読書の余韻

小野善康は、民主党政権の時代に、民主党の政策になじむような印象を持たれたために、とかくイデオロギー性を感じさせる経済学者と受け取られた。それまで自民党の右派勢力が進めてきた新自由主義的経済政策を批判して、政府の役割を重視する立場をとった。新自由主義派の経済政策は、供給を重視するものだが、小野は、日本のような「成熟経済」では、人々の消費選考が極めて弱くなるので、供給ではなく、需要が経済の規模を決定すると考えた。そうした考え自体は、日本をはじめ、世界の先進資本主義諸国に共通した長期不況を説明する理論としては、かなりな有効性があると小生も思っている。というよりか、近年先進資本主義諸国が陥っている長期不況を説明する理論として、もっともまともなものとさえ思っている。

見田宗助といえば、一応社会学者ということになっているが、宮沢賢治の研究でも知られる。「存在の祭の中へ」という副題を持つかれの宮沢賢治論は、日本人の悪い癖である印象批評に堕さず、しかも賢治の感性的な世界を生き生きと語っている。感性的でありつつ、論理的でもあるというのが、見田宗助の強みといってよい。

森政稔の著作「迷走する民主主義」は、前著「変貌する民主主義」の続編のようなものかと思って読んだ。前著は、民主主義についての、森なりの視点からする原理的な考察だった。そこで森は、自由主義と民主主義の関係について触れ、両者は調和的な関係ではなく、緊張関係にあるとしたうえで、冷戦終了後の新自由主義全盛の時代を迎えて、民主主義が形骸化していく傾向に警鐘を鳴らしていた。本著は、そうした問題意識の延長で、今日の民主主義が直面する課題をいっそう掘り下げて議論しているのではないかと思って、読んでみたのであった。

斎藤美奈子といえば、パンチの聞いた社会批判を繰り広げるいまどき珍しい女性として知られているが、その斎藤が冠婚葬祭のマニュアルを、しかも硬い編集方針で知られる岩波新書から出したというので、興味半分で読んでみた。読んでの印象は、斎藤らしからぬ世間知を駆使したもので、まさにマニュアルの名にふさわしいといったところだ。冠婚葬祭の知識というのは、世間知の最たるものというべきなのだが、その世間知を斎藤は、若いころにやっていた雑誌の編集の仕事から学んだというようなことを言っている。雑誌の特集にマニュアルめいたものがあるが、それは、ほとんど何も知らないといってよい人を対象に、噛んでふくめるように説明するのが肝要なことだそうだ。そうしたプロフェッショナルな姿勢を斎藤は、このマニュアル本の中でも貫いている。

鋭い舌鋒で当世の日本人を批判することで定評の斎藤美奈子女史が、文庫の最後におまけとしてついている「解説」をとりあげて、それを面白おかしく料理してみせたのがこの本(「文庫解説ワンダーランド」岩波新書)である。じつは、元になった文章は、岩波の読書誌「図書」に連載されており、それを小生も読んでいたのだったが、岩波新書に収めるにあたって、大規模に書き換えたそうなので、また新たな気持ちで読むことができる。

斎藤美奈子は、月間読書誌「ちくま」に、書評を兼ねた社会時評を連載し、折々にそれらをまとめた単行本を刊行してきた。「忖度しません」は、その第三作目である。雑誌連載の原稿にかなり手を加えてあるという。

中野晃一の著作「右傾化する日本政治」(岩波新書)は、タイトルにある通り日本政治の右傾化をテーマにしたものである。中野は「右傾化」という言葉を厳密に定義しているわけではないが、現実にかれが右翼政治家の代表と考えている安倍晋三を基準にして、安倍の行動を促している動機や具体的な政策を右傾化の内実としているようである。それを単純化して言うと、対米従属という形のグローバル化への対応と、新自由主義的な経済政策ということになりそうである。

保坂正康の著作「時代に挑んだ反逆者たち」は、日本の近現代史における権力への反逆者十人をとりあげ、その歴史的な意義を考えようというものである。だが、保坂のいう反逆者の定義がいまひとつ恣意的に思われる。かれは冒頭に石原莞爾をもってきて、石原こそが、日本的な反逆者の典型のような書き方をしているが、石原は権力への反逆者というより、権力そのものだったのではないか。石原は謀略を弄して満州事変をでっちあげ、日本の対中侵略の先兵になった。また、アジア主義を標榜して日本の海外侵略を正当化するなど、権力の野望をそのまま体現したような人物だ。そのような人物を、日本の歴史における反逆者の筆頭にあげるというのは、理解に苦しむところである。

米原万里はロシア語同時通訳として知られていたらしいが、日本共産党の幹部で衆議院議員だった米原昶の娘である。本人も大学時代に共産党員になったが、党を批判したかどで除名処分をくらっている。だから、父親のように、生涯を共産党とともに活きたというわけではない。しかし、自分をコミュニストとしてアイデンティファイしていたようだ。

若竹千佐子の小説「おらいらでひとりいぐも」は、次のような衝撃的な書き出しから始まる。
「あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ
 何如にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたことねでば、なにそれぐれ」
ねじめ正一の著作「認知の母にキッスされ」は、認知症に陥った母親の介護記録である。その母親は、ねじめ正一が63歳の時に認知症の症状が出始め、69歳の時に亡くなったというから、六年間母親の介護を続けたわけである。最初は在宅介護だったが、同居していたわけではないので、母親が弟一家と住んでいる家に赴いて介護した。その後肺炎で病院へ入院し、民間老人施設と公立の特別養護施設を経て、最後は病院で死んだ。その六年間の間、ねじめはほぼ毎日母親のもとに通って、献身的な介護を続けた。この本はそんなねじめと母親の触れ合いを中心に、施設で知り合った人々との触れ合いも含め、人が老いて死ぬことの意味について、著者自身が考えをめぐらせるといった体裁のものだ。

エマニュエル・トッドの著作「問題は英国ではない、EUなのだ」(文春新書)は、タイトルから推察される通り、ブレグジットをめぐる論争において、英国は正しい選択をしたとたたえる一方、EUのグローバリゼーションを批判したものだ。トッドはグローバリゼーションに否定的で、国家の役割を高く評価している。今回、英国がブレグジットを通じて示したのは、国家の復権であったと言うのである。

「シャルリ」とは、露骨な人種差別を売り物にするフランスの俗流雑誌「シャルリ・エブド」のことである。日本人を下等動物のように描いたこともある。その雑誌が、イスラム教のムハンマドを侮辱したことに怒った青年らが、雑誌社を襲って社員たちを殺害する事件が起きた。その直後、2015年1月11日に、反イスラムデモがフランスじゅうで沸き起こった。そのデモの合言葉は「ワタシはシャルリ」というものだった。デモの参加者たちは、そうした合言葉を使うことで、自分たちにはイスラムを侮辱する権利があると主張したのだった。デモの先頭に立ったのは社会党の大統領オランドだった。オランドは日頃仕事をさぼってばかりいるのに、この日だけは生き生きとしていた、というのがエマニュエル・トッドの見立てである。

斎藤純一は政治についての原理的な議論を展開しているそうだ。なかでも民主主義とはなにかについて、その本質と政治的可能性について強い関心をもっているらしい。民主主義とはなにかに、については、さまざまな議論がある。それらを大雑把に概括すると、自由・平等・友愛といったフランス革命の理念を体現したのが民主主義であって、現代の政治にとって基本となる思想であり、したがって人類共通の普遍的原理になるべきだとする議論がある一方、カール・シュミットのように、民主主義とは統治の主体にかかわる制度論であって、政治的な理念そのものとは本質的なかかわりはない、その証拠に、民主主義が専制政治と結び付いた例は、歴史の舞台に事欠かない、とする議論もある。

中沢新一の著作「緑の資本論」は、2001年の9.11テロに刺激されて一気に書いた文章を集めたものだ。それらの文章で中沢が言っていることは、「圧倒的な非対称」が暴力を生むということだ。それは、強者の側からは弱者への一方的な攻撃としてあらわれ、弱者の側からは絶望的なテロという形をとる。そういう関係について中沢は、弱者の側に立っているようである。

いまどき社会主義革命を論じること自体時代遅れと言われているのに、その社会主義革命の権化ともいうべきレーニンを正面から論じることにはかなりの勇気がいるだろう。なにしろ、1990年代以降、ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、資本主義が唯一の社会モデルと強調されるようになって、社会主義は失敗したモデルであり、いかなる意味でも有効性を持たないと言われている。社会主義を目標としたり、社会主義者としてのマルクスを研究したりすることにうさん臭さを指摘する人間が跋扈している。そういう風潮の中で、マルクスを超えてレーニンを主題的に問題にすること自体、スキャンダラスにとられかねない。そのスキャンダラスなことに、白井聡は取り組んだのである。

ハイネは、日本では抒情詩人として知られていた。「いた」というふうに過去形で書くのは、いまではハイネを読む日本人はあまりいないからだ。ともあれハイネの抒情詩は、同時代人のメンデルスゾーンをはじめ、シューマンやシューベルトなど高名な作曲家が曲をつけたことで、世界中の人々に歌われることとなった。そういう抒情的な詩はいまでも好まれるようだが、ハイネの詩人としての資質は、むしろ政治的な詩において発揮されているといえる。ハイネは政治意識が非常に高く、そのため官憲ににらまれてフランスに亡命を余儀なくされたのだった。それでもなお、政治意識が鈍ることはなかった。若いころから死にぎわまで、ハイネはやむに已まれぬ政治的な憤慨を詩というかたちで表現し続けたのである。ここでは、そんなハイネの政治詩をいくつかとりあげ、その特徴のようなものを見てみたい。

1843年の初冬、ハイネは1831年初夏にドイツを去って以来12年ぶりに故国を訪れる。動機は色々あっただろう。年老いた母に会いたいという願いが一番強かったようだ。紀行詩「ドイツ冬物語」のなかでは、ホームシックになったのだと言っている。そのほか、ハンブルクの本屋カンペとの間に、将来の出版契約を結ぶこともあった。その契約によって、妻のマティルダが自分の死後も路頭に迷わないように配慮したのだった。

1841年の初夏、ハイネは一月あまり、愛人マティルドをともなってピレネー山中の温泉に滞在した。バスク人が住んでいるところである。その折のことをヒントにして長編詩「アッタ・トロル」を書いた。紀行ではない。政治的な内容を含んだ諷刺詩である。1846年に出版した本の序文に、「当時はいわゆる政治詩が流行していました。反政府派がその皮を売って文学となった」(井上正蔵訳)と書いているが、ハイネもその流行に乗って、同時代のヨーロッパとりわけドイツを批判したというわけであろう。アッタ・トロルとは熊の名前で、そこにはハイネ自身が投影されていると考えてよいが、そのアッタ・トロルも人間に皮をはがれて床の敷物にされてしまうのである。

1840年2月から43年6月にかけて、ハイネはドイツの新聞「アウグスブルガー・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」にフランスについての時事評論を連載した。後にそれを一冊にまとめ「ルテツィア」と題した。ルテツィアとは古代ローマの言葉でパリを意味する。

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