世界の文学

アントン・チェーホフの一幕もの戯曲「熊」は、好色な中年男と世間知らずな未亡人との一目惚れの恋を描いたものだ。テーマ設定としては、短編小説「犬を連れた奥さん」と似ている。こちらの方が十年も前に書かれていることもあり、テーマの特徴がより単純化された形で現われている。それは一言で言えば、ロシア人男女の刹那的な傾向とかかわりがある。ロシアの男はわけもなく女に一目惚れし、女もそれに対してわけもなく応えるという傾向だ。こういう話を読まされると、ロシア人と言うのは実に純粋な人々だと思わせられる。

チェーホフの短編小説「犬を連れた奥さん」は、好色な中年男と世間知らずの尻軽女との恋を描いている。こういう組み合わせは、我々日本人にとっては、だいたいが、男が女を弄んで終りという形になりやすいが、ロシア人の場合には必ずしも、そうはならないらしい。女のほうより男のほうが熱くなってしまうのだ。ということは、結果としては、女が男を弄んだ形になる。これは、どういうことか。前回とりあげた「可愛い女」では、ロシア人女性の典型として、自分の判断を持たぬ受動的な女性像が示されていたのだが、この小説では、ある意味男を弄ぶ積極的な女性像が示されているようにも見える。一体どちらの女性像が、ロシア人女性の典型に近いのだろうか。

チェーホフが「可愛い女」で描いて見せたのは、ロシア人女性の典型的なタイプということなのだろうか。日頃ロシアと接する機会に乏しい我々普通の日本人にとっては、ロシア理解のカギになるのはロシア文学ということになろうが、そのロシア文学に描かれたロシア人女性というのは、たとえば「アンナ・カレーニナ」におけるアンナのような、自立心の強い女というイメージがある一方、ドストエフスキーの小説、たとえば「罪と罰」に登場する敬虔で、自己主張をしない女たちのイメージもある。どちらがより正確に典型的なロシア人女性に近いのか、筆者などにはわからないが、チェーホフのこの小説を読むと、どうもロシア人女性に多いタイプは、敬虔で自己主張をしない女性なのではないかと、思われたりもする。

チューホフの短編小説「イオーヌィチ」は、ロシアのプチブルを描いたものである。どこの国でもそうだが、プチブルというのは独特の心情をもっている。地主や大ブルジョワと違って生活の基盤がしっかりしているわけではなく、ついうっかりすると下層階級に転落しないとも限らない。したがって、プチブルとしての体面を保つためにはそれなりの努力が必要だ。できうれば、上流階級になるべく近づきたい。そのためには始終努力が必要である。また、自分のメンツを保つために、そこそこの贅沢も許されるが、なんといっても肝心なことは、金をためることである。金がたまれば人さまからいっぱしの人物と認められ、美しい女を女房にすることもできる。そんなささやかなプチブルの欲望を、この小説は心憎いタッチで描いている。

小生は過日ロシアを旅して、ロシア人について聊か思うところがあった。なかでも最も印象的だったのは、ロシア人には二種類の人間がいるということだった。非常に人が良くて、誰に対してもあけっぴろげだが、それが仇になって人に騙されやすいタイプの人間が多くいる一方で、そうした人間に付け込んでけしからぬ利得を得ようとする雲助のような小悪党がいる。ロシア人にはこの二種類の人間のほかにもまだ別の人間がいるのかもしれぬが、旅行者の小生にはそこまではわからなかった。というのも小生が旅行中身近に接した人間は、一部の狡猾な雲助どもと、大部分の善良で人の良さような人たちばかりだったのだ。

ロシア文学にはユニークな人間類型が登場するが、なかでもいかにもロシア人らしいものといえば遊民だろう。遊民というのは、まともな仕事をしないで、ただ漫然と生きている連中のことで、自分自身にはいいところが全くないくせに、その自分をいっぱしの人物と自認する一方、世の中を甘く見て、自分以外の人間たちを軽蔑している。そんなことが身に着いたのは、かれらが生まれながらに甘やかされて生きて来たからで、それというのも、かれらは生まれながらに莫大な財産を持ち、また高等教育を受けてきたからだ。高等教育はかれらにとっては、世界を正しく解釈する手掛かりを与えてくれるというよりは、こざかしい理屈を弄して世間を馬鹿にする手だてをもたらしてくれるにすぎない。

「決闘」はやや長めの短編小説である。しかも章立てをとっていて、21章からなる。短編小説としては破格の長さと複雑な構成というべきである。そうなったのには理由がある。チェーホフはこの小説を通じて、ロシア人の典型的な人間像のいくつかのパターンを読者に示そうと試みたのだ。人間像は、スケッチ風にさらっと描かれることもできないわけではないが、チェーホフはかなり本格的に描こうとしている。それでこの小説は、短編小説としては破格の長さと複雑な構成を取るに至ったわけであろう。

アントン・チェーホフ(1860-1904)は短編小説と何本かの戯曲を書いて、四十四歳の若さで死んだ。かれがこれらの形式にこだわったのは、物語よりもロシア人を描きたかったからだろう。かれほどロシア人の人間性にこだわった作家はいない。そうした人間性は、無論長編小説の形式でも描くことができるが、短編小説や戯曲を通じてのほうが、人間性の典型は描出しやすい。人間性の色々なパターンを、限定された形式を通じて、典型的に示すこと、それがチェーホフの狙いだったように思える。

フランツ・カフカという作家は、世界の文学史の常識を覆すような作品を書いたわけだし、また人間としてもユニークな生き方をしたので、非常に影のある存在だと受け取られている。そんなこともあって、カフカを論じる視点は多様でありうる。といっても、星ほど多くのカフカ論というものがあるわけではない。偉大な作家と呼ばれるにしては、彼を論じたものは、意外と少ないのだ。しかも、その視点はかなり限られている。カフカのテクストに沿って、作品を内在的に解釈しようとするものか、あるいはカフカの生き方に焦点を当てて、カフカの小説の独特さは、彼の生き方の独特さを反映しているとするものか、そのどちらかと言ってよい。

ボルヘスの「カフカの先駆者たち」は、文庫本にしてわずか五ページの小文であるが、カフカという作家の意義をよく捉えた名文になっている。さすがに文章の達人ボルヘスだ。

ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

アルトゥールとイェレミーアスは、「城」からKの助手として派遣されたものだ。彼らは小説の最初の部分から登場する。そしてなにくれとなくKに付きまとい、Kの行動に一定の色を添えた後、突然小説の進行から脱落する。彼らをわずらわしく思ったKが追い払ったということになっているが、実際は彼らのほうでもKにうんざりしていたのだ。

オルガとアマーリアの姉妹に接近したことで、Kはフリーダの怒りを買うことになるのだが、彼が彼女たちに接近したのは、彼女らに会うためではなかった。Kは彼女らの弟であるバルナバスに会うために彼女らの家に行ったのである。というのも、バルナバスはクラムからの手紙をKに送り届けた人間であって、そのクラムと会うための手がかりを一番持っているはずの人物として、Kには見えたからだった。そこでバルナバスの家、つまりオルガとアマーリアの住んでいる家に出かけていったわけだが、そこでKは思いがけない話をオルガから聞かされる。

カフカの小説に出てくる女性には、一定の共通パターンがある。どの女性も、主人公にとってゆきずりの関係にある。複数の女性たちが出てくる中で、群を抜いて重要な役割を演じる女性はいるにはいるが、それらの女性にしても、最後まで主人公と運命を共にしない。だいたいが途中でいなくなってしまうのだ。それもかなり唐突な感じで。「アメリカ」の場合には、主人公の保護者を買って出たホテルの年長の女性がそうだし、「審判」の場合には弁護士の看護婦を勤めているレーニがそうだった。「城」の場合には、フリーダがそれにあたる。フリーだがいなくなった後はベーピーがその穴を埋めるように登場するが、これも主人公にとっては決定的な意味を持つ女性にはなりえず、いつの間にか消えてゆく運命にあるように思われる。唯一の例外は「変身」の妹だが、これはたまたま同胞としての役柄なのであって、かならずしも女性である必然的な理由はないように思われる。こんなわけでカフカの女性たちは、主人公の運命にとっては、ゆきずりの非本質的な役割にとどまっているように見えるのだが、しかしもし彼女らが存在しなかったとしたら、小説はかなり味気ないものになっただろう。その意味では、小説に一定の効果を及ぼしてはいる。もっとも、効果のない人物像など、すぐれた小説に入り込むよりはない、といってよいのだが。

「城」は普通には、未完成の作品と受け止められている。形式的にはそのように見える。主人公Kと旅館紳士荘のおかみとの会話の途中で中断してしまうし、話の流れからしても、とても完結しているようには見えない。しかしよくよく考えれば、この奇妙な話にまともな終り方があるだろうか。そもそもこの小説は、なにかまとまりのある筋書きからできているわけではない。たしかに、主人公には個人的な目的があり、とりあえずはその目的をめぐって小説が展開してゆくのであるが、そのうちに主人公自身が自分の目的を見失ってしまうようなところがある。主人公が、自分の行為について明確なイメージを持っていなければ、小説を読んでいる者にはなおさら、なにがそこで問題となっているのか見えてこない。ところが小説というものは、昔から多かれ少なかれ、問題なしでは進まなかったものなのだ。

「審判」の第九章は、「聖堂にて」というサブタイトルで、ヨーゼフ・Kが聖堂の中で若い聖職者と交わす会話が中心になっている。この章に続く章が最終章であり、そこでいきなりKが死刑執行人に連行され、野原の片隅で刑を執行され、「犬のように」死んでゆくわけであるから、この第九章は、色々な意味で、「審判」という作品を解釈する上での手がかりを秘めているといえる。その手がかりをどのように引き出すかは、読者次第なのであるが。

筆者は先に、「審判」でカフカが描いたのは、同時代のヨーロッパに現われた息苦しい官僚制社会ではないかと言った。もしこの小説が、「変身」と同じように、主人公の身に起こったごく個人的な出来事を描いただけならば、多くの批評家たちが口を揃えて言うように、気味の悪い不条理小説ということになるのだろうが、この小説の中で不条理な目に会っているのは、主人公だけではない。主題化され前景化してはいないけれど、他に夥しい数の人々が、主人公のヨーゼフ・Kと全く同じ境遇に陥っている。しかも彼らには、彼らを訴追したものがある。それは当面は裁判所ということになっているが、要するに官僚制という形をとった権力機構である。その権力機構が、国民の一人ひとりを、大した根拠もなく抑圧する、そういう基本的な構図が、この小説からは読み取れる。そうした抑圧の支配する社会は、ディストピアと言ってもよいから、この小説はディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさを描いたものだ、と言えるわけである。

カフカの小説の中に出てくる女性たちは、みな一風変わっている。小説の中に出てくる女性たちには、色々なパターンがありうるわけで、彼女らが多少常道から外れているからといって、別段不都合はないわけだが、カフカの小説の中に出てくる女性たちは、揃いも揃って常道からかなり外れた、ちょっといかれた人達なのだ。カフカの女性の中で、最もしとやかに感じられるのは、「変身」に出てくるグレゴール・ザムザの妹であるが、彼女さえ最後にはゴキブリになった兄の背中にリンゴを投げつけ、それが原因で兄を死なせてしまう。ところが、彼女はそのことに罪の意識を感じるどころか、自分たち一家の上に覆いかぶさっていた不吉な運命を、追い払うことができたことを、喜ぶ始末なのだ。

「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

カフカの小説「アメリカ」の最終章である第八章は「オクラホマの野外劇場」と題されている。その題名にある「オクラホマの野外劇場」に就職しようとするカール・ロスマンを、この章は描いているわけだが、一読してすぐわかるように、小説のこれ以前の部分と大きく断絶している。ほとんどつながりがない。オリエンタル・ホテルのエレベータ・ボーイ仲間がちょっと出てくるだけだ。それも、あってもなくても違いがないような、ぞんざいな扱い方だ。それゆえ読者はこの部分を、独立した短編小説として読んでも、なんらの不都合を覚えないだろう。短編小説としてなら、それなりにまとまった筋書きになっている。

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