読書の余韻

北一輝「日本改造法案大綱」

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北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

内田樹はマルクス主義が大嫌いだと日頃から公言している。だからマルクス本人も嫌いかと言うとそうではないと言う。むしろマルクスからは大きな影響を受けたと言っている。それでもなおマルクス主義者にはならずに、マルクス主義が嫌いになった。そのへんの心理的機制は部外者にはなかなかわからないだろう。一方石川康宏のほうはマルクスに影響されただけではなく、一人のマルクス主義者たらんとしているようでもある。こんな二人が「若者よマルクスを読もう」と言って、今マルクスを読むことの意義について対話している。

赤坂真理「愛と暴力の戦後とその後」

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作家の赤坂真理は1964年生まれというから、戦後世代という言葉がはばかられる新しい世代の日本人だ。その人が日本という国の戦後のあり方に強いこだわりを持ち続けている。彼女の出世作となった「東京プリズン」という小説は、そんな彼女の戦後日本のあり方へのこだわりを吐露したものらしい。(らしい、と言うのは、筆者はまだそれを読んでいないからだ)

渡辺京二「北一輝」

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北一輝といえば、2.26事件の思想的指導者として処刑されたこともあり、いまでは、2.26事件が日本の政治史における特異な一事件として片付けられるのと同じレベルで、日本の政治思想史における特異な一思想家として片付けられがちであった。「特異な一思想家」というのは、現代にはほとんど影響力が及ばない忘れられた思想家という意味である。ところが最近、安部晋三政権のもとで国家社会主義的な言説が大手を振って流通してくるという状況が生まれる中で、北一輝の思想が現代的な意義をもって復活してきた。北の国家社会主義的な思想は、岸信介のような日本の権力の中枢を制した政治家にも多大な影響を与えており、その岸を通じて安部晋三をはじめとしたウルトラライトの政治家たちに強い影響を及ぼしていると言えるのである。その政治家たちがいまやこの国の権力を握っているわけであるから、彼等の思考に多大な影響を及ぼしている思想家を軽視するわけには行かない。

内田樹、鈴木邦男「慨世の遠吠え」

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鈴木邦男といえば、良識に富んだ知性的な右翼と言う定評だ。その鈴木が、これは今や日本の代表的な左翼の理論家として知られる内田樹と対談したというので、その対談集を興味深く読んだ。これを読むと、日本の右翼と左翼は互いにわかりあえるのだという確信にまでは至らないが、対話が成立しないことはない、ということは感じさせられる。

藤田真一「蕪村」

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俳人としての蕪村は、子規によって再評価されたということもあって、とかく子規の見方が蕪村鑑賞を制約してきたきらいがある。子規の見方と言うのは、これを単純化すれば写生ということになるので、蕪村も写生句の名人だったということになりがちだ。ところがそうではない、蕪村の俳句は写生句の枠には収まらぬ大きな広がりをもっていたと主張する人もいる。藤田真一もそうした一人だ。彼の著作「蕪村」は、蕪村の俳人としてのスケールの大きさとともに、画家としても一流の人物だったということを、丁寧に説明している。蕪村についてそれなりのイメージを結ばせてくれる一冊だ。

鎌田茂雄「法華経を読む」

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筆者は日常的にお経を読む習慣は持たないが、法華経は折りに触れて手にすることがある。初老にさしかかった頃には岩波文庫版の「法華経」全三巻を通読した。その時を含め、筆者の法華経の読み方は理知に傾いたものなので、法華経を、いわゆる教えの本として理解する姿勢はなかったと言える。だから法華経読みの法華経知らずで、法華経をきちんと読んだことにはならない、と言われるかもしれない。

半藤一利「日本の一番長い日」

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「日本の一番長い日」は、日本の敗戦の日に焦点を当てた半藤一利のノンフィクション作品であり、半藤の一連の昭和史研究の出発点となったものだが、戦後二十年たった昭和四十年にこれを刊行したとき、半藤はなぜか自分の名を隠し、当時ノンフィクション作家として人気のあった大宅壮一の名前を借りた。名前を借りたというのもおかしな話だが、それ以上におかしいのは名前を貸した大宅の行動のほうで、今なら著作権のあり方をめぐって大騒ぎになるところだろう。

野崎昭弘「詭弁論理学」

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数学者野崎昭弘の著作「詭弁論理学」(中公新書)は、1976年に刊行されて以来刊を重ね、今日でもなお多くの人に読まれているから、古典的な業績と言ってよい。書かれている内容は、そんなに高度なことではなく、誰にでもわかりやすいし、しかも誰にとっても切実な事柄と言えるので、今でも多くの人に繙かれる価値がある、ということだろう。著者の野崎がこの本を刊行した時に、詭弁が横行していたのかどうか、筆者にはそこまではわからぬが、詭弁が横行していなくとも、この種の本はいつの時代でも有効だと思うし、とりわけ政治家たちの詭弁がまかり通っている今日の日本のような社会では、この本の価値は余計に高まっていると言えるだろう。

エマニュエル・トッド「帝国以後」

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題名にある「帝国」とはアメリカ合衆国のことである。そのアメリカ帝国が没落した後の世界はどうなるか、それを分析するのがこの本のテーマである。副題に「アメリカ・システムの崩壊」とあるのが、そのことをよく物語っている。

柄谷行人「反復脅迫としての平和」

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柄谷行人が「世界」の2015年9月号に寄せた「反復脅迫としての平和」という文章は、憲法9条がなぜいまも大多数の日本人によって支持されているのか、その理由をフロイトの理論に依拠しながら分析したものだ。それによれば、強迫神経症の患者が無意識の罪悪感にさいなまれているのとパラレルな形で、日本人は「無意識的罪悪感」に基づいて憲法9条にこだわり続けていると言うことになる。それは無意識のレベルでのことであるから、そう簡単には排除できない。安部晋三政権がいくらがんばっても、日本国民に憲法9条を捨てさせることはできない、なぜならそれは日本人を無意識のうちに呪縛している罪悪感に反するからだ、というわけなのである。

この刺激的な題名は、ユダヤ系のフランス人である著者が、ドイツ帝国の復興に、経済的・政治的そして文化的にも深刻な懸念を抱いていることのあらわれだということが、この本を読むと自から了解される。エマニュエル・トッドによれば、いまやドイツはヨーロッパの支配者になりつつあり、やがてはヨーロッパのすべての国々を隷属させるようになるだろう。そうなれば、トッドの生きているフランスもドイツの奴隷となり、ユダヤ系の家系に生まれたトッドは、自分の身に深刻な危機がせまるのを覚えるようになる、そういう人類学的な恐怖心がこの本には含まれているようである。

戦後の憲法学界をリードした宮沢俊義に「日本国憲法生誕の法理」と題した小論がある。日本国憲法の法的な正統性が何に由来するかを論じたものである。この論文が最終的な体裁をとったのは1955年のことだが、それ以前に、1946年3月に出された政府の憲法改正案を論じる「八月革命の憲法史的意味」というものがあり、それを踏まえたかたちで、日本国憲法の法的な正統性の由来というか淵源について論じなおしたものである。

久野収・鶴見俊輔「現代日本の思想」

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久野収・鶴見俊輔の共著「現代日本の思想」を読んだ。というより数十年ぶりに読み返してみた。この本が出版されたのは1956年であるから、彼らがいう現代思想とは、その時点での日本に流通していた思想ということになる。筆者が読んだのはそれから10数年後のことであったが、その時点でも、この本で触れている思想のいくつかはまだ命脈を保っていた。しかし、出版後60年もたった今日では、少なくとも若い人たちの問題意識を(積極的な意味で)刺激するような迫力を保持した思想を、この本の中に見出すことは難しくなったようである。

内田樹「街場の戦争論」

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内田樹はいまの日本を二つの戦争の間の戦間期と位置づけている。「負けた先の戦争」と「これから起こる戦争」に挟まれた時期というのである。内田がそういうわけは、安部政権という戦争好きの政権をこのまま政権につけておいたままにおくと、かなりな蓋然性で戦争がおこると考えるからだ。内田は、長い目で見れば日本は民主主義と立憲主義の国として再建されるだろうが、「短期的には準―独裁的な政体が日本に出現し、戦後70年間続いてきた平和主義外交が終わるという見通しはかなり蓋然性が高くなってきました」と言って、日本の行末に非常に悲観的な見方をしている。

鶴見俊輔「思い出袋」

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先日、鶴見俊輔が九十三歳で亡くなったとき、哀悼のコメントを寄せたのが鶴見と同じような世代の人々ばかりだったのを見て、この人も今は忘れられつつある人だという印象を持った。かくいう筆者も、鶴見俊輔の読者だったことはなく、彼の一生がどんなものだったのか、ほとんど何も知らない。だが彼が、戦後日本の思想界に一定の役割を果たしたということくらいは知っているので、その死に、日本の戦後思想史のひとつの区切りを見るくらいのつもりはある。

宮沢賢治と石原莞爾

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片山杜秀によれば、近年では宮沢賢治と石原莞爾を結びつけて論じられることがよくあると言うことで、片山本人も「ケンジとカンジ」といった語呂あわせを使ってこの両者を結びつけてきたそうである。宮沢賢治といえば理想主義的な童話作家ということになっており、また石原莞爾といえば日本の軍国主義の巨魁とされているから、この二人を結びつけることには、違和感を覚える人が多いだろう。たしかにこの二人には共通点がないわけではない。二人とも法華経の熱心な読者であったという点、そして田中智学の国柱会と密接な関係を持ったという点である。田中智学といえば、日本のファシズム運動を担った一人であるので、論者の中には、この男と関係が深いという理由で、ケンジとカンジを一緒くたにしてファシスト呼ばわりする者もいる(たとえば佐藤優)。

片山杜秀「未完のファシズム」

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20世紀の二つの大戦の谷間の時期に、日独伊三国で典型的な形で成立した全体主義体制を「ファシズム」と呼ぶことが、日本の近代史学界の趨勢となってきた。日本の全体主義は、厳密な意味ではファシズムと言えるかどうか疑問があり、筆者などは軍国主義と言うべきだと考えているが、この本の著者片山杜秀は、ファシズムと呼んでいいと言っている。しかしそれは、イタリアのファシズムやドイツのナチズム(ファシズムのドイツ版)と比較して不徹底なところがあった。それ故「未完のファシズム」と呼ぶべきだというのが、片山の立場のようだ。本の題名は、その立場を端的にあらわしたものと言える。

内田樹「街場の教育論」

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内田樹は、自身が教育者という立場もあって、教育についてさまざまな発言をしてきた。彼の発言は、主に現在の日本の教育が抱えている問題点の指摘と、その指摘の背後にある教育の本質についての考え方をめぐるものだ。

仲正昌樹「<法と自由>講義」

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「法と自由」といえば、法哲学とか政治哲学のもっとも核心的な問題領域である。思想史的に見れば、この問題についてのアプローチは、大きく二つに分けられる。一つはホッブズやルソーに代表される社会契約的なアプローチであり、もう一つはヒュームやバークに代表される慣習を重んじるアプローチである。仲正のこの本は、この二つのアプローチのうち、社会契約的なアプローチ、それもルソー、ベッカリーア、カントの系列に焦点をあてて、法と自由の本質について考えようとするものだ。

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