読書の余韻

資本主義には終わりがある、という見方は、かつてはマルクス主義に特有のものだったが、今では普通のエコノミストでも言うようになった。中でも水野和夫は、「資本主義の終焉と歴史の危機」について、もっとも明快に主張している。彼はメガバンク系のチーフ・エコノミストをやったこともあり、資本主義には職業的な利害を感じていたはずなのに、その彼にして資本主義は終焉を迎えつつあると言うのだから、ことの深刻性を思わせるというものだろう。

小林秀雄の西行論

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小林秀雄には、何にでも首を突っ込んではわけのわからぬことを書き散らす癖があったが、西行論もその一例である。

吉本隆明の西行論

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西行ほどの複雑な人間像ともなれば、その解釈には様々な緒がある。筆者が最近接したものとしては、西行の武士としての出自に注目し、彼が生涯武門の誇りに拘って生きていたとする見方(高橋英夫、武門論的アプローチというべきもの)及び西行と鳥羽上皇の后待賢門院との関係に注目し、西行の歌は待賢門院への片恋が結晶したものだとする見方(瀬戸内寂寂聴、片恋論的アプローチというべきもの)が目に付いたが、その他に僧侶としての西行に注目した僧形論的アプローチと言うべきものもある。吉本隆明の西行論は、その代表的なものである。

柄谷行人の現代資本主義論

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柄谷行人は「世界共和国へ」と「憲法の無意識」のなかで彼独自の資本主義論を展開している。独特のフレームワークを用いて、世界経済の発展の傾向と、その帰結としての現代世界経済の本質的なあり方について説明しようとするものだが、彼の最大の特徴は国家を経済の成立基盤と見ることだ。国家は経済が成立する以前から存在し、経済が発展する上での条件となっている。マルクスのいうように、経済が国家を規定するのではなく、国家が経済を規定する、そういう考え方にたって、経済現象を説明しようと言うのが、彼の理論の最大の特徴である。

柄谷行人「憲法の無意識」

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「憲法の無意識」は、昭和憲法や現代資本主義について柄谷なりに考えてきた事柄を文章にしたものをまとめたものだ。それゆえ一冊の本としてはまとまりがないという印象を受けるが、取り上げられている個々のテーマについては、それなりのインパクトを感じさせる。

菅野完「日本会議の研究」

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安部晋三政権の登場とともに俄に脚光を浴びたものがある。日本会議と称する極右団体だ。いまや多数の国会議員が会員として名を連ね、安部晋三政権に大きな影響を及ぼしている。その活動ぶりは安部晋三政権の別働隊と言ってよい。ところがこの団体がどのような経緯で結成され、どのような思想的背景を持っているかについては、あまり知られていない。これほど大きな政治的影響力を持つに至った団体の中身が国民に知られていないのは異常だ。そんな問題意識をもって、この団体の研究に取り組んだ人がいる。フリー・ジャーナリストの菅野完だ。

瀬戸内寂聴「白道」

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瀬戸内寂聴の著作「白道」は、歌人西行の評伝である。寂聴は小説家であるから、西行を歴史的な視点から見るというよりも、小説家らしい視点から見ている。それは空想を交えたもので、西行を一人の生きた人間として見るというものだ。では寂聴は西行という人間を、基本的にはどのような人間として見ているのか。ごく単純化して言えば、自分の生涯をかなわぬ恋に捧げたヤワな人間として見るということのようである。西行のそのかなわぬ恋の対象とは、院政時代を奔放に生きた恋多き女待賢門院璋子である。

高橋英夫「西行」

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我々現代人にとっての西行像は、芭蕉をとおして浮かび上がってくるのが相場になっていて、おのづから旅を住処とする漂泊の歌人というイメージになるのだが、高橋英夫のこの本は、西行をもっと広い視点から捉えなおしている。その結果あらたに浮かび上がってくる西行像は、ごく単純化して言えば、世俗を捨てこの世から超絶した旅の僧というイメージではなく、生涯世俗に捉われた煩悩の人だったというイメージだ。

柄谷行人「世界共和国へ」

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この本の中で柄谷が試みたのはマルクスの国家論への批判である。マルクスは国家を上部構造として、ある種のイデオロギー装置のようなものとして見た。国家は、経済関係を下部構造として、経済関係における支配階級がそれ以外の階級を支配する為の道具である、というのがマルクスの国家論の基本的な特徴である。国家は階級支配の道具であるから、階級支配とそれを担う階級が消滅すれば、それに伴って死滅する。マルクスが目的とした共産主義社会というのは、国家が死滅したあとの社会の状態、階級支配のない平等な社会である、ということになる。

伊東光晴「ガルブレイス」

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読書誌「図書」の4月号に伊東光晴が寄稿し、その中で、自分に残された生涯最後の日々をガルブレイス論の執筆にあてたと書いていた。伊東は2012年の2月に倒れ心肺停止の状態に陥ったのだが、奇跡的に生き返り、なんとか執筆できるまでに回復した。この時85歳だった伊東は、自分に残された最後の日々をガルブレイスのために使いたいと決心したという。ガルブレイスに寄せる伊東の暑い思いが伝わってきて、筆者も是非読んでみたいと思い、ページを開いた次第だった。

笠井潔、白井聡「日本劣化論」

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笠井潔と白井聡はいづれも、戦後日本に対して鋭い批判意識を持っている。笠井は戦後の日本が敗戦の事実にまともに向き合ってこなかったことで、いまだに国家として深刻な問題を抱えているとする。3,11は8.15をきちんと清算できていなかったことをあぶりだしたわけだが、このままでは同じようなことが繰り返され、第三の8.15も起りうるだろうと予言する。白井のほうも、日本は敗戦の意味を真剣に考えなかったおかげで、いまだに敗戦の亡霊に付きまとわれ、いわば永続敗戦の状態に置かれていると断言する。

高橋敏「清水次郎長」

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清水次郎長といえば、日本的な侠客の典型としてなじみ深いと思う人は多いだろう。筆者の親の世代(戦中・戦前派)では、広沢虎蔵による浪花節や講談師たちによって全国の津々浦々まで語られていたし、筆者の世代では映画やテレビドラマに繰り返し取り上げられ、日本人として知らないものはないといってよかった。

笠井潔「8・15と3・11」

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笠井潔はかなり徹底した戦後日本批判論者のようだ。彼が戦後日本を批判する口調は、批判の域を超えて罵倒に近い。こんな日本に、一人の日本人として生きているのが恥ずかしい、というか忌々しい、そんな鬱憤が彼の文章からは伝わってくる。そこは、近年新たな視点から戦後日本を批判している白井聡より、ずっとラディカルだと言えよう。

レーニンの思想の三つの源泉のうちグノーシス主義は、革命的実践と大きなかかわりがある、と中沢は捉える。レーニンは革命の実践主体としての革命党を非常に重視したが、その党のあり方をグノーシス主義の現われとして捉えた、というふうに考えたわけである。ではグノーシス主義とは何か、それを見ておこう。

中沢新一は、レーニンの思想の三つの源泉のひとつとして「東方的三位一体論」をあげた。これは古代の原始キリスト教の中で芽生えていた思想なのだが、その後キリスト教がカトリックとして体系化されるのに伴い大きく変容したのだった。それをドイツ哲学の父ともいえるヤーコブ・ベーメが再発見し、その後ヘーゲルがそれを哲学的に深化させ(弁証法というかたちで)、それを更にマルクスが唯物論的に逆立ちさせ(弁証法的唯物論として)、その逆立ちした弁証法をレーニンが受け継いで、あの独特の唯物論的世界観を作り上げた、というのが中沢の主張である。

中沢新一「はじまりのレーニン」

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中沢新一は、浅田彰とならんで日本のポストモダンのチャンピオンということになっているが、彼を評価するものはあまり多くはいない。というより、無視される場合が多いのではないか。それは彼独特のエクリチュールに原因があるのだろう。筆者が始めて彼の文章を読んだのは南方熊楠についての一連の解説だったが、それは解説というよりは、熊楠という途方もない巨人に対する中沢の共感を素直な言葉で表現したものであって、論文を読むというよりは、宣命を聞かされているような気がしたものだ。宣命には、この世の不思議に対する深い共感がこだましている、それと同じような共感を中沢は熊楠に抱いて、その驚きの感情を独特のリズムに乗った文章で表現している、そんなふうに感じたものだ。

渓内謙「現代史を学ぶ」

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渓内謙といえば、日本におけるロシア革命史の第一人者として、かつては一定の影響力をもっていた。そのロシア革命史観は、ロシア革命を社会主義革命のあるべきはずだった形態からの逸脱としながら、そこに社会主義の実現に向けての一定の役割ないし歴史的意義を認めるという点で、カーやドイッチャーと共通する立場に立っていた。彼の啓蒙的な著作「現代社会主義の省察」は、レーニンが始めた社会主義革命を、スターリンがゆがめたというという見方を展開して見せたもので、レーニンからスターリン体制への移行を、革命の知的巨人から「知的ピグミー」たちへの移行として捉えていた。

内田樹、松下正己「映画は死んだ」

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内田樹と松下正己は中学生のときに不思議な縁で結びついて以来、主に映画を仲立ちとして付き合ってきたそうだ。しかし二人の映画についての趣味は全く異なっていたらしい。にもかかわらず、共同して映画についての本を書くこととなった。この本はその共同の成果というわけである。内田が前書で言っている通り、松下のものは読むと肩こりする体のものであり、内田のものは例によって肩がこらない。

小林丈広外「京都の歴史を歩く」

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京都に関する数あるガイドブックの中でも、京都の歴史をテーマにしたものが結構出ていると思うが、岩波新書から最近出た「京都の歴史を歩く」はかなり本格的な本だ。三人の京都研究者が、六年もかけて、岩波新書の編集者と共に京都の様々な街を歩き回り、それぞれの街の歴史を京都全体の歴史とかかわらせながら丁寧に読み解いている。時間と労力をたっぷりとかけた贅沢な本なのである。この本を通じて筆者は、京都の街についてのまた違った見方を教えられた。

内田樹によるレヴィナスの他者論

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内田樹がレヴィナスの思想の核心をその他者論にあると捉えていることは、彼のレヴィナス論「レヴィナスと愛の現象学」の全体が、他者としての師匠、他者としての神、そして他者としての女、についての議論に当てられていることからも窺われる。その議論はかなりわかりづらいのだが、それはレヴィナス自身の思想がわかりづらいからか、それとも内田によるレヴィナスの紹介の仕方がわかりづらいのか、レヴィナスに通暁していない筆者のようなものには判断がつかない。しかし一定の推量はできそうなので、推量が出来る範囲で、内田によるレヴィナスの他者論について考えてみたい。

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