日本史覚書

戦後、ドイツの新憲法制定が日本より2年以上も遅れたのは、統一ドイツの姿が見えてこなかったからである。その原因は主にソ連にあった。ソ連(ロシア)は、国境の西側から度々侵略を受けて来たという歴史を持ち、第二次大戦においてもドイツによって侵略されたという苦い記憶があった。それゆえ、統一ドイツが未来のソ連にとって再び重大な脅威となることを嫌った。そんなわけで、統一ドイツに関する協議には加わらなかった(1947年12月15日には米英仏ソの外相会議が決裂している)。それどころか、ソ連が分割占領していた東ドイツを、ソ連の衛星国家として再編し、傀儡政権に運営させようとする意志を露骨に示した。

日本国憲法の制定は、対日占領政策としての戦後改革の総仕上げのようなものとして見えるが、実は、終戦後まもなく、戦後改革が本格化するまえに(1945年10月4日)、日本政府に対してマッカーサーから新憲法制定の指示が出されていた。その趣旨としては、第二次世界大戦における日本の敗北を真剣にうけとめ、今後二度と戦争をおこさないための保証を、憲法を通じて国際社会に約束させることにあったと思われる。そういう意味では、日本の武装解除と、未来に向けての非軍事国家としての歩みを、世界に向って約束させることに主な力点があった。勝者にとっては敗者の武装解除、敗者にとっては勝者の意向にそって未来に向かって不戦を誓うこと、それが新しい憲法に期待されたことだったといえる。

日本でもドイツ同様、知識人による戦争への反省は見られた。日本の知識人は、ドイツとは違って、国外へ亡命することはなく、国内に踏みとどまったので、亡命ドイツ人のような気楽さで、祖国の戦争責任を追及するようなことをするものは、多くはなかった。また、ドイツの場合には、ナチスによる非人道的な犯罪が国際社会の指弾を浴びており、それに頬かむりできないという事情もあって、知識人の気持にはかなり屈折したものがあった。その屈折を踏まえて戦争責任を論じようとすれば、善いドイツ人と悪いドイツ人を区別し、自分は善いドイツ人の立場から悪いドイツ人を批判するという方法をとるしかなかった。ドイツの知識人は、かなり苦しい立場に立たされていたわけである。

ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から1946年10月1日まで開催されたが、東京裁判(極東国際軍事裁判)は、それよりやや遅れて、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた。前者が10か月ほどのスピード裁判だったのに比べ、こちらは二年半をかけている。それだけ慎重だったかといえば、かならずしもそう断言できない。しかし、ニュルンベルク裁判の教訓がある程度生かされているとは考えられる。そのもっとも顕著なものは、訴追対象となる罪状を、ニュルンベルク裁判が採用したもの、つまり平和に対する罪に特定したことである。そのため、東京裁判はA級戦犯を裁いた裁判という特徴を強くもった。

第二次世界大戦の結果をめぐっては、ドイツは敗戦国として、戦争責任を一手に負わされることとなった。その責任には二つの側面があった。一つは人類史上最悪でかつ最大規模の戦争を引き起こした張本人としての責任、侵略者としての責任であり、もう一つは、人類の想像を絶するようなホロコーストを行った責任である。これらの責任は、ニュルンベルク裁判では、平和に対する罪及び人道に対する罪という新しい犯罪概念に整理された上、ドイツの戦争遂行責任者とホロコーストの実施者とが厳しく裁かれた。

連合国側には、終戦以前からすでに、ドイツの戦争責任を犯罪として追及しようとする動きがあった。その動きには二つの流れがあって、一つはドイツという国家を戦争犯罪の主体として裁こうとするものであり、もう一つは、国家ではなく、戦争を実際に遂行し、その過程で戦争犯罪を実行した個人を、個人として裁くべきだというものであった。前者は、アメリカの政治家モーゲンソーによって代表されるもので、「モーゲンソープラン」とも呼ばれており、戦時中はこれに共鳴するものが多かったのだが、戦後は、その影響力を弱め、代わって、後者の流れが有力になった。ニュルンベルク裁判を頂点とする、対独戦争犯罪追求裁判は、基本的には個人の犯罪を追及するという形をとったのである。

連合国の対日占領政策は、ドイツの場合とは大分趣が異なっていた。まず、事実上アメリカの単独占領であったこと、それに対応するかのように、日本に対して懲罰的な意図を露骨にもった国が存在せず、比較的温和な占領政策がとられたことだ。温和といっても、相対的な意味合いであって、日本を完膚なきまでに叩きのめし、二度と連合国の脅威にならぬように弱体化しようとするような露骨な意図を振りかざさなかったという意味であって、日本を再び軍国主義国家としてよみがえらせないようにしようとする配慮は働いていた。その配慮が、一連の戦後改革につながり、その総仕上げとして日本国憲法が生まれたわけだ。それをどう評価するかについては、日本国内でもいまだに意見の相違があり、一方で日本の戦後改革を、日本が欧米並みの民主主義国家になるうえで、必要でかつ望ましいものだったと積極的に評価するものがある一方、戦後改革によって日本は伝統的な国体を毀損されたとし、その象徴としての憲法に敵対する勢力もある。

ドイツを分割占領した四か国の、ドイツに対する占領政策には当初かなりの相違が認められた。というのも、四か国からなる連合国管理理事会は、立法権を持つに過ぎず、またそれも形骸化しがちな中で、実際の政策執行は、各占領地域の軍政長官の権限にゆだねられたからである。各軍政長官は、それぞれ出身国の意向を強く反映して、それぞれが独自の政策を追求する傾向が強かった。したがって戦後のドイツでは、四つの占領地域で、それぞれ異なった性格の統治が行われたといってよかった。ドイツ国民は、どの地域に住んでいたかによって、異なる統治に服したのである。

第二次大戦で日本が被った人的被害は、ドイツのそれよりも詳細にわかっている。日本政府は1963年に戦没者を定義し、支那事変以降に戦争に関連して死亡した日本人としたうえで、その総数は310万人だったとしている。そのうち、軍人軍属は230万人、外地での一般邦人の戦没者30万人、内地での戦災死者50万人である。

ドイツの敗戦はヒトラーの自殺によって決まった。それほどヒトラーの力が圧倒的だったということだ。ドイツは、よくも悪くも、ヒトラーと運命を共にしたわけである。一方日本のほうは、天皇の一言で敗戦が決まった。そういう意味では、日本も天皇という個人と、よくも悪くも、運命を共にしたと言えなくもないが、それがあまりきっぱりした印象をもたらさないのは、天皇がその後、戦争責任を取ることがなく、つまり退位することもなく、余生を無事に過ごし、まるで戦争などなかったかのように、自然な生を終えたこともある。

終戦後ドイツは、米英仏ソの四か国に分割占領された。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ニーダーザクセン、ノルトライン・ヴェストファーレンがイギリスによって、ヘッセン、バイエルン、バーデン・ヴュルテンブルグの北部がアメリカによって、ラインラント・プファルツ、ザールラント、バーデン・ヴュルテンブルグの南半分がフランスによって、旧東ドイツ諸県がソ連によってそれぞれ占領され、ベルリンは、米英仏ソの四か国によって分割占領された。こうして戦後のドイツは、国土をバラバラに分割占領されたうえに、やがて西側と東側との冷戦を反映して、国家としての統一を果たせず、東西に分裂してしまうのである。

第二次世界大戦で被った日独両国の損害を見てみよう。まず人的損害。ドイツの死者については、最終的な正確な数字は確定していないようである。それには、敗戦前後における混乱で、民間人を含めた大勢のドイツ人が、ソ連に連行されたり、あるいは行方不明になったりして、正確な数字が追求できなかったという事情が働いている。日本の場合には、多少の入りくりがあるが、ほぼ310万人が死んだとされているのに比べれば、ドイツの場合にはその倍以上の人間が死んだと言われながら、詳細は明らかではない。

日独伊の枢軸同盟のうち、ムッソリーニのイタリアがまず降伏し、ついでナチス・ドイツが降伏した。イタリアの降伏は複雑なプロセスを経た。1943年7月25日に、国王と軍が共同してムッソリーニを失脚させるクーデターが起き、バドリオが政権を握ったうえで、同年9月に連合国に無条件降伏したのであったが、バドリオにはイタリア国民全体を代表するような実力はなく、降伏手続きは混乱した。そうこうするうち、ムッソリーニは9月中にドイツ軍によって救出され、北イタリアを根拠地とするドイツの傀儡政権の長に担ぎ上げられる。こうしてイタリアは、二重権力状態に陥り、内戦へと突入していった。この内戦では、ムッソリーニをドイツが応援し、反ムッソリーニ勢力と連合軍が協力しあうという構図となったが、最終的にはムッソリーニの側が敗れた。ムッソリーニが、イタリア人群衆によって吊るされたのは1945年4月28日のことであり、この日を以てイタリアが全面的に降服した形となった。

日本とドイツは、色々な面で似ていると指摘される。どちらも、19世紀の半ば以降に近代国家の仲間入りをし、驚異的な発展をとげて、遅れて来た帝国主義国家として幾多の戦略戦争を戦った結果、先進帝国主義国家群に撃退されて、一度は瓦礫の山に埋もれた。しかし、その後、さらに驚異的な発展をとげて、再び大国として返り咲いた。今日では、日本とドイツは、まぎれもなく世界の大国である。そんな具合に似ているところの多い日本とドイツだが、違っているところもある。ドイツは、ヨーロッパの盟主としての立場を強固に築き、近隣諸国から信頼されているのに対して、日本はかつて戦争に屈したアメリカにいまだに従属する一方、東アジアでの存在感はあまり芳しいとはいえない。それどころか、孤立しているといってもよいくらいである。「日本は東アジアの孤児である」とは、よく聞かれる言葉である。

初代宮内庁長官田島道治が残していた記録が公開された。それは「拝謁録」と総称される田島の私的なメモで、宮内庁長官に就任して以来五年あまりにわたり、昭和天皇とかわした会話の内容を詳細に記している。そこに何が書かれていたか、そういう問題意識に立って、NHKが二晩に渡って特集番組を組んだ。それを見たことで小生は、昭和天皇が自身の戦争責任をどのように考えていたか、認識を深めることができた。

鴻上尚史の著作「不死身の特攻兵」は、陸軍最初の特攻部隊に選ばれ、九回も特攻出撃してそのたびに生きて帰って来た兵士をテーマにしたものである。著者の鴻上尚史はこの本を通じて、特攻攻撃に直面した日本兵の心理をきめこまかく描くとともに、かれらに死の特攻を強要した上官たち、それは日本軍そのものといってもよいが、その日本軍の責任を鋭く追及している。

いわゆる満蒙開拓団が敗戦直後に、若い女性たちにソ連兵への「性接待」を強要していたということが明らかになり、ちょっとした反響を呼んでいる。この事実を明らかにしたのは、接待を強要された女性たちだ。彼女らのいた開拓団は、岐阜県旧黒川村から集団で満蒙開拓地に渡った人々だが、戦争に敗けるや現地の人々から「迫害」を受けるようになった。そこで治安の維持をソ連側に依頼したが、その見返りとして若い女性を「接待」要員として差し出したということだ。その女性たちは、戦後ずっと沈黙を続けていたが、年をとったいま、「なかったことにはできない」と言って、重い口を開いたということらしい。

岩波新書の一冊「生きて帰ってきた男」は、社会学者の小熊英二が自分の父親の生涯を、聞き書きと言う形でまとめたものである。小熊の父親は敗戦直前の昭和十九年十一月二十五日に陸軍に召集され、満州で敗戦を迎えた後シベリアに抑留され、その三年後の昭和二十三年八月に復員した。この聞き書きはシベリア抑留生活を中心に、入営以前の父親の家族の暮らしぶりと、復員後の父親の生き方を併せて紹介することで、戦争の時代を生きた日本人の一つの典型を描き出そうとするものだ。著者が言うとおり、それまでのシベリア抑留にかかわる書物はいずれも抑留だけに焦点を当て、その前後の生活の部分をオミットしていたが、この本はそれを含めて紹介することで、シベリア抑留を生きた一日本人の肖像を立体的に浮かび上がらせることができているように思う。

山川菊栄は「武家の女性」の中で、幕末における水戸藩士の生態にも触れていたが、この「幕末の水戸藩」は、文字通り幕末期における水戸藩士の生き方に焦点を当てて、くわしく紹介したものである。菊栄自身は明治三年の生まれであり、幕末期の水戸藩の状況を身を以て体験したわけではないが、母方の祖父が水戸弘道館の教授であり、水戸藩の精神的な指導者の一人であったこともあり、また母親の回想を身近に聞いていたこともあって、幕末期の水戸藩の状況を、半ばは当事者として、半ばは第三者として、複合的に見る目を養ったと言える。だから彼女による幕末の水戸藩の紹介は、独特の雰囲気を帯びている。

山川菊栄の「武家の女性」は、自分の母親とその家族を中心にして、幕末・維新期の日本の武家の女性の生き方を描いたものだが、単に女性にとどまらず、当時の武士社会の生活ぶりが生き生きと描かれている。菊栄が生まれ育ったのは水戸藩で、水戸藩固有の事情も随分働いているとは思うが、武士階級の置かれていた基本的な条件はさほど異なってはいないと思うので、この本を読むと、幕末頃の武士の生活ぶりがよくわかるのではないか。

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