日本史覚書

大川周明といえば、大アジア主義を唱導し、欧米の侵略に対抗してアジア諸国が一致団結して立ち向かい、日本はその先頭に立って、アジア諸国解放に尽力すべきと主張した、と見なされる。こういう主張はいまも、靖国神社を中心とした日本の民族主義者たちによって唱えられているが、大川はそれを、理論的に洗練した形で提起した思想家ということができる。「復興亜細亜の諸問題」は、そんな大川周明の主著というべきものだ。

大塚健洋は、大川周明に人間的な魅力を感じているらしい。大川周明は、同じファシストでも北一輝に比べればファンが少ない。いわゆる右翼の間でも大川に共感を示すのはあまりいないのではないか。そんななかで大塚は、数少ない大川ファンとして、大川をもっと公正な視点から評価し、日本の思想史に正しく位置付けたいとの思いから、この本「大川周明」(中公新書)を書いたようである。

最近、日本の右翼に関する本をぼちぼち読んでいるところ、大川周明の大アジア主義に大いに関心をひかれた。そこでそのものすばりの題名を持つこの本を読んだ次第だが、実にがっかりさせられた。がっかりというより、ひどい本もあったという、あきれた気分といったほうがよい。この本は、「大川周明の大アジア主義」という題名を掲げているにかかわらず、その題名にふさわしいような内容がないばかりか、まじめな研究というにはほど遠い、著者の自己満足のようなものだと断ぜざるをえない。

小山俊樹の著作「五・一五事件」(中公新書)は、五・一五事件を微視的に追跡したものである。一応社会的な背景や思想的な意義についての説明もあるが、それはほとんどつけたしといってよく、あくまでも事件を実行した軍人たちの動きを中心にして、事実関係を微視的に追ったものと言ってよい。したがって、歴史書としてはかなり中途半端な印象はまぬがれない。歴史の研究というより、事実の検証といったほうが当たっている。もっとも著者によれば、二・二六事件のほうは多くの研究がなされ、その全貌がかなり詳細にわたって明らかにされているのに比べ、五・一五のほうは、研究書の数も少なく、未解明な部分が多いので、事実関係を明らかにするだけでも大きな意義があるということらしい。

堀幸雄は日本の右翼研究の第一人者だそうだ。かれが編纂した「右翼辞典」は、いまでも右翼研究にとっての基礎的な情報源になっている。かれは新聞記者出身で、綿密な取材をもとに右翼の実体をわかりやすく解説してくれる。そのかれが1983年に出版した「戦後の右翼勢力」は、戦後日本の右翼の動向を知るには、もっともすぐれた案内書といえる。

安田浩一は、ノンフィクションライターとして、右翼や日本社会の闇の部分に取り組んできたようである。外国人差別問題についても精力的に取り組んできたらしい。かれの著作「『右翼』の戦後史」(講談社現代新書)は、戦後の右翼の変遷について、非常に分かりやすい俯瞰図を示してくれる。また、戦後右翼史に接続させる形で、戦前の右翼についても説明してくれる。戦前から戦後につながる日本の右翼の流れについて、この本を読めばおおよその認識が得られると思う。

鈴木邦男は、右翼としては変わり種で、いわゆる左翼の主張にも理解を示すところから、ふつうの右翼からは煙たがられているようである。だいだい、右翼の定義が曖昧なのだが、鈴木自身は一応民族主義を基本的な要件としている。その限りでは伝統的な右翼との連続性がある。だが、今日の右翼の主流は、自民党政権に迎合して、対米従属に陥っている。そこが鈴木の気に入らない。鈴木は、日本民族の自立という立場から、対米従属を否定する。だから鈴木の政治的な立場は、反米愛国ということになる。愛国とはナショナリズムと言い換えてさしつかえないので、鈴木の右翼思想は反米ナショナリズムということになる。

井出孫六は、社会派の作家として知られ、ルポルタージュ作品も多く手掛けている。なかでも有名なのは、秩父困民党にかかわる一連の業績である。連続射殺魔といわれた永山則夫に関心を示し、その作家としての活動をサポートしたりした。その井出が、中国残留邦人問題に強い関心を持ったのは、自分の出身地である信州佐久谷をはじめ、長野県の各地から満蒙開拓団が多数組織され、そのかれらが敗戦の混乱にまきこまれて、多くの子供や女性が中国に残留を余儀なくされたことへの、人間としての義憤を感じたからだということが、この本「中国残留邦人」(岩波新書)からは伝わってくる。

栗原俊雄は毎日新聞の記者だそうだ。日本現代史に強い関心があるらしく、「戦艦大和」などアジア太平洋戦争をテーマにした著作がある。ジャーナリストらしく、戦争体験者への聞き書きを中心に、戦争の実態を微視的に浮かび上がらせる手法をとっている。「シベリア抑留ー未完の悲劇」(岩波新書)と題したこの著作も、関係者へのインタビューを中心に組み立てている。当初毎日新聞に連載したものをもとに、この本を書き上げたということだ。

朴裕河は、日本では、「帝国の慰安婦」の作者として話題になった。この本を小生は読んでいないが、日本では好意的に受け取られた一方で、韓国ではすさまじいバッシングにあったようだから、おそらく、慰安婦の問題では、日本側に一定の配慮を見せつつ、韓国側に反省を迫ったものなのだろう。

大沼保昭は「アジア女性基金」に深くかかわり、慰安婦問題の解決に半生をかけて取り組んだ。もともと国際法学者の大沼がなぜここまで慰安婦問題にこだわったのか。本人の言うことによれば、かれは日本の戦争責任の問題に強い関心をもち、それが高じてさまざまの問題に実践的にかかわるようになり、とくに日本の戦争の犠牲になりひどい目にあった人々への援助を自分の使命にするようになった。かれがかかわった問題は、サハリン残留朝鮮人、朝鮮人原爆被害者また強制徴用の被害者など多岐にわたったが、その中で慰安婦問題をとくにとりあげて集中的に取り組んだのは、すべての問題を一気に解決するだけの余裕がなく、また、戦争責任の問題の中で慰安婦問題のもつ重みが特に大きいと考えたからだという。

大沼保昭は「『歴史認識』とは何か」の中で、東京裁判やそれに集約される日本の戦争責任について語っていたが、「東京裁判から戦後責任の思想へ」と題したこの著作は、これらの問題について詳細に論じたものである。いくつかの小論文を集めたものなので、重複や繰り返しが多いが、一応大沼の問題意識が出揃った本である。

大沼保昭は日本の現代史研究者で、とりわけ戦争責任について論じてきた人だという。学者としてだけではなく、従軍慰安婦問題について「アジア女性基金」の設立に深くかかわるなど、実践的な活動にも取り組んできた。その大沼に対して女性ジャーナリストの江川紹子が、聞き手としてインタビューしたものが「『歴史認識』とは何か」(中公新書)である。

姜尚中は在日韓国人二世としての立場から、朝鮮半島問題や日韓関係について発言してきた。その基本的なスタンスは、朝鮮半島の南北が平和的に統一され、その統一朝鮮と日本とが対等で互恵的な関係を結ぶべきだというものだ。「朝鮮半島と日本の未来」(集英社新書)と題したこの本も、そうした立場から書かれている。朝鮮半島における統一政権の樹立について姜はかなり楽観的であり、日本はそれに手を貸すべきだと言っている。というのも、統一された朝鮮は、日本にとってプラスの存在にはなっても、マイナスになることはないという信念があるからだろう。

「なぜ日本は<嫌われ国家>なのか」と題したこの本は、今の日本の置かれている状況を取り上げているのではなく、第二次大戦を戦った連合国から、当時の日本がどのように思われていたかを問題にしたものだ。要するに過去のことなのだが、そこで指摘されている日本のあり方は、本質的にはほとんど変わっていないので、いまでも何かをきっかけに、同じように嫌われることになるだろうという教訓のようなものを含んでいる。

天児慧は現代中国問題の専門家を自負しており、そうした観点から「中華人民共和国史」(岩波新書)を書いたりもした。その基本的な視点は、中国の体制(国家資本主義とか中国型社会主義とかいわれる)を、世界史の流れから逸脱したものであって、持続可能なものではないと見ることである。中国が今後も持続可能な成長を遂げるためには、資本主義的な要素を大胆にとりいれ、できれば日本のような資本主義社会になるべきだというわけである。天児には、日本を中国の手本として、中国は日本に習うべきだとの、かなり夜郎自大な、上から目線で中国を見下ろすところがある。

保坂正康と東郷和彦の共著「日本の領土問題」は、北方領土、竹島、尖閣についての日本の対処方針について論じたものである。東郷和彦が問題の歴史的背景とこれまでの外交の経緯を振り返りながら、日本として今後とるべき基本的な道筋を、かれなりに提起し、それを踏まえたうえで、保坂との間にディスカッションをしたという体裁をとっている。

「天皇の昭和史」(新日本新書)は、日本近代史学者の藤原彰と、かれが指導した弟子三人の共作である。弟子の中には吉田裕も含まれている。藤原は天皇制への批判とともに昭和天皇個人に対しても厳しい批判を行ったことで有名である。その藤原が中心となって、昭和の侵略戦争や戦後の日本の反動政治に昭和天皇が積極的にかかわっていたことを、詳細な資料をもとに解明している。これを読むと、昭和天皇が、普通思われているような立憲制を重んじるタイプの支配者ではなく、かなり専制的なタイプの支配者だったというふうに思わされる。いずれにしても、藤原らの昭和天皇への見方は、全否定といってよいものである。だから、日本の天皇制になにがしかの意義を認めているものにとっては、この著作は噴飯ものだろう。だが、いい加減なことが書かれているわけではない。かれらの言うことには詳細な資料の裏付けがあるので、その資料をもとに議論することが大事なことだろう。

失敗の本質

| コメント(0)
「失敗の本質」は、副題にあるとおり日本軍の組織論的研究をめざしたものだが、これが出た時にはちょっとした反響を呼んだ。それまで日本軍は負け戦の責任を一身に背負って、大多数の日本人の怨嗟の的となり、まともに相手にされることはなかった。戦争の個々の部分について肯定的な見方をするものはいたが、トータルとしては、あの戦争は負け戦を宿命づけられていたのであり、その責任のほとんどは日本軍が負うべきものとされた。そんなわけだから、日本軍はまじめな研究の対象にはならなかった。ところがこの本は、日本軍はたしかに負けたとはいえ、その行動には、半面教師的なものも含めて教訓とすべきものがないとはいえない。とりわけ企業の経営者にとっては、組織を動かしていくという視点から、学ぶべき点が多い、と主張した。それが当時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられていい気になっていた日本人に、新鮮に映ったのだろうと思う。小生自身は、これが出た時には読む気にもならなかったが、最近昭和の軍事史に興味を持つようになって、この本の存在を改めて知り、読んでみようという気になった次第だ。

中塚明は朝鮮史の専門家で、その立場から司馬遼太郎の歴史観を批判したのがこの本だ。中塚の司馬批判の要点は二つある。一つは、朝鮮は自力では近代化ができず、遅かれ早かれ外国の植民地になる運命にあった、一方日本にとって朝鮮は地政学的な価値が大きいので、それが外国とくにロシアのものになると、国防上ゆゆしきことになる。だから日本が朝鮮を領有することには合理的な理由があったとする司馬の主張への批判だ。二つ目は、明治の日本を理想化し、それを暗黒の昭和と対比させながら、明治時代は若々しくてすばらしい時代だったと称えることへの批判である。こうした司馬の歴史観を批判しながら、日本の国家としての欺瞞性をあばきだすというのがこの本の目論見である。つまりこの本は、司馬批判を通じて、近代日本そのものを批判しているわけである。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ