漢詩と中国文化

江州に左遷された翌年の元和十一年(816、46歳)、白楽天は琵琶行と題する歌詞を作った。友人を送る途中、たまたま琵琶を弾く夫人と遭遇し、その夫人の身の上話を聞くうちに、自分の境遇の悲しさが改めて身にしみ、この歌を作ったと序文にあるとおり、琵琶を弾く夫人にかこつけて自らの流謫の身の上を歌ったものと解される。そのへんのいきさつは、序文に詳しい。

白楽天が左遷された地九江は、陶淵明の故地として知られるところである。日ごろから陶淵明に心酔していた白楽天は、陶淵明縁の場所を訪ね、その遺風を慕う詩を詠んだ。すなわち、「陶公の舊宅を訪ふ」と題する五言古詩とその序文である。

元和十年(815、45歳)、白居易は江州司馬に左遷された。理由は、越権行為であった。宰相の武元衡が不審な殺され方をしたのに対して、当時太子左賛善大夫という官職にあった白居易は、真相究明を求める上疏をしたのであったが、諌官でもないのにそういう行為に及んだのは越権行為だとして罪に問われたのであった。(もっとも表向きの罪状は別件であったらしい)

秦中吟十首は、新楽府五十首とともに白楽天の風諭詩を代表するものである。同じく風諭詩でも、新楽府のほうが音楽の伴奏にあわせて歌うべきとされているのに対して、秦中吟はすべて五言古詩である。そのため、新楽府に比較していささか堅苦しさを感じさせる。作られたのは、新楽府より後、元和五(810)年ころとされている。この年の五月に白楽天は、京兆府戸曹参軍となっているから、そこへ赴任する以前に書かれた可能性が高い。ここでは、その第五首「不致仕」を紹介したい。

白楽天の「新楽府」から「其三十八 鹽商婦」壺齋散人注

  鹽商婦 多金帛   鹽商の婦 金帛多し
  不事田農與蠶績  田農と蠶績とを事とせず
  南北東西不失家  南北東西 家を失はず
  風水爲鄉船作宅  風水を鄉と爲し 船を宅と作す
  本是揚州小家女  本は是れ揚州小家の女
  嫁得西江大商客  嫁し得たり西江の大商客
  綠鬟溜去金釵多  綠鬟溜り去って金釵多く
  皓腕肥來銀釧窄  皓腕肥へ來って銀釧窄(せま)し
  前呼蒼頭後叱婢  前に蒼頭を呼び 後に婢を叱る
  問爾因何得如此  爾に問ふ 何に因て此くの如きを得たる
白楽天の「新楽府」から「其三十五 時世妝」(壺齋散人注)

  時世妝 時世妝   時世の妝 時世の妝
  出自城中傳四方  城中より出でて四方に傳はる
  時世流行無遠近  時世の流行 遠近無し
  腮不施朱面無粉  腮に朱を施さず面に粉無し
  烏膏注唇唇似泥  烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり
  雙眉畫作八字低  雙眉畫きて八字の低を作す
  妍媸黑白失本態  妍媸 黑白 本態を失し
  妝成盡似含悲啼  妝成って盡く悲啼を含めるに似たり
  圓鬟無鬢堆髻樣  圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣
  斜紅不暈赭面狀  斜紅暈せず赭面の狀
  昔聞被髪伊川中  昔聞く 被髪伊川の中
  辛有見之知有戎  辛有之を見て戎有るを知る
  元和妝梳君記取  元和の妝梳 君記取せよ
  髻堆面赭非華風  髻堆面赭は華風に非ず

白楽天の「新楽府」から「其三十二 賣炭翁」(壺齋散人注)

  賣炭翁          炭を賣る翁
  伐薪燒炭南山中  薪を伐り炭を燒く南山の中
  滿面塵灰煙火色  滿面の塵灰煙火の色
  兩鬢蒼蒼十指黑  兩鬢蒼蒼として十指黑し
  賣炭得錢何所營  炭を賣り錢を得て何の營む所ぞ
  身上衣裳口中食  身上には衣裳口中に食
  可憐身上衣正單  憐れむべし身上の衣は正に單
  心憂炭賤願天寒  心に炭の賤しきを憂へ天の寒からんことを願ふ
  夜來城外一尺雪  夜來 城外 一尺の雪
  曉駕炭車輾氷轍  曉に炭車を駕して氷轍を輾く
  牛困人飢日已高  牛は困しみ人は飢ゑ日は已に高し
  市南門外泥中歇  市の南門の外泥中に歇(やす)む
白楽天の「新楽府」から「其十七 五弦彈」(壺齋散人注)

  五弦彈 五弦彈  五弦の彈 五弦の彈
  聽者傾耳心寥寥  聽者は耳を傾け 心寥寥たり
  趙璧知君入骨愛  趙璧は知る 君が骨に入りて愛するを
  五弦一一爲君調  五弦 一一 君が爲に調す
  第一第二弦索索  第一第二の弦は索索として
  秋風拂松疏韻落  秋風 松を拂って疏韻落つ
  第三第四弦泠泠  第三第四の弦は泠泠として
  夜鶴憶子籠中鳴  夜鶴子を憶って籠中に鳴く
  第五弦聲最掩抑  第五の弦は聲最も掩抑にして
  隴水凍咽流不得  隴水凍咽して流れ得ず
  五弦並奏君試聽  五弦並び奏す 君試みに聽け
  淒淒切切複錚錚  淒淒 切切 複た錚錚
  鐵擊珊瑚一兩曲  鐵は珊瑚を擊つ一兩曲
  冰瀉玉盤千萬聲  冰は玉盤に瀉ぐ千萬聲

白楽天の新楽府から「其九 新豐の臂を折りし翁」(壺齋散人注)

  新豐老翁八十八  新豐の老翁八十八
  頭鬢眉須皆似雪  頭鬢眉須 皆雪に似たり
  玄孫扶向店前行  玄孫扶けて店前に向かって行く
  左臂憑肩右臂折  左臂は肩に憑り右臂は折れたり
  問翁臂折來幾年  翁に問ふ臂折れてより幾年ぞ
  兼問致折何因緣  兼ねて問ふ折るに致りしは何の因緣ぞと

白楽天の「新楽府」から「其八胡旋の女」(壺齋散人注)

  胡旋女 胡旋女   胡旋の女 胡旋の女
  心應弦 手應鼓   心は弦に應じ 手は鼓に應ず
  弦鼓一聲雙袖舉  弦鼓一聲 雙袖舉がり
  回雪飄搖轉蓬舞  回雪飄搖し 轉蓬舞ふ
  左旋右轉不知疲  左に旋り右に轉じて疲れを知らず
  千匝萬周無已時  千匝 萬周 已む時無し
  人間物類無可比  人間物類 比すべき無く
  奔車輪緩旋風遲  奔車 輪緩 旋風 遲し
  曲終再拜謝天子  曲終り再拜して天子に謝す
  天子為之微啟齒  天子之が為に微かし齒を啟(ひら)く

白楽天の新楽府より「上陽白髪の人、怨曠を愍むなり」(壺齋散人注)

  上陽人          上陽の人
  紅顏暗老白髪新  紅顏暗く老いて白髪新たなり
  綠衣監使守宮門  綠衣の監使宮門を守る
  一閉上陽多少春  一たび上陽に閉ざされてより多少の春ぞ
  玄宗末歲初選入  玄宗の末歲 初めて選ばれて入る
  入時十六今六十  入る時十六今六十
  同時採擇百余人  同時に採擇す百余人
  零落年深殘此身  零落して年深く 此の身を殘す
  憶昔吞悲別親族  憶ふ昔 悲しみを吞みて親族に別れ
  扶入車中不教哭  扶けられて車中に入るも哭せしめず
  皆云入內便承恩  皆云ふ 入內すれば便ち恩を承くと
  臉似芙蓉胸似玉  臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり
  未容君王得見面  未だ君王の面を見るを得るを容れざるに
  已被楊妃遙側目  已に楊妃に遙かに側目せらる
  妒令潛配上陽宮  妒(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ
  一生遂向空房宿  一生遂に空房に宿る
「資治通鑑」元和2年11月の条に、「盩厔尉、集賢校理白居易、楽府及び詩百篇を作り、時事を規諷すること禁中に流聞す、上見て之を悦び、召して翰林に入れしめ学士となす」とある。官僚生活を始めたばかりの白楽天にとって、「時事を規諷する」詩すなわち風諭詩は、もっとも力を入れたものであった。これに比べれば「長恨歌」のようなものは、単なる筆のすさびに過ぎないと、自らに言い聞かせていたのでもあったが、世人が風諭詩より長恨歌のほうを重んじたのは、白居易にとっては皮肉なことではあった。

白楽天の生涯の友となった元稹は、様々な点で白楽天とは対照的だった。白楽天がどちらかというと慎重な性格だったのに対して、大胆で自分の身を案じないところがあり、したがって世間の不正ともひるまず戦った。そんな性格がもとで、幾度も左遷されている。その一方で独特の政治感覚を持っており、宰相にまで上り詰めた。白楽天にはとてもできないことである。

白楽天の長恨歌がなったきっかけは、友人たちと共に仙遊寺に遊んだことだったことは、先稿で述べたとおりだ。その時に白楽天と行動を共にした友人の一人に王質夫がいた。白楽天が都に上ったのと前後して王質夫も都に召されたと思われる。ところが何かの事情で失脚したらしく、王は都を追われて故郷へ帰ることになった。その折に白楽天が王に送った詩が「送王十八歸山寄題仙遊寺」である。かつてともに遊んだことをなつかしみ、今後そのような喜びが得られないことを嘆くとともに、故郷へ帰れる友人を羨むと言って、慰めてもいる。

最期の段では、玄宗の使者と面会した楊貴妃が、自分の思いを切々とつづる場面が展開される。最後に有名な比翼の鳥と連理の枝の比喩を用いて、(玄宗と自分との)二人の切れぬ間を絶叫して終わる。

この段(四)では、悲しみに沈む君王のために四川省の名高い道士が招かれ、楊貴妃の魂魄を呼び出すようにと命じられる。そこで道士は弟子の方士に命じて、天上天下至る所を探させる。すると海上の仙山に仙女たちが住んでいるという噂を聞きつけ、そこに行ってみるに、果して楊貴妃らしい仙女が住んでいることがわかった。こうして、死に別れた楊貴妃と玄宗とが、夢幻のなかで結ばれる可能性が高まるのである。

この段(三)は、安禄山の乱が一段落して、皇帝が都へ帰るさまが描かれる。帰る途中、馬嵬にさしかかったところで、楊貴妃が空しく死んでいった悲しみにふけり、都に戻ってからも、楊貴妃のいない毎日を味気なく過ごす皇帝の気持ちが歌われる。

第二部は、安禄山の反乱に始まり、皇帝の軍隊が蜀へと逃亡するさまを描く。その逃避行の途中、馬嵬において兵士が反乱を起こし、楊貴妃を皇帝の目の前で殺してしまう
元和元(806)年、白楽天は元稹とともに制科に合格し、盩厔県の尉となった。盩厔県は長安の西方に位置し、かつて玄宗が安禄山を逃れて走る途中、愛する楊貴妃が殺された馬嵬が領内にあった。そんなところから白楽天は、楊貴妃の運命に関心を持ったのだと思われる。長恨歌はそんな関心から生まれた作品なのである。

白楽天は32歳の時に試判抜萃科の試験に合格するが、その時一緒に受験したものに元稹があった。白楽天が進士合格のエリートだったのに対して、元稹は明経科の出身であったが、努力をおこたらず準備したおかげで、難しく困難な試判抜萃科に合格した。その時の成績は、白楽天が主席、元稹は第五席であった。

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