読書の余韻

井上ひさしの「宮沢賢治に聞く」は、題名にあるとおり宮沢賢治本人を登場させて自分自身について語らせたり、あるいはそれに石川啄木を加えて互いのことを語らせたりした後、井上の友人たちによる賢治論とか、井上自身による賢治の伝記的エピソードのようなものを語っている。そのどれもが、賢治の作品ではなく、賢治の生き方に焦点を当てている。というのも、このユニークな賢治論には、井上なりの特別の意図が隠されているのである。

内田樹と高橋源一郎の対談集「ぼくたち日本の味方です」に収められた対談がなされたのは、2010年11月から2012年2月にかけてだから、丁度民主党政権の時代に重なっている。この対談は政治色の強い雑誌「SIGHT」のためになされており、また、内田も高橋も日頃から政治的な発言にコミットしているので、勢い政治的なメッセージが強い対談なのだが、政権に対してあまり批判的でないのは、民主党が政権を担当していたからか。この期間は3・11を挟み、日本の政治の問題点が露呈したこともあったわけだが、両人はそれを、民主党の問題というよりも、日本政治全体が劣化していることの現れと捉えている。要するに、民主党には甘いのである。
表題の「雇用身分社会」という言葉は著者の造語である。この言葉で著者が強調しているのは、派遣や契約社員、パート労働者といったいわゆる非正規雇用が雇用全体の四割に達し、その層に貧困が広がってゆく中で、格差社会が深刻化しているという問題意識である。雇用の形態は本来身分とは異なる概念であるはずだが、一人の人間がいったん非正規雇用の状態に置かれると一生そのステータスから逃れられなくなるばかりか、その人の貧困が子供にまで受け継がれてしまう。これはもはや雇用の多様化などといった言葉で合理化できる事態ではない。雇用の形態が身分に転化している状態であり、そんな状態が蔓延している今の日本は「雇用身分社会」というべきだ、と著者は考えるのである。

保坂正康は、昭和史を主なフィールドとするノンフィクション作家として知られる。この本はそうした立場から保坂なりの昭和史観をまとめたものと言えるのだろうが、そこには今の時代への保坂なりの危機感も働いているようである。その危機感を保坂は、「戦後七十年の節目に、無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている」と表現しているが、こうした動きはとりもなおさず、過去を真剣に反省せず、自分の都合の良いように再解釈する歴史修正主義に駆動されているという問題意識に立って、一人ひとりの国民に、昭和史を改めて考えて欲しい、という気持ちが保坂に強く働いたのであろうということを感じさせる。

赤坂真理の小説「東京プリズン」は、赤坂本人が16歳の少女として体験したアメリカでの生活を、40台半ばの女性としての視点から見つめなおしたというような体裁になっている。とは言え、視点は一様ではない。16歳の少女としての視点から未来の自分を見つめているところもあって、時空をまたいでいるようなところもある。そこから独特のシュールな感じが醸し出される。そのあたりは、日本人の書いた小説としては、過去に例を見ない斬新さと言えよう。

永積安明の「平家物語を読む」は、岩波ジュニア新書向けに書かれたこともあって、非常にわかりやすい。忠盛以下十人の登場人物について、それぞれの生き方を取り上げてゆくことで、彼等を中心にして物語が進んでいくところが時間軸に沿って明かにされてゆくし、また彼等が互いに関りあうさまが語られることで、物語が空間的な広がりを以て展開してゆくさまが見えてくる。これは個々の登場人物に焦点を当てる方法の利点と言えるもので、物語を理解するに当たってはもっともわかりやすいものだ。

丸谷才一の日本文学論の特徴は、民俗学の方法を日本文学の背景分析の手段として応用するところにある。前日このブログで取り上げた「恋と日本文学と本居宣長」とか「女の救はれ」といった文章は、日本文学が、師事した中国の文学と違うところは、男女の恋とか女人成仏とかいうことを大事にするところにあるが、それは日本人の間に女性崇拝の思想が働いている結果なのだとしていた。これは、その女性崇拝を太古の時代の母系制社会のあり方に遡って位置づけるというような民俗学的な方法を応用した見方なのである。

「日本文学は中国文学に長く師事して来た。何しろ文字それ自体だって中国のものを借用したのである。決定的な影響を受けたのは当たり前ですが、それにもかかはらず意外に真似をしてゐない局面がある。したたかに拒否して、個性を発揮している。この女人成仏もその一つなのでせう。」これは、丸谷才一の著作「女の救はれ」の一節であるが、丸谷はこう言うことで、日本文学の(中国文学と異なる)大きな特徴として、男女の恋を重んじる態度と並んで、女性の尊重ということをあげている。女人成仏の思想はその象徴的な事例だというのである。

丸谷才一の日本文学論が本居宣長に多大な影響を受けていたことは良く知られている。丸谷は中国文学と比較して日本文学が男女の恋を描くことに熱心だったのは、日本人の国民性に深く根ざしていたのだというような主張をしたのだが、その根拠としてもっぱら本居宣長を援用していたのだった。

北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

内田樹はマルクス主義が大嫌いだと日頃から公言している。だからマルクス本人も嫌いかと言うとそうではないと言う。むしろマルクスからは大きな影響を受けたと言っている。それでもなおマルクス主義者にはならずに、マルクス主義が嫌いになった。そのへんの心理的機制は部外者にはなかなかわからないだろう。一方石川康宏のほうはマルクスに影響されただけではなく、一人のマルクス主義者たらんとしているようでもある。こんな二人が「若者よマルクスを読もう」と言って、今マルクスを読むことの意義について対話している。

作家の赤坂真理は1964年生まれというから、戦後世代という言葉がはばかられる新しい世代の日本人だ。その人が日本という国の戦後のあり方に強いこだわりを持ち続けている。彼女の出世作となった「東京プリズン」という小説は、そんな彼女の戦後日本のあり方へのこだわりを吐露したものらしい。(らしい、と言うのは、筆者はまだそれを読んでいないからだ)

北一輝といえば、2.26事件の思想的指導者として処刑されたこともあり、いまでは、2.26事件が日本の政治史における特異な一事件として片付けられるのと同じレベルで、日本の政治思想史における特異な一思想家として片付けられがちであった。「特異な一思想家」というのは、現代にはほとんど影響力が及ばない忘れられた思想家という意味である。ところが最近、安部晋三政権のもとで国家社会主義的な言説が大手を振って流通してくるという状況が生まれる中で、北一輝の思想が現代的な意義をもって復活してきた。北の国家社会主義的な思想は、岸信介のような日本の権力の中枢を制した政治家にも多大な影響を与えており、その岸を通じて安部晋三をはじめとしたウルトラライトの政治家たちに強い影響を及ぼしていると言えるのである。その政治家たちがいまやこの国の権力を握っているわけであるから、彼等の思考に多大な影響を及ぼしている思想家を軽視するわけには行かない。

鈴木邦男といえば、良識に富んだ知性的な右翼と言う定評だ。その鈴木が、これは今や日本の代表的な左翼の理論家として知られる内田樹と対談したというので、その対談集を興味深く読んだ。これを読むと、日本の右翼と左翼は互いにわかりあえるのだという確信にまでは至らないが、対話が成立しないことはない、ということは感じさせられる。

俳人としての蕪村は、子規によって再評価されたということもあって、とかく子規の見方が蕪村鑑賞を制約してきたきらいがある。子規の見方と言うのは、これを単純化すれば写生ということになるので、蕪村も写生句の名人だったということになりがちだ。ところがそうではない、蕪村の俳句は写生句の枠には収まらぬ大きな広がりをもっていたと主張する人もいる。藤田真一もそうした一人だ。彼の著作「蕪村」は、蕪村の俳人としてのスケールの大きさとともに、画家としても一流の人物だったということを、丁寧に説明している。蕪村についてそれなりのイメージを結ばせてくれる一冊だ。

筆者は日常的にお経を読む習慣は持たないが、法華経は折りに触れて手にすることがある。初老にさしかかった頃には岩波文庫版の「法華経」全三巻を通読した。その時を含め、筆者の法華経の読み方は理知に傾いたものなので、法華経を、いわゆる教えの本として理解する姿勢はなかったと言える。だから法華経読みの法華経知らずで、法華経をきちんと読んだことにはならない、と言われるかもしれない。

「日本の一番長い日」は、日本の敗戦の日に焦点を当てた半藤一利のノンフィクション作品であり、半藤の一連の昭和史研究の出発点となったものだが、戦後二十年たった昭和四十年にこれを刊行したとき、半藤はなぜか自分の名を隠し、当時ノンフィクション作家として人気のあった大宅壮一の名前を借りた。名前を借りたというのもおかしな話だが、それ以上におかしいのは名前を貸した大宅の行動のほうで、今なら著作権のあり方をめぐって大騒ぎになるところだろう。

数学者野崎昭弘の著作「詭弁論理学」(中公新書)は、1976年に刊行されて以来刊を重ね、今日でもなお多くの人に読まれているから、古典的な業績と言ってよい。書かれている内容は、そんなに高度なことではなく、誰にでもわかりやすいし、しかも誰にとっても切実な事柄と言えるので、今でも多くの人に繙かれる価値がある、ということだろう。著者の野崎がこの本を刊行した時に、詭弁が横行していたのかどうか、筆者にはそこまではわからぬが、詭弁が横行していなくとも、この種の本はいつの時代でも有効だと思うし、とりわけ政治家たちの詭弁がまかり通っている今日の日本のような社会では、この本の価値は余計に高まっていると言えるだろう。

題名にある「帝国」とはアメリカ合衆国のことである。そのアメリカ帝国が没落した後の世界はどうなるか、それを分析するのがこの本のテーマである。副題に「アメリカ・システムの崩壊」とあるのが、そのことをよく物語っている。

柄谷行人が「世界」の2015年9月号に寄せた「反復脅迫としての平和」という文章は、憲法9条がなぜいまも大多数の日本人によって支持されているのか、その理由をフロイトの理論に依拠しながら分析したものだ。それによれば、強迫神経症の患者が無意識の罪悪感にさいなまれているのとパラレルな形で、日本人は「無意識的罪悪感」に基づいて憲法9条にこだわり続けていると言うことになる。それは無意識のレベルでのことであるから、そう簡単には排除できない。安部晋三政権がいくらがんばっても、日本国民に憲法9条を捨てさせることはできない、なぜならそれは日本人を無意識のうちに呪縛している罪悪感に反するからだ、というわけなのである。

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