日本文学覚書

「寡黙な死骸 みだらな弔い」は、十一の小話からなる連作短編小説集である。それぞれの小話は何らかの形でつながっている。時間的な連続関係であったり、時空は異にしているが何らかの小道具が共通する形で出てきたり、あるいは同じパターンの人間的な触れ合いが反復されるといった具合である。タイトルにあるとおり、死が基調低音になっている。どの小話にも死の影を認めることが出来るのだ。つまり(死というもののかもし出す)同じ雰囲気を基調低音にして、さまざまなつながり方をした小話が、それぞれ互いに響きあうように展開していく。それを読むものは、あたかも幾つかのモチーフによる変奏曲を聴かされているような気持になる。小川洋子にはもともと音楽的な雰囲気を感じさせるところがあるが、この作品はそれが非常によく現われている。

「密やかな結晶」は、人間が置かれた恐ろしい状況を描いている点では、ある種のディストピア小説といえる。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984年」とかカフカの一連の小説が思い浮かぶ。それらの小説は、異常な状況を描いているということもあって、文章も不気味な雰囲気に包まれている。読者はその不気味な文章を通じて、実際には考え難いような奇妙な状況に直面させられるのだ。

小川洋子の短編小説「夕暮れの給食室と雨のプール」は、小さな子どもを連れた男と語り手たる一女性との対話を描いた作品だ。新婚生活を目前に控えた女の前に、雨の降る日に突然あらわれたその男は、語り手に向って、「あなたは、難儀に苦しんでいらっしゃいませんか」と言った。それを聞いた語り手は、その男が「ある種の宗教勧誘員であることに気づいた。その手の訪問者はしばしば悪天候の日を選び、しかも幼児を連れてやってきては、わたしをどきまぎさせるのだ」

ドミトリイというから小生はロシア語の男性名かと思ってしまったのだが、そうではなくて、学生寮のことだった。それならドーミトリイと一文字足してくれればすぐにわかったものを。それはともかくこの小説は、その学生寮を舞台にしたものだ。学生寮というより、その寮の経営者と小説の語り手たるある女性の触れ合いがテーマである。その触れ合いを、女性らしい繊細な文章で語っているのである。

妊娠という事象は、人間に限らずすべての生き物にとって根本的な事柄であるし、これほど生きることの意義をあからさまに突きつけてくるものはない。言ってみれば、生き物が生き物である証のようなものだ。それは人間にとってもかわらない。人間の男女は自然に惹きつけあうが、それは始めは恋愛感情の湧出という形をとり、やがて妊娠という事象にいきつく。その割りに妊娠が文学のテーマになることは少ない。ほとんどないと言ってよいのではないか。文学は、妊娠の手前の性愛の段階で止まってしまっていて、妊娠までは勢力が向かないらしい。

「百年の散歩」を読み出したとき、小生はこれを、都市歩きをテーマにしたルポルタージュのようなものとして受け取った。多和田葉子はベルリン在住の日本人作家だから、そのような資格において、日本人の読者のためにベルリンの街角を紹介しているのだろうと受け取ることができる。じっさいこの作品は、ベルリンについての洒落た案内になっているのである。小生は、一度だけベルリンに旅したことがあり、その折にはミッテ地区のアレクサンダー広場近くのアパルトメントに泊り、ローザ・ルクセンブルグ通りやケーテ・コルヴィッツ広場などを散策したものだ。この本にもそういった場所が出てきて、小生は自分の体験と重ね合わせながら、懐かしい気持で読んだ。しかしこの本は、ベルリンに行ったことがない人でも、読んで面白いものを持っている。

「献燈使」は、近未来におけるディストピアを描いた小説だ。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984」が反射的に思い浮かぶ。そのオーウェルのディストピアは、専制権力による野蛮な支配がテーマだった。そんなディストピアなら、我々の周辺にいつ出現してもおかしくない。それだけに妙な切実感を以て迫ってくるところがある。人類規模のベストセラーになった所以だと思う。それに対して多和田洋子のディストピアは、政治的な要因で生じた世界ではなく、地球の物理的な破壊によって生じたようである。その破壊はどうやら原発事故によるものらしい。その結果、世界中の国々は互いに国境を閉ざしてしまったし、国内においても、都道府県相互の往来はタブーになってしまった。そればかりではない。人間の健康に重大な変質が起こった。老人たちは死ぬことができなくなって、いつまでも若者扱いされる一方、若い人たちは虚弱体質になって、元気な老人の介護なしでは暮らしていけなくなった。そういう倒錯した世界を、多和田のディストピア小説「献燈使」は描いている。

多和田葉子は、22歳の時にドイツに移住して以来、ドイツ語を日常的に話す一方、日本人とも話し続けてきたわけで、要するにバイリンガルな生活を送ってきたわけだ。おそらくそのためだろう、言葉というものに常に自覚的だったようだ。そんな彼女が、「日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分を観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした」のが、この「言葉と歩く日本語」という本である。タイトルからは、主に日本語を論じているように伝わって来るが、それはドイツ語と比較したうえでの日本語なので、当然ドイツ語についても語っているわけである。

「雲をつかむ話」は、多和田葉子の小説としては比較的骨格のはっきりした作品だ。多和田の小説は大部分が半分以上エッセーの要素からなっていて、筋書きには乏しい。ほとんどないに等しい場合が多い。語り手が様々な土地を移動しながら、行った先で様々な人と出会い、それらの人達との間で会話を交したり、それらの会話を通じて語り手の感性がエッセーという形で表出されたり、といったものがほとんどだ。ところがこの「雲をつかむ話」は、一応筋書きらしいものがあるし、登場人物にもはっきりした輪郭を持った人物が出てくる。そしてそれらの人物たちが互いに深く結びついている。他の小説のように、互いに何の関係もない人たちが、漫然と入れ替わりながら過ぎていくというのではなく、互いに響きあっているのだ。

「雪の練習生」は、ホッキョクグマによる語りという体裁をとっている。語っているのは、親子三代にわたるホッキョクグマたちだ。最初は祖母が語り、ついでその子が語り、最後に孫が語るという構成に、基本的にはなっている。基本的にはというわけは、子のパートにおいては、語り手が分裂しているからだ。まずウルズラという名の人間の女性が、サーカスの相棒であるホッキョクグマのことを語り、ついでそのホッキョクグマがウルズラと自分のことを語るというふうになっている。しかもそのトスカという名のホッキョクグマは、自己同一性を保った存在ではなく、途中で生まれ変わったということになっている。

尼僧というと、小生などは修道院で禁欲的に暮す女性を思い浮かべ、したがってカトリックと結び付けてしまう。じっさいそのとおりらしく、プロテスタントには原則として修道院はないそうだ。原則として、というのは、例外もあるということで、この小説が描いているのは、そうした例外的な修道院で暮す尼僧たちの生き方なのである。ドイツでは、ルソーが宗教改革を起したとき、カトリック教会を攻撃したが、修道院をあえてつぶそうとはしなかった。それで一部の修道院が生き残り、そこに生きていた尼僧たちも生活拠点を失わないでもすんだという。この小説が描いているのは、そんな古い修道院に暮す尼僧たちなのである。

「ボルドーの義兄」は小説とエッセーの中間のような作品だ。中間という言葉は相応しくないかもしれない。中間というと、純粋な小説でもなくまた純粋なエッセーでもなく、両者の谷間のようなイメージがあるが、この作品は小説の要素も持っているし、エッセーの要素も持っている。だからその両者の中間と言うよりは、合成と言ったほうがよいようだ。合成ということになれば、小説的エッセーあるいはエッセー的小説といったほうが実情に合っている。

エクソフォニーという言葉は、母語の外へ出た状態一般をさすのだそうだ。だから移民として外国へ出た人とか、移民という範疇ではなく単に母国を離れて外国で暮らしている人の状態も含まれる。今の世界ではそういう人達の割合が増えてきて、そこから文化的に面白い現象が起きているということらしい。多和田葉子がこの言葉にこだわるわけは、彼女自身エクソフォニーの状態に自分自身を置いているからであろう。自分自身を置いているというのは、自分の決断にもとづいて自分をそのような状態に置いているという意味で、したがって自覚的な姿勢を感じさせる。

多和田葉子は都市めぐりが好きなようで、しかも世界中を股にかけて歩いているようだ。「百年の散歩」はそうした自分の趣味をエッセーふうにしたものだが、「容疑者の夜行列車」は小説の形で都市めぐりの醍醐味を楽しんでいる。タイトルにあるとおり、夜行列車で都市間の移動をしているのだが、そのタイトルに同じように含まれている「容疑者」という言葉が何を意味するのかよくわからない。この小説に出てくるのは容疑者ではなく、「あなた」と呼ばれる人なのだ。その「あなた」とは語り手の呼びかけの対象でもあり、また小説の主人公でもある。普通小説の主人公は三人称で呼ばれるか、それとも語り手自身であるか、そのどちらかなのだが、この小説の場合には二人称の「あなた」で呼ばれるのである。あまり例がないのではないか。

において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、頭、見せ者にされて、である、攻撃の武器、あるいは、その先端、喉に刺さったまま、あるいは、

「犬婿入り」は、芥川賞をとって多和田葉子の名を一躍有名にした作品ということらしい。それなりに強いインパクトを日本の文学界に与えたようだ。小生が読んでみての印象は、言葉の使い方が非常にユニークだということだ。谷崎のもっともユニークな小説「卍」の語り口を連想させる、非情に息の長い文章からなっている。句点(。)が少なく、長々とした文章が続く。谷崎ほど長くはないのは、さすがに今日の読者には重すぎるためだろう。谷崎は、その息の長い文章を、源氏物語を読むことで身につけたようだが、多和田の場合にも、源氏物語の影響が指摘できるのだろうか。

多和田葉子は、日本の大学を卒業後ドイツのハンブルグで就職し、以来ドイツで暮らして来たそうだ。要するに移民のようなものだろう。ドイツは他の国に先駆けて多くの移民を受け入れてきた。特にトルコからの移民が多かったようだ。それらの移民は、ドイツ社会の中で、ドイツ人がやりたがらない仕事に従事し、ドイツ人社会からは疎外されがちなところがある。トルコ系のドイツ人ファティ・アキンの映画を見ると、そうした陰湿な差別が如実に描かれていて、憂鬱な気分にさせられる。

「三人関係」は多和田葉子の第二作。デビュー作の「かかとを失くして」と比較すると趣向の違いを感じさせる。まず文体があっさりとした感じになった。「かかと」のほうは、谷崎の饒舌体を思わせるような、息の長いねっとりとした文体で書かれていたのに対して、こちらはどういうこともない普通の文章である。その普通の文体で、かなり現実離れした話が展開していくので、読んでいる方としては、からかわれているような気分にさせられる。不思議な小説である。

「かかとを失くして」は、日本の文学空間においては、ちょっとしたセンセーションだったようだ。村上春樹が「風の歌を聞け」でデビューして以来のことではなかったか。村上の場合には、自分自身に起きて欲しいが、色々な都合を考えればそうもいかないようなことを、いわゆる飛んでる文体でさらりと描いたものだが、多和田の場合には、自分には決して起きて欲しくないが、しかしなんとなく巻き込まれそうなことを、かなり浮世離れした文体で、ねっちりと描き出した。そこが当時の日本人にはセンセーショナルだったのではないか。

多和田葉子はノーベル賞に最も近い日本人作家だそうだ。その理由はおそらく、21世紀の国際社会の現実をもっとも色濃く体現しているということにあろう。20世紀が国家間の戦争に明け暮れた世紀とすれば、21世紀は、人々が国境を超えて歩き回るような、いわゆるグローバル化された世界である。グローバル化された世界は、究極的には個人の背景にある国境というものを無化する方向に働くと思うのだが、いまはそのグローバル化が始まったばかりなので、個人はまだ国籍を背負った状態で、互いに接しなければならないような状態にある。そうした中途半端なグローバル化の状態を、多和田は典型的な形で表現しているのである。

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