日本文学覚書

レイテ島には10人の報道記者が渡った。うち9人は、第一師団の輸送船に便乗して、マニラから渡ってきた者たちだった。内訳は、影山三郎(朝日)、久松亦男(毎日)、早川憲治(読売)、野口勇一(同盟)、春日武弥(同盟カメラマン)、潮田三代治(日映カメラマン)、蔡稔(潮田助手、台湾人)、橋本修一(マニラ新聞)、佐々木暉生(同盟無線オペレーター)、残りの1人は同盟セブ支局の斎藤桂助である。

レイテ島の日本兵は、対米戦のほかにフィリピン人のゲリラ部隊とも戦わねばならなかった。第16師団がレイテ島に進駐した昭和19年の春から、早速フィリピン人ゲリラ部隊との戦いが始まり、米軍が上陸して山岳地帯に向け後退した後も、不断にゲリラの攻撃に悩まされた。レイテ島のゲリラ部隊は、カングレオン大佐率いる93師団が中心で、その規模は三個連隊、1500人程度だったと大岡は推測している。一方ゲリラ側は、5000人の兵士を擁し、19年春から同年9月末までの間に、日本軍と307回交戦し、戦士3869、戦傷485、俘虜55の戦果を上げたと自慢している。対して自分側の損害は戦死36、戦傷4、俘虜22と称しているから、これは「笑うべき天文学的誇張である」と大岡も嘲笑している。

レイテ島の日本軍からは多くの遊兵が生まれた。激戦地での戦線から自分の意思で離脱したもの、怪我や病気がもとで友軍の足手まといになり切り捨てられてしまったもの、あるいは所属部隊が全滅状態になって、自分だけあるいは少数の兵が生き残ってしまい行き場を失って放浪するようになったもの、など理由は様々だったと思われる。大岡自身もミンドロ島で遊兵のような状態に陥ったのだが、それは友軍が壊滅状態になって、組織の態をなさなくなったことの結果だった。

レイテ島上日本軍の壊滅を決定的にしたのは、12月7日の米軍のオルモック湾上陸と同15日のミンドロ島上陸である。米軍のオルモック湾上陸によって、レイテ島上の日本軍は拠点を失い、全軍の司令部までが放浪するようになる。また米軍のミンドロ島上陸によって、大本営はレイテ島の放棄を決意するに至る。米軍のフィリピン攻略と日本本土攻撃が俄かに現実味を帯び、レイテ島の防衛どころではなくなったからである。

レイテ島上の地上戦を担ったのは、第14方面軍隷下の第35軍であった。第14方面軍はフィリピン全体を管轄していたが、そのうち第35軍は、ミンダナオとビサヤ諸島を担当した。レイテ決戦が軍の方針となるや、35軍の総力をレイテ島に投入し、足りないところは満州の第一師団や、ルソン島の26師団等で補ったことは先述のとおりである。

第68旅団は、満州で養成された特殊部隊で、戦闘能力も高く装備も充実していたと大岡は言っている。この旅団がレイテ島の西北端カモテス海に面したサン・イシドロに上陸したのは12月7日のこと。上陸した旅団兵力を大岡は5000とか4000とか書いているが、エピローグに載せている兵力内訳には6300とある。差し引きの数字はどうなったのか、海没したのか、明記されていない。米軍の空爆にさらされながらの上陸で、人員の揚陸だけで精一杯、武器弾薬は揚陸できず、ほとんど裸の状態での上陸だった。

第30師団及び第102師団は、いずれも第35軍指揮下の部隊として、第30師団はミンダナオ島に、第102師団はセブ、ネグロス、パラワン、パナイ、ボホール島からなるビサヤ諸島に配置されていた。この中から、第30師団から一個連隊(41連隊)が、第102師団から二個大隊がレイテ島に派遣されることとなり、10月26日から同30日にかけて、オルモックに上陸した。その直後には、第一師団がオルモックに上陸している。

第26師団は、満蒙に配置されていた独立混成第11旅団を再編して作られた。独立歩兵第11連隊、同12連隊、同13連隊を中核とし、およそ13,000人の兵力を擁していた。師団長は山県中将、山県有朋の一族である。戦いぶりに臆病なところがあるというので、死地に追いやられたのだろうと大岡は推測している。「大本営は敗北を知った軍人を内地へは帰らせないのであった」というわけである。

レイテ戦は緒戦から、地上・海上で米軍に敗退し、その後の展望には暗澹たる陰がさしていた。大岡は、これ以上の戦いは無謀であって、中止したほうがよかったとする立場に立つが、日本軍はこの無謀な戦いを継続させた。そのために、死ななくてもすんだはずの大勢の兵士たちが死ぬことになった、として大岡は日本の当時の指導者を批判するのであるが、当時の日本の軍部はレイテ決戦をゆるぎない前提として考えていたようなので、そう簡単には引き下がれなかったのだろう。いわば軍部の意地が、レイテ島の悲劇を拡大したのである。

神風特攻が始めて実施されたのはレイテ海戦たけなわの1944年10月25日である。栗田艦隊以下の日本海軍を空から援護する目的で行われた。このときの出撃で、関行男中尉が米護送空母「セイントロー」を撃沈するなど、大いに戦果を上げたため、その後日本軍は特攻重視に傾いていったわけである。その特攻の発案者や出撃を命令した連中に、大岡は厳しい目を向けているが、特攻に従事した兵士たちについては、深い尊敬の意を表している。曰く、特攻は「民族の神話として残るにふさわしい自己犠牲と勇気の珍しい例を示したのである」と。

「この戦記の対象はレイテ島の地上戦闘であるが、十月二十四日から二十六日まで、レイテ島を中心に行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけにはいかない」。大岡は、レイテ戦記の第九「海戦」の冒頭をこのように書いて、所謂比島沖海戦の模様を、かなり詳しく書いている。

レイテ島に米軍が上陸したのは昭和19年10月20日である。その時島を防衛していた日本軍は第十六師団の18600人であった。16師団はもともとルソン島の南部を担当していたが、レイテ島に米軍が上陸する可能性が高まったことを受けて、急遽レイテ島に転進したのだった。師団長の牧野四郎中将は、同年3月に着任し、同年9月には師団と共にレイテ島に移った。早速現地を視察した中将は、米軍の上陸は島東部海岸のドラグ付近だろうと予想し、そこに師団の兵力の大部分を配置した。米軍は、中将の予想通り島の東部海岸に上陸したが、まずドラグよりずっと北にあるタクロバンとパロ周辺に上陸してきた。続いてドラグにも上陸した。
大岡昇平は、「レイテ戦記」単行本あとがきの中で、この本を書こうと思い立ったのは昭和28年だったと言っている。大岡はその前に、「俘虜記」(昭和24年)と「野火」(昭和27年)を書いている。それらは、大岡自身の俘虜体験及びレイテ島における遊兵(あるいは敗残兵)の生き様を描いたもので、フィリピンにおける戦争を、いわば微視的に描いたものだった。それに対して「レイテ戦記」は、最終的に出来上がったものを見ると、レイテ戦についての包括的なクロニクルになっている。大岡は、自らも体験したフィリピン戦線での、日本兵たちの過酷な体験に巨視的な目をむけ、その体験とその意味とを、包括的・全体的に捉えようとしたのだと考えられる。

鎌田茂雄「法華経の読む」を手引きにして法華経のことを考えていたら、自然と宮沢賢治のことが思い浮かんだ。賢治は法華経に深く帰依していたことで知られている。その作品の中にも法華経の影響がこだましている。そんな法華経のこだまを、賢司の作品のなかから聞き当ててみると、どんなことになるか。そんなことをふと思ったので、その思ったことをとりあえず文章にしておきたい。もとより単なる思いつきの域を出ない。

大岡昇平の小説「野火」を、筆者は日本文学が生んだ最高傑作のひとつだと考えているが、世の受け止め方は必ずしもそうではないらしい。扱われているテーマが、人肉食いという陰惨な事柄であるためだろう。人肉を食うことは、大岡自身この小説の中で言っている通り、母親を犯すことと並んで、嫌悪の脅迫なしに想像することのできないこと、つまり人間として最もイモラルなことである。そのイモラルな行為を大岡は、異常で常軌を逸したものだと認めつつ、決してありえないことではないというような見地で描いている。どのような個人にあっても、一定の条件が重なれば、人肉を食うという選択が、無論良心の呵責を伴いながらではあるが、なされることに不思議はない。或は人は言うかもしれない。人を食って自分が生き残るよりは、自分自身を死神の手に差し出すほうがましだと。しかし、人間というものは、そんな理屈で割り切れるものではない。人を食うより以外選択の余地がない場合には、人はあっさりとその行為を選んでしまうものなのだ。こんなシニシズムがこの小説には満ち溢れている。それ故この小説は、一種の露悪趣味の小説とも言えるし、その限りにおいて、これに共感できる読者の幅を限定することにもなっている、というわけなのだろう。

大岡昇平にとって、日本の敗戦は1945年8月10日であった。この日は、日本政府が、国体の護持が保証されるならポツダム宣言を受け入れてもよいと意思表示した日であって、降伏を決定した日ではないのだが、アメリカ軍は戦地にいる日本兵の士気を弱める意図から、日本が降伏したという情報をばらまいた。大岡ら戦地の俘虜もそうした情報を聞かされたわけだ。その日を境にして、俘虜たちの意識は敗戦モードに入っていった。大岡もその一人であったから、「我々にとって日本降伏の日付は八月十五日ではなく、八月十日であった」と言うわけなのであろう。

戦場における性(セックス)といえば、強姦、慰安婦、男色ということになろうが、大岡昇平の「俘虜記」も、さらりとした筆致であるが、これらの事柄に触れている。これを読むと、大岡がこういう問題について、かなりクールな考えをしていることが透けて見える。

大岡昇平は「俘虜記」のなかで「戦友」という章を設けて、俘虜になる前に一緒に行動していた兵隊仲間のことを書いている。それを読むと大岡が、戦友の一人ひとりについてはかなり面白くない気持ちを抱いていた一方、日本軍全体の一員としての兵士については、かならずしも悪く思っていなかったという、ある意味矛盾した気持が伝わってくる。

大岡昇平は1945年1月25日にミンドロ島の山中で米兵に拘束されてから、同年11月30日頃復員船に乗り日本へ向けて出発するまでの十ヶ月あまりを米軍の俘虜として暮らした。このうち最初の二ヶ月間はミンドロ島及びレイテ島の野戦病院で戦病者として入院生活をし、後半の約八ヶ月をレイテ島の俘虜収容所で暮らした。その日々のうち、8月15日を境として、それ以前は戦争中における純然たる俘虜の身分に、それ以降は敗戦国の残兵として復員を待つ身分におかれた。大岡が戦後初めて日本の地を踏むのは12月の中旬であるが、「俘虜記」は日本へ向かう船を描写するところで終わっている。

大岡昇平は、1944年7月、35歳の時に補充兵としてフィリピンのミンドロ島に送られ、翌年の1月に米軍の捕虜になった。その後レイテ島の捕虜収容所に入れられ、そこで敗戦を迎えた。日本に復員したのはその年の12月のことである。疎開先の兵庫県に身を寄せて一段落したところで、東京に赴いて師であり友人でもある小林秀雄を訪ね、復員の挨拶をしたところ、小林から従軍記を書くように勧められた。こうした経緯を経て生まれたのが「俘虜記」である。従軍記が俘虜記になったのは、大岡の軍人としての生活よりも捕虜としての生活の方が長かったせいだ。彼にとっての戦地とは大部分が捕虜収容所だったのである。

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