日本史覚書

満州に傀儡国家満州国を成立させ、満州支配の基盤を固めた日本は、ついで華北の侵略へと転じた。その突破口となったのは、熱河作戦(1933年)である。これは長城を越えて北京・天津を射程におさめた作戦だった。戦禍が北京にまで及ぶのを恐れた中国側の要望にもとづいて、塘沽協定が結ばれた。この協定で、冀東(河北省北東部)を非武装地帯とし、中国軍は駐在しないこと、また日本軍は長城線まで撤退することが定められた。これは長城線を以て日中の勢力圏の境界とするもので、日本による満州国の領有を事実上認めたものであった。それに加え日本は、長城線まで勢力圏を拡大することとなった。

日露戦争に勝利した結果、日本は満州における利権を獲得することができた。ロシアが持っていた旅順と大連の租借権のほか、満州南部の鉄道の運営権を獲得した。日本はそれらの権益を土台にして、以後本格的な満州侵略に乗り出していく。しかし台湾や朝鮮の場合とは異なり、領有あるいは併合という形はとらなかった。満州国という傀儡国家をつくり、その傀儡を通じて実質的な支配を貫徹するという方法をとった。

中国では1917年以降北京政府と広東政府が並立する状態が続いていて、全国を統一する政権は存在しなかった。北京政府が中国北部を、広東政府が中国南部をそれぞれ統治するという建前だったが、実際にはどちらも低い統治能力しか持っていなかった。北京政府のほうは、いわゆる軍閥の抗争に明け暮れ、広東政府のほうは、自立性の高い各省をまとめるだけの能力がなかった。こうした状況の中から、次第に広東政府が力をつけ、ついには北伐を経て、全国を統一する政権が誕生するのは1928年6月のことである。

中国が第一次世界大戦に参戦したのは、戦勝国となることで、列強との不平等条約を改正し、国権を回復することを期待してのことだった。特に、日本による21か条要求は全面的に撤回させたかった。ところが、中国の要求はことごとく退けられた。そのため中国はヴェルサイユ条約の締結を拒んだのだった。こうした動きは、中国国内のナショナリズムに火をつけた。その結果起きたのが5・4運動である。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。これには袁世凱の中国政府は中立の政策をとったが、日本は参戦した。根拠は日英同盟であった。日英同盟には、一方の国が他国と交戦した場合には同盟国に参戦義務を負わせる規定があった。日本はこれに基づいて参戦しようとしたのだが、イギリスは中国における日本の利権の拡大を望まず、日本の参戦には消極的だった。だが、日本が条約の規定を盾に強く参戦を望んだので、イギリスはそれを受け入れたのである。日本としては、ドイツが中国に持つ利権を横取りする絶好の機会と受け止めて、参戦したのであった。

辛亥革命の前年(1910)、日本は韓国を併合した。これは基本的には日本と韓国の問題で、清国は直接の関係はもたなかった。日清戦争の敗北を受けて、清国は従来朝鮮とのあいだで持っていた宗主権を放棄していたからである。その朝鮮は1897年に国号を大韓帝国に改めていた。これにともない従来の朝鮮王は大韓帝国皇帝となった。皇帝への変化は、清国への服属から脱して独立国になったことをアピールしていたとともに、絶対主義的な君主制の確立を目指したものであった。しかし独立の夢はかなわなかった。韓国は日本によって併合されてしまうのである。

辛亥革命は、孫文の指導のもとに計画的になされたという印象が強いが、実際には偶然によるところが多く、また強力な指導者がいたわけではない。孫文自身、辛亥革命が勃発した1911年10月10日にはアメリカのデンバーにいて、募金活動に従事していたのである、かれが革命勃発の報を聞いたのはアメリカの新聞を通じてであり、上海に戻ったのは12月下旬のことだった。

日露戦争での日本の勝利は、立憲君主制の専制君主制への勝利というふうに中国では受け取られた。というのも、ロシアが負けたのは、軍事力で劣っていたというよりは、革命に伴う内乱の勃発で、対外戦争どころではなくなったからであり、その革命を引き起こしたのは専制政治への民衆の氾濫だったからだと解釈されたからである。ロシアが内乱に陥ったのに対して、日本は国をあげて戦争に臨んだ。それは立憲制のもとで国民の政治参加の意識が高かったからだ。そのように解釈された。そこで日露戦争後の中国では、立憲君主制に向けての政治改革の動きが高まった。その際目標とされたのは日本の明治憲法体制だった。

日露戦争は、日本とロシアの戦争であり中国は中立を保ったが、影響を受けないわけにはいかなかった。領土である満州が戦場になり、戦後はその満州に日本の侵略が及んでいくのである。日本は満州を植民地化したわけではないが、実質的に統治したうえ、満州を足がかりにして華北以南にも進出していく。その挙句に全面的な日中戦争に突入する。日露戦争は、そうした日本の対中政策の転機を画したのである。

日清戦争の結果、清国は日本に台湾の領有を認めた。日本としては初めて手にする植民地であり、帝国主義列強の一員になったあかしであった。一方清国すなわち中国としては、愛琿条約と北京条約によって、満州の北半分(ヤブロノイ・スタノボイ以南及びウスリー川以東)をロシアに略奪されて以来の領土の喪失だった。その後台湾は取り戻すことは出来たが、満州の北半分はロシアに領有されたままである。

日清戦争で清国が敗北したことは、列強の清国蔑視を亢進させ、清国への侵略を加速させた。1900年をピークとする義和団事件は、列強の中国侵略を加速するうえでの口実として使われた。というのも、西太后ら清国の王室が義和団に味方して西洋諸国に敵対する行動をとったため、西洋列強は単に義和団を討伐するのみならず、義和団による混乱の責任を清国政府自体にも求め、過酷な要求をしたからである。

日清戦争で日本が勝ったことは、清国の有識者たちに深刻な影響をもたらした。かれらは伝統的に日本を二流の国として見下し、自分たちこそが世界の中心だと思い込んでいたのだが、その傲慢な考えが打ち砕かれたのである。一方、西洋列強による侵略も加速している。このままでは亡国の憂き目に見舞われないとも限らない。そんな危機感が清国の有識者たちをとらえるようになったのである。その危機感は、中国の近代化への模索をうながし、その近代化のモデルとして、日本への関心が強まっていった。

1894年から翌年にかけての日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日中間の軋轢のクライマックスともいうべきものだった。日本側では、天津条約にもとづいて朝鮮から撤兵した後も、朝鮮への影響力を高めようとさまざまな動きを見せ、また将来清国と対立することを予想して、清国に関する情報を集めていた。一方清国側には、あいかわらず大国意識が強くて、日本を対等の相手と見ず、そのおごりが禍して、日本に関する情報を集めようとする様子も見えなかった。清国のそうした驕りは、袁世凱の軍隊が日本の軍隊に勝ったことにも支えられていた。

明治維新後の日本と朝鮮との関係は、日本における征韓論の高まりという形で始まった。征韓論を主唱したのは西郷隆盛だ。かれの理屈は、表向きには、日本の開国要求に韓国が応じないので、武力で応じさせようというものだった。日本が西洋列強に対して、武力で開国させられたと同じように、日本も武力を用いて朝鮮を開国させようという理屈である。表向きにはそういう理屈だったが、本音では別の意図もあった。武士が封建的特権を次々と奪われていく趨勢を前に、武士の存在価値を高めるためには、対外的な武力行使が一番効果的だと考えたのである。

琉球王国は、徳川時代を通じて、薩摩藩の支配を受けると共に、清国にも冊封関係を通じて服属していた。したがって、明治政府としては、清国への服属を解消して、全面的に日本の支配下に置くことが課題となっていた。そんな折に、1871年に琉球人が台湾先住民によって殺害されるという事件が起きた。台湾南部に漂着した宮古島の船に向かって、現地の住民が襲撃を加え、54人が殺されたのである。

明治維新を経て成立した明治新政府は、幕末に列強との間に取り結ばされた不平等条約に悩んでいたが、清国との間では、少なくとも対等の立場から条約を結びたいと考えていた。もし可能なら、少しでも日本に有利な条件で。たとえば、西洋列強を意識して、日本にも最恵国待遇を要求するといったことである。それに対して清国側は、日本との条約締結は時代の趨勢で避けられないと認識しながら、西洋に対して行ったような譲歩をするつもりはなかった。こちらはこちらで、なるべく自国の有利になるような条約の締結を目指していた。

徳川時代を通じて日本と中国(清国)との間には正式な外交関係はなかった。徳川幕府は、中国人商人が長崎で貿易活動をするのを許してはいたが、日本人が中国に渡るのは許さなかった。そんな日本が中国と正式に向き合うのは1862年(文久二年)のことである。この年徳川幕府は千歳丸を上海に派遣し、中国側代表との接触を試み、ある程度の関係を結ぶことに成功したのである。

日本の近代は、俗に言う黒船来航から始まった。日本は海外から押し寄せてきた圧力に促されて、長い間の鎖国状態を脱し、国を世界に向かって開くと共に、近代的な国づくりに邁進して行った。それはある程度成功した。1868年の明治維新は新しい国づくりを画する出来事だったが、それからわずか30年ほどの間に、日本は近代的な国づくりの基礎を築き、世界の強国へと羽ばたいていくのである。

吉田孝は、日本の古代史が専攻だそうだ。その吉田が、「歴史の中の天皇」においては、天皇制の歴史を東アジアの政治情勢との関連で論じた。同じ岩波新書に入っている「日本の誕生」は、それより十年ほど前に書いた本だが、ここでも日本の古代史を、東アジアとの関連においてとらえている。標準的な日本の古代史は、中国をはじめ東アジアとの関連を、当然考慮に入れることはあっても、それは付随的な位置づけで、日本という国を動かしてきた要因は、主に日本内部から生じて来たと考えた。吉田はそれに対して、東アジアからの影響こそが、日本の歴史を動かしてきた主な要因だったとらえるわけである。

著者は日本の古代史が専攻だそうだ。その著者が、日本の天皇制を、古代から現代までの長い時間軸のなかで見るとともに、東アジアとのいわば国際関係のなかで位置付けようというのが、この本の基本的な視点だ。というのも、日本の天皇制とは、古代に成立して以降いくつかの大きな変換を経ており、またそれとの関連で東アジア諸国との間で強い影響を及ぼしあってきた。それらを視野に置かない限り、日本の天皇制を正しく理解できないというのが、著者の考えだ。

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