日本史覚書

福田英子といえば、自由民権運動の女闘士として歴史に名を残した女性だ。また日本初期の社会主義者として女性の解放運動に尽力したことで知られている。その福田が自分の半生について語ったのが「妾の半生涯」。彼女の自叙伝というべきもので、出生から三十代半ばまでの半生について語っている。彼女の半生を彩る最大の事件は、明治十八年の「大阪事件」であることから、この自叙伝はおのずから大阪事件を中心に展開する。彼女はなぜこの事件にかかわるようになったか、その結果にぶち込まれた黎明期の日本の近代監獄の様子がどのようなものだったか、そして釈放後の娑婆で思いがけない歓迎を受けたことや、男たちとの決して幸福だとはいえなかった関係などが語られ、読み物としても興味深いものとなっている。

岩波文庫から出ている「西郷南洲遺訓」は、山田済斎が西郷隆盛に関連する資料六篇を集めて昭和13年に刊行したものを、同16年に岩波文庫に加えたものである。「西郷南洲遺訓」を中心として、「手抄言志録」、「遺教」、「遺編」、「遺牘」、「逸話」からなる。

山崎今朝弥は正義派の硬骨弁護士として知られている。正義感が豊かなことでは日本の法曹史に屹立した存在だった。また人間性の豊かなことでも群を抜いていた。その豊かな人間性には諧謔趣味も含まれていた。その諧謔趣味が一風変わっている。日本国の公爵である山形有朋に対して自分を米国伯爵と自己紹介したが、無論米国に貴族制度があるはずはないから、それは諧謔を真面目くさった顔で披露したわけである。彼はまた放屁の常習犯だったらしいが、放屁の際にはさすがに真面目な顔が憚られたか、屁の音に合わせて罪のない笑い声をたてたようである。

大杉栄は、幸徳秋水のようにはまとまった著作を残さなかった。彼が残したのは、方々の雑誌に発表した評論のような短い文章ばかりである。それらの文章を集めて一冊にしたものが岩波文庫から出ているので、それを読めば、大杉の思想的な立ち位置がだいたいわかる。それを一言であらわせば、徹底した個人主義と、権力の否定、そしてそれらがもたらすところの無政府主義、つまりアナーキズムといったことになろう。

大杉栄が日本を「脱出」してフランスに旅行したのは、甘粕に殺される直前のことだ。1922年12月に日本を船で出航した大杉は、翌年の7月に帰国したが、それからほどへず関東大震災に見舞われ、その混乱に乗じて憲兵隊に連行され、有無をいわさず殺されてしまうのである。そんなわけで、大杉のフランス行きとそれを記録した「日本脱出記」は、冥途への新たな旅の置き土産のようなものと言える。

大杉栄が自叙伝を書き始めたのは1921年の8月、関東大震災の混乱に乗じて甘粕に殺される2年前のことだ。その後、書き上げたものから順に、9月以降雑誌「改造」に発表した。少年時代の追憶に始まって、恋愛関係のもつれから神近市子に刺される1916年(31歳)までのことを書いている。新潟県の新発田における少年時代の思い出と陸軍幼年学校での生活及び女性遍歴が主な内容だ。大杉はアナキストだが、自分がどうしてアナキストになったのかという、思想形成の話はあまり出てこない。

佐藤忠男は本職が映画評論家だから、映画を通じて長谷川伸に親しんだのだろう。長谷川伸と言えば、戦前から戦後にかけて、(戦中と戦後の一時期権力によって抑圧されたことはあったが)日本の映画界では人気のある作家だった。当時の映画界では、股旅ものとか仇討ものが最も大きな人気をとったが、長谷川伸はその分野を代表する作家だった。

「基督抹殺論」は秋水の遺書のようなものである。彼はこの本を、大逆事件で捕らえられるその年に書き始め、監獄のなかで脱稿した。友人の好意によって出版されたのは、死刑執行の数日後である。秋水の書いた本としてはめずらしく発禁処分を受けなかった。それについては秋水自身、「これなら、マサカに禁止の恐れもあるまい。僕のは、神話としての外、歴史の人物としての基督を、全く抹殺してしまふといふのだ」と手紙のなかで書いている。

日露戦争は、明治37年(1904)の2月に開戦し、翌38年の9月まで、一年半あまりにわたって戦われた。それこそ日本中が勝利を祈って大騒ぎになったわけだが、幸徳秋水は、内村鑑三らとともに、この戦争に反対した数少ない日本人の一人だった。秋水の日露戦争への反対は非戦論という形で展開されたが、それが戦争を遂行する明治政府の逆鱗に触れ、秋水は38年の2月に官憲に検挙されて、禁固五ヶ月の刑を受けた。

幸徳秋水が明治40年(1907)の4月に刊行した著書「平民主義」は、小引にあるとおり、明治36年の冬から同39年の冬までに、様々な媒体に発表した文章を集めたもので、時事評論集といってよい。この三年間という期間は、短いながらも秋水にとっては、激動の時代と言ってよかった。明治36年にはすでに筋金入りの社会主義者になっていた秋水は、37年に日露戦争が勃発するや非戦論を唱え、それがもとで翌38年の2月に逮捕、有罪判決を受けて、五か月間巣鴨の刑務所に投獄された。出獄後も弾圧の手が緩まないのを見て、同年の11月に横浜から船に乗り、サンフランシスコに亡命した。ここで現地の社会主義者などと交流し、大地震などにも遭遇した。そして39年の6月に帰国し、引き続き政治活動に従事しつつ、官憲の憎悪を一身に集めるようになっていったわけだ。秋水が、官憲のフレームアップにからめとられるのは、43年(1910)6月のことである。

「社会主義神髄」は、幸徳秋水の社会主義論である。秋水といえば無政府主義者の印象が強く流布しているが、この著作を読むと、社会主義者としての秋水のイメージが強く浮かび上がってくる。彼がこの本を書いたのは明治36年(1903)のことで、その頃にはまだ日本ではマルクスの思想があまり普及していなかったなかで、秋水はマルクスやエンゲルスの著作(共産党宣言、資本論、空想から科学への社会主義の発展)を参考にしながらこの本を書いたようである。ちなみに秋水は、翌明治37年に「共産党宣言」を翻訳して平民新聞に掲載し、発禁処分を食っている。

幸徳秋水が「二十世紀の怪物帝国主義」を執筆したのは明治三十三年から翌年にかけてのこと。ちょうど十九世紀から二十世紀への移り目のときである。この時期は、列強諸国による海外侵略と領土の分割がピークを迎えており、そうした動きが「帝国主義」という名で観念されるようになっていたが、帝国主義を論じた本格的な研究はまだ現れていなかった。そういう中での秋水の帝国主義論は、国際的にも一定の存在意義を認められよう。

幸徳秋水は、明治43年の6月に大逆罪の容疑で逮捕され、翌明治44年1月に死刑の判決を受け、一週間以内に刑を執行されて死んだ。秋水の共犯とされた24名にも死刑が言い渡されたが、そのうちの半分は明治天皇の恩赦が行われ、刑一等を減じられて無期懲役となり、秋水を含めた12名が実際に死刑になった。この事件は、その後の研究によって、権力によるフレームアップであったことが明らかにされている。そのフレームアップを検事として指揮したのは、後に総理大臣に上り詰めた平沼麒一郎だ。平沼は、首相桂太郎のほか、明治天皇自身の強い意向を受けて、このフレームアップを指揮したと、研究者の一人神崎清は指摘している。

明治34年12月、中江兆民が喉頭がんで苦痛のうちに死んでいったとき、その死に水をとったのは、弟子の幸徳秋水だった。秋水は、それ以前に兆民の遺書というべき「一年有半」及び「続一年有半」の出版に尽力し、師の兆民を喜ばせていた。なにしろ秋水は、17歳の時に兆民に弟子入りして以来、兆民を父として仰ぎ、かならずしも全面的にではないが、兆民の思想にも私淑していた。そんな秋水が、兆民の死後半年足らずの後に、師の兆民をしのんで、伝記と思想の紹介を兼ねた文章を書いた。「兆民先生」がそれである。この文章を読むと、兆民の人物像が彷彿として浮かび上がってくるとともに、その兆民を敬愛してやまなかった秋水の気持ちもよく伝わってくる。そのさまたるや、日本の歴史上もっとも美しい師弟愛を見せられているかのようである。

中江兆民が死んだのは明治34年12月13日のことで、死因は喉頭癌だった。最初癌の症状に気づいたのは前年明治33年の11月のことだったが、その折には喉頭カタルくらいに見くびって油断していた。ところが翌年の春、関西に旅行したところ、症状がひどくなって苦痛に耐えられぬので、医師に治療を仰いだ。そこで喉頭癌だと宣告され、余命は一年半、よく養生すれば二年だろうと言われた。本人としては、たかだか半年くらいの寿命だろうと観念していたところ、一年半の猶予を与えられたと受け取り、その一年半を有意義に使おうと決意した。どう使うかは迷いがなかった。日頃胸中に温めていた思いを吐露し、以て文人たるの意気を示さんとすることだった。こうして兆民は、遺書というべき著作「一年有半」および「続一年有半」をしたためたのである。そして、この両書の完成と刊行を見届けて、その年のうちに死んだ。享受した余命は一年有半ではなく、たかだか半年だったが、兆民としては一年有半におとらぬ充実した日々だったろうと思われる。

「武士道」は、新渡戸稲造が病気療養の為滞在していたアメリカで、1899年に、英語で書かれた。ということは、欧米の読者に向けて書かれたということだ。当時の日本は、日清戦争で勝ったこともあり、欧米での評価も次第に変わりつつあったが、やはり半文明の段階にあって、基本的には野蛮な連中の国だという認識が強かった。そして日本人の野蛮な行動は、武士道によって支えられている、といった間違った認識が広がっていた。新渡戸はそうした認識を正し、武士道の正確な理解と、それを行動原理としている日本人のすばらしい生き方についての認識を、欧米社会に向かって促したといえるのではないか。

「基督信徒のなぐさめ」は、内村鑑三の処女作である。出版したのは明治二十六年(1892)二月、内村が三十歳のときであった。内村はこの本で、人間は基督教を信ずる限りどんな逆境にも耐えられると主張した。彼が取り上げたその逆境とは自分自身のものだったが、彼はその自分自身が陥った逆境にもかかわらず、基督教になぐさめを見出したがために、逆境も気にならなかったと言い、人々にも基督教を信じるように呼びかけたというわけであろう。

「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、内村鑑三が基督教の信仰を得たいきさつを書いたものである。彼が基督教の信徒になったのは札幌農学校在学中のことで、その時はまだ十代の若者ということもあって、完璧な信仰にはいたらなかったが、二十代前半でアメリカに留学し、そこで深く思索することを通じて本当の信仰を得た、その喜びを書いたものである。それ故この本は内村の信仰告白という面と、自分の青春時代を回顧した半生記という体裁を、併せ持っている。

内村鑑三が「代表的日本人」を書いたのは日清戦争の最中だった。彼はこの本を英語で書いた。ということは、当面の読者を日本人ではなく、外国人に想定していたわけである。何故そのような行為をしたのか。日清戦争は近代日本が起した最初の戦争ということもあって、国内には愛国的なムードが高まっていた。内村もそのムードに染まったらしい。彼は日本人が西洋人の考えているほど低級な国民ではなく、キリスト教を受け入れる基盤も有している。だからこそ今回の戦争にも道義がある。どうもそういうことを、対外的に主張したいというのが、内村の本意だったのではないか。

昨夜(8月13日)、NHKが731部隊(いわゆる石井部隊)に取材した調査報道番組を放送したのを、筆者は驚嘆の念を覚えながら見た。というのも、731部隊の問題は、日本史の最も恥ずべき部分であって、取りようによっては、従軍慰安婦問題よりもはるかに深刻な問題だ。今の日本の政権にとっては、絶対に触れられてもらいたくないことだろう。それをあのNHKが、正面から取り上げて、それを放送したのは、実に感慨深いことである。

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