瀬戸内晴美が得度して寂聴を名乗ったのは昭和四十八年(1973)満五十一歳の年であった。出家の理由は煩悩から逃れることだったと本人も語っている。彼女は多感な女であって、つねに恋をしていた。その恋が彼女にとって煩悩のたねとなり、気の休まる時もなかった。五十の坂を超えたとき、さすがに煩悩に囚われた自分があさましく思われ、濁世を捨てて出家する気になったのだと思う。
日本文学覚書
瀬戸内晴美が短編小説「蘭を焼く」を書いたのは四十七歳の時で、「墓の見える道」を書いた二か月後だった。「墓の見える道」は、基本的には、女の生理を、というか性的衝動をテーマにした作品だ。この「蘭を焼く」は、表向きは焦げた蘭の花の匂いをテーマにしているが、その匂いは女の匂いを連想させることになっているので、やはり女の生理がテーマといってよい。その匂いとは、脇の下や内股から漂ってくるとされている。どんな匂いなのか。小説では、自分の匂いが葱の匂いと似ていることを気にしている女が出てくるので、ここでいう女の匂いとは、葱によく似た匂いなのであろう。たしかに女の汗は葱の匂いがする。
瀬戸内晴美は、45歳の時に書いた「黄金の鋲」を最後に露骨な私小説を書かなくなった。だが、私小説的な感性を思わせるものはしばらく書いていた。47歳の時に書いた「墓の見える道」は、一応私小説とは異なった創作ということになっているが、語り口には私小説的な雰囲気が濃厚だし、また、テーマになった事柄も、瀬戸内自身の体験が幾分かは盛られているようである。そうした意味では、これは、私小説と純粋な創作との中間的な作品といえるのではないか。
瀬戸内晴美の私小説「黄金の鋲」は、「妬心」及び「地獄ばやし」で書いたのと全く同じ事柄を書いたものである。つまり、自分の人生を振り回し続けた年下の男との痴情がテーマである。痴情という言葉を使ったが、それ以外の言葉では言い表せないほど、これらの小説の中の女(瀬戸内自身)は、どす黒い感情に惑溺している。それはともかく瀬戸内はなぜ、その体験にかくもこだわったのか。それへの答えを瀬戸内自身この小説の中でほのめかしている。
瀬戸内晴美の長目の短編小説「地獄ばやし」は「妬心」とほとんど同じテーマを描いている。「妬心」は、瀬戸内にとって長い間の因縁にからまれた年下の男との破局を描いていたのだったが、そこで描かれたのとほとんど同じようなことが、ここでも繰り返し描かれている。分量が倍近く(原稿用紙にして75枚から125枚)になったぶんだけ、描写は詳細になったが、書かれていることは、ほとんど異ならない。瀬戸内はなぜ、このテーマにそんなに拘ったのか。
短編小説「妬心」は、平野謙がいう瀬戸内の私小説の第三部ループの嚆矢となる作品である。この第三グループというのは、瀬戸内の最初の結婚を破綻させる原因となり、その後瀬戸内が八年間変則的な同棲生活をともにした男との関係をも破綻させた年下の男との、離別をテーマにした作品群である。この年下の男に瀬戸内は深い愛着を持っており、その男の愛を失うことは耐えがたかったようだ。この小説は、その耐えがたい彼女の心を正直に告白したものだ。なにしろ瀬戸内本人が、これは自分の実人生を描いた私小説だと認めているので、この小説を読むことで読者は、単に文学的な興味を駆られるだけではなく、瀬戸内という女性のありのままの姿を垣間見たような気になるだろう。
瀬戸内晴海の短編小説「みれん」は、「夏の終わり」で始めて描かれた三角関係の終わりをテーマにした作品である。題名「みれん」からは、瀬戸内自身この三角関係に複雑な感情を抱いていることが伝わってくる。彼女は、八年間一緒に暮らしてきた男に、理性では別れなばならぬと納得しておりながら、感情ではなかなかわりきれない。むしろ強い「みれん」を感じている。頭とは全く逆のことを、下半身が迫ってくるのである。
瀬戸内晴美の短編小説「あふれるもの」は、「夏の終わり」の延長上にある私小説だ。「夏の終わり」は、八年間奇妙な同棲生活をしてきた男と、最初の結婚の破綻の原因を作った年下の男との三角関係を描いていたが、この「あふれるもの」は、その年下の男が十二年ぶりに現れ、瀬戸内が激しく恋慕の感情を抱くようになるところを描く。平野謙が言うところの、瀬戸内の私小説の第二のグループのモデルとなった事件にとって、時系列的には発端となった出来事をモチーフにしているわけである。
「夏の終わり」は、瀬戸内晴美が私小説作家として自己確立した作品である。瀬戸内は、事実上の処女作といえる「花芯」が文壇に受入れられず、文芸雑誌からも長い間締め出されていたのだったが、この小説によって、ようやく一人前の作家と認められるようになった。時に瀬戸内は、四十歳だった。
先般馬歯百歳を以て成仏した瀬戸内寂聴尼は、俗人の頃は小説家であった。本名の瀬戸内晴美名義で作家活動をしていた。「花芯」はその瀬戸内晴美の出世作となったものである。原稿用紙七十枚ほどの短編小説で、テーマは女の官能の解放であった。女の官能の解放といえば、この小説が書かれた頃は、ほとんどありえないことだったので、瀬戸内のこの作品はかなりスキャンダラスなものとして受け取られたはずだ。はずだ、というのも、瀬戸内よりはるかに後の世代に属する小生のような人間には、瀬戸内が生きた時代の社会的雰囲気がいまひとつ伝わってこないからだ。
「チビの魂」及び「のらもの」は、いずれも小林政子にインスピレーションを得て書いた短編小説である。「チビの魂」(1935)は、秋声の分身たる主人公と政子の分身たる圭子との同棲生活を描いており、それに人身売買の犠牲となった少女をからませている。「のらもの」(1937)は、政子の若いころのエピソードを描いている。こちらは、つまらぬ同棲をしたおかげで、あたら青春の貴重な時期を台無しにしてしまったというような苦い後悔をテーマにしている。
「町の踊り場」と「死に親しむ」は、ともに昭和八年(1933)に書かれた。どちらも秋声の日常に取材した私小説風の作品である。「町の踊り場」は、姉の危篤を受けて故郷の地方都市(金沢)に戻った日々を描き、「死に親しむ」は、友人の医師の死をテーマにしている。二つの作品には、これといった関連はないが、どちらも踊り(社交ダンス)が小道具がわりに使われている。「町の踊り場」のほうは、気晴らしにダンスホールに出かけて行って初体面の女性と踊る秋声の分身が描かれるのであるし、「死に親しむ」のほうは、主人公の「彼」とその友人の医師はダンスを介して結びついているのである。
徳田秋声のやや長目の短編小説「元の枝へ」は、いわゆる山田順子ものの嚆矢となる作品である。秋声が妻のはまを病気で失ったのは1926年1月のことであったが、山田順子は弔意を示すために秋声のもとを訪れ、そのまま家に居ついてしまった。秋声はそんな順子との同棲生活をさっそく小説の題材にしたわけである。順子との同棲自体がスキャンダラスなことであったが、それを小説のネタに使ったことで、スキャンダルはいっそうグロテスクな様相を呈した。なにせ妻が死んですぐに別の女を家に入れ、その女との間の痴情をあからさまに描いたのであるから、いくら日本が私小説天国とはいえ、あまりにもえげつないと思う人が多かったのである。
徳田秋声は非常に多産な作家で、数多くの長編小説とともに短編小説もかなり書いている。長短編を書き分ける作家には、長編小説を中心にして、一編の長編小説をかいたあとに、次の長編小説にとりかかるための息抜きのようなものとして短編小説を書くというタイプが多い。息抜きという言葉が適当でないなら、ウォーミングアップといってもよい。村上春樹などは、次の長編小説へのウォーミングアップとして短編小説を書くと言っている。
徳田秋声が小説「縮図」を都新聞に連載し始めたのは昭和十六年(1941)六月であるが、連載八十回にして情報局の介入を招いて中断、その後書き継がれることがなたったため、秋声にとっての遺作となった。秋声は1943年の11月に癌で死んだのである。介入の理由は、時節柄芸者の世界を描くのは不謹慎だというものだったが、秋声はこの小説の中で、戦争による物資欠乏で庶民の生活が苦しくなっているさまにも言及しており、そういう厭戦的な気分に権力が反応した可能性はある。秋声といえば、およそ政治とは無縁な作家と思われていたが、時代の風俗をそのままに描くという作風は、自ずから時代への批判にもつながるのであろう。
長編小説「仮装人物」は徳田秋声晩年の代表作といわれる。内容的にはほぼ完全な私小説である。秋声は、五十四歳で(1926年)妻を失った直後、作家志望のある女から接近され、以後二年間その女と付き離れつし、痴情の限りを尽くした。老年の色ボケといってよいほど、その痴情には醜悪なところがあって、世間の嘲笑を買ったくらいだった。秋声は、その痴情を包み隠さずありのままに描いている。どういうつもりでそんなことをしたのか。第三者の眼にはさまざまに異なって見えるだろうが、小生のようなものには、痴情を売り物にする秋声の情けなさが目に付く。同じく痴情を描いた作家に谷崎潤一郎があるが、谷崎の場合には、痴情を突き放して見る視点がある。それに対して秋声は、自分自身の痴情に溺れている。
徳田秋声の小説「あらくれ」は、日本の自然主義文学の最高峰とされている。そこで自然主義文学とは何かということが問題になる。文学論の常識を踏まえれば、自然主義文学とは、19世紀末にフランスで盛んになった文学運動であり、エミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンなどによって代表されるというのが定説である。そう言われても具体的なイメージが浮かび上がってこないが、ゾラやモーパンサンの小説の特徴が、同時代の人間社会を写実的に描いて点にあることからすれば、要するに写実性を重んじた文学ということのようだ。写実は人間や社会の現実に及ぶので、当然社会的な問題意識も感じさせる。
「爛」は、「新世帯」で自然主義的作風に転換した徳田秋声が、「足迹」、「黴」を経て、一つの到達点に達した作品といってよい。その文学的な成果は二つある。一つは文体の洗練、一つは描写の客観性の深化である。
長編小説「黴」は、徳田秋声の自然主義作家としての名声を確立した作品である。夏目漱石の手引きで東京朝日新聞に連載していた当時はあまり評判にはならなかったが、単行本化されるや俄然賞賛を浴びた。以後秋声は、文壇の自然主義への流れに沿って、順調な作家活動をしてゆく。
「足迹」は徳田秋声の最初の本格的長編小説である。「新世帯」とならんで、かれの自然主義的作風の最初の結実というふうに今日では評価されているが、発表当時は大した反響を呼ばなかった。後年の作品「黴」が当時隆盛をみせるようになってきた自然主義的文学の見本のようにもてはやされるにしたがい、それに先行する自然主義的作風を示したものと再認識されたのである。
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