日本文学覚書

比島沖海戦:大岡昇平「レイテ戦記」

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「この戦記の対象はレイテ島の地上戦闘であるが、十月二十四日から二十六日まで、レイテ島を中心に行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけにはいかない」。大岡は、レイテ戦記の第九「海戦」の冒頭をこのように書いて、所謂比島沖海戦の模様を、かなり詳しく書いている。

レイテ島に米軍が上陸したのは昭和19年10月20日である。その時島を防衛していた日本軍は第十六師団の18600人であった。16師団はもともとルソン島の南部を担当していたが、レイテ島に米軍が上陸する可能性が高まったことを受けて、急遽レイテ島に転進したのだった。師団長の牧野四郎中将は、同年3月に着任し、同年9月には師団と共にレイテ島に移った。早速現地を視察した中将は、米軍の上陸は島東部海岸のドラグ付近だろうと予想し、そこに師団の兵力の大部分を配置した。米軍は、中将の予想通り島の東部海岸に上陸したが、まずドラグよりずっと北にあるタクロバンとパロ周辺に上陸してきた。続いてドラグにも上陸した。

大岡昇平「レイテ戦記」

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大岡昇平は、「レイテ戦記」単行本あとがきの中で、この本を書こうと思い立ったのは昭和28年だったと言っている。大岡はその前に、「俘虜記」(昭和24年)と「野火」(昭和27年)を書いている。それらは、大岡自身の俘虜体験及びレイテ島における遊兵(あるいは敗残兵)の生き様を描いたもので、フィリピンにおける戦争を、いわば微視的に描いたものだった。それに対して「レイテ戦記」は、最終的に出来上がったものを見ると、レイテ戦についての包括的なクロニクルになっている。大岡は、自らも体験したフィリピン戦線での、日本兵たちの過酷な体験に巨視的な目をむけ、その体験とその意味とを、包括的・全体的に捉えようとしたのだと考えられる。

宮沢賢治と法華経

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鎌田茂雄「法華経の読む」を手引きにして法華経のことを考えていたら、自然と宮沢賢治のことが思い浮かんだ。賢治は法華経に深く帰依していたことで知られている。その作品の中にも法華経の影響がこだましている。そんな法華経のこだまを、賢司の作品のなかから聞き当ててみると、どんなことになるか。そんなことをふと思ったので、その思ったことをとりあえず文章にしておきたい。もとより単なる思いつきの域を出ない。

大岡昇平「野火」

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大岡昇平の小説「野火」を、筆者は日本文学が生んだ最高傑作のひとつだと考えているが、世の受け止め方は必ずしもそうではないらしい。扱われているテーマが、人肉食いという陰惨な事柄であるためだろう。人肉を食うことは、大岡自身この小説の中で言っている通り、母親を犯すことと並んで、嫌悪の脅迫なしに想像することのできないこと、つまり人間として最もイモラルなことである。そのイモラルな行為を大岡は、異常で常軌を逸したものだと認めつつ、決してありえないことではないというような見地で描いている。どのような個人にあっても、一定の条件が重なれば、人肉を食うという選択が、無論良心の呵責を伴いながらではあるが、なされることに不思議はない。或は人は言うかもしれない。人を食って自分が生き残るよりは、自分自身を死神の手に差し出すほうがましだと。しかし、人間というものは、そんな理屈で割り切れるものではない。人を食うより以外選択の余地がない場合には、人はあっさりとその行為を選んでしまうものなのだ。こんなシニシズムがこの小説には満ち溢れている。それ故この小説は、一種の露悪趣味の小説とも言えるし、その限りにおいて、これに共感できる読者の幅を限定することにもなっている、というわけなのだろう。

敗戦と復員:大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平にとって、日本の敗戦は1945年8月10日であった。この日は、日本政府が、国体の護持が保証されるならポツダム宣言を受け入れてもよいと意思表示した日であって、降伏を決定した日ではないのだが、アメリカ軍は戦地にいる日本兵の士気を弱める意図から、日本が降伏したという情報をばらまいた。大岡ら戦地の俘虜もそうした情報を聞かされたわけだ。その日を境にして、俘虜たちの意識は敗戦モードに入っていった。大岡もその一人であったから、「我々にとって日本降伏の日付は八月十五日ではなく、八月十日であった」と言うわけなのであろう。

戦場の性:大岡昇平「俘虜記」

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戦場における性(セックス)といえば、強姦、慰安婦、男色ということになろうが、大岡昇平の「俘虜記」も、さらりとした筆致であるが、これらの事柄に触れている。これを読むと、大岡がこういう問題について、かなりクールな考えをしていることが透けて見える。

戦友:大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平は「俘虜記」のなかで「戦友」という章を設けて、俘虜になる前に一緒に行動していた兵隊仲間のことを書いている。それを読むと大岡が、戦友の一人ひとりについてはかなり面白くない気持ちを抱いていた一方、日本軍全体の一員としての兵士については、かならずしも悪く思っていなかったという、ある意味矛盾した気持が伝わってくる。

大岡昇平は1945年1月25日にミンドロ島の山中で米兵に拘束されてから、同年11月30日頃復員船に乗り日本へ向けて出発するまでの十ヶ月あまりを米軍の俘虜として暮らした。このうち最初の二ヶ月間はミンドロ島及びレイテ島の野戦病院で戦病者として入院生活をし、後半の約八ヶ月をレイテ島の俘虜収容所で暮らした。その日々のうち、8月15日を境として、それ以前は戦争中における純然たる俘虜の身分に、それ以降は敗戦国の残兵として復員を待つ身分におかれた。大岡が戦後初めて日本の地を踏むのは12月の中旬であるが、「俘虜記」は日本へ向かう船を描写するところで終わっている。

大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平は、1944年7月、35歳の時に補充兵としてフィリピンのミンドロ島に送られ、翌年の1月に米軍の捕虜になった。その後レイテ島の捕虜収容所に入れられ、そこで敗戦を迎えた。日本に復員したのはその年の12月のことである。疎開先の兵庫県に身を寄せて一段落したところで、東京に赴いて師であり友人でもある小林秀雄を訪ね、復員の挨拶をしたところ、小林から従軍記を書くように勧められた。こうした経緯を経て生まれたのが「俘虜記」である。従軍記が俘虜記になったのは、大岡の軍人としての生活よりも捕虜としての生活の方が長かったせいだ。彼にとっての戦地とは大部分が捕虜収容所だったのである。

「明暗」の書かれなかった部分

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漱石の最後の小説「明暗」は、病み上がりの津田が伊豆の温泉に湯治名目で出かけて行って、そこでかつての恋人清子と再会する場面で終っている。この小説は、先稿でも言及したように、主人公の二人の女性との関係を軸に展開していくもので、清子はその二人の女性の一人として、重要な位置づけのキャラクターだ。その重要な人物との関係がどのように展開していくか、読者としては大いに関心をそそられるところだが、その関心が盛り上がったところで、小説はいきなり中断してしまうのだ。いうまでもなく、執筆者の漱石自身が、大病に襲われて死んでしまったからだ。

漱石の女性像:「明暗」のお延

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漱石の小説に出てくる女性たちは、どちらかというと個性のない陽炎のような存在と言うイメージが強い。「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の美弥子のような、多少の個性を感じさせる女性もいないではないが、彼女らの個性も、彼女ら自らの強い意思に従って、彼女らの内部から発せられるというよりは、男の視線を通じて浮かび上がってきたような在り方としてである。どちらにしても漱石の描いた女性たちは、男にとっての従属的な存在だというイメージを拭えない。そんな中で、「明暗」のお延だけは独特の光を放っている。彼女は、男との関係で初めて女性であるのではなく、それ自身で自立した女性として描かれている。この女性は、色々な面で複雑な性格を感じさせるのだが、その複雑性は、彼女が自立している事の反映というような具合に描かれているのである。

明暗:漱石を読む

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漱石が男女の間をテーマに小説を書く時には、一人の女と二人の男の物語という体裁をとるのが常道だった。その関係は、「それから」や「門」にあっては姦通と言う形をとり、「こころ」においては友人を出し抜いての女の略奪という形をとったわけだが、いずれにしても、三角関係をテーマとしたものには違いなかった。漱石の遺作となった「明暗」も、男と女の関係を主なテーマとしているが、それ以前とは多少異なった結構になっている。この小説では、一人の男と二人の女との関係がテーマになっているのである。

漱石夫妻と「道草」

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「道草」は漱石の自伝的小説とされていることもあって、そこに描かれた主人公の健三とその細君との関係は、実際の漱石夫妻の姿をかなり反映したものと思われてきた。たしかに、小説の中の「細君」の履歴は、現実の漱石夫人鏡子のそれと殆ど同じである。高級官僚の家に生まれたこと、公教育は小学校だけであとは家庭の中で教育されたこと、その結果世間知らずで我儘な女になったらしいことなどだ。また健三が田舎に赴任している間にこの女性と見合い結婚したとなっていることは、漱石が五高の教師として熊本にいる時に鏡子と見合い結婚したことと重なるし、健三が海外留学するについて実家に妻子を預かってもらったというのも、漱石夫妻の間に実際にあったことだ。

道草:漱石を読む

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「道草」は、漱石の自伝的色彩の強い小説だという評が定着している。それにしても暗い、というのが読者一般の印象ではなかろうか。漱石自身の半生が暗かったからこんな暗い話になったのか、それとも意識的にこんな暗い話を書こうとしたのであって、自分自身の自伝的要素はそれに色を添えたに過ぎないのか、どちらにしても暗い話である。

大岡昇平の行人論

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筆者は前稿「『行人』と『心』:漱石を読む」の中で、この二つの小説がともに長い手紙で終っていることに触れ、「心」の場合にはその位置付けに必然性のようなものが見られるのに対して、「行人」の場合には、「なぜここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる」と、とまどいの気持を表明したところだが、その謎の一端を、大岡昇平が解明してくれた。

三四郎:漱石を読む

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朝日が「こころ」に続いて再連載していた「三四郎」を、筆者は「こころ」の時と同様毎日欠かさずに読み続けた。連載で読むというのは、単行本で読むのとはまた違った趣がある。普通は連載で読んだ後に、その余韻を再び味わいたくて、単行本になったものを読み返すという段取りをとるもので、一度単行本で読んだことのあるものを、再連載されたもので読み返すのはおかしなことだと思われないでもないが、やはりそこにはそれなりの趣がある。実際筆者は、毎日、初めて読む文章のように、再連載された文章を味読したものである。

漱石の権威的人間観:「行人」から

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「こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴れ馴れしい応対も出来なかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対する如く、畏まった言語をぽつぽつ使った」

「行人」と「こころ」:漱石を読む

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「行人」と「こころ」は、どちらも長い手紙で終っているところが共通している。「行人」の場合には、語り手からその兄の言動を観察して欲しいと依頼された人物が、自分の観察したところを、依頼主である語り手に手紙と言う形でつぶさに報告するということになっており、一方「こころ」の場合では、自殺を決意した「先生」が、自分の半生について語り手たる「わたし」に語って聞かせるということになっている。

行人:漱石を読む

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「行人」はいろいろなエピソードが盛られているので賑やかな結構の小説のようにも読めるが、枝葉を落して根幹を取り出してみると、人間の狂気についての漱石なりの考えを述べたものだというように受け取れる。その狂気は、そんなに大袈裟なものではない。一種のノイローゼ(神経症)ともいえるようなものだ。そういうノイローゼなら、漱石自身が自ら体験したこともあったのだろうと思われる。これは憶測だが、「行人」とは漱石自身のノイローゼ体験を描いたものなのではないか。

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