漢詩と中国文化

陸游の七言律詩「九月三日、舟を湖中に泛ぶるの作」(壺齋散人注)

  兒童隨笑放翁狂  兒童隨って笑ふ 放翁狂すと
  又向湖邊上野航  又湖邊に向って 野航に上る
  魚市人家滿斜日  魚市の人家 斜日滿ち
  菊花天氣近新霜  菊花 天氣 新霜近し
  重重紅樹秋山晚  重重たる紅樹 秋山晚れ
  獵獵青帘社酒香  獵獵たる青帘 社酒香し
  鄰曲莫辭同一醉  鄰曲 辭する莫かれ 同(とも)に一醉するを
  十年客裡過重陽  十年 客裡 重陽を過ごす

淳熙7年(1180、56歳)の暮に、提挙江南西路常平茶塩公事の職を解かれた陸游はいったん故郷へ戻って次のポストを待命した。そして翌年の3月には提挙淮南東路常平茶塩公事に任命されるのだが、提挙江南西路常平茶塩公事在職中に上司の許可を得ずに官倉を開いたことを弾劾されて取り消されてしまう。
臨安に召喚されて天使との謁見を賜った陸游だが、彼に用意されていたポストは「提挙福建路常平茶塩公事」というものであった。これは経済官庁のひとつで、茶や塩の専売を監督するものである。今の福建省に当たる領域をカバーする官庁の長官であるから、格としては決して低くはないが、陸游にとっては満足できるものではなかったろう。それでも陸游は不満をいわず、いったん郷里に帰って休養した後、その年(1178)の暮に任地の福建省に赴いた。

陸游の五言絶句「楚城」(壺齋散人注)

  江上荒城猿鳥悲  江上の荒城 猿鳥悲し
  隔江便是屈原祠  江を隔つれば 便ち是れ屈原の祠
  一千五百年間事  一千五百年間の事
  只有灘聲似舊時  只だ灘聲の舊時に似たる有り

淳熙五年(1178年、54歳)、陸游は皇帝孝宗の命によって臨安に召喚される。陸游はそれを、政務への登用の機会ととらえたが、孝宗の本意はそうではなかった。孝宗は詩人としての陸游の才を愛でて、直に話し合いたいと願って、陸游を呼び寄せたのである。これは「召対」といって、天使が親しく臣民と向き合う特別な機会なのである。

陸游の七言古詩「浣花の女」(壺齋散人注)

  江頭女兒雙髻丫  江頭の女兒は雙髻丫(きつあ)
  常隨阿母供桑麻  常に阿母に隨って桑麻に供す
  當戶夜織聲咿啞  戶に當って夜織れば 聲咿啞たり
  地爐豆秸煎土茶  地爐の豆秸 土茶を煎る
  長成嫁與東西家  長成すれば嫁與す 東西の家
  柴門相對不上車  柴門相ひ對して 車に上らず
  青裙竹笥何所嗟  青裙 竹笥 何の嗟する所ぞ
  插髻燁燁牽牛花  髻に插すは 燁燁たる牽牛花
  城中妖姝臉如霞  城中の妖姝 臉(かほ)霞の如し
  爭嫁官人慕高華  爭ひて官人に嫁し 高華を慕ふ
  青驪一出天之涯  青驪 一たび天之涯を出づれば
  年年傷春抱琵琶  年年 春を傷みて 琵琶を抱く

陸游の七言律詩「春愁」(壺齋散人注)

  春愁茫茫塞天地  春愁 茫茫として 天地を塞ぎ
  我行未到愁先至  我が行 未だ到らざるに 愁ひ先づ至る
  滿眼如雲忽復生  滿眼 雲の如く 忽ち復た生じ
  尋人似瘧何由避  人を尋ぬること 瘧に似たり 何に由ってか避けん
  客來勧我飛觥籌  客來りて 我に勧む 觥籌を飛ばせと
  我笑謂客君罷休  我笑って 客に謂ふ 君罷めよ休めよ
  醉自醉倒愁自愁  醉へば自づから醉倒するも 愁ひは自づから愁ふ
  愁與酒如風馬牛  愁ひと酒とは 風馬牛の如しと

淳熙三年(1176)職を免じられた陸游は、成都の郊外に家を借りて寓居し、引退生活に入った。そんな陸游のために范成大はなにかと心配してくれて、祠録を領するように取り計らい、生活の基盤をととのえてやった。ここで陸游は約二年間悠々自適の生活を送ることになる。
陸游と范成大はかつて編類聖政所において同僚として勤務していた間柄であった。五年前の乾道六年《1170》には、夔州に赴任する陸游と、金への使いに赴く范成大とが、鎮江の近くの金山寺で会っている。その後、范成大のほうは順調に出世して、いまや四川省をはじめとする西部方面の軍の最高司令官になった一方、陸游はその部下として仕える身になったわけである。
淳熙元年(1174)の暮、栄州知事代理の職にあった陸游は、成都府路安撫使司参議官への就任を打診された。打診したのは旧来の友人范成大であった。范成大はこの年広南西路計略安撫使(今の広西省方面の軍司令官)として桂林に赴任していたが、淳熙2年中に成都府路安撫使(四川省等西部方面の軍司令官)に転ずることになっていた。そこで赴任に先立って、自分の幕府の参謀として、その地にいた旧知の陸游に声をかけたのだと言われている。陸游はその打診を喜んで受け入れた。というのも、軍事面で巨大な影響を行使することとなる友人の幕府に加われば、陸游の宿念たる金への反攻に、一歩でも近づくことが出来るかもしれないからだ。
嘉州在任中に詠んだ詩のひとつに「金錯刀行」がある。錯刀とは象嵌をあしらった刀の意であるから、この刀には黄金の象嵌があしらわれていたのであろう。これは、その刀を振り回しながら歌ったものと思われる。「行」は楽府のひとつで、音楽に合わせて歌うものだ。
陸游は、蜀の内部を転々とした二年ばかりの間に、戦いを詠んだ歌を多く作っている。そこが金との前線に近かったことを反映しているのだろう。「九月十六日夜夢駐軍河外遣使招降諸城覺而有作」は乾道9年(1173)嘉州にあっての作。南宋が金と戦って勝つ夢を見た。その夢の内容を書いたものだ。
乾道九年(1173、49歳)夏、陸游は嘉州に赴任するが、そこはかつて岑参の赴任したところであった。そこで陸游は、これも何かの縁と思い、岑参の詩を集めて一冊とし、それを公刊した。
乾道八年(1172、48歳)秋、王炎幕府の解散に伴って興元府を離れた陸游は、その年の末に成都に到着した。陸游を待っていたのは、成都府路安撫使司参議官という職であった。これは単に名目上の職であり、王炎幕府の解散によって職を失った陸游をとりあえず処遇しようとする腰掛のポストだったと考えられる。
四川宣撫使王炎は、金との戦いに備えて準備に怠りなかったが、乾道8年(1172)10月、中央政府の役職である枢密使に転じてしまった。和平派が勢力を盛り返し、王炎の主戦論を退けた結果である。首領がいなくなったことで、王炎の部隊は解散。陸游も成都府安撫使司参議官に転ずることになった。
陸游が南鄭にいたのはわずか半年ばかりのことだが、その半年は中身の濃い時間だった。金との国境に近く、長安はすぐ目の前にある。陸游は、金の占領地に攻め入って、長安を取り戻し、宋を再興することを願っていた。それ故、毎日が緊張した日々だったのである。
南鄭での張りつめた日々を歌った詩からもうひとつ、「山南行」を紹介する。山南とは秦嶺山脈の南という意味で、南鄭の位置する漢中最奥地帯をさす。「行」とは「詞」の一種で、節をつけて歌うことを目的としたものだ。
乾道八年(1172)3月、夔州での勤務が半年にもならないうちに、陸游は権四川宣撫使司幹弁公事という職に任命された。これにはちょっとした訳がある。
陸游が赴任した夔州は三峡の一角にあって、付近には白帝城がある。古来風光明媚で有名なところであった。杜甫が晩年の二年間ほどをここに滞在し、数々の名作を詠んだことはよく知られている。
入蜀記によれば、陸游は六月二十六日に鎮江で大きな船に乗り換え、そこから夔州をめざして長江を遡った。船は帆を張らず、櫂と引き綱とで、つまり人力で進んだとある。百丈と呼ばれる引き綱は、男の腕程の太さがあり、それを両岸の人夫たちが引いた。人夫はみな四川の者だったらしい。
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