読書の余韻

小熊英二の大著「民主と愛国」は、日本の戦後思想を俯瞰したものだ。副題に「戦後日本のナショナリズムと公共性」とあるように、小熊は戦後思想の特徴をナショナリズムと公をめぐる議論に見ている。ということは、戦後日本思想がきわめて政治的な性格を帯びていたと見ているわけだ。それは日本という国をもっぱら政治的な関心から論じるということにつながるから、勢い論争的な色彩を強く帯びる。その論争はナショナリズムと公共性を軸に展開してゆくわけだが、ある時はいわゆる進歩派がナショナリズムを強く主張するかと思えば、ある時は保守的な勢力がナショナリズムを取り込むという形になる。こうした論争はある程度共通の地盤を前提にしている。そこから議論の連続性ということが生まれる。つまり議論の蓄積が行われるということだ。後から議論に参加するものは、先駆者たちの議論を批判することから自分の言説を展開するのである。これは丸山真男が指摘した日本思想の特質とは随分と異なっている。丸山は日本には固有の思想はなく、外国から脈絡もなく新しいとされる思想が輸入され、したがって思想の内容よりは、その新しさだけが評価の基準になるような倒錯した状況が続いてきたと言ったわけだが、ことナショナリズムを巡る議論の場合には、そういう指摘は当てはまらず、議論は一応共通の地盤の上で連続的に展開されるということになる。

イスラームというと、筆者も含め大方の日本人にとっては、西洋的な価値観とは異なる独特の価値観をもとに、西洋文明と厳しく対立し、自らの主張を通すためにはテロなどの暴力も辞さないというようなイメージが流通している。実際近年世界中を騒がしてきたアルカーイダとかISとかいったものは、イスラームの申し子のようなものとして受け取られている。そこからイスラームはテロのイメージと結びつき、すべてのイスラーム教徒がテロリストではないが、テロリストはすべてイスラーム教徒であるといった言説が横行している。

井上達夫の憲法改正私案には徴兵制の規定が盛り込まれている。その趣旨を井上は、徴兵制によって戦力の濫用を防ぐためだと言っている。「志願兵制だと、志願する必要などないマジョリティたる国民が無責任な好戦感情に駆られたり、政府の危険な交戦行動に無関心になりやすい。無謀な軍事行動に対してすべての国民が血のコストを払わなければいけないとなると、国民は軍事行動の監視と抑止の責任をもっと真剣に引き受けることとなる」というわけである。

井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の三つ目のテーマは、憲法九条問題である。これについて井上は、憲法九条削除論を唱える。井上は、憲法九条を削除して、安全保障政策は民主的立法にゆだねるべきだと主張する。そうすると戦争への歯止めがなくなるのではないかという疑問が出てくるが、それに対して井上は、憲法九条を削除するとともに、戦力の保持を前提として、その戦力の統制にかかる規定を憲法で明記することで、かえって戦争の抑止が可能になると言う。いまの状況では、憲法九条があるために、戦力統制に事実上憲法の制約が利かない状態になっている。つまり戦力の行使が、何らの制約も受けないままに、なしくずしに拡大していく可能性が生じている。憲法九条を削除して、戦力統制にかかる基本的な事項を憲法に明記することではじめて、民主的な戦力のコントロールができると考えるわけである。

井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の二つ目のテーマには、主に近代日本の対アジア政策と先の大戦についての戦争責任が取り上げられる。井上はこれをセットにして、日本はアジアに対する侵略責任を認めなければならないと主張する。日本はアメリカを相手にバカな(無謀な)戦争をやったのではなく、アジアに対して不当な戦争を仕掛けたと認めるべきだと言うのである。そうしてこそはじめて、日本はあの戦争に対して批判的な態度をとることができるし、自分もアジアに対してひどいことをしたが、アメリカはそれ以上に日本にひどいことをしたと批判することができるというわけである。

憲法学者の井上達夫はリベラルを自称し、漫画家の小林よしのりは本物の保守を標榜しているそうだ。その二人が対談して、意気投合した様子がこの「ザ・議論」という本からは伝わってくる。普通の理解では、リベラルと保守は相互に相いれない対立概念だと思われているから、それぞれを体現した両者が意気投合することは奇異に映る。しかしよくよく考えてみれば不思議ではない。

久しぶりにスウィフトがらみの本を読む気になったのは、筒井康隆の「断筆宣言への軌跡」を読んだのがきっかけだ。この本の中で筒井は、自分の持味はブラックユーモアだと言っており、そのブラックユーモアが災いしてさまざまな波風を立てつづけ、挙句の果ては「断筆宣言」をする羽目になってしまったと書いていた。それを読んだ筆者は、日本には筒井のようなブラックユーモアの使い手は非常に珍しく、その意味では国民的な財産にも等しいから、こういう人間が自由にブラックユーモアを振りまけるようにしてやりたいと思ったものだった。

筒井康隆が断筆宣言をしたのは1993年というから、もう四半世紀も前のことである。筆者は筒井の熱心な読書ではなかったが、それでも「文学部唯野教授」くらいは読んでいて、そのユーモアのセンスは認めていた。その彼が持ち前のブラックユーモアが原因で「日本てんかん協会」との間で争いになって、それがもとで断筆宣言をしたと聞いた時には、文学の外部からの圧力に屈したのかと思ったものだが、この「断筆宣言への軌跡」を読んでみて、そんなに単純なものではないということが、改めてわかった。

この本は、社会を変えるために一人ひとりが立ち上がるようにと勧めたものだ。何故社会を変えるのか。それは一人ひとりの問題意識によるだろう。そもそもそんな問題意識を持たない人もいる。そういう人にとっては、小熊のこの本はナンセンスであることを越えて、有害であるとさえ映るかもしれない。しかし、社会というものは、そんなものではない。これまでに変わらなかった社会というものはなかったし、これからもきっと変わっていくに違いない。そうであるとすれば、社会の変化を受け身で傍観するのではなく、自分自身がその変革にかかわることのほうが、色々な意味で望ましいのではないか。そういう問題意識にこの本は支えられているようである。

大衆概念とファシズム論は戦後の日本論壇の最大テーマとなったものだが、戸坂潤は戦時中いちはやくこれらの概念を取り上げ、大衆とファシズムとの関連性に注目していた。大衆と言いファシズムと言い、明確な概念に見えるが、いまでさえ必ずしも明確とは言えない。したがって戦後の日本論壇でこれらの概念が華々しく論じられた際に、何が大衆の本質で、何がファシズムの概念的な内容なのか共通の理解があるとは言えなかった。日本ファシムズ論の理論的な指導者と見なされた丸山真男でさえ、ファシズムの概念を既知のこととして、それを理論的に掘り下げたとは言えなかった。

戸坂潤は、戦前のマルクス主義哲学者としてはなばなしい論戦を張った人だ。その鋭い時代批判が官憲の怒りを買い、それがもとで獄死した。そんなこともあって戦後の日本では不屈の思想家として尊敬を集めたりもしたが、マルクス主義が「失墜」したあおりを受けて、今では一部をのぞき読まれることはなくなった。しかしマルクスの言葉ではないが、鼠のかじるにまかせておくのはもったいない人だ。彼の思考のスタイルには鋭い批判意識が込められているので、その方法を見習うだけでも意味があると言える。

高島俊男は中国文学者であるが、その中国文学と日本語との関係をユニークな眼で見ている。日本語が中国文学の巨大な影響を受けたことは、歴史的・地政学的な見地からして、ある意味必然なことであったが、それは日本語にとって必ずしもいいことばかりではなかった。中国語と日本語とでは、根本的に異なる言語であるのに、その異なる言語を表記するために作られた漢字を、日本語に取り入れたことで、日本語は非常におかしな事態を多数抱えることになった。もし日本人が漢語というものに接していなかったら、日本人は日本語をあらわすために自前の文字を発明したであろうし、しかがって漢語を用いずに抽象的な表現をするようになったであろう。しかしなまじ漢語を便利に使いこなしてしまったために、そういう可能性をつぶしてしまった。そこで日本人はいまだに日本語の表記にあたって不自然をせまられているばかりか、外国語である漢字を後生大事にしていることは滑稽でさえある。そのように主張している。

渡辺将人は、アメリカの政治の現場に長く身を置いた経験があるというので、この書物はそうした彼の経験に裏打ちされた現実感にあふれており、近年のアメリカ政治についてのリアルな展望を得ることができるのではないか。アメリカの政治といえば、共和党が保守を代表し、民主党がリベラルを代表し、両者がそれぞれの理念を掲げて対立しあうという構図を思い浮かべがちだが、渡辺はこの対立軸よりも、理念の民主制と利益の民主制の対立という視点からアメリカ政治を読み解こうとする。彼によれば、保守もリベラルも自由主義という大きな理念を前提とした、小さな理念の対決であって、それだけではアメリカ政治を正しくとらえることは出来ないと言うのである。

ウッドロー・ウィルソンとF・D・ローズヴェルトは、アメリカの歴代大統領の中では、政治理念にこだわった珍しい部類の政治家ということになっている。二人とも民主党の大統領として、今日で言うリベラルの政治理念を掲げ、それを実行に移した政治家であったといえる。このリベラルという理念について、ホフスタッターは立ち入った分析をしていないが、それまでのアメリカの政治理念である自由放任主義に対立した概念だという漠然とした捉え方はしている。ウィルソンもローズヴェルトも、自由放任主義をマイナスに捉えたわけではないが、その行き過ぎは社会正義に反するという考え方は持っていた。ここで社会正義と言われるのは、自由放任主義者の固執するような、機会の平等ということではなく、機会の平等が形式的な理念にとどまらず実質的なものになるには、人々を同じ条件で競争に参加させるような舞台を、政府が作るべきだという考え方の上に成り立っていた。こうしたリベラルの立場は、21世紀の今日まで、すくなくともアメリカの政治においては、一定の影響力を持ち続けているが、ウィルソンはそうしたリベラルの考え方をアメリカの大統領として最初に提示した政治家であり、ローズヴェルトはそれを受け継いだうえ、更に発展させた、というふうにホフスタッターは捉えているようである。

南北戦争が終了してから世紀の変わり目までの数十年間を、ホフスタッターは「アメリカの金ぴか」時代と呼んでいる。この時代には共和党の凡庸な政治家たちが合衆国大統領職に次々とついた。唯一の例外はグローヴァー・クリーヴランドで、彼は一応民主党に担がれたということになっているが、ウッドロー・ウィルソンが後に主張したように、全然民主党的ではなく、「保守的共和党員」と言ってよかった。要するにこの時代は、共和党がアメリカの政治を牛耳っていたわけである。

リンカーンといえば、アメリカ流民主主義の体現者であり、また奴隷解放に象徴されるようなヒューマンな政治家だったというイメージが強い。彼は六十万人以上のアメリカ人の命を奪うこととなった南北戦争を主導したが、それはアメリカという生まれて間もない国を、民主主義の理念のもとに再統一する為の戦いであって、この内乱を経ることによって、アメリカは強固な民主主義国家として生き残ることができた。そういう評価がいまでも支配的だが、ホフスタッターも基本的にはそういう見方に立ってリンカーンを積極的に評価する一方、多少冷めた視線から、リンカーンを相対的に見ているところもある。

アメリカは、自由を求めてイギリスから渡ってきた移民たちの子孫が人工的に作った国である。それ故「建国の父祖」という言葉が実感をもって迫ってくる。この言葉は、単に象徴的な意味合いを投げかけるだけではなく、アメリカという実在する国が、特定の人間たちによって、あたかも芸術作品のように創作された、という実感を人々にもたらすのである。

ドナルド・トランプがアメリカにおける反知性主義の伝統をよみがえらせたことで、リチャード・ホフスタッターの「アメリカの反知性主義」と題した本に脚光が浴びた。先日、日本人の森本あんりが、ホフスタッターとは別の視点からアメリカの反知性主義を俯瞰して大きな反響を呼んだが、やはりアメリカの反知性主義論の先駆者はホフスタッターだ。そのホフスタッターは、もともとはアメリカ政治史の専門家で、「反知性主義」に先駆けて「アメリカの政治的伝統」という本を書いている。

日本にはことば遊びの文化的伝統がある。駄洒落や地口など比較的単純なものから、俳文のような高度に知的な文章にいたるまで、ことば遊びの例は枚挙にいとまがない。九鬼周造の「いきの構造」という文章は、そうしたことば遊びを哲学の現場に適用したものだ。彼の場合には、ドイツに留学して西洋哲学を勉強したこともあって、そのことば遊びには洋の東西にわたることば遊びのエッセンスを凝縮したところがあり、それだけでも、日本のことば遊びの伝統に新たな要素を付け加えたという光栄を認めることができるかもしれぬ。

題名を見る限りでは、近代日本人をモチーフにした本格的な文化論を予想してしまうが、これはそんな大げさなものではなく、日本の近代文学のある種の傾向性について指摘したものである。ただその傾向性が、近代日本人の典型的な発想のスタイルを反映しているために、それを論じることで、近代日本人についての本格的な文化論の、少なくとも序論のような役割は果たしている。

Previous 5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ