日本史覚書

岡義武「山県有朋」

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明治の元勲のなかで山県有朋ほど人気のない者はいない。それゆえ彼の生き方や業績を肯定的に評価する研究もあまりない。そんななかで岡義武が1958年に著した「山県有朋」(岩波新書)は、山県という政治家をなるべく曇りのない眼で見つめ、その評価すべきところはきちんと評価しようという意思に貫かれている。山県有朋研究にとっては、古典的な意義をもつ本だ。

橋川文三の超国家主義論

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橋川文三の日本ファシズム論は、丸山真男同様それを超国家主義の現われと見る。それ故日本ファシズム=超国家主義と位置づける立場といってよい。丸山の場合、その超国家主義を天皇制国家原理そのものの特質とすることで、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負う」ということになってしまい、それがなぜ昭和のある特定の時代にファシズムという形をとったかについて、十分な説明になっていない、と橋川は批判する。丸山のいう超国家主義とは、せいぜい「玄洋社時代にさかのぼる日本右翼の標識であり、とくに日本の超国家主義をその時代との関連において特徴付けるものではない」というわけである。

色川大吉「自由民権」

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先日読んだ松沢裕作の「自由民権運動」と、この色川大吉の「自由民権」を読み比べると、その落差の大きさに気付かされる。松沢は、自由民権運動というのは、自由と民主主義を勝ち取る戦いだったという面が認められないわけではないが、それは運動の表面的な要素であって、その本質は維新で勝組になった勢力同士の権力闘争だったという見方をしている。板垣に象徴されるような、維新で功績をあげたにもかかわらず、権力にありつけなかった連中が、権力の分け前を求めて起こしたもの、それが自由民権運動だったとする、きわめてさめた見方をしているわけである。それに対して色川のほうは、自由民権運動は、民衆のなかから自然発生的に盛り上がってきたものであって、明治藩閥勢力の反動的で抑圧的な政策に対抗して、進歩的で民主主義的な政治を実現する為の、いわば革命的な戦いだったとするわけである。

松沢裕作「自由民権運動」

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「近代日本において『デモクラシー』の時代は、かならず戦争の後の時期にあらわれる」というテーゼが、この本の中で著者の松沢が、自由民権運動を日本史の中で位置づけるべき視点とするものだ。この視点によれば、「日露戦争で多くの国民が戦場で命を賭し、あるいは重税に耐えたことが、日露戦後、人々の政治参加への要求を引き起こした。それが『大正デモクラシー』の時代を出現させたのである。十五年戦争後のいわゆる『戦後デモクラシー』も同じ構図である。著者は、戊辰戦争も同様の効果をもったと考える。自由民権運動とは「戊辰戦後デモクラシー」なのである。

板垣退助と大隈重信は、日本の政党史の冒頭を飾る二大巨頭である。板垣は自由党の創始者として、後の政友会につながる政党の伝統を作ることに貢献し、大隈は改進党の創始者として、これは後の憲政党の流れにつながった。この二つの党は、いずれも日本のブルジョワ層の利害を代表していたといえるが、どういうわけか仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていた。だから板垣と大隈が手を結んで所謂隈板内閣を作ったことは、歴史の皮肉の一つに数えられる。しかしもともと天敵同士だったものが何時までも一緒にもつわけもなく、この隈板内閣はわずか数ヶ月の短命で終わったのだった。

伊藤博文と山縣有朋は、長州閥の巨魁として明治の政治を牽引した。服部之総は明治維新を、徳川封建体制から薩長藩閥勢力への権力の移行というふうに捉えているが、その権力に形を与え、それを強固なものに仕上げていくについて、伊藤と山縣が中心的な役割を果たしたと見ている。しかしてこの二人には、彼らの性格を反映したかのような、明確な役割分担が見られる。伊藤は新たな権力に形を与え、山縣は新たな形を与えられた権力を操縦して、藩閥政治を貫いた、というわけである。

服部が陸奥宗光を明治を代表する政治家の一人に数えたのは、陸奥自身の業績によるというよりも、原敬及び星亨という、日本の政党政治の礎を築いた人物とのつながりに注目したからであるらしい。陸奥自身の業績については、服部は、官僚としては有能だったが、政治家としては無能だったというようなことを言っている。というのも彼は、明治十一年に内乱罪で有罪判決を受けて入獄しているほど、政治音痴だったからだ。ぬかりのない政治家ならそんな目にはあわなかった、と言いたいようである。原が陸奥と初めてあったのは、陸奥が宮城監獄に入っていた明治十四年のことであった。ここで二人は意気投合したらしく、陸奥が出獄して官界に復帰するや、原は陸奥の贔屓で官界入りしている。

原敬:服部之総「明治の政治家たち」

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服部之総の「明治の政治家たち」は、原敬を中軸に据えて、何らかの程度で彼につながりのある政治家たちを取り上げている。そのメンバーは、陸奥宗光、星亨、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、山縣有朋、桂太郎、西園寺公望といった面々である。陸奥は原の庇護者として原を政治家として鍛えた人間であり、星もやはり陸奥の庇護を受け、原とは兄弟弟子の関係にあった。また、原が活躍の舞台とした政友会を実質的に立ち上げた人物である。伊藤は、長州閥のチャンピオンかつ明治の元勲というイメージが強いが、初代の政友会総裁として政党内閣をつくった人物だ。板垣はその政友会の先祖というべき自由党の党首であったし、大隈はその板垣と対立しながら、政党政治の成熟に一定の役割を果たした。山縣は長州閥の首領としての意識が強く、一貫して政党政治に敵対した。その点では原の最大の政敵であった。桂と西園寺は、政治家としてはやや小粒だが、原の目論んだ政友会と閥族による政権のたらいまわしを担った役者である。

尾藤正英「日本文化の歴史」

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著者はこの本のあとがきの中で、西尾幹二なる学者について厳しい批判を行っている。著者はこの本の中で、ある学者の作成した資料を、その人の了承を得た上で掲載したのであるが、その同じ資料を西尾幹二なる学者が自分の本の中で無断で使用したのは、「常識では考えられない」といって批判しているのである。

歴史的時代としての近代日本

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我々日本人は、自国の歴史について独特の時代区分の様式を持っている。小学校の高学年になると教えられることだが、古代から近代までの自国の歴史を、奈良時代以降、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土・桃山時代、江戸時代という具合に区分する。これは権力の所在地に従った言い方である。たとえば平安時代には平安京に権力の中心たる宮廷があり、江戸時代には江戸に権力の中心たる幕府があったということを含意している。

NHKスペシャル「沖縄戦全記録」を見た。今年が戦後70周年であり、また先の大戦最後の日米決戦となった沖縄戦からも70周年にあたるというので、特集を組んだのだろう。沖縄戦については、まだ全貌が明らかにされていないと言われるので、こうした特集番組も意義を失っていないと思う。いづれにせよ、NHKとしては久しぶりに報道のプロとしての意気ごみを感じさせた番組と言える。

昭和天皇実録が公表された。全60巻1万2千頁に及ぶ膨大な量なので、読みこなすのは大変なことだ。そこで、昭和天皇について民間の立場から研究してきて、著書も出しているノンフィクション作家の保坂正康氏が、これを読む際の視点のようなものについて、サンデー毎日(10月2日号)に乗せているので(「昭和」という時代)、とりあえずはそれを頼りに、この実録の内容について、多少のイメージを結ぼうとした次第だ。

狂気の戦場ペリリュー

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毎年8.15前後になると、アジア太平洋戦争に取材したテレビ番組が報道されてきたが、69回目の8.15を迎えた今年も、それは変わらなかった。NHKスペシャルでは、今年は「狂気の戦場ペリリュー」と題して、ペリリュー島における日米両軍の死闘について報道していた。

北朝鮮の日本人埋葬地について

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終戦時に朝鮮半島北部(いまの北朝鮮)にいた日本人で、そのまま現地で死んだ人については長い間何らの調査もできないままでいたが、今年初めて遺族の墓参が許され、調査の手がかりがつかめそうになった。そのことに関して先日NHKが報道した内容についてはこのブログでも取り上げたところである。(棄民:自力で脱出した日本人たち)

棄民:自力で脱出した日本人たち

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棄民という言葉がある。祖国によって捨てられた民という意味だ。祖国によって生活の拠り所を奪われた人々を難民と言うのに対して、棄民とは国家政策によって海外に駆り出されたまま、捨てられた人々をいう。第二次世界大戦終了時には、満州や朝鮮半島にいた多くの日本人が祖国による保護を受けられずに、現地で死んだり、ひどい目にあわされたりした。だからこの言葉は、日本の歴史の一齣を現す言葉として、作られたようなものだ。

二つの戦後・ドイツと日本

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ドイツと日本は、ともに第二次世界大戦の敗戦国として壊滅的な打撃を蒙りながら奇跡と言われるような復興を成し遂げてきた。その復興の過程には共通する面も多いが、相違する点も多い。ともあれその結果としての、両国の今日の世界における立ち位置を比べてみると、かなりな違いが認められる。その違いとはどんなもので、どんな要因によってそうなったのか。国際政治学者大嶽秀夫氏の著作「二つの戦後・ドイツと日本」は、そんな疑問に答えようとして書かれたものである。
豊下楢彦氏の「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)は「安保条約の成立」の続編的な性格をもっているが、氏がこれを書いたのは2007年前半期のことで、その背景には当時の安倍政権(第一次)が主張していた集団的自衛権というものがあった。当時の安倍首相の主張は、「集団的自衛権を行使できない日本は"禁治産者"にも比されるべき国家であり、集団的自衛権を行使できるようになって初めて、日本は日米安保条約において"双務性"を実現し、米国と対等の立場に立つことができる」というものであった。こうした主張の中にひそむ問題点を明らかにし、日本として目指すべき外交のオルタナティブを示すことが、この書物での氏の当面の目的だったというのである。

昭和天皇の政治感覚

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豊下楢彦氏は、安保条約の成立に昭和天皇が強い役割を果たしたことを強調しているが、昭和天皇はそれ以外の面でも、政治的にみて非常にきわどい言動をされていたと批判している。きわどいというのは、天皇はアジア・太平洋戦争の最高責任者として言動を慎まなければならない立場にあり、しかも新憲法によって象徴とされて後は、一切の政治的立場から中立であることを求められていたにかかわらず、極めて政治的な言動をやめなかったからだ、というのである。
現行の日米安保条約は、まがりなりにも平等な二国間の対等な軍事同盟という体裁をとっている。これが締結されたのは1960年のことだが、それは1952年に締結されていた日米安保条約(旧安保条約)を改定する形で行われたものだ。改定の際の名目は、それまで片務的だった条約の精神を、双務的なものに改めようというものだった。旧安保条約は、誰が条文を読んでも、平等な二国間の関係とはとてもいえないほど、不平等であり、日本の側から見れば屈辱的な内容のものだったわけである。では何故日本側は、そんな屈辱的な条約を結ぶに至ったのか。その謎について、国際政治学者の豊下楢彦氏が綿密な考察を加えている。(豊下楢彦「安保条約の成立」~吉田外交と天皇外交、岩波新書)

保守本流とは何か:中村政則「戦後史」

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保守本流という言葉は、いまでは殆ど使われなくなったが、一時期は、戦後自民党政治の中核的概念を指す言葉としてよく使われたものだ。果してそれがどんな内包を持っていたのか、歴史学者の中村正則は、次のように概括している。
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