小説「水死」のメーンテーマは、父親の水死をめぐる語り手たる作家の探求であるが、それと並行する形で、若い演劇者たちの活動がある。その中でも「うないこ」と呼ばれる女性が、大きな意義を持たされている。この女性は冒頭の部分で現われ、以後語り手たる作家のまわりに居続けたあげく、小説の最後の部分では、意外な役割を果たすのである。その役割というのは、世界中の読者に向って、日本がいかに強姦者にとって都合のよい社会であるかということを、身を以て訴えることなのである。つまり自分自身が強姦されるという形で。
日本文学覚書
大江健三郎の小説世界は、四国の山の中に伝わる伝説を中心にして、いくつかのテーマをめぐって展開するのだが、そうしたテーマの一つに、父親の不可解な死というものがある。そのテーマを大江は、「みずから我が涙をぬぐい給う日」の中で初めて取り上げたのだったが、最晩年の小説「水死」は、それを新たな視点から本格的に展開して見せたのであった。
大江健三郎が、エドガー・ポーの詩「アナベル・リー」を自分の小説の中に取り込んだのは、小説の語り手つまり大江自身が、この詩に特別の思い入れを持っていたからというふうに書かれているが、またこの詩のイメージが、少女への偏愛というかロリータ・コンプレックスのようなものを、多少とも感じさせるからであろう。というのも、この小説の女性主人公であるサクラさんは、あるGIによって変態的な愛情を注がれていたのであるが、その愛情の注ぎ方がロリータ・コンプレックスを感じさせる一方、エドガー・ポーのアナベル・リーへの愛を感じさせないでもないからだ。
「美しいアナベル・リイ」というタイトルは、エドガー・ポーの詩「アナベル・リイ」からとったものだ。大江は当初この小説に「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」というタイトルをつけたのだったが、後に文庫化する際に「美しいアナベル・リイ」に替えた。「臈たし」云々は、日夏耿之介の訳語だが、いかにも時代がかっていて、今の日本には場違いと思ったのだろう。
大江健三郎には、自分は戦後民主主義の担い手だという自覚があって、民主主義がきらいな人たちを嫌悪していた。そうした嫌悪は、たとえば石原慎太郎のような反民主主義的な国家主義者を「あし(悪)はら」と呼んだり、江藤淳を「う(迂)とう」と呼んだりするところにあらわれている。ところが三島由紀夫に対しては、無論基本的には嫌悪しているようだが、評価しているところもある。その評価の部分を含めた自分の三島評を、大江は「さようなら、私の本よ!」の中で、披露している。
大江健三郎といえば、初期の短編小説以来、暴力とセックスに大きくこだわってきた作家だ。代表作である「万延元年のフットボール」や「同時代ゲーム」は、この二つの要素が見事に融合して、たぐいまれな世界を現出させていたものだ。ところが、彼自身が「レイトワーク」と呼ぶ晩年の連作「おかしな二人組」シリーズになると、暴力はともかく、セックス描写がほとんど、あるいは全くなくなる。二作目の「憂い顔の天使」では、ついでのようにセックスが言及されることはあっても、正面から描かれることはないし、「さようなら、私の本よ!」では、セックスという言葉も出てこない。セックスレス化が進んでいるのである。
大江健三郎は、小説「さようなら、私の本よ!」を、「取り替え子」及び「憂い顔の童子」と併せて、「おかしな二人組」三部作と自ら呼んでいる。いずれにもおかしな二人組が出て来るということらしい。たしかに第一作目の「取り替え子」については、大江の分身というべき古義人と伊丹十三をモデルにした塙吾良が二人組、それもかなりおかしな二人組を作っているとわかる。ところが二作目の「憂い顔の童子」は、誰と誰がおかしな二人組なのか、よく見えてこない。この小説で古義人と最も親密にかかわるのはニューヨーク出身の女性研究者ローズさんなのだが、そのローズさんは、古義人とセックスするわけでもなく、また古義人の求愛を拒んだりして、どうも二人組として一体的に見えるようにはなっていない。その反省があったのかもしれない。三作目の「さようなら、わたしの本よ!」では、おかしな二人組が極端といってよいほど、可視化されているのである。
自伝的対談「大江健三郎、作家自身を語る」の中で大江は、「さようなら、私の本よ」を、自分の作家活動の一つの頂点をなす作品だと言ったが、それはかれの作家活動の総仕上げだというような意味に聞こえた。この小説を書きあげた時、大江は七十歳になっていたわけで、おそらく自分の作家人生最後の小説になると考えたのではないか。これが最後の小説としての本になるだろうという予感が、「さようなら、私の本よ!」という題名に込められていたのではないか。実際には大江は、七十歳を過ぎても二本の長編小説を書いたので、これが最後の小説にはならなかったが、そこにはかれの作家活動を最終的に締めくくるというような気迫がこもっているように思える。
前稿で、大江の小説「憂い顔の童子」は「ドン・キホーテ」のパロディだといい、大江の分身たる古義人こそドン・キホーテその人だと書いたが、ここではこの小説と「ドン・キホーテ」との関係をもう少し見てみたいと思う。とにかくこの小説は、「わしは自分が何者であるか、よく存じておる、とドン・キホーテが答えた」という、「ドン・キホーテ」の中の文章をエピグラフにしているのであるし、単行本の装丁には、ロバを抱きしめるサンチョ・パンサを描いた、ドレの有名な版画をあしらっているほど、「ドン・キホーテ」にこだわっている。だからそのこだわりに応えて、もうすこし「ドン・キホーテ」に執着してみようというのである。
大江健三郎の小説には、「個人的な体験」以来、主人公をあたたかく包み込んでくれる女性が登場するというのがひとつのパターンになっていたが、この小説「憂い顔の童子」では、白人女性がそのようなものとして出て来る。ローズさんだ。彼女は、妻がベルリンへ単身出かけて長期不在の間、古義人とともに四国の山の中の小屋で共同生活をするのだ。古義人とその障害のある息子のために、食事を始め日常の世話までするので、主婦=妻の役を果たしているといってもよい。もっともセックスはしない。少なくとも小説の文面からは、セックスをしている様子はない。セックス抜きで疑似夫婦関係を続けているのである。小説にセックスを持ち込むのが好きな大江がなぜ、セックス抜きで男女関係を描こうとしたのか、多少興味をそそられるところである。
大江は1960年安保を前に「若い日本の会」というものにかかわった。その会には石原慎太郎とか黛敏郎のような民族派の右翼もいたが、おおむねリベラルな人間が集まっていたといってよい。この「若い日本の会」のメンバーだった一部の連中を、大江は「憂い顔の童子」の中で取り上げて、かれらの活動をパロディ化している。大江なりの同時代批判といってよい。
「憂い顔の童子」は、「取り替え子」の続編ということになっている。この二作に「さようなら、私の本よ!」を加えたものを大江は「奇妙な二人組」シリーズと銘打っている。奇妙な二人組というのは、第一作では大江の分身古義人と伊丹十三の分身吾良の組合せだと了解されたが、第二作目はかならずしも明瞭ではない。この小説では、吾良の存在感はほとんどないし、また筋書きのうえで古義人と吾良とが切り結ぶところもない。古義人は時折吾良のことを思い出しては、自分の少年時代を回想するくらいだ。なにしろこの小説の中の古義人は、自分が生まれ育った四国の山の中で暮らしていることになっており、勢い自分の少年時代を回想するように動機づけられているといってもよいのだ。
「大江健三郎作家自身を語る」と題した本は、大江へのインタビューを編集したものである。インタビューの趣旨は、大江の作家活動五十周年を記念して、作家としての自分の人生を振り返ってもらうというもの。インタビュアーは、読売の記者で、大江のエスコート役をつとめたことがある尾崎真理子。相手が女性ということもあり、またその女性が大江の作品を広く深く読んでいるということもあって、彼女の質問に対して大江は率直に答えるばかりか、質問にないことまで饒舌に語っている。これを読むと、大江健三郎というのは、実に饒舌な作家だとの印象が伝わって来る。もっとも饒舌でなければ、作家は勤まらないのかもしれないが。
「二百年の子供」は、児童文学を意識して書いたそうだ。つまり子供を読者に想定して書いたということだが、それにしてはむつかしすぎるのではないか。この小説の文章を読みこなすには、高校生レベルの読解力が必要に思える。なかにはませた子もいるので、そういう子には読解できるだろうが、標準的な子供を前提にすれば、やはり中学生以下にはむつかしいと思える。何しろ大江は、悪文との評判があるくらいで、大の大人が読んでもわかりにくいところの多い作家だ。いわんや子供においてをや、である。
前稿で、「取り替え子」で触れられていたランボーの詩「Adieu」に拙訳を施したところ、同じ小説の中で触れられているオーデンの詩も訳す気になった。これは「Leap Before You Look」という題名の詩で、日本語では「見る前に跳べ」ということになる。この詩を大江は、勇気を鼓舞してくれるものとして引用していたのだが、他の小説のなかでも、もっと本格的な形で取り上げていた。その小説は「見る前に跳べ」というタイトルで、まさにオーデンの詩のタイトルをそのまま用いたのだった。その小説の中でのこの詩の引用のされ方は、何事も見た上でなければ、つまり安心したうえでなければ跳べない日本人の臆病さを揶揄するといったものだった。「取り替え子」のなかには、そうした揶揄の感情はない。年齢の経過が、大江に心境の変化をもたらしたのかもしれない。
大江健三郎には、小説の中で自分の愛読している詩人や小説家を取り上げ、作中人物を通じて自分なりの感想やら意見を述べる癖がある。「取り替え子」においては、オーデンとランボーが取り上げられる。オーデンについては、以前にも何度か言及したことがあり、「見る前に跳べ」という小説では、オーデンのある詩のタイトルをそのまま小説のタイトルにしたのでもあったが、ランボーを本格的に取り上げるのは、これが初めてだ。小説のモチーフが伊丹十三の生き方にあることを考慮すれば、ランボーは相応しい選択だったといえよう。ランボーのある意味ノンシャランな生き方は伊丹に通じるものがあるし、また「地獄の季節」の最後を飾る詩「Adieu」は、伊丹の死を暗示しているようにも思えるからだ。
小説のタイトル「取り替え子」には、いくつもの意味が多層的に含まれている。というか作家によって含められている。それらの意味を、読者に向かって解き明かす役目を果たすのは大江の妻の分身千樫である。三人称の形式をとっているこの小説は、出だしからずっと大江の分身古義人の立場から語って来たのだが、最後の章で俄然千樫の視点に立った書き方をする。そのことで小説に構造的な変化が生まれ、また、女性である千樫の視点から書けるという効果も生まれた。視点が多数あるというのは、小説にとっては、独特の効果を生むものだ。まして女性の視点が含まれている場合には、なおさらである。
「取り替え子」は、三人称で書かれている。大江は初期の短編以来「燃え上がる緑の木」に至るまで、基本的には一人称で書いて来た。それが断筆宣言から一転再開した「宙返り」で本格的な三人称を導入したのだったが、そうすることで物語り展開にかなりの自由度が生まれたようだ。一人称だと、どうしても狭い視点から語ることになるし、語ることにはそれなりの利点も無論あるのだが、壮大さには劣る。壮大な物語を展開するには、やはり三人称が有利だ。「取り替え子」というこの小説は、三人称の利点を最大限発揮しているといってよい。
大江健三郎が、小説の中で伊丹十三を描くのは、これが初めてではない。「なつかしい年への手紙」は、大江の自伝的な色彩が濃い作品だが、そのなかで少年時代を回想する際に、高校の同級生としての伊丹が出て来る。無論名前は変えてあるが。その伊丹は、高校生としてはませたところがあり、また独特の才能を持っていて、大江とは異なった感性を持つ人間として描かれていた。とはいっても、深く掘り下げた描写があるわけではない。思春期の真っ最中である大江少年が、まぶしい光のなかでちらっと垣間見た、才能に富んだ、生き方のうまい人間として、要するに生き方のある種の見本として、畏敬を以て描かれていたものだ。
「取り替え子」は、伊丹十三の死に触発されて書いた小説だ。伊丹は、大江の松山東高校での同級生であり、かつ妻ゆかりの兄でもあった。そんなこともあって、生涯の付き合いを持つようになったのだが、その間柄には複雑なものがあった。伊丹のほうが一つ年上ということもあって、かれらの関係は完全にフラットなものではなかったらしく、どちらかというと、伊丹のほうが大江をリードしていたようだ。大江がゆかりと結婚したいと言った時、どういうわけか伊丹は大反対したのだったが、それがどんな動機に出たものなのか、大江はずっと考え続けていた、ということがこの小説からは伝わって来る。そんなわけで、大江は伊丹について不可解な思いをいっぱい抱えていたようなのだが、それが伊丹の突然の死によって、永久に解明できなくなった。しかし伊丹は、死に先駆けて、大江に対してあるメッセージを残していた。それはある種、遺書のようなもので、それを読み解くことで大江は、伊丹と自分との関係をトータルに理解しようと努める。この小説は、そうした大江の思いを、なるべく第三者的な視点から追いかけたものである。
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