世界の文学

ドストエフスキーがオムスクの監獄に収監されたのは政治囚としてだ。かれはその体験をもとに「死の家の記録」を書いたわけだが、自身の体験をそのまま書いたわけではなく、かなりな改変を加えている。おそらく検閲をはばかって、架空の話という外見を施す必要を感じたからだろう。舞台となった監獄はオムスクではなく、イルトゥイシ川上流の、カザフとの国境近くの要塞ということにしているし、小説の主人公である「死の家の記録」作者は、政治犯ではなく殺人犯である。監獄全体がそうした凶悪犯を収監しているように描かれているのである。なおこの小説の中では、カザフをキルギスと呼んでいる。帝政ロシア時代には、カザフ以下現在中央アジア五か国といわれる地域をキルギスと呼んでいたのである。

「死の家の記録」がドストエフスキー自身のシベリアでの投獄生活から生まれたことは、文学史上の定説になっている。ドストエフスキーは、いわゆるペトラシェフスキー事件に連座して死刑の判決を受けた後、死刑執行直前に判決が取り消され、四年間のシベリア流刑を言い渡された。死刑にまつわる逸話自体が非常にショッキングなことなのだが、流刑生活のほうもかれにとってはショッキングだった。その流刑をきっかけにして、かれは「自由主義」思想を捨てて「健全な」保守思想を抱くようになったほどだ。それほどこの流刑は、かれにとっては人生の転機となった事態であった。それをドストエフスキーは無駄にやりすごすことはできなかった。その体験を自身の文学の糧にすることで、文学者として一段の成熟をめざそうとした。この「死の家の記録」と題した小説は、そうしたドストエフスキーの意図が込められたものであって、かれはこの小説によって、作家として一段と大きな成長を遂げたといえるのである。

近代小説の最大の特徴は客観描写ということにある。小説には語り手がいて全体の進行役を務める。語り手は主人公たちを俯瞰する一段高いところに位置していて、そこから登場人物を第三者の目で眺め、登場人物の心理に立ち入る場合でも、あくまでも客観的な視点から描写する。そこでは内面は外面を通じて現れるのである。だから、主人公が多少エクセントリックであって、読者が感情移入できないような場合でも、語り手が間に入ってその隙間を埋めてくれる。だから読者は、自分自身第三者の立場から小説の進行に立ち会いながら、しかも登場人物たちの内面に触れることもできるのである。

「二重人格(Двойник<分身>とも訳される)」は、ドストエフスキーにとって二作目の小説である。処女作「貧しき人びと」刊行後わずか二か月後に、雑誌「祖国雑記」に発表した。ドストエフスキー自身はこの小説に大きな自信をもっており、「貧しき人びと」の十倍ほどの価値があるといっているが、世間の受けは芳しくなかった。批評家の評価も低かった。題材の異常さが、この小説を受け入れがたくさせたのだと思う。たしかに、今日の読者にもわかりやすいものではない。そのわかりにくさは、小説の主人公の人格があまりにも浮世ばなれしており、人間的な共感をさそうものではないところに根差しているように思える。

「貧しき人びと」には、ジェーヴシキンとワルワーラがロシア文学について談義する場面がある。これは、ドストエフスキーが小説中の登場人物を借りて、自分自身のロシア文学論を展開したものとする見方もあるが、その部分を読んですぐわかるとおり、ドストエフスキー自身の文学観とは全く関係ないといってよい。そうではなく、これはジェーヴシキンの被害妄想の一例として扱われているのである。

ドストエフスキーが処女作の「貧しき人びと」を書いたのは、満二十四歳のときだから、若書きといえる。若書きにありがちな不自然さを感じさせる。たとえば、この二人の人物設定だ。二人ともこの小説のテーマである「貧しさ」を象徴する人物として設定されているが、そもそもかれらは普通の庶民ではない。マカール・ジェーヴシキンは一応九等官の役人という設定だし、ワルワーラ・ドブロショーロワは、孤児の身の上とはいえ、侍女を召している。侍女を召しいているほどの人間が、赤貧の境遇にあるとはいえまい。そこでタイトルにある「貧しき」というのは、文字通りの意味ではなく、どちらかといえば、「哀れな」というような意味合いの言葉ではないかとの推測がなされてきた。ロシア語の бедный という言葉には、フランス語の pauvre と同じく、「貧しい」と「哀れな」という二重の意味があることを踏まえてだ。

「死せる魂」を構想するにあたってゴーゴリは、ロシアを地獄に見立てたほどだから、ロシアをこき下ろしているのは当然のことだ。ゴーゴリのロシア観は嘲笑的である。ロシア人というのはろくでもない人種で、そんな人種でできているロシアという国は、地獄よりひどいところだ、そんなゴーゴリの痛罵が伝わってくるのである。

ダンテの「神曲」にならって構想した「死せる魂」の第一部は、いわば「地獄編」に相当するものだ。ダンテの「地獄編」は、ヴィリギリウスに案内されながら地獄を遍歴するダンテを描いていた。ダンテの描くところの地獄は、キリスト教の地獄である。それに対してゴーゴリの描く地獄は、同時代のロシアである。ゴーゴリは彼の生きていた同時代のロシアを地獄に見たてたというわけだ。ダンテはヴィリギリウスに案内されて地獄を経めぐったのであったが、ゴーゴリの「地獄編」の主人公チチコフは、ほかならぬ語り手の作者に案内されながらロシアの町を経めぐるのである。

ゴーゴリは「死せる魂」を三部構成の長大な小説として構想していた。その構想は、第一部(現存する「死せる魂」)の最後の章で示されている。この章は、小説の主人公チチコフが従僕を率いて馬車を走らすところで終わっているのだが、かれらの旅の前には、さらに「膨大な二編」分の話が待っていると書いているのである。それがどんな内容になるのか、については語っていない。だがゴーゴリはこの三部作の小説全体を、ダンテの「神曲」にならって構想していたことがわかっている。ダンテの「神曲」は、第一部が「地獄編」、第二部が「煉獄編」、第三部が「天国編」という構成だが、それをモデルにしていたとすれば、「死せる魂」の第一部は「地獄編」に相当することになり、そのあとに「煉獄編」、「天国編」に相当するものが続くことになる。

ゴーゴリの短編小説「外套」を評して、ドストエフスキーが「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から生まれたのだ!」といったことはよく知られている。ドストエフスキーがそういった理由は、ゴーゴリのこの小説が、かれを含めたロシアの作家たちの模範となったということだ。それほどこの小説は、ゴーゴリ以後のロシア文学に決定的な影響を与えたのである。

「検察官」はゴーゴリの代表的な戯曲であり、世界文学史の上で独特の存在感を誇る作品だ。この戯曲は発表早々すさまじい反響を呼び、そのためゴーゴリはロシアにいられなくなり、長きにわたる外国生活を余儀なくされたのであった。とはいえ、官憲による弾圧を嫌ったわけではない。この戯曲は、少数の友人の前で朗読されたあと、一般公開に先立ってニコライ皇帝の前で演じられた。するとニコライ皇帝は腹をかかえて笑ったというし、プーシキンも太鼓判を押してくれた。この戯曲が書かれるにあたっては、プーシキンも一役かったいたのであるが、その出来栄えはプーシキンの予想を超えるものであったのである。

ゴーゴリの短編小説「鼻」は、ある種の変身物語である。変身の話はヨーロッパではそれなりの伝統があるようで、それを踏まえたうえで、カフカも「変身」を書いた。カフカの小説の主人公は、人間がごきぶりに変身するのであるが、これはやはり、人間のナルシスが水仙に変身したというオヴィディウスの話にヒントを得たものであろう。ゴーゴリが「鼻」を書いたのはカフカより百年も前のことで、カフカのように強烈な不条理意識はないともいえるが、しかし鼻のない人間というのは、やはり不条理な事態といえなくもない。しかも、その失われた鼻がまるで自立した人間のようにふるまうのだ。だからこの小説を不条理文学の先駆けとして読むこともできるであろう。

ゴーゴリの中編小説「狂人日記」は、作品集「アラベスキ」に収載された。この作品集は1835年に、「ミルゴロド」と前後して刊行され、評論のほか中編小説数編を収めていた。それらのうち、「狂人日記」が書かれたのは1831年のことである。

ゴーゴリの中編小説「タラス・ブーリバ」は、「ディカーニカ夜話」に次いで出版した小説集「ミルゴロド」に収載されたもの。この小説集は四編の中編小説からなり、書名にあるとおり、いづれもミルゴロドを舞台にしている。ミルゴロドは、ディカーニカと同じくポルタヴァ県所在の町である。ウクライナ語(ロシア語のウクライナ方言)で、「平和の都市」を意味する。だが、この小説集の舞台となるのは、とても平和とは言えない。

「ディカーニカ近郷夜話」の続編は、四編の短編小説からなり、本編の翌年に出版された。中編といってよい比較的長い話二編と、短い話二編からなっている。本編の四編同様、基本的には悪魔を中心にした民話風の話である。三つ目の話「イワン・フョードロヴィチ・シポーニカとその叔母」には悪魔は出てこないが、主人公が見る幻影は悪魔の仕業といえなくもないので、それを含めてすべてが悪魔的なものをテーマにした民話の集まりということができる。それらの民話風の物語を通じてゴーゴリは、ロシア人、とくにウクライナに暮らす人々の宗教意識とか、民俗的な特徴を描き出しているのである。

「ディカーニカ近郷夜話」は、ゴーゴリの名を世間に知らしめた出世作である。八編の短編小説からなっている。ゴーゴリはそれらの小説類を1829年、つまり二十歳の時に書き始め、1831年に四編からなる前巻を、翌1832年に残りの四編からなる後巻を出版した。反響は好意的で、一躍人気作家になった。作家として早熟な点は、先輩のプーシキン同様である。ただプーシキンが詩人として出発したのに対して、ゴーゴリは詩を書かず、短編・中編の小説類を書き続けた。唯一の長編小説「死せる魂」は未完に終わっている。

レールモントフが叙事詩「悪魔」を完成させたのは、死の年である1841年のことであるが、書き始めたのは1829年であるから、十二年も費やしたことになる。かれは二十六歳で死んだので、生涯のほとんどをこの叙事詩のために費やしたといえる。かれの意識の中では、自身にとっての当面のマスターピースという位置づけだったのであろう。

レールモントフの叙事詩「ムツィリ」は1839年に書かれた。「現代の英雄」を執筆する以前のことであり、レールモントフにとっては最初の本格的文学作品である。プーシキンの死を悼んだ「詩人の死」以来、レールモントフの文学上の傾向は、同時代のロシアを強烈に批判しながら、そこに生きる若者の苦悩とか怒りをテーマにしたものだったが、この「ムツィリ」はそうした傾向を強く感じさせる作品だといえよう。

レールモントフは、プーシキンを深く敬愛していた。かれにとってプーシキンは、文学の手本であるとともに、生き方を導いてくれる人でもあった。デカブリストが弾圧されて、ロシア社会が閉塞的な状態に陥った時にも、プーシキンは未来への希望を捨てなかった。レールモントフにとっては、プーシキンはトータルな模範だったのである。

「現代の英雄」は、レールモントフ唯一の本格的小説である。かれがこの小説を出版したのは1840年2月、二十五歳のとき。翌1841年7月、決闘の結果満二十六歳で死んでいるから、これはかれにとって最初の本格的な小説であったばかりでなく、最後の小説でもあったわけだ。若いレールモントフは非常に軽はずみなところがあったようで、この小説が完成する直前にも決闘をしている。その際には肘にかすり傷をおったくらいですんだが、二度目の決闘のときには、受けた弾丸が致命傷になった。

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