日本文学覚書

井伏鱒二が「黒い雨」を書く気になったのは、原爆のある被災者から、日記を提供するのでぜひ是非書いてほしいと言われたのがきっかけだったと自身明かしている。だが、それ以前から、彼にはいつかこのテーマを書いてみたいという気持ちがあったはずである。広島に原爆が落とされたとき、かれは広島から100キロあまり離れた福山の山中の郷里にいた。広島の悲惨な状況は、非常に身近に感じられた。身の周りに犠牲者も多くいた。それらの人々の悲惨な運命を直に見聞すれば、作家として、これを書くことを自分の使命と感じるようになるのは自然のことである。

井伏鱒二には、大衆受けを狙った通俗的な作品もある。「駅前旅館」と題した中編物はその代表的なものだ。旅館の番頭の独白というような体裁をとっている。それも、作家に頼まれて、番頭としての自分の生きざまを語るという形である。作家がそれを頼んだのは、すでに過去のものとなりつつある番頭という職業の持つ独特の美学を記録しておきたいという考えからだということになっている。たしかに、戦後のあわただしい近代化の波を受けて、旅館経営も近代化し、徳川時代以来の番頭という身分は次第に消え去り、近代的なマネージャーなるものが、それに代わりつつあった。井伏は、そんな傾向に一抹のわびしさを感じ、番頭というものの美学的な雰囲気を多少とも記録しておきたいと思ったのであろう。当の番頭自身に語らせることで、その美学を生々しく再現しようとしたのであろう。

井伏鱒二の小説「漂民宇三郎」は、「ジョン万次郎漂流記」同様、徳川時代に起きた日本人の海洋漂流をテーマにした作品。ジョン万次郎とその仲間の漂流は幕末時代のことであり、万次郎は日本に帰還後一定の政治的役割を果たした。それに対してこの小説が取り上げた漂流は、長者丸という漁船の乗組員の漂流で、天保年間に起きたものだ。日本に帰還した乗組員が政治的な役割を果たすこともなく、一過性の事故として片づけられたようだ。しかも、「万次郎漂流記」が、一応事実を踏まえているのに対して、この小説の主人公格宇三郎は井伏の想像上の人物である。井伏は、本当は実在したのだが、ほかの乗組員が口裏を合わせて存在しないことにしたのだと書いているが、それは小説の技法上での方便であろう。

井伏鱒二は、疎開先の福山から昭和22年の夏に東京荻窪の家に戻り、本格的な執筆活動を開始する。戦後最初の傑作といえる作品は「本日休診」だろう。これは、昭和24年8月から雑誌に連載し、翌昭和25年6月に刊行された。テーマは外科医の日常である。外科医の目から見た、戦後の混乱期を生きる人々を描いている。戦後間もないこの時代は、まだ堅固な生活基盤ができていない人が多く、人々は貧しさにうちひしがれていた。医療の面でいえば、全国民を対象とした医療保険制度が確立するのは昭和58年のことであり、戦後間もないこの時代には、医療費の支払いに苦しむ人が多かった。この小説に出てくる人物には、患者として世話になったにかかわらず、治療費を踏み倒したり、治療費が支払えないことを理由に診療を中止し、そのため病状が悪化して死ぬものもある。そんな人々を相手に、主人公の外科医はなるべく金にこだわらず、人間的な良心を大事にしようとするのだ。そんなわけで、多少俗っぽい雰囲気がしないでもない。だが、井伏一流のユーモア感覚を駆使して、戦後の混乱期を生きる人々のある種のたくましさを描き出している。

井伏鱒二の小説「多甚古村」は、昭和14年に雑誌に分載したものを一冊にして同年のうちに刊行したものだ。二年前に本格的な日中戦争が始まっており、欧州では第二次大戦に向かってきな臭い空気が漂っている時期、つまり日本も世界も戦争の影に覆われている時代だ。そんな時代だから、この小説にも戦争の影がさしている。だいたい出征兵士にかかわることから始まっているのだ。だが、戦争の影はせいぜい出征兵士への言及にあらわれるくらいで、そんなに大きな影を投げかけているわけでもない。この小説は、戦前の権威主義的な日本社会における、人々の行動のパターンみたいなものに焦点をあてている。そのパターンとは、住民はなにごとにつけてもお上の指導を仰ぎ、お上のほうも良民を適切に指導するのが自分らの天職だと思っているような態度に裏付けられたものである。

「ジョン万次郎漂流記」は、昭和13年の直木賞受賞作品であり、井伏の作家としての地歩をゆるぎないものとした。この作品はもともと河出書房の「記録文学叢書」シリーズの一冊として、昭和12年に刊行され、その際には「風来漂民奇譚ジョン万次郎漂流記」というタイトルであった。井伏には、漂流民への関心があったとみえ、若い頃の作品には「無人島長平の墓」といったものがあり、また、戦後には「漂民宇三郎」のような作品を書いている。

井伏鱒二が代表作「黒い雨」を書いたのは67歳のときである。67歳といえば、作家にとっては晩年といえると思うが、井伏は95歳まで生きたから、晩年というのは早いかもしれぬ。じっさいかれは、その年になっても旺盛な創作力を発揮していたし、短編小説類にも優れたものが多い。ここでは井伏の60代半ばの短編小説二本をとりあげ、その魅力を探ってみない。取り上げるのは「無心状」と「コタツ花」である。

井伏鱒二は、随筆にも味わい深い作品がある。晩年に差し掛かるころから、自分の身辺に取材した随筆を結構書いている。ここでは、昭和36年に刊行された随筆集「昨日の会」から「猫」「琴の記」「おふくろ」を取り上げたい。

井伏鱒二は戦時中甲府や郷里の福山に疎開していたが、昭和22年に東京の自宅に戻った。その後短編小説を中心に多くの作品を発表、中編小説「本日休診」で、第一回読売文学賞(昭和25年)を受けたりしている。昭和25年は短編小説でも、底光りのするような優れた作品を発表した。ここでは、そのころの井伏鱒二の短編小説を代表する作品三篇を取り上げたい。「遥拝隊長」「かきつばた」「ワサビ盗人」である。

井伏鱒二は、昭和13年(1938)に「ジョン万次郎漂流記」で直木賞をとり、人気作家としての地歩を固めた。そのころが彼の創作活動の最初のピークであり、短編小説にもすぐれたものが多い。昭和12年には志那事変が勃発しており、日本は全面戦争へと突き進んでいく時代であるが、井伏の作品には戦争の影は全くといってよいほどない。昭和16年には陸軍に徴用され、シンガポールに赴いて、陸軍の意向をうけた活動をした。対米戦争の勃発を知ったのは、シンガポールへ向かう船の中であった。その戦争で、日本軍はシンガポールを拠点とするイギリス軍をも撃退している。そういう雰囲気にあっても、井伏の作品には戦争の影を見ることがない。

井伏鱒二は、比較的長い小説で華々しく登場したタイプの作家ではなく、短編小説をコツコツと書いているうちに、次第に評価されるようになった作家である。多産なタイプではなく、一つの作品を時間をかけて推敲するタイプだった。時間をかけているから、文章には締まりがある。だが、想像力のひらめきのようなものは感じられない。処女作の「山椒魚」はじめ、初期の作品には動物をモチーフにしたものがあり、そこに読者は意外性を感じるかもしれないが、動物はあくまでも作者である人間の視点からとらえられているので、意外性はそんなにショッキングな色彩は帯びない。変わっているといった感じを受けるのが関の山ではないか。

岩波の「同時代ライブラリー」から出ている大岡昇平の「歴史小説論」は、前半で彼自身の歴史小説論を、後半でそれの応用としての森鴎外の歴史小説批判を載せている。まとまった著作ではなく、折に触れて書いた文章をまとめたものだ。

大岡昇平が「堺港攘夷始末」を書いたのは最晩年のことであり、その完成を見ずに死んだ。もっとも書こうと思ていたことの九分ほどは書いたと思われる。書き残したのは、この事件についての大岡の総括的な批評であったようだ。大岡は本文の中でもそうした彼自身の批評を折に触れ加えているから、大岡が当初意図したこの作品の構想は、大部分果たされたといってよいのではないか。だから、この作品は一個の独立した史論として読んでよい。

森鴎外の小文「空車」は、文字通り空車について述べた感想文のようなものである。これを鴎外は「むなぐるま」と呼び、古言だという。それに対して「からぐるま」と読むのは「なつかしくない」といって、自分としては「むなぐるま」という古言をあえて使いたいという。

森鴎外が小文「歴史其儘と歴史離れ」を書いたのは大正三年の暮れの頃のことで、翌年1月1日発行の雑誌「心の花」に掲載された。時期的には「山椒大夫」の執筆直後だったようで、本文のなかで、「山椒大夫」の執筆の経緯や、どういう創作姿勢で臨んだかについて書いている。つまり「山椒大夫」をサンプルにとって、鴎外が自己の創作姿勢について語ったものといえる。

森鴎外の短編小説「高瀬舟」は、「興津弥五右衛門の遺書」に始まる鴎外晩年の一連の歴史小説と「渋江抽斎」以下の史伝三部作に挟まれた時期に書かれたものだ。その意味で過渡的な作品といってよいのだが、他の作品群と比べ、非常にユニークなものである。鴎外は一連の歴史小説において、男の意地やら女の生き方そして人間の尊い愛といったものを描き、史伝三部作においては、徳川時代末期を生きた日本人たちの生き様を微細な視点から描いた。どちらのジャンルの作品においても、人間の個人としての生き方がテーマだった。それに対して「高瀬舟」は、人間の個人としての生き方というより、個人が生きる社会のあり方への批判という面を押し出している。つまりこの小説は、鴎外としてはめずらしく、社会的な視点を強く感じさせるものだ。その社会的な視線は、社会批判となって現れたり、安楽死といった、ある種の社会問題へのこだわりとしてあらわれている。

森鴎外が短編小説「最後の一句」を書いたのは大正四年の秋。時期的には、「山椒大夫」を書いて、一息いれていた頃である。鴎外は「安井夫人」で一女性の夫や家族への献身を描き、「山椒大夫」では姉の弟への献身を描いたわけだが、この「最後の一句」のテーマも献身である。しかも、子供が親の命を救うために自分が犠牲になるところを描く。その子供は、「いち」という十六歳の少女であるから、これも「安井夫人」以来の、女性の献身をテーマにしたものの延長上にある作品といってよい。

「栗山大膳」は鴎外晩年の歴史小説のなかでは、あまり注目されなかった。非常に地味な印象だし、物語展開に劇的なところがない。小説としては中途半端だと受け取られるのも無理はない。この作品については鴎外自身「歴史其儘と歴史離れ」の中で触れており、これは「歴史其儘」を語ったものだと言っている。つまり鴎外の意識の中では、あくまでも史伝であって、小説とは思っていなかった。雑誌の編集者が独断で小説扱いしたというのである。

森鴎外の小説「堺事件」は、史実に基づいた歴史小説である。題材は、戊辰戦争の最中におきた土佐藩士によるフランス水兵殺害事件。この事件は、新政府がまだ体制を固めていない混乱期におきたもので、日本側の対応に腰の砕けたところがあって、フランス側からの抗議をそのまま聞き入れ、事件にかかわった土佐藩士たちは、弁解の機会もろくに与えられないまま、死刑にされた。ただ、打首ではなく切腹を許されたのがせめてものはなむけだった、というのが通説になっている。

瀬戸内晴美が得度して寂聴を名乗ったのは昭和四十八年(1973)満五十一歳の年であった。出家の理由は煩悩から逃れることだったと本人も語っている。彼女は多感な女であって、つねに恋をしていた。その恋が彼女にとって煩悩のたねとなり、気の休まる時もなかった。五十の坂を超えたとき、さすがに煩悩に囚われた自分があさましく思われ、濁世を捨てて出家する気になったのだと思う。

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