読書の余韻

我々現代人にとっての西行像は、芭蕉をとおして浮かび上がってくるのが相場になっていて、おのづから旅を住処とする漂泊の歌人というイメージになるのだが、高橋英夫のこの本は、西行をもっと広い視点から捉えなおしている。その結果あらたに浮かび上がってくる西行像は、ごく単純化して言えば、世俗を捨てこの世から超絶した旅の僧というイメージではなく、生涯世俗に捉われた煩悩の人だったというイメージだ。

この本の中で柄谷が試みたのはマルクスの国家論への批判である。マルクスは国家を上部構造として、ある種のイデオロギー装置のようなものとして見た。国家は、経済関係を下部構造として、経済関係における支配階級がそれ以外の階級を支配する為の道具である、というのがマルクスの国家論の基本的な特徴である。国家は階級支配の道具であるから、階級支配とそれを担う階級が消滅すれば、それに伴って死滅する。マルクスが目的とした共産主義社会というのは、国家が死滅したあとの社会の状態、階級支配のない平等な社会である、ということになる。

読書誌「図書」の4月号に伊東光晴が寄稿し、その中で、自分に残された生涯最後の日々をガルブレイス論の執筆にあてたと書いていた。伊東は2012年の2月に倒れ心肺停止の状態に陥ったのだが、奇跡的に生き返り、なんとか執筆できるまでに回復した。この時85歳だった伊東は、自分に残された最後の日々をガルブレイスのために使いたいと決心したという。ガルブレイスに寄せる伊東の暑い思いが伝わってきて、筆者も是非読んでみたいと思い、ページを開いた次第だった。

笠井潔と白井聡はいづれも、戦後日本に対して鋭い批判意識を持っている。笠井は戦後の日本が敗戦の事実にまともに向き合ってこなかったことで、いまだに国家として深刻な問題を抱えているとする。3,11は8.15をきちんと清算できていなかったことをあぶりだしたわけだが、このままでは同じようなことが繰り返され、第三の8.15も起りうるだろうと予言する。白井のほうも、日本は敗戦の意味を真剣に考えなかったおかげで、いまだに敗戦の亡霊に付きまとわれ、いわば永続敗戦の状態に置かれていると断言する。

清水次郎長といえば、日本的な侠客の典型としてなじみ深いと思う人は多いだろう。筆者の親の世代(戦中・戦前派)では、広沢虎蔵による浪花節や講談師たちによって全国の津々浦々まで語られていたし、筆者の世代では映画やテレビドラマに繰り返し取り上げられ、日本人として知らないものはないといってよかった。

笠井潔はかなり徹底した戦後日本批判論者のようだ。彼が戦後日本を批判する口調は、批判の域を超えて罵倒に近い。こんな日本に、一人の日本人として生きているのが恥ずかしい、というか忌々しい、そんな鬱憤が彼の文章からは伝わってくる。そこは、近年新たな視点から戦後日本を批判している白井聡より、ずっとラディカルだと言えよう。

レーニンの思想の三つの源泉のうちグノーシス主義は、革命的実践と大きなかかわりがある、と中沢は捉える。レーニンは革命の実践主体としての革命党を非常に重視したが、その党のあり方をグノーシス主義の現われとして捉えた、というふうに考えたわけである。ではグノーシス主義とは何か、それを見ておこう。

中沢新一は、レーニンの思想の三つの源泉のひとつとして「東方的三位一体論」をあげた。これは古代の原始キリスト教の中で芽生えていた思想なのだが、その後キリスト教がカトリックとして体系化されるのに伴い大きく変容したのだった。それをドイツ哲学の父ともいえるヤーコブ・ベーメが再発見し、その後ヘーゲルがそれを哲学的に深化させ(弁証法というかたちで)、それを更にマルクスが唯物論的に逆立ちさせ(弁証法的唯物論として)、その逆立ちした弁証法をレーニンが受け継いで、あの独特の唯物論的世界観を作り上げた、というのが中沢の主張である。

中沢新一は、浅田彰とならんで日本のポストモダンのチャンピオンということになっているが、彼を評価するものはあまり多くはいない。というより、無視される場合が多いのではないか。それは彼独特のエクリチュールに原因があるのだろう。筆者が始めて彼の文章を読んだのは南方熊楠についての一連の解説だったが、それは解説というよりは、熊楠という途方もない巨人に対する中沢の共感を素直な言葉で表現したものであって、論文を読むというよりは、宣命を聞かされているような気がしたものだ。宣命には、この世の不思議に対する深い共感がこだましている、それと同じような共感を中沢は熊楠に抱いて、その驚きの感情を独特のリズムに乗った文章で表現している、そんなふうに感じたものだ。

渓内謙といえば、日本におけるロシア革命史の第一人者として、かつては一定の影響力をもっていた。そのロシア革命史観は、ロシア革命を社会主義革命のあるべきはずだった形態からの逸脱としながら、そこに社会主義の実現に向けての一定の役割ないし歴史的意義を認めるという点で、カーやドイッチャーと共通する立場に立っていた。彼の啓蒙的な著作「現代社会主義の省察」は、レーニンが始めた社会主義革命を、スターリンがゆがめたというという見方を展開して見せたもので、レーニンからスターリン体制への移行を、革命の知的巨人から「知的ピグミー」たちへの移行として捉えていた。

内田樹と松下正己は中学生のときに不思議な縁で結びついて以来、主に映画を仲立ちとして付き合ってきたそうだ。しかし二人の映画についての趣味は全く異なっていたらしい。にもかかわらず、共同して映画についての本を書くこととなった。この本はその共同の成果というわけである。内田が前書で言っている通り、松下のものは読むと肩こりする体のものであり、内田のものは例によって肩がこらない。

京都に関する数あるガイドブックの中でも、京都の歴史をテーマにしたものが結構出ていると思うが、岩波新書から最近出た「京都の歴史を歩く」はかなり本格的な本だ。三人の京都研究者が、六年もかけて、岩波新書の編集者と共に京都の様々な街を歩き回り、それぞれの街の歴史を京都全体の歴史とかかわらせながら丁寧に読み解いている。時間と労力をたっぷりとかけた贅沢な本なのである。この本を通じて筆者は、京都の街についてのまた違った見方を教えられた。

内田樹がレヴィナスの思想の核心をその他者論にあると捉えていることは、彼のレヴィナス論「レヴィナスと愛の現象学」の全体が、他者としての師匠、他者としての神、そして他者としての女、についての議論に当てられていることからも窺われる。その議論はかなりわかりづらいのだが、それはレヴィナス自身の思想がわかりづらいからか、それとも内田によるレヴィナスの紹介の仕方がわかりづらいのか、レヴィナスに通暁していない筆者のようなものには判断がつかない。しかし一定の推量はできそうなので、推量が出来る範囲で、内田によるレヴィナスの他者論について考えてみたい。

レヴィナスが現代思想の巨人の一人だということは聞いていたが、その本を読んだこともなければ、その思想がどのようなものかもろくに知らなかった。そのレヴィナスを内田樹が高く評価するばかりか、自分の考え方の拠り所にもしているというので、このたびその内田樹の書いたものを手がかりにしてレヴィナスの思想の一端に触れてみようと思った次第だ。というのもレヴィナスの書いたものは非常に難解だと言われており、一度や二度テクストを読んだくらいではとても理解できないという。そこでレヴィナスの弟子を任じている内田ならば、師匠の思想を噛み砕いて日本人に解説してくれるのではないか、そんな期待を持ったのである。内田を通じてレヴィナスの思想の一端にせまることができるか、それともレヴィナスを材料にして内田が自分の思いのたけを吐露するのを聞かされるのか。それは読む前には無論わからなかったし、読んだ後でも明らかにはならなかったが、面白く読んだことは確かなので、読まないよりは良かったと思っている。

村上春樹の最新の本「職業としての小説家」は、村上本人が「自伝的エッセイ」と言っているように、彼自身の小説家としての今までの生き方を振り返ったものだ。彼はこれまでにも、さまざまな機会に自分の小説家としての生き方を語ってきており、そういう点では目新しいものは見当たらないのだが、一冊の本にまとまったものを見ると、村上の小説家としての生き方が多面的・重層的に展開された形で描かれているので、村上という作家に関心を抱いているもの、たとえば筆者のようなものには、それなりに読んで面白い本だ。

内田樹と中沢新一は同じ年の生まれだし、経歴にも似たようなところがあるので、古い付き合いでもおかしくないのだが、この対談のために会って話したのがはじめての出会いなのだそうだ。ちょっと話しただけで、すぐに仲良くなった。それは、お互い非常に似ているところがあるためで、その似ているところというのは、ふたりとも「男のおばさん」を自負している点だと言う。「男のおばさん」とはおかしな言葉に聞こえるが、要するに「おばさん」的な思考をする男という意味らしい。

丸谷才一と山崎正和の対談「日本史を読む」は、日本史についての様々な著作を二人で読みながら、それを手がかりにして、日本の歴史の面白さを解きほどいていこうという試みである。カバーしている時代は、古代から近代までと幅広く、それぞれの時代についてユニークな歴史記述をした本をいくつかとりあげて、それらを材料に、各時代の特徴のようなものを浮かび上がらせようとしている。たとえば、院政時代については、角田文衛の「椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯」を材料にして、この時代が性的乱倫とサロン文化の花開いた時代であったと断定したり、足利時代については、林屋辰三郎の「町衆」を材料にして、この時代が都市化を背景とした日本のルネサンスと呼ぶべき時代だったと確認する、といった具合である。

中公版「日本の名著」の本居宣長編は石川淳の責任編集という形になっていて、石川が「宣長略解」なる文章を序文として寄せている。内容は、石川による本居宣長論といってよいものだ。石川淳といえば森鴎外論が思い浮かぶが、こちらはまた違った切り口から日本の偉大な文章家を論じている。そこからは、鴎外を論じるときのような、感情移入的な態度ではなく、きわめて冷めた感じが伝わってくる。

高倉健といえば、ヤクザ映画のヒーローだし、その他のジャンルの映画でも寡黙でこわもてするタイプの役者という印象が強く、一時期流行ったCMの文句「男は黙ってサッポロビール」を地で行く生き方をしているのかと思ったが、素顔の本人は意外とさばけて、話好きなのだそうだ。この本(「あなたに褒められたくて」)を読むと、そんな高倉の話好きな雰囲気が伝わって来るような気がする。

「映画についての言説が、はっきりと過去の作品を対象とし、それを歴史的なものとして認識しようとする姿勢に転じたのは、映画が考案されてかなり時間が経過したのちに、ようやく現れた」と、「映画史への招待」の著者四方田犬彦は言う。それまでは映画の歴史が語られることはなかった。ということは、映画は歴史の厚みをもたない薄っぺらなエンタテイメントであり、その映画についての語り方も、相応に薄っぺらなものだった。たまに映画の「歴史」について語るものが現れても、それは本物の歴史家にとっては、「好事家のディレッタント趣味に満ちた印象の寄せ集めであって、どこまでも日曜仕事の域を出ないものであった」というわけである。

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