日本史覚書

広島・長崎への原爆投下は、戦争を終結させるうえで必要なことだった。もし原爆を投下しないという選択をしていたら、戦争は長引き、地上戦による多くの米兵の犠牲と膨大な数の日本人の死が避けられなかっただろう。そういう意味で、原爆投下は意義あることだった、というのが、いまのアメリカ人の最大公約数的な見解になっている。原爆投下の決断をしたトルーマンは、正しい判断をしたというわけである。

丸山真男は明治維新を、日本型絶対主義政権の樹立と捉えているようである。そして幕末における政治思想のうち、絶対主義につながるものを、時代をリードした思想として位置付ける。それは当時の日本においては尊王攘夷思想とりわけ尊王主義という形をとるわけだが、その尊王主義が天皇を絶対君主とした絶対主義政権を思想的に基礎づけるものとなったというのが、丸山の大方の見取り図である。

徂徠学と国学とは、一見水と油のように見える。徂徠学はなんといっても儒学の一派であるし、要するに異国起源の学問だ。その異国起源のものを国学者たちは蛇蝎の如く忌み嫌った。宣長などはその最たるもので、漢(から)つまり中国を、悪人の跋扈する国であるかの如くに言っている。だから、その漢の学問に従事している徂徠も、悪人の仲間と見なされそうだが、実はそう単純ではない。両者の間には、独特の親縁性がある。そう丸山真男は見るのである。

丸山真男の「日本政治思想史研究」は、徳川時代の日本の政治思想、それも儒学を中心に考究している。丸山がこの研究でめざしたのは、日本の近代化を推進した思想が、どのような地盤から生まれてきたか、を明らかにすることだった。丸山は、日本の近代化は、あたり前のことであるが、無から生まれたのではない、それを用意した母胎から生まれたのだと考えている。その母胎となったのは徳川時代の政治思想であったから、それを明らかにすることで、日本の近代化の思想的原動力となったものがよく理解できるに違いないと思った。それは直接的には、荻生徂徠の政治思想と宣長を中心とした国学によって担われた、しかして徂徠学は、儒学(とくに宋学といわれた儒学の流れ)の伝統の延長上にあるものであるし、国学は儒学の否定から出て来た。したがって、徳川時代の儒学を研究することこそ、日本の近代の政治思想を理解するためのかなめになる。そう丸山は考えて、徳川時代の儒学を中心とした思想の流れに焦点をあてて、日本政治思想史を書いたというわけであろう。

徳川時代の思想の歴史的展開は、まず官学とされた朱子学が主流を占めることから始まり、朱子学を乗り越えて、古いつまり本来的な儒学としての古学へと遡及してゆき、果ては儒学そのものへの疑問へと発展していくのだが、その到達点として、賀茂真淵と本居宣長による国学を位置づけることができる、というふうに子安宣邦は考えているようである。そのようなものとして国学は、徳川時代の思想の到達点であり、かつ近代日本への橋渡しをしたということになる。近代日本とは、明治絶対主義の国家体制をいい、それを思想的に支えるものとして、強力な国家意識があった。その国家意識の成立に、国学は多大な役割を果たしたわけである。

子安宣邦は、「徳川思想史講義」の一章において、中井履軒と懐徳堂との興味あるかかわりについて語っている。中井履軒は、大阪の町人学校として知られた懐徳堂を象徴するような人物である、というのがその趣旨だ。

子安宣邦の「江戸思想史講義」は、徳川時代の思想家たちを、「方法としての江戸」という視座から読み直したものだそうだ。「方法としての江戸」の内実がどのようなものか、著者は主題的には語っていないから、本文の行間から察するほかはないが、要するに従来の読み方とは異なった読み方をしたいということらしい。従来の読み方というのは、徳川時代の思想を儒学を中心にとらえ、それを国学が乗り越えた、あるいは異議を唱えたというものだと思うが、これについては子安も大した違いのない認識を持っているようだ。というのも彼がこの講義で取り上げる思想家たちは、儒学者と国学者だからだ。徳川時代において、現実に思想上の影響力を行使したのが、この二つの学統であってみれば、これ以外の思想家をあげるのはむつかしいといえるのだが、それにしても、これらの思想家たちを対象に、どのようにして従来の読み方とは違う読み方をしようというのか。

加藤典洋の「敗戦後論」は、日本の戦争責任を論じたもので、発表当時左右両派から厳しい批判を巻き起こし、大きな論争に発展した。その論争を筆者は知らなかったので、何とも言えないが、今からこの本を読みながら思うのは、1995年という戦後半世紀たった時点でもそんな論争が起ったことに滑稽さを感じながら、その滑稽な状況が今なお続いているということだ。加藤は先日死んでしまったが、かれが生きている間には、かれの投げかけた問題意識に応えられるようななりゆきには、ならなかったし、この国は今後もそうはならないのではないかと、ちょっと思ったりもする。

前稿でイアン・ブルマに触れながら、先の戦争への向かい方をめぐる日本人とドイツ人の共通点と相違点について言及した。ここでは小生なりに、日独両国人の共通点と相違点を述べてみたい。まず、共通点であるが、両国人ともこの戦争の時期を本来の国のあり方から逸脱した時代だったと捉えていることだ。中には、極端な言い分もあって、この時代を賛美する者もいるが、それは例外あるいは少数派であって、ほとんど大部分はこの時代を、本来の国のあり方から逸脱した異様な時代として、マイナスに捉えていると言ってよい。

オランダ出身のジャーナリスト、イアン・ブルマの著書「戦争の記憶・日本人とドイツ人」は、日本人とドイツ人の戦争への向き合い方について考察したものである。ジャーナリストらしく、インタビューを介して基本情報を収集し、その情報に基づいて、戦後の日本人とドイツ人が、先の戦争についてどのように考えているかを追求したものである。その結果ブルマがたどりついた確信は、日本とドイツでは相違点も多いが、共通点も多かったということだ。だが、ブルマは、あとがきの中で書いている通り、自分のこの本を以てしても、日本人は理解不能な特別な人種だという欧米人の偏見が正されなかったことを嘆いている。とはいえ、日本人の小生がこの本を読んでも、日本人の特異性を感じさせられないではいられない。その点、ドイツ人はヨーロッパ人種の一員として、人間としてノーマルなところのある人種だというような仮定が伝わって来る。そのあたりは、ドイツ人が自分たちの犯した罪に自覚的なのに対して、日本人が、政治リーダーを含めて無自覚的なことに対して、ブルマが強い違和感を覚えることによるのだろう。

戦後には終りがあるはずだとすれば、その時点をどこに置くか。日本の場合には1972年の沖縄返還、ドイツの場合には1990年の東西ドイツの統一だろう。どちらも、戦後取り残された最大の課題だった。その課題をともかく解決したことで、両国とも戦後から抜け出て、新しい時代に入ったといえるのではないか。

アジア・太平洋戦争を含めて、第二次世界大戦は、各国に甚大な災厄をもたらした。そうした災厄は、敗戦国だけではなく、戦勝国も、多かれ少なかれ被ったものだ。自国が戦場にならなかったアメリカでさえ、40万人以上の死者を出している。ドイツの場合には、一説には900万人といい、日本の場合には310万人もの死者を出した。死者だけではない、国土は焦土と化した。そんな厳しい事態は、容易に忘却できることではない。そこで各国とも、それぞれスタイルに多少の違いはあっても、戦争を忘れずに、記憶しつづけたいという国民の願いはあって、その願いを、何らかの形で表現してきた。その表現の仕方は、国によってまちまちである。

いわゆる歴史認識をめぐって、日本はいまだに諸外国、特に韓国や中国との間で軋轢をひきおこしている。近年も従軍慰安婦問題や徴用工問題をめぐって歴史認識問題が蒸し返された。なぜそうなるのか。こういう問題をめぐっては、他国が日本を非難し、それに対して日本が反発するという構図が指摘できる。日本を非難する国は、日本は過去に犯した過ちを十分に反省していない、その結果誤った歴史認識にたって、無神経な行動を繰り返すと非難し、日本側は、日本は反省すべきことは十分に反省したのだから、これ以上反省する必要はないと言い、また、そもそも反省すべきことではないものを反省する必要はないと開き直ったりする。非難する側と批判される側とに、共通する認識がないことが、その原因だろう。

日本と西ドイツの戦後外交、特に近隣諸国との外交関係は、かなり対称的である。ごく単純化していうと、西ドイツはヨーロッパの一員として名誉ある地位を占めたいという希求を抱き続けたのに対して、日本はアメリカへの従属を深め、近隣諸国つまり東アジアの諸国にほとんど関心を持たなかったといってよい。その結果、西ドイツおよびその継承者としての統一ドイツが、今日EUの盟主として、政治的・経済的実力を確固としたものとしているのに対して、日本は東アジアの孤児といわれるような、ある意味情けない状況に陥っている。本来なら、日本は東アジアの盟主として、地域のリーダーになれていたはずが、アメリカへの従属を深めるあまり、自ら孤立を招いたといってよい。

日本とドイツは、ともに敗戦国として、国土を焦土と化され、それこそ瓦礫の山から戦後の再出発に取り組んだわけだが、いずれも比較的短期間で復興を達成し、世界の経済大国として復活した。そのプロセスのなかで、ドイツは統合ヨーロッパの盟主となっていき、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれて、自尊心を満足させることができた。その復興のパターンには、共通するところも多いが、相違する点もある。

西ドイツの講和問題は、西ドイツのNATOへの加盟を前提としていたことから、講和が発効すると、さっそく西ドイツの再軍備が課題となった。この点では、戦争の放棄と戦力の不保持を定めた憲法を持つ日本の講和問題とは決定的に異なる。日本は非武装のまま講和をすることになったのだが、ドイツは再軍備を条件に講和を実現したのである。そんなわけであるから、日本がその後、再軍備に熱心でなく、またアメリカに再軍備を迫られても、なるべくそれをサボタージュしようとする動きが見られ、そうした動きのなかで、なし崩し的に再軍備が進んでいったのとは異なり、西ドイツの場合には、本格的な再軍備が進んでいった。

ドイツの講和問題の解決は、日本より遅れて、1955年までかかった。それには、ヨーロッパにおける冷戦の複雑な状況と、ドイツを占領していた四か国の思惑の違いが働いていた。ヨーロッパの冷戦は、東アジアにおけるような熱い戦争にはならなかったが、もし戦争になったら第三次世界大戦に発展し、ヨーロッパはもとより、人類文明の破滅につながりかねない深刻な問題だった。そういう状況の中で、ドイツ全体を対象とした講和条約は、当分非現実的だった。

日本の講話問題は、日米安保条約の締結とセットになっていた。日米安保条約は、アメリカによる日本占領を、一部とはいえ継続させることを目的としたものだったが、それには朝鮮戦争を象徴的事態とする東西対立が強く影響していた。アメリカは、この対立を勝ち抜くために日本の基地を必要としていたし、日本も又、共産主義の脅威から身を護るために、アメリカの武力を必要としていた。そうした両者の思惑が一致したところで、日米安保条約と、アメリカを中心とした西側戦勝国との講和条約の締結が成立したのである。

日独両国とも、講和条約締結と主権の回復には、冷戦が強く影響した。冷戦で世界が東西に分かれてにらみ合うという状況の中で、両国ともに西側諸国だけとの講和という形をとった。その結果、日本の場合にはアメリカへの依存・従属を深め、ドイツは国の分裂という事態に見舞われることとなった。

日独憲法比較

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日独両国の憲法を比較して、まず指摘しなければならないのは、改正の有無である。日本国憲法は、1947年の施行以来一度も改正されたことがない。一方ドイツの基本法は、1949年以来すでに50回以上改正されている。この相違は何を意味するのか。日本国憲法が安定しており、つまり国民大多数から支持されておるのに対して、ドイツの基本法は、不安定ということを意味するのか。かならずしもそうは言えない。日本国憲法は、自民党政権によって敵視され、国民はつねに改正へと誘導されて来た。ということは、政権党と国民多数との間で、憲法をめぐる一種の闘争のようなものがあることを念じさせる。それに対してドイツの基本法をめぐっては、日本のような対立はない。50回以上行われた改正を見ると、講和時になされた防衛権の明示、東西ドイツの統一に伴う必要な改正を除けば、おおむね技術的な細部にかかわるものがほとんどだった。というのもドイツの基本法は、日本の憲法と比較して、条文の数は二倍半もあり、極めて技術的な規定が多い。したがって、抽象度の高い日本の憲法に比較すると、改正の必要度が高いという事情がある。

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