日本文学覚書

徳田秋声のやや長目の短編小説「元の枝へ」は、いわゆる山田順子ものの嚆矢となる作品である。秋声が妻のはまを病気で失ったのは1926年1月のことであったが、山田順子は弔意を示すために秋声のもとを訪れ、そのまま家に居ついてしまった。秋声はそんな順子との同棲生活をさっそく小説の題材にしたわけである。順子との同棲自体がスキャンダラスなことであったが、それを小説のネタに使ったことで、スキャンダルはいっそうグロテスクな様相を呈した。なにせ妻が死んですぐに別の女を家に入れ、その女との間の痴情をあからさまに描いたのであるから、いくら日本が私小説天国とはいえ、あまりにもえげつないと思う人が多かったのである。

徳田秋声は非常に多産な作家で、数多くの長編小説とともに短編小説もかなり書いている。長短編を書き分ける作家には、長編小説を中心にして、一編の長編小説をかいたあとに、次の長編小説にとりかかるための息抜きのようなものとして短編小説を書くというタイプが多い。息抜きという言葉が適当でないなら、ウォーミングアップといってもよい。村上春樹などは、次の長編小説へのウォーミングアップとして短編小説を書くと言っている。

徳田秋声が小説「縮図」を都新聞に連載し始めたのは昭和十六年(1941)六月であるが、連載八十回にして情報局の介入を招いて中断、その後書き継がれることがなたったため、秋声にとっての遺作となった。秋声は1943年の11月に癌で死んだのである。介入の理由は、時節柄芸者の世界を描くのは不謹慎だというものだったが、秋声はこの小説の中で、戦争による物資欠乏で庶民の生活が苦しくなっているさまにも言及しており、そういう厭戦的な気分に権力が反応した可能性はある。秋声といえば、およそ政治とは無縁な作家と思われていたが、時代の風俗をそのままに描くという作風は、自ずから時代への批判にもつながるのであろう。

長編小説「仮装人物」は徳田秋声晩年の代表作といわれる。内容的にはほぼ完全な私小説である。秋声は、五十四歳で(1926年)妻を失った直後、作家志望のある女から接近され、以後二年間その女と付き離れつし、痴情の限りを尽くした。老年の色ボケといってよいほど、その痴情には醜悪なところがあって、世間の嘲笑を買ったくらいだった。秋声は、その痴情を包み隠さずありのままに描いている。どういうつもりでそんなことをしたのか。第三者の眼にはさまざまに異なって見えるだろうが、小生のようなものには、痴情を売り物にする秋声の情けなさが目に付く。同じく痴情を描いた作家に谷崎潤一郎があるが、谷崎の場合には、痴情を突き放して見る視点がある。それに対して秋声は、自分自身の痴情に溺れている。

徳田秋声の小説「あらくれ」は、日本の自然主義文学の最高峰とされている。そこで自然主義文学とは何かということが問題になる。文学論の常識を踏まえれば、自然主義文学とは、19世紀末にフランスで盛んになった文学運動であり、エミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンなどによって代表されるというのが定説である。そう言われても具体的なイメージが浮かび上がってこないが、ゾラやモーパンサンの小説の特徴が、同時代の人間社会を写実的に描いて点にあることからすれば、要するに写実性を重んじた文学ということのようだ。写実は人間や社会の現実に及ぶので、当然社会的な問題意識も感じさせる。

「爛」は、「新世帯」で自然主義的作風に転換した徳田秋声が、「足迹」、「黴」を経て、一つの到達点に達した作品といってよい。その文学的な成果は二つある。一つは文体の洗練、一つは描写の客観性の深化である。

長編小説「黴」は、徳田秋声の自然主義作家としての名声を確立した作品である。夏目漱石の手引きで東京朝日新聞に連載していた当時はあまり評判にはならなかったが、単行本化されるや俄然賞賛を浴びた。以後秋声は、文壇の自然主義への流れに沿って、順調な作家活動をしてゆく。

「足迹」は徳田秋声の最初の本格的長編小説である。「新世帯」とならんで、かれの自然主義的作風の最初の結実というふうに今日では評価されているが、発表当時は大した反響を呼ばなかった。後年の作品「黴」が当時隆盛をみせるようになってきた自然主義的文学の見本のようにもてはやされるにしたがい、それに先行する自然主義的作風を示したものと再認識されたのである。

「新世帯(あらじょたいと読む)」は、徳田秋声が自然主義的作風を模索した作品である。かれの作風を確立したとまではいえないが、文章に余計な修飾を加えず、事実を淡々と描くところは、その後の彼の作風の原型をなしたといってよい。小説のテーマも、庶民の平凡な暮らしを、如実に描写するというもので、大袈裟な仕掛けは全くない。また、主人公の視線に沿いながら、時折心理描写を交えつつ、平凡な日常を執拗に描くところなども、いわゆる秋声風を先取りしている。

高樹のぶ子といえば、エロチックな官能小説が得意で、女流ポルノ作家の大御所といったイメージが強かったものだが、老年に近づくにしたがって、淡泊な作風に変わっていった。おそらく、女性にとって宿命的な閉経という事態が、彼女の性的な情熱をさましたからだと思われる。女性の中には、鴎外の母親のように、灰になるまで男に抱かれたいと願う色好みもいるが、たいていの女性は性について淡泊になるものらしい。高樹はしかし、それでは女として生きてきた過去がいじめになると思ったのだろう、人生最後の日々を、再び性愛をもてあそぶことによって、光り輝くものにしたいと願ったように思える。「小説伊勢物語業平」は、そんな彼女の性的なエネルギーを傾倒した作品である。この小説を書いたとき、彼女はすでに古希を大きく超えていた。灰になってもおかしくない年齢で、肉を焼く火のかわりに魂を燃え上がらせる火の情熱をもって、この作品を完成したのであろう。

高樹のぶ子の持ち味は何といっても官能的なポルノグラフィーにある。ところがその官能性は年とともに衰えるらしく、高樹の場合にも還暦を過ぎてからは、めっきり淡泊な作風に変わっていった。やはり生理的な変化が影響しているのだろう。女性には男と違って、閉経という人生のくぎり目がある。閉経を過ぎた女性は女性ホルモンの分泌が激減し、性的な興奮を感じることもなくなるという。高樹の場合には、得意の官能的な描写は自身の体験に根ざしているようだから、そうした性的な興奮がなくなると、官能的な想像力が枯渇するのは無理もない。身体の肝心な部分が乾ききっていては、濡れ場の描写にもさしつかえるということだろう。

官能的な作風で好色な読者を魅了してきた高樹のぶ子が、幻想的な作風に一転して読者を惑わせたのが「香夜」である。日常と非日常の区別がなく、現実の出来事が幻想と融和しているところは「幻想的」といえる所以だが、それにとどまらない。人間が動物に化けたり、死んだ者が生きたものを道連れにつれていくところなど、奇妙奇天烈なストーリーを含んでおり、その点では怪奇小説ともいえる。とにかく、多彩な内容を含んでいる。エンタメ作家高樹のぶ子の本領が遺憾なく発揮された作品である。

「透光の樹」は、高樹のぶ子の一連の官能小説の頂点をなすものだ。前に読んだ「蔦燃」に比べると、構成の点でも文体の点でも各段の進歩が認められる。官能的という面でも、一段の進化が見える。その進化は、高樹が人間の性愛を即物的な面に還元したことから生まれてくるようだ。この小説で描かれた男女の性愛には、精神的な要素はほとんどないに等しい。なにしろ小説の主人公である千桐という女性が、「女は思わないで感じちゃうから」と言って、女が性愛をもっぱら下半身のことがらとしてとらえているほどなのだ。そんなわけだから、この小説で描かれた男女の性愛はとことん下半身にかかわることとして割り切られている。そういう意味で、官能小説の旗手といわれる高樹のぶ子は「下半身の作家」ということができよう。

久しぶりに読んだ高樹のぶ子の小説第二冊目「蔦燃」は、まさしく小生の記憶にあった高樹らしさが現れた作品だ。高樹の高樹らしさを小生は、官能的というところに認めているので、前回読んだ出世作の「光抱く友よ」はそれに当てはまらなかったのだが、この「蔦燃はまさしく官能的な小説である。というか、その性愛の描写は、ポルノ小説といってよいほどである。小生は高樹を長い間、日本を代表する女性ポルノ作家と思ってきたのである。

小生は中年の頃に一時期、高樹のぶ子の小説にはまったことがあった。その折には、官能的なところが気に入ったように思う。男の書く官能小説は、どこか作り物という印象が付きまとうが、高樹の小説には、妙な現実感があった。その現実感とは、性の衝動を素直に表現するところから来ているように感じられたものだ。女でなければ表現できない性的な感情、それをストレートに表現するところは、男をたじたじとさせる迫力をもっている。

小生は、中年に差し掛かった頃に、高樹のぶ子を好んで読んだものだったが、それはポルノ小説としてだった。女の筆で描かれたポルノの世界は、男のそれとは全く違った官能性を感じさせる。高樹のポルノは実に生々しい官能性に充ちているのだ。

桐野夏生は、学生時代に谷崎潤一郎に挑戦して挫折したそうだ。理由は色々あったようだが、谷崎の代表作といわれるものが大阪弁を多用していたことに馴染めなかったということのようだ。大阪弁に限らず、谷崎は関西の女に東京の女にはない潤いと色気を感じたと公言している。それが東京女の自分には気に入らなかった。そんな谷崎の小説を若い桐野は、「上方女にこまされた男」の書いたものと受け取って、反発を感じたということらしい。

「白蛇経異端審問」は桐野夏生の最初のエッセー集だ。いまのところ唯一のエッセー集でもある。日記の一部やショートストーリーも収載されているので、純粋なエッセー集というわけではない。折に触れて書き散らした短文を一冊にまとめたというところだろう。だから、全体をしめるようなテーマはない。話題は多岐にわたり、とりとめがないといってもよいが、それがまた魅力と言えないこともない。

ディストピア小説には、大きく分けて二つのタイプがある。一つはオーウェルの有名な小説「1984」に代表されるもので、強大な権力による個人の抑圧が主なテーマだ。この手のディストピア小説は、わかりやすく、また現実の権力と密接に結びついているので、権力が可視的に暴力を伴うようになると、それを批判する意味合いで小説のテーマに取りあげられることが多くなる。

「路上のX」は、桐野夏生の小説世界の集大成といってよい。もっとも桐野には「日没」という作品があって、それが彼女の文学の最高の達成といえるから、集大成とはいっても、暫定的な意味合いがこもっているのは否めない。この作品は、日本社会全体をある種のディストピアと想定しているところがあるので、究極的なディストピアをテーマにした「日没」とは連続性を指摘できる。そういう意味では、「日没」に対しては前駆的な意味合いを持っているのだが、それ以前の作品全体に対しては集大成的な意味合いを持つ。言ってみれば桐野は、この小説を書くことで、それまでの自分の文学的達成に一応の区切りをしるす一方で、「日没」というあらたな文学世界へ踏み出したともいえる。桐野にとっては、色々な意味で、画期的な作品なのではないか。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ