にわたって、女性向けファッション雑誌「CLASSY」に連載したエッセーを集めたものだ。もともとは「村上朝日堂画報」と題していたが、単行本にするにあたり、このような題名に改めたという。題名は収録エッセーのタイトルからとったもので、エッセー集全体の特徴等はとくに意識していないようだ。

「村上朝日堂の逆襲」は、1985年4月から一年間にわたり「週刊朝日」に連載されたエッセーを集めたものだ。前作の「村上朝日堂」が「日刊アルバイトニュース」というやや特殊な媒体に連載されたのに対し、これはメジャーな週刊誌に連載されたということもあって、文章もやや長め(原稿用紙七枚程度)だし、一文づつの完成度も高いが、書かれている内容はそう違わない。あいかわらず村上の個人的な関心事を中心に回っていると言った感じである。

「村上朝日堂」は、村上春樹の最初のエッセー集である。エッセーというより雑文と言ったほうがよいかもしれぬこれらの文章を村上は、「日刊アルバイトニュース」という情報誌に一年以上にわたって連載した。自分にとって最初になるエッセーの連載を何故情報誌に載せたのか、村上は明言していないのだが、媒体がエッセーを読むことを目的とした人々を当面の対象としていないこともあって、村上はかなり気楽に文章を書いている。

「TVピープル」に収められた六篇の短編小説は1989年の6月以降年末までの半年の間に書かれた。長編小説との関連で言うと、「ダンス・ダンス・ダンス」(1888年)と「国境の南・太陽の西」(1992年)にはさまれた比較的長いインターバルの時期であり、村上は海外で生活していた。

村上春樹の短編小説集「パン屋再襲撃」は、表題作以下六篇の短編小説を収めている。いづれも比較的まとまった分量からなり、けっこう読ませる内容だ。書かれた時期は1985年の夏以降年末までの半年足らずの短い間だ。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を書き終えた直後にあたっている。

村上春樹には、同じ一つの問題意識に従って一連の短編小説を書き、それを一冊の本にして刊行する傾向がある。「神の子供たちはみな踊る」とか「女のいない男たち」はその典型的なものだが、「回転木馬のデッドヒート」はこうした流れの仕事の嚆矢をなすものだと言えよう。

「蛍、納屋を焼く、その他の短編」に収められた五つの短編の執筆時期は、一番古いのが「納屋を焼く」(1982年11月)、一番新しいのが「三つのドイツ幻想」(1984年3月)である。「羊をめぐる冒険」(1982年10月)を書き終えて、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(1985年6月)にとりかかる以前の時期だ。村上は、長編と短編を交互に書く癖があったようで、そのサイクルから言えば、「羊」と「世界」の二つの長編の執筆時期に挟まれた中間期に書かれたということになる。

村上春樹の初期の短編小説集「カンガルー日和」は、一般書店には出回らないある小さな雑誌に連載したものを集めたものだ。村上自身がいっているように、「他人の目を気にせずに、のんびりとした気持で楽しんで」書いたとあって、読むほうも気楽でしかも楽しい気分にさせられる。

村上春樹の初期の短編小説は、これまであまり注目されることがなかったと思うが、それに一定の重要性を認め、村上小説の原像とまで言って評価しているのが加藤典洋である。彼は最近の村上春樹論「村上春樹は、むずかしい」の中で、「中国行きのスロウ・ボート」以下三点の短編小説を取り上げ、それらを短編の「初期三部作」と呼んで、「戦う小説家」としての村上の原像が現れたものと評価している。筆者が村上の初期の短編小説を読んでみようという気になったのは、半分は加藤にそそのかされてのことである。

筆者は、内田樹の書いた本はけっこう多く読んでいるほうだと思うが、そのきっかけとなったのは彼の村上春樹論「村上春樹にご用心」だった。その本の中で内田が、蓮見重彦による村上への罵倒を取り上げて、はじめから読者に読むなというのはえげつないやり方である、読んだ上で自分の言い分が正しいかどうか判断してくれというのがまともなやり方だ、と言っていたのを読んで、なかなか気の利いた批評振りだと思ったものである。

「村上はいまや文化を論じるうえでの格好の素材、持論展開のうえでの好個の話題提供者だ。そこでの彼の本質は文化象徴であり、また作品の本質は、商品である」。このように加藤典洋は言って、村上春樹の読まれ方について指摘したうえで、それらに自分の読み方を積み重ねるようにして提示する。彼の意図は、「どこに村上の文学的な達成があるのかというような基本的な議論」を提供することにあるらしいが、どうもこの本を読んだ限りでは、加藤は村上を格好の素材として持論を展開してみせたという印象が伝わってくる。もっとも、すぐれた文学というものは様々な読み方に向かって開かれていると村上自身が言っているので、村上は加藤のそうした読み方を否定することはしないだろう。

成島柳北は晩年温泉を愛した。主な目的は気晴らしだったようだが、身体の休養あるいは持病の治療も兼ねていたようだ。彼がとくに好んだのは熱海の温泉であり、また箱根の湯であった。寒い時期には熱海に行き、夏には箱根に暑を避けるというのが彼の理想であったようだ。「熱海文藪」は、そうした柳北の温泉三昧の記録である。

成島柳北は、明治二年十月中旬から十一月下旬にかけて四十日ほど関西方面に遊んだ。徳川幕府の要職にあって、明治維新の激動を潜り抜けてきた柳北は、徳川慶喜が維新勢力に降参して恭順の意思を示すや、自分の政治的な生命の終わったことを痛感して、一切の公職を辞し、謹慎に近い状態にあった。自分自身を無用の人と称して、世の中に対して斜に構えて暮らしていた。墨堤に構えていた別荘を妻永井氏の姻族戸川成斎にゆずり、浅草の森田町に仮寓して、気楽な生活を装い、世の中の動きを注視していた。そんな折に戸川成斎から、関西に遊ぼうと誘われたのである。成斎は、備中妹尾の実家に用があって赴くので、柳北にも誘いをかけたのであった。かねて関西方面に遊んでみたいと思っていた柳北は、この誘いを渡しに舟とばかり、一緒に行くことにした。「航薇日記」一巻は、その折の日々の記録である。

戦後二五年経ってからフィリピンを訪問した大岡には、自分たち日本人に対するフィリピン人の怨恨はいまだに強いだろうと予感された。一般の日本人も、フィリピン人とは酒を飲んではいけないと、現地の大使館筋から注意されていたらしい。フィリピン人は、戦争の賠償問題が片付いて以来、表面では日本人に好意的な態度をとっていたが、「しかし酒を飲んで、長時間日本人と対面していると、怨恨の中核があばれ出す。不意に表情が変り、とめどなく怨みの言葉が吐き出される。伝聞が自分の経験として語られ、実際自分が被害者であったような気持になって来る。その結果としてとかく刃傷沙汰が起る」

昭和33年の1月に、南方で死んだ日本兵の遺骨収集船が始めて出るという話を聞いたとき、大岡昇平は大いに衝撃を受け、自分も是非同船したいと願った。その船がミンドロ島にも寄りそうだという話を聞いてからは、自分も行きたいという気持ちが抑えがたくなって、方々へ手を回しては同船できるように画策したが結局かなわなかった。大岡はその船が芝浦桟橋を出る光景をテレビニュースで見て、埠頭で遺族が泣いている光景に釣られて、自分も涙を流して泣いた。そして次のような詩ともつかない文章をつづって、自分を慰めた。

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