読書の余韻

元禄時代は町人が興隆した時代である。町人というのは、徳川時代の身分秩序を前提とした言葉で、歴史的な普遍性を持っているわけではない。普遍性を感じさせる代替語があるとすれば、それは庶民とか大衆という言葉だろう。その庶民ないし大衆が、徳川時代前半の元禄時代になって始めて日本文化に大きな役割を果たすようになったといえる。その元禄時代の文学を代表する人物として加藤周一は、西鶴・芭蕉・近松をあげる。

武士道という言葉を流行らせたのは新渡戸稲造だが、それ以前に「葉隠」の著者が武士道という言葉を使っていた。「葉隠」の著者山本常朝は佐賀鍋島藩の藩士だった。かれが「葉隠」を口述筆記させたのは元禄時代直後のことだ。その時代には、武士はすでに闘いに無縁な存在だった。武士が戦いに無縁な存在になった時代にはじめて武士道という言葉が前面に出てきたわけである。それ以前には、武芸という言葉はあったが、武士道とか武道という言葉は使わなかった。荻生徂徠は、「文道武道と申事は無之候」と書いた(太平策)。

室町時代の日本文化を加藤周一は、禅の世俗化として捉えている。禅は鎌倉仏教の一つとして興隆したわけだが、室町時代になると、足利武家政権と結びついて、政治に深くかかわるとともに、権力に保護されながら世俗的な影響力を発揮することになった。同じ鎌倉仏教でも、浄土真宗が反権力的で、しかも一向一揆に代表されるような抵抗の精神を持っていたのにくらべると、大きな違いである。

加藤周一は鎌倉仏教を西欧の宗教改革にたとえている。その理由として加藤は、鎌倉仏教の彼岸的・超越的な面を強調している。平安仏教は彼岸ではなく此岸(現世)の安楽を追求し、現世を超越した価値を求めなかった。鎌倉仏教に至ってはじめて、彼岸(浄土とか涅槃といわれるもの)へのあこがれと、現世を超越した価値(阿弥陀信仰やさとりの境地)への帰依が生まれたというのである。西洋の宗教改革も、そうした彼岸的・超越的な面を強調したものだ。もともとキリスト教にそういう要素があって、彼岸的な面は来世の思想に、超越的な面は一神教信仰に現れていたのであるが、プロテスタントはそれを徹底させた。そこが鎌倉仏教と共通するのだという。

加藤周一は平安時代を日本の歴史における最大の転換期と位置付けている。極端な言い方をすれば、平安時代を境にして、それ以前の日本とそれ以後の日本とに大別されるというのである。その差別を構成する一番大きな要素は言葉だという。奈良時代以前の日本語は八つの母音をもっていたのに、平安時代以降、今日とかわらぬ五つの母音に収束した。カナ文字の発明を核とする文化の発展があり、経済的・社会的な土台にも巨大な変化が生じた。その結果、今日にいたる日本文化の型のようなものが形成された。こうした見方は小生には意外にうつる。小生は、今日にいたる日本文化の型は室町時代に形成されたとみている。その最大の理由は、庶民が文化の最大の担い手となったのが室町時代だということである。だが加藤は、仏教の大衆化などを理由に、すでに平安時代に今日にいたる日本社会の基礎が作られたとみるのである。

加藤周一は、日本の古代文学を「記紀」と「万葉集」で代表させている。そのほか、万葉集より三十年前に成立した「懐風藻」があるが、これは支配層による漢詩の模倣であるとして、文学的な意義を認めていない。「記紀」は天皇制権力による支配の正統性を目的としたもので、文学作品ではないのだが、神話や歌謡などに文学的な要素が認められると考える。その記紀の文学上の特徴を加藤は、いつくかあげている。

加藤周一の「日本文学史序説」は、日本人が書いた日本文学についての包括的な叙述として、外国人がテクストに使っているくらいである。これを読むと、日本文学の歴史が俯瞰的に展望できるし、その日本文学の基本的な特徴、つまり時代を通じて変わらなかった要素が浮かび上がってくる。その要素の解説がいささか図式的なので、日本文学というものが、非常に単純で一面的だという印象を持たされる恐れもある。だから、日本人がこれを、自己理解のよすがとして読むのは差し付けえないと思うが、これを以て、日本文学の特徴なり歴史的な発展傾向なりが、遺漏なく説明されていると受け取るべきではない。とはいえ、これまで包括的かつ徹底的な日本文学史はほかにないといえるので、日本人のみならず、日本文化を理解しようと志す人には、大きな手掛かりを与えてくれると思う。

加藤周一は芥川龍之介を評して「浪漫的」といった。そこで「浪漫的」という言葉の意味が問題となるが、かれはそれをとりあえず、「反俗的精神」と規定する。「彼には、浪漫的性格が比較的明瞭にあらわれていると思う。その具体的内容は、反俗的精神である」というのである。

加藤周一には、かなり長文の本格的な永井荷風論がある。「物と人間と社会」と題したもので、荷風の死後間もない頃に書いた。荷風の生き方とその小説世界とを関連づけて論じたものだ。タイトルの一部に「物」という言葉が入っているのは、荷風の生き方をその言葉で表したからだ。荷風は世間を、あたかも物を見るように傍観者的に見ていた、というのだ。その傍観者的な生き方は、荷風の作品のなかにも反映されている。荷風は生涯女を描き続けたが、荷風の小説に出てくる女たちは、恋愛の対象ではなく、愛玩すべき「物」として描かれている。

加藤周一の夏目漱石論「漱石における現実」は、1948年、つまり加藤がまだ20代の時に書いたもので、若書きにありがちな気負いを感じさせる。加藤がその後本格的な漱石論を書かなかったのは、この小文の中に漱石について自分の言うべくことが尽くされているということらしい。

加藤周一は石川淳にならって鴎外晩年の史伝三部作を鴎外最高の傑作たるのみならず、おそらく明治・大正の文学の最高の傑作ととらえている。加藤はなぜそう考えるのか、その理由を示したのが、「鴎外と『史伝』の意味」と題した比較的短い文章である。加藤はこの文章によって、鴎外の史伝三部作がなぜ傑作であるのか、その理由を形式と内容の両面から分析的に明らかにしようと思った、といっている。

丸山真男が福沢諭吉の「文面論の概略」を注釈した本を岩波新書から出したのは1986年のことだ。それまでは比較的単純なイメージで見られていた福沢諭吉を、多面的に解明したものだった。それより以前、1978年の時点で、加藤周一が、福沢が日本の近代史にもった意義について、骨太な解説を加えている。「福沢諭吉と『文明論の概略』」と題した比較的短い文章だ。タイトルにあるように、「文明論の概略」を材料に使いながら福沢の思想の意義を述べている。その着眼点は、丸山に通じるものがあるので、加藤がこの小論を意識していたことは十分考えられる。じっさいこの二人は、対談本を出したりして、結構付き合いがあったようなのだ。

石田梅岩は心学の創始者として、徳川時代の後半以降日本人のものの考え方に大きな影響を与えた。その石田梅岩に加藤周一は非常なこだわりをもったようだ。加藤が梅岩を評価するのは、梅岩が町人の出身であり、町人の視点から日本社会を見たという点である。徳川時代の知的世界をリードしたのは武士階級であり、武士のエートスというべきものが、日本人のものの考え方を大きく規定していた。梅岩はそこに、町人的な視点を持ち込み、武士のみならずすべての階層の日本人に共通する世界観・人生観を打ち立てたというのが、加藤が梅岩を高く評価する理由である。

徳川時代にあらわれた思想家のうち誰を贔屓にするかについては、評者の個人的な好みのようなものが大きく働くと思う。丸山真男が荻生徂徠を贔屓にしたのは、徂徠を日本の近代化に向けての先駆者として位置づけたいという思いがあったからだと思うし、ハーバート・ノーマンが安藤昌益を高く評価したのは、昌益のうちに革命思想の萌芽をみて感動したからだと思うし、森鴎外が大塩平八郎に思い入れを深めたのは、平八郎が鴎外のこだわっていた男の意地を体現していたと思ったからだろう。では、加藤周一が新井白石を贔屓にするのはどんな事情からか。

一休といえば、徳川時代に形成された頓智話の主人公としてのイメージが強い。加藤周一は、そうしたイメージには民俗学的関心をひき付けるものがあるといいながら、自分が一休にひかれるのは、詩人としての一休であるという。加藤は一休を「形而上学的詩人」と呼んで、日本の歴史上稀有な人物だと位置づけている。最高の詩人とはいわないで、型破りな詩人であるといい、かれの前後には、ほかに類を見ないというのである。

加藤周一は、世阿弥の能楽論を評して、日本における芸術論の稀有なものだと言っている。日本には、平安朝以来の歌論の伝統があるが、それ以外では、芸術論として見るべきものがほとんどないというのである。しかも、世阿弥の芸術論は、通常の意味での芸術論ではない。通常の意味での芸術論は、一般の読者を想定して、芸術の意義を論じるものだが、世阿弥の場合には、自分の後継者に向かって、自分自身の個人的な体験を語っており、その目的は、家業としての能楽を自分の後継者に身をもってわかってもらうことであった。

戦後日本では、日本人論あるいは日本文化論が大いに流行ったことがあった。いろいろな原因があったと思う。あの無謀というべき戦争に負けたことがもっとも大きな要素だったと考えられる。敗戦のショックが、日本人を反省させて、そのような敗戦をもたらした日本人の心性あるいは日本文化の特徴について考えさせたのではないか。その反省は、日本人及び日本文化の特異性の強調に向かうか、あるいはその逆に、失われた自信を償うように、日本人及び日本文化の優秀性を喧伝する方向に向かうか、そのどちらかだった。

木村幹の「韓国現代史」(中公新書)は、戦後韓国の大統領になった李承晩、尹潽善、朴正煕、金泳三、金大中、李明博に焦点をあて、かれらの生き方とからませながら戦後韓国政治の動きを分析したものである。政治史の叙述には、社会のダイナミズムに焦点をあてる客観的な叙述と、政治家個人の野心に焦点をあてる主観的なやり方とが、両極端にあるが、この本は主観的なやり方の極端なものといえる。あまりにも、政治家個人の野心の解明にのめりこんでいるおかげで、かれらの野心は彼らの個性に解消され、時代の抱えていた社会的な条件は無視されがちだ。したがって読者は、この本を読むことで、政治家個人の個性の一端はかいまみることはできるが、韓国政治を動かしてきたダイナミックな社会的条件については、あまり理解を深めることはない。

藤原帰一の「不安定化する世界」(朝日新書」は、藤原が朝日新聞に月一のペースで連載してきた時事評論を一冊にまとめたものである。「時事小言」と題したそのコラムの記事を小生は欠かさず読んでいた。それらを一冊にまとめたもので、新奇な工夫はないらしいが、読んでみると、始めて読むようなものが多い。新聞で月一のペースで読むのとはまた違った味わいがある。新聞ではそれ自体完結した文章が、こうしてまとめて一冊になると、記事相互の間に関連が生まれ、それが新たな光を放ってくるからだろう。

藤原帰一の著作「デモクラシーの帝国」(岩波新書)が分析の対象としているのは、同時代のアメリカである。この本が出版されたのは2002年9月のことで、例の9.11から丁度一年がたっていた。その一年の間に、ブッシュ(息子)がテロとの戦争を宣言し、国際社会の動向を気にすることなく、いわゆる一国行動主義によって、アメリカによる大規模な戦争に突き進んでいた。そのアメリカに対して、他の国はなすすべがなく、ただその言い分に唯々諾々と従うだけだった。そのように一方的な力の行使をするアメリカを藤原は「帝国」という言葉で表現する。帝国という言葉は、歴史的に由緒ある言葉であり、いろいろな解釈がまとわりついているが、藤原は一応、圧倒的な力を持つ大国が、世界を意のままに動かそうとする行動を帝国主義と名付け、今の(同時代の)アメリカは、まさに帝国であると喝破するのである。

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