世界の文学

ラテン・アメリカ諸国の歴史は、数多くの独裁政権によって彩られている。もともとが、ヨーロッパからやってきた白人たちによって人為的に作られ、その白人たちの国家が全国民を統合するだけの力を持たなかったので、専制的な独裁政権ができるのは自然な流れだった。ひとくちに独裁政権といっても、色々なタイプがある。もっとも多いのは、軍事力を持った地方的な勢力が、互いに抗争を繰り返しながら政権交代するというものだろう。そういう軍閥のような勢力を、カウディージョという。ラテン・アメリカ文学には、こうしたカウディージョに焦点をあてて、ラテン・アメリカ的な独裁体制を強く批判した一連の作品群がある。ガルシア=マルケスの小説「族長の秋」もそうした作品の一つであり、アストゥリアスの「大統領閣下」と並んで、いわゆる独裁者文学の最高傑作とされている。

「大佐に手紙は来ない」は、ガルシア=マルケスの最初の本格的な小説である。そんなに長くはないので、長編小説とまではいえない。中編というべきだろう。だから、入り組んだ筋書きにはなっていない。筋らしいのものはほとんどないに等しい。コロンビアの港町で手紙が来るのをひたすら待ち続ける男の話である。男はもと軍人であって、大佐として活躍していたので、いまでも人々から大佐と呼ばれている。その大佐が待っている手紙とは、軍人恩給の決定通知書だ。貧乏なうえに息子を失ったばかりの大佐は、いまや七十五歳にもなって、妻と二人で貧乏生活を送っている。ただ一つの望みは、軍人恩給をもらって気楽に生きることだ。しかし、その軍人恩給の決定通知書がなかなか来ない。大佐には軍人恩給の受給資格があり、そのことは当局も認めているのだから、かならず決定通知書が来るはずだ。それを信じて大佐は、毎週金曜日に町にやって来る郵便物を確認するために、郵便物を運んでくる船が着岸する港まで出かけていくのだ。じっさい大佐は、この小説が続いているかぎり、その郵便物を待ち続けるのだが、それはついにやってこないのだ。「大佐に手紙は来ない」というタイトルは、そんな事情を手短に表現したものなのである。

「百年の孤独」は、ブエンディア家の七代にわたる記録という体裁をとっており、代々の男たちの生きざまが中心になるのだが、女たちも男たちに劣らぬ存在感を発揮している。彼女たちは、それぞれが個性的で、自分自身の信念にしたがって生きており、したがって自立した女たちであり、けっして男に従属してはいない。それどころか、自分の意志で男たちを動かす強さをもっている。そんな女たちに読者は、ラテン・アメリカの女の意地を見ることができるのではないか。

「百年の孤独」の後半部分は、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリアノ・セグンドの双子の兄弟を中心に展開していく。ハイライトとなるのは、ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労働者のストを扇動し、そのストが官憲によって粉砕されるところを描いた部分である。バナナ会社はアメリカ資本であり、その苛酷な搾取に怒った労働者がストに訴えると、官憲が、アメリカ資本を守るために国民を虐殺するという構図は、19世紀におけるアメリカ資本のラテンアメリカ支配に共通したものである。その構図にガルシア=マルケスは怒りを覚え、ホセ・アルカディオ・セグンドを反アメリカ資本の闘いの英雄にしたのであろう。

「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリアノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものと見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない」。小説「百年の孤独」はこんな文章で始まる。アウレリアノ・ブエンディ大佐とは、ブエンディア家の初代でマコンドの創設者であるホセ・アルカディオの次男である。そのアウレリアノ大佐の闘いに明け暮れた人生が、小説前半の骨格をなしている。

「百年の孤独」は、ラテン・アメリカ文学を象徴するような作品である。この作品が発表された1967年以前から、アストゥリアスやボルヘスなどが、ラテンアメリカ文学の旗手として知られていたが、ラテン・アメリカ文学はまだまだマイナーでローカルな分野だと受け止められていた。ガルシア=マルケスのこの小説は、そんなラテン・アメリカ文学を20世紀の世界文学の中心に据えたのである。いってみれば、ラテンアメリカ文学の輝かしい確立宣言の役を担ったわけである。

ラテン・アメリカの歴史の案内書として、増田義郎の「 物語ラテン・アメリカの歴史」(中公新書)を繙いてみた。これからラテン・アメリカ文学を読むつもりなのだが、それにはラテン・アメリカの歴史についてある程度の知識が必要となるようなので、手っ取り早くその期待に応えてくれそうな本として、これを選んだだ次第だった。

寺尾隆吉「ラテンアメリカ文学入門」(中公新書)は、木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」と並んで、ラテンアメリカ文学への手ごろな入門書である。寺尾の本の五年後に出た。木村は膨大な数のラテンアメリカ文学作品を日本語に翻訳しているが、寺尾もまたかなりの規模の翻訳を行っている。そんなこともあって、両者とも、作品の詳細についてすみずみまで読み込みながら、かゆいところに手の届くような解説をする一方、ラテンアメリカ文学の特徴を俯瞰するような視点も見せてくれる。

木村榮一はラテンアメリカ文学の翻訳者で、数多くの作品を日本に紹介してきた。ラテンアメリカ文学が世界中に本格的に知られるようになるのは、20世紀半ば以降のことで、とくに1967年に出版されたガルシア・マルケスの「百年の孤独」が大きな役割を果たしたようだ。その後、文学の巨匠というべき作家たちが次々と登場し、ラテンアメリカ文学は20世紀後半以降の世界文学を牽引するものとなった。そんなラテンアメリカ文学を木村は勢力的に日本に紹介してきたわけだ。

新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

フランス文学といえば、強烈な個人主義と男女の性愛が最大の特徴だ。セリーヌの小説「夜の果ての旅」も、その伝統に忠実である。この小説は、強烈な個人主義者フェルディナン・バルダミュの女性遍歴の物語と言ってよい。

大江健三郎には、自分の小説の中でさまざまな文学作品を取りあげ、それへの注釈の形で自分の思想を吟味するという癖があった。「さようなら、私の本よ!」という小説では、セリーヌの「夜の果ての旅」を取りあげている。だが、詳しい注釈をしているわけではない。詳しい注釈はT・S・エリオットの詩に対して施され、「夜の果てへの旅」については、「おかしな二人組」の先例として紹介している程度だ。「おかしな二人組」というのは、大江が自身の晩年の三部作に冠した通称で、大江自身の分身と、それの更に分身と思われる人物との、おかしな二人組の繰り広げる物語を語ったものだった。その大江にとって、セリーヌの「夜の果ての旅」に出て来るバルダミュとロバンソンは、おかしな二人組の先駆者として映ったようなのだ。大江はその小説の中で、おかしな二人組が協力し合って、「ロバンソン小説」なるものを創作しようとするところを描いている。

小説「夜の果ての旅」の内実は、語り手たるフェルディナン・バルダミュの放浪の旅である。その放浪の旅を小説は「夜の果ての旅」というタイトルにしているわけだが、「夜の果ての旅」(Voyage au bout de la nuit)とはどういう意味か。「夜の果て」といえば、普通は夜明けを連想するが、この小説からはそういう印象は受け取れない。夜はいつまでも明けないばかりか、かえって深まるばかりのようである。だから明けることのない夜の、暗闇の底を旅するといったイメージに受け取れる。それならなんとなくわかるような気がする。主人公フェルディナンド・バルダミュの旅は、目的地をもたない、したがって果てることのない旅なのだ。

ルイ=フェルディナン・セリーヌは、日本語での翻訳もあるが、あまり読まれているとは言えない。彼の母国フランスでも、いまでは忘れられた作家になっているらしい。だから小生も、彼の名前ですら知らなかった。はじめて彼の名前に接したのは、近年読んだ大江健三郎の小説「さようなら私の本よ」を通じてだった。その小説の中で大江は、セリーヌを現代フランス文学の異端の大家のように描いていたものだ。その評価の仕方に面白いものを感じたので、小生はセリーヌの作品を読んでみようという気になったのだった。

小説の中で動物に重要な役割を果たさせているものを、小生は俄かには思い出せない。例えばカフカのように、犬を惨めな死の隠喩として語った作家はいたが、それはあくまでも一時的な隠喩としてだ。小説の全体にわたって、あたかも登場人物の一員であるかのように、動物に重要な役割を与えているものは、なかなか思い浮かばない。ミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」は、動物を一人の登場人物と同じく重要なキャラクターとして位置付けている。

ミラン・クンデラは饒舌な作家だといった。彼の代表作「存在の耐えられない軽さ」を読むと、語り手の饒舌な語り方がひしひしと伝わってくる。普通の場合語り手は、自分自身の存在を主張したりはしない。語り手はあくまでも語り手であり、彼が語るのは登場人物についてなのである。あるいはそうあるべきなのである。ところがクンデラの小説の語り手、彼はそれを「著者」といっているが、その言葉で自分自身をさしているのであり、その著者は彼の場合、小説の一登場人物であるかの如く、饒舌に自己を主張する。彼は単なる小説の語り手ではなく、語り手を騙った登場人物の一人なのだ。

チェコ人であるミラン・クンデラは、チェコの作家フランツ・カフカを強く意識していたようである。理由は二つある。一つはカフカが「カフカ的世界」と呼ばれるような不条理な世界を描いたこと。もう一つは二人の境遇がよく似ていることだ。「カフカ的世界」についていえば、クンデラは同時代のチェコがまさにそれだと感じた。クンデラはそこで生きることが出来ずに、異国であるフランスで生きることにしたのである。そのことが第二の事態、つまり境遇の相似につながった。カフカはチェコに住みながら他国語であるドイツ語で書き、クンデラはフランスに住みながら他国語であるチェコ語で書いた。そのようなあり方を、ドルーズはマイナー文学と言った。クンデラもカフカ同様にマイナー文学の作家になったわけだ。

ミラン・クンデラが「存在の耐えられない軽さ」を発表するや、大変な評判を呼んだ。それには題名が大きな働きをしたのだと思う。存在と軽さという組み合わせが意外だったからだろう。存在というのは抽象名詞であって、それが軽さと結びつくことは普通はない。軽さと結びつくのは物理的な意味での存在者であって、非物理的で抽象的な名辞である存在ではない。にも拘わらずクンデラは、存在を軽さと結びつけた。しかも耐えられない軽さと。

トーマス・マンのチェーホフ論は、チェーホフへの敬愛に満ちている。マンは、チェーホフの作品への深い共感だけではなく、チェーホフの人柄への強い敬愛の念をも抱いていたことが、そのチェーホフ論からは伝わって来るのである。

「いいなずけ」は、チェーホフ最後の短編小説だが、「たいくつな話」と並んで、トーマス・マンが最も高く評価した作品だ。トーマス・マンのチェーホフ論の要点は、同時代のロシアに関するかれの鋭い批判意識と未来への希望にあったが、「たいくつな話」は同時代への批判意識をもっとも鋭い形で表明したものだとすれば、「いいなずけ」は未来への希望を美しい形で表明したものといえよう。

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