日本文学覚書

「個人的な体験」では、主人公のバードとその女友達火見子との関わり合いが大きなテーマとなっている。彼らの関係のあり方は、当初は女が男に一方的に与えるという片務的なものとして出発したが、やがては互いに求め合う双務的な関係、双務的と言って抵抗があれば、相互的な関係に発展していく。だがその関係から男のほうが一方的に脱落し、自分を男に与えていた女がひとりで取り残されるという結果に終わる。それはいわば、男から仕掛けた性交が、オルガスムの一歩手前で、その男によっていきなり中断されるような形をとる。女は男から性交を仕掛けられたにかかわらず、その男が中断してしまったために、中途半端なまま取り残される結果に終わるのだ。

小説の題名にあるこの「個人的な体験」という言葉の意味を、大江は主人公バード(鳥)の口を借りて次のように説明している。「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ・・・個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞窟をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そう言う体験はあるだろう・・・ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ」

大江健三郎は、処女作の「奇妙な仕事」以来「個人的な体験」で長編小説を書くようになるまでの間、専ら短編小説を書き続けたが、それは彼にとっては長い助走のような意味を持ったようだ。彼はこれらの短編小説で、自分の文学的な野心を試した後で、その野心を長編小説の形で展開して見せるつもりだったように思われる。もっともその野心の方向性は、それこそ大江自身の個人的な体験を通じて大分異なったものになったのではあったが。

大江健三郎は昭和三十九年の一月に短編小説「空の怪物アグイー」を発表するが、これは彼のそれまでの小説とはかなり毛色の変わったものだった。この小説は子殺しをテーマにしているのだが、その点では「芽むしり仔撃ち」と共通する点がないでもないが、「芽むしり仔撃ち」がある種の告発であるのに対して、したがって他者に向けられたものであるのに対して、この小説は大江自身への内省をもとにしたものであって、したがって自分自身に向けられたものである。彼がここで取り上げている子殺しは、自分自身が犯したかもしれない可能性をあらわしているようなのである。

大江健三郎の初期の小説世界には、暴力と並んで性が大きなテーマとして組み込まれていたが、「性的人間」は性を全面的に前景化した作品である。これ以前の小説では、性が描かれる場合でも、付随的な扱いに止まっていたのだが、とは言ってもかなりインパクトの強い扱いではあったわけだが、この小説においては、性そのものが小説の根本テーマになっている。つまりこの小説は人間にとって性とは何か、ということを正面から問題にしているのである。

大江健三郎の小説「セヴンティーン」は1960年に起きた右翼少年によるテロ事件に触発されて書いたものだ。このテロ事件は十七歳の少年山口二也が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺したというもので、その刺殺現場の様子が、当時浅沼の日比谷公会堂での演説を中継していたラヂオ番組で生々しく放送された。スケールは違うが、9.11の航空機テロの様子がテレビで実況中継されたときと同じようなショックを当時の日本人に与えたものだ。

共同生活とは人間同士の共同生活のことではない。人間と猿との共同生活、或いは猿と人間との共同生活だ。この共同生活は人間にとって快適なものではない。きわめて不愉快なのだ。しかも人間のほうではその共同生活を解消できない。それどころか、自分のすべての生活を猿たちによって支配されていると感じる。つまり彼にはいささかの自由もないのだ。彼は常に猿たちによって拘束されていると感じる。とはいっても肉体的に拘束されているわけではない。精神的に拘束されているのだ。その拘束は猿たちの視線によって行使される。人間は猿たちの視線によって拘束され、支配されているというわけである。

「不意の啞」も米兵と日本人との関わり合いをテーマにしたものだ。だが同じような他の作品と違って、この小説では日本人の米軍協力者が前面に出てくる。その日本人が米軍を体現し、米軍の権威の名のもとに日本人を抑圧するという話だ。

「戦いの今日」も、米兵に侮辱される日本人という大江にとっておなじみのテーマを描いたものである。この小説では日本人の女までが日本人に向かって侮辱の言葉を投げかけている。しかも米兵を徴発するようにだ。この女、いわゆるパンパンだが、そのパンパン女の言葉に徴発されるようにして米兵が日本人を侮辱するのだ。その他にも日本人を侮辱する米兵はいる。日本人が脱走を手助けした若い米兵で、先ほど触れたパンパン女の情夫格の男だ。この男は十九歳という若さで、まだ分別を身につけていないのだが、ちっぽけな日本人を侮辱することは知っているのである。
大江健三郎の小説の世界は死を描くことから始まった。それと同時にセックスにも拘っていた。セックスは生きていることの最大の証であり、いわば死のアンチテーゼのようなものである。事柄の多くはそれ自体としてよりも、それの対立物とのかかわりにおいて最もよくその姿を現すものである。死も例外ではない。死もやはりその対立物たる生とのかかわりにおいて、もっとも明瞭にその姿をあらわす。しかして生の豊饒さはセックスにおいてもっとも純粋に表現される。セックスと死とはだから、不可分のつながりの中にあるのだ。

大江健三郎は一部の日本人から蛇蝎の如く忌み嫌われているが、その理由がこの小説(芽むしり仔撃ち)を読むとよくわかる。大江はこの小説、それは彼の初期の代表作と言ってよいが、その小説の中で、今でも一部の日本人が固執している「美しい日本」神話に水を浴びせかけているのだ。大江がこの小説の中で描いている日本人は卑劣で狂暴な人間たちである。その卑劣で狂暴な人間たちが、自分たちの力を振り回して弱い者をひねりつぶす。ひねりつぶされたものたちには、抵抗するすべもない。ただ巨大な力におしつぶされ、場合によっては家畜のように屠殺されるのだ。

大江健三郎は「人間の羊」において米兵から侮辱されて泣き寝入りする惨めな日本人を描いたが、続く「見る前に飛べ」も同じようなテーマを取り上げている。この小説でもやはり、外国人であるフランス人から侮辱されて、それに対して何も言わずにすごすごと引き下がる日本人を大江は取り上げている。「人間の羊」と多少違うところは、米兵から侮辱された日本人である僕に対して、たまたま居合わせた他の日本人たちが無関心を装ったのに対して、この小説では主人公のぼくは、ひとりで孤独にその侮辱に耐えているという点だ。

「人間の羊」は米兵によって侮辱された日本人がその侮辱に反発できないで黙々と忍従するさまを描く。普通の人間なら他人に言われなく侮辱された時には強い怒りを覚えるものだし、それに対して復讐したいという気持ちを抱くのが当然だと思うのだが、この小説の主人公である「僕」は怒りよりも恐怖と自虐の感情を覚え、復讐するどころか、自分の惨めな体験を早く忘れ去りたいと思うのだ。僕がそう思うのには一定程度の根拠がある。僕を侮辱した米兵は、僕がまともに立ち向うにはあまりにも強い相手だし、しかも権力によって守られている。この小説が書かれた当時の日本は独立を回復していたといっても、日本中にはまだ占領軍の続きである駐屯兵が闊歩していて、やりたい放題のことをしていた。その駐屯米兵に対して日本側は、個人レベルでも国家レベルでも屈従するほかはなかった。米兵から見れば一日本人など家畜以下の存在だし、その日本人にとっては米兵は征服者そのものだ。彼らを相手にどうして平等な人間としての振舞いなどできるだろうか。そうしたシニカルな問題意識がこの小説を支えているように受け取られる。

「飼育」は大江健三郎の初期の代表作だ。優れた小説がそうであるように、この小説にも色々な読み方があるが、筆者は大江の戦争と死へのこだわりを主に読み取った。死へのこだわりは、処女作の「奇妙な仕事」以来の大江の文学の特徴だが、この小説ではそれを戦争とからませて展開して見せた。戦争自体が強大な死のカオスのようなものなので、それにからませるというよりは、戦争体験を通じて死の意味を実感したと言ってよいだろう。

「他人の足」は、「死者の奢り」とほぼ同時に書かれた。「死者の奢り」とその前の「奇妙な仕事」がいずれも死をテーマにしていたのに対して、この小説は死を正面から取り上げてはいない。かといって死をスルーしているわけでもない。いわば側面から取り上げている。死はこの小説においては、メインテーマではなく基調低音のような役割を果たしているのである。

大江健三郎は処女作の「奇妙な仕事」で、犬殺しを通じて死の意味について提起したが、続く「死者の奢り」においても、やはり死に向き合った。したがってこれら二つの作品は、死を通じて結びついているといえる。というか、前作で提起した死のテーマをこの作品で一段と深化させたといえよう。それは前作においては死が犬という人間にとっての他者によって体現されていたのに対し、この作品では死んでしまった人間が、その物理的なありようを通して、人間にむき出しの死を示していることにも現れている。犬の死は人間にとってはたかが象徴的な意味しか持たないが、死んだ人間はそれを見る者に向かって死とは何かと言うことを、単に概念的にだけではなく、それそこ具象的でかつ情念的な形で示すのだ。いや示すと言う言葉は適当ではない。見る者をして震撼させるのである。

「奇妙な仕事」は、大江健三郎の実質的な処女作だ。これを書いたとき大江は二十二歳で、大学在学中だった。当時の大江は、カミュやサルトルに夢中になっていたというが、この作品にはカミュばりの不条理らしさが感じられる。サルトルの実存主義文学の影響も指摘できよう。

「仮面の告白」は三島由紀夫の自伝的な作品だと言われている。たしかにこの作品には三島の実生活と深い関わりのある事柄が取り上げられている。兵役逃れと同性愛である。どちらも事実に裏打ちされているので、この作品を読んだ者は、三島が自分自身のことを語っていると思わされるだろう。その結果その読者が、三島に対してどのような感想を覚えるか。少なくとも、この小説が発表された当時には、好意的な受け止め方が多かった。兵役逃れのことはともかく、同性愛のことについては、これまでの日本の文学において取り上げられた例がほとんどなかったこともあって、なかばゲテ物趣味というか、型破りの小説として、既成の価値観が大きく揺らいでいた時代の雰囲気に乗じたということだったのかもしれない。

筒井康隆の「朝のガスパール」は、一応SF小説ということになっていて、実際「日本SF大賞」を受賞してもいるのだが、通常のSF小説とはだいぶ趣向が異なっている。たしかにシュールなテレビゲームをプロットに含んではいるが、そしてその意味ではSFと言えなくもないのだが、そればかりではなく、ほかにも様々なプロットが平行して仕組まれている。その中にはテレビゲームを楽しんでいる現実世界の人々の人間像を描いた部分もあるし、その人間像とSF部分の共通の作者としての櫟沢なる人物にかかわる話もあるし、更にこれらすべての究極の作者たる筒井康隆自身にかかわる部分もある。従ってこの小説は、単純な構成のSF小説などではなく、さまざまな物語が重層的に交差する立体的な小説といってもよく、あるいは作者が深く物語にかかわる点に着目すれば、メタ小説と言ってもよい。

永井荷風が政治とは一線を画し、政治的な発言を慎むことで非政治的な構えを貫いたことはよく知られている。それは普通の時代には、人間の生き方の一つのタイプとして軽く見られがちなところだが、荷風の場合にはそうした非政治的な構えが、戦争中には戦争への非協力としてかえって目立つようになり、荷風は戦争協力に最後まで従わなかった気骨ある作家だというふうな評価も現れた。だが、これはおそらく荷風本人にとっては、片腹痛いものであったろう。荷風はたしかに非政治的な構えを貫いたが、それはあくまでも非政治的な構えなのであって、そこに政治的な意味を読み取るのはお門違いということになろう。

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