日本史覚書

風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。それ故、公儀から報酬が出るわけではない。それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

「戊辰物語」は、戊辰戦争の年から六十年後の戊辰の年に、東京日日新聞が戊辰戦争をはじめとした明治維新前後の出来事について、古老の回想を集めて新聞紙上に載せた記事を中核にし、それに、「五十年前」と題する、やはり古老の回想の聞き書きと、「維新前後」と題する、これは記者による記事らしいものが付属している。映画評論家の佐藤忠雄が岩波文庫版に寄せた解説によれば、この聞き書きには子母澤寛がかかわっていたらしい。子母澤は、明治維新を敗者の視点からとらえ、そうした視点から新撰組の行状を調べ、それを「新撰組始末記」という形で著したりした。従来とかく勝者である薩長藩閥の視点から見られていた明治維新を、別の視点から見たものとして、その後の明治維新観に一定の影響を及ぼしたものだ。そんな背景があるせいだろう、「戊辰物語」の本体には、新撰組への言及が多く見られるし、「明治維新前後」などは、ほとんどが新撰組についての記述である。

勝海舟若い頃の学問修行にかかわる逸話といえば、オランダ語の辞書を買う金がないので、他人から借りた辞書をまるごと書き写したというのが有名だ。しかし本人は、蘭学を含めて、学問を体系的に学んだことはないと言っている。「おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とて何もしない」(氷川清話、以下同じ)と言うのである。勝海舟は、一応オランダ語を話せたようだから、これは謙遜かもしれない。

「氷川清話」は、吉本襄が明治三十一年に勝海舟の談話集と銘打って刊行したもので、吉本自ら勝から聞いた話を聞書きしたものや、勝が別途新聞雑誌等の場で行ったインタビューのようなものを集めたといわれていた。ところが敗戦後になって、江藤淳と松浦玲が本の内容に重大な疑義を呈した。この本の中には勝が言うはずのないことが書かれており、したがって偽作の疑いが強いというのが疑義の内容である。彼らは、吉本が利用したというインタビュー記事の原本にあたり、それと吉本の本とを比較することで、吉本による歪曲の実態を明らかにしたうえで、彼らなりに決定版と考えた「氷川清話」を刊行した。今日講談社学術文庫の一冊として出ているのがそれで、いまではこちらが「氷川清話」の標準版として読まれている。筆者もまたそれを読んだ。

福沢諭吉と勝海舟の出会いは、万延元年(1860)のことだった。この年の咸臨丸での太平洋航海を、二人はともに体験した。海舟は教授方頭取(実質的な船長)という役職であり、福沢諭吉は軍艦奉行木村芥舟の従者(家来)という身分であった。そんなこともあるのか、海舟のほうは福沢にあまり敬意を払っている様子がなく、一方福沢の方は、例の「痩せ我慢の説」で海舟を厳しく糾弾したことに見られるように、海舟に対して敵愾心のようなものを持っていた。その影には、身分格差ということのほかに、人間的な反目があったのかもしれない。

勝海舟は、薩摩とはつながりが深かった。それは海舟が長崎海軍伝習所時代に始まる。安政五年(1858)、海舟は伝習所の船で、南西諸島を視察した途次薩摩に立ち寄り、藩主斉彬に面会して、すっかり斉彬の人柄に感服した。その折に、西郷隆盛は斉彬に仕えており、海舟は隆盛とも親しくなった。それが縁で、海舟は薩摩とは結構うちくだけた関係を持つようになったようだ。

「海舟座談」は、巌本善治が晩年の勝海舟から聞書きした話を一冊にまとめたものに、海舟生前にかかわりのあった人物からの回想談を加えたものである。巌本は、教育者兼ジャーナリストで、どういういきさつから海舟と昵懇になったかよくわからぬが、晩年の海舟はこの男に気を許し、自分の生涯について色々語って聞かせた。海舟が死んだのは明治三十二年の一月十四日のことだが、そのわずか五日前の一月九日にも、海舟は巌本に会って、話を聞かせている。巌本が海舟から話を聞きたがったのは、その頃修史事業が活発になって、明治維新にかかわる資料の発掘が盛んになっていたことと、明治維新における海舟の行動に感心が集まっていたことを反映しているようだ。巌本とは別に、吉本譲が海舟の語録なるものを編集して「氷川清話」を出版したということもあった。

明治維新前後の神仏分離・廃仏毀釈の動きは、民俗信仰や芸能を含めた習俗行事の抑圧をもたらしたと安丸良夫は指摘する(「神々の明治維新」)。国体神学を通じて国民の精神的な統一を図ろうとする意図にとって、民俗信仰は迷信の巣窟として国家による国民教導を妨げるものであったし、習俗行事の多くは国民を怠惰にさせ、国家秩序を乱すものとして捉えられたというのである。

明治維新前後に吹き荒れた神仏分離や廃仏毀釈運動。これは素人目には明治維新という歴史的激動期に現われた「奇妙で逸脱的なエピソード」のように見える。安丸良夫も「神仏分離や廃仏毀釈を推進した人々の奇妙な情熱は、どのように理解したらよいだろうか」と問うている。しかし安丸の考えによれば、この運動にも歴史的な背景と必然性のようなものがあったということになる。「神々の明治維新」と題したこの本は、それを裏付けようとする試みだ。

村上重良の「国家神道」は、国家神道研究の古典といってよいだろう。国家神道は、歴史的ないきさつもあって、客観的な視点からの分析がなかなか徹底されなかったきらいがあるようだが、村上のこの本は、国家神道の意義とその歴史的に果たした役割を、なるべく客観的に跡付けようとする姿勢に貫かれているといってよい。最近、島薗進の「国家神道と日本人」という本が出たが、島薗も村上のこの研究を、国家神道研究の足がかりとして、大いに評価していた。

教育勅語は、国家神道及び明治憲法とともに明治の天皇制イデオロギーの支柱となったものといえる。この三者の関係について島薗進(「国家神道と日本人」)は、国家神道こそが明治絶対主義のイデオロギー的な中核をなし、明治憲法はその制度的な枠組みとなり、教育勅語は国民の意識にそれを植え付けるについて決定的な役割を果たしたとして、次のように言っている。

国家神道についての研究といえば、村上重良の「国家神道」がスタンダードなものになっているようだ。島薗のこの本も、村上の研究を土台としていると言えよう。島薗も村上同様、国家神道は明治維新以降に体系化された、作られた伝統であるとし、それがやがて昭和の超国家主義をもたらしたとする。一方、村上が国家神道を、主に神社神道を中心にして論じており、天皇による宮廷祭祀としての側面をほとんど欠落させていることに疑問を呈している。島薗によれば、天皇による宮廷祭祀こそ、国家神道の中核をなすものだということになる。これもまた、神社神道同様、明治維新以降体系化された、作られた伝統には違いないが、国家神道の中核として国民統合の原動力となり、昭和の超国家主義(日本型ファシズム)を駆動した最大の要因だったとする。この宮廷祭祀は、戦後の神道指令の対象から外されたことで、ほぼそのままの形で生き残った。それ故、日本近代の国家神道は、まだその命脈を絶やされずに、生き続けている、というのが島薗の国家神道についての基本的な見方である。

天皇を論じる際の視座には色々ありうるが、この本は宮中祭祀の主催者としての天皇に光を宛てている。宮中祭祀というのは、国家神道の行事であって、天皇が天照大神の末裔としての立場で行う宗教的な営みである。本来宗教的な行事であるから、祭政一致が否定された戦後体制では公の行事としては行われなくなったが、天皇家の私的な行事として生き残った。しかし、天皇家の私的な行事として片付けるにはあまりにも政治的な性格を持たされており、昭和天皇自身もそれを自覚していた、というのがこの本の著者の基本的な見立てのようである。

明治の元勲のなかで山県有朋ほど人気のない者はいない。それゆえ彼の生き方や業績を肯定的に評価する研究もあまりない。そんななかで岡義武が1958年に著した「山県有朋」(岩波新書)は、山県という政治家をなるべく曇りのない眼で見つめ、その評価すべきところはきちんと評価しようという意思に貫かれている。山県有朋研究にとっては、古典的な意義をもつ本だ。

橋川文三の日本ファシズム論は、丸山真男同様それを超国家主義の現われと見る。それ故日本ファシズム=超国家主義と位置づける立場といってよい。丸山の場合、その超国家主義を天皇制国家原理そのものの特質とすることで、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負う」ということになってしまい、それがなぜ昭和のある特定の時代にファシズムという形をとったかについて、十分な説明になっていない、と橋川は批判する。丸山のいう超国家主義とは、せいぜい「玄洋社時代にさかのぼる日本右翼の標識であり、とくに日本の超国家主義をその時代との関連において特徴付けるものではない」というわけである。

先日読んだ松沢裕作の「自由民権運動」と、この色川大吉の「自由民権」を読み比べると、その落差の大きさに気付かされる。松沢は、自由民権運動というのは、自由と民主主義を勝ち取る戦いだったという面が認められないわけではないが、それは運動の表面的な要素であって、その本質は維新で勝組になった勢力同士の権力闘争だったという見方をしている。板垣に象徴されるような、維新で功績をあげたにもかかわらず、権力にありつけなかった連中が、権力の分け前を求めて起こしたもの、それが自由民権運動だったとする、きわめてさめた見方をしているわけである。それに対して色川のほうは、自由民権運動は、民衆のなかから自然発生的に盛り上がってきたものであって、明治藩閥勢力の反動的で抑圧的な政策に対抗して、進歩的で民主主義的な政治を実現する為の、いわば革命的な戦いだったとするわけである。

「近代日本において『デモクラシー』の時代は、かならず戦争の後の時期にあらわれる」というテーゼが、この本の中で著者の松沢が、自由民権運動を日本史の中で位置づけるべき視点とするものだ。この視点によれば、「日露戦争で多くの国民が戦場で命を賭し、あるいは重税に耐えたことが、日露戦後、人々の政治参加への要求を引き起こした。それが『大正デモクラシー』の時代を出現させたのである。十五年戦争後のいわゆる『戦後デモクラシー』も同じ構図である。著者は、戊辰戦争も同様の効果をもったと考える。自由民権運動とは「戊辰戦後デモクラシー」なのである。

板垣退助と大隈重信は、日本の政党史の冒頭を飾る二大巨頭である。板垣は自由党の創始者として、後の政友会につながる政党の伝統を作ることに貢献し、大隈は改進党の創始者として、これは後の憲政党の流れにつながった。この二つの党は、いずれも日本のブルジョワ層の利害を代表していたといえるが、どういうわけか仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていた。だから板垣と大隈が手を結んで所謂隈板内閣を作ったことは、歴史の皮肉の一つに数えられる。しかしもともと天敵同士だったものが何時までも一緒にもつわけもなく、この隈板内閣はわずか数ヶ月の短命で終わったのだった。

伊藤博文と山縣有朋は、長州閥の巨魁として明治の政治を牽引した。服部之総は明治維新を、徳川封建体制から薩長藩閥勢力への権力の移行というふうに捉えているが、その権力に形を与え、それを強固なものに仕上げていくについて、伊藤と山縣が中心的な役割を果たしたと見ている。しかしてこの二人には、彼らの性格を反映したかのような、明確な役割分担が見られる。伊藤は新たな権力に形を与え、山縣は新たな形を与えられた権力を操縦して、藩閥政治を貫いた、というわけである。

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