読書の余韻

カントに始まりヘーゲルで頂点に達するドイツの哲学の流れをハイネは、「哲学革命」と呼んでいる。革命という言葉を使っているほどだから、これが哲学に及ぼした影響には、人類史的な重要性を指摘できる。たんにドイツ内部にとどまらない。世界的な規模で人類の思考のあり方を変える力をもっている、とハイネは考えた。もっとも革命の影響は短期間であらわれるわけではなく、それが完全に実現するには数百年かかると断ってはいるのであるが。

ハイネはベルリン大学でヘーゲルに哲学を学んだ。ヘーゲルは絶体精神が自己を実現していく過程として社会や思想の歴史をとらえていたので、勢い進歩史観に立っていたと言える。その進歩史観をハイネは受け継いだ。ハイネはそうした進歩の典型的なケースとして革命をとらえ、人間社会は革命をかさねることで、未来に向かって前進していくと考えた。ハイネのドイツ思想史は、そうした立場から書かれたものである。

ハイネの著作「ロマン派」は、スタール夫人の「ドイツ論」を強く意識して書かれた。ハイネがこの著作を書いたのは1833年のことで、スタール夫人は既に死んでいた。にもかかわらず、スタール夫人が1813年に出版した「ドイツ論」は、フランス人にとってドイツを理解するための唯一の手掛かりとして受けとられていた。スタール夫人はそのドイツを、フランスよりも優れた国として描き、その理由を、ドイツ人はナポレオンよりましな人間たちだとしたのだったが、それがナポレオンびいきのハイネには気に入らなかった。ハイネとしては、ナポレオンが体現した国際的な博愛主義こそが大事なのであり、ドイツ人の偏狭な民族主義は時代遅れだと言いたかったのである。

1831年5月、ハイネはパリに移住した。それ以降1854年に死ぬまで、時折ドイツに戻ることはあっても、パリに住み続けた。だから、事実上の移民といってよかったが、ハイネ自身にはそんな大袈裟な意識はなく、パリの空気が気に入って、住み続けているうちに、いつの間にか死を迎えたということだろう。ハイネは60歳前に死んでいるので、当時の感覚でも、早死にといえるのではないか。

1830年6月末、ハイネはヘルゴラント島に渡る。ノルダーナイ島よりさらに沖合にある島である。その島の滞在記が「ヘルゴラント」便りだ。これは後に、「ベルネ覚書」の第二章として発表された。ベルネは左翼民主主義者として生涯ぶれることがなく、若い頃はハイネと気脈を通じていた。ところが、1830年代半ば以降、二人は仲たがいするようになった。理由は、ハイネの日和見主義にベルネが愛想をつかしたということらしい。そのベルネの攻撃から自分を守るために、ハイネは1839年に「ベルネ覚書」を執筆し、その第二章という形で、この「ヘルゴラント便り」を挿入したといういきさつがある。

イギリスからハンブルグに戻ったハイネは、人妻への失恋を経て、ミュンヘンへ行く。そこでドイツ最大の出版社コッタと契約を結び、「政治年鑑」の編集に携わるようになった。

1827年4月、ハイネはイギリスに渡った。その直前に「旅の絵」第二巻を刊行し、詩の部分は大いに反響を巻き起こしたが、政治的な文章のほうは、その過激さを権力に憎まれ、プロシャやオーストリアでは検閲にひっかかった。ドイツでは言論の自由がないということを実感したハイネは、対岸のイギリスではどうなっているのか、気になったようだ。なお、この旅行では、叔父の手引きもあって、有名なユダヤ人富豪ロスチャイルドの歓待を受けたという。

「ル・グランの書」は、ハイネのナポレオン賛美の書である。ハイネが子供の頃に、ハイネの故郷デュッセルドルフにランス軍が進駐して来た。この進駐軍をハイネは、侵略者としてではなく、解放者として迎えた。それには父親の影響があったとされる。ユダヤ人である父親は、熱烈な自由主義的進歩主義者であって、フランス革命を賛美していた。ハイネはそんな父親の思想を受け継ぎ、ナポレオンをフランス革命の体現者として、熱烈に支持した。この書にはハイネのそうしたナポレオンへの敬愛が込められている。

ハイネは、1825年の夏と翌年の夏、二度北海に遊んだ。ニーダーザクセン州の海岸沖に並び浮かぶ東フリースラント諸島のノルダーナイという島である。その滞在の印象から、二冊の詩集と一冊の紀行文を書いた。ここでは、その紀行文について述べる。

「ハルツ紀行」は、ゲッティンゲン大学在学中にブロッケン山で知られる名所ハルツ山地に旅をした折の記録である。その時ハイネは27歳であって、ゲッティンゲン大学の二年生であった。そんなにも遅くまで大学にいたのは、ハイネが変則的な学校教育を受けたせいで、その理由の一つとして、かれがユダヤ人であったということがあげられるようだ。1820年代のドイツは、反動的でかつ不寛容な空気が蔓延していて、ユダヤ人差別が激化しており、ユダヤ人が大学に入るメリットはあまりなかった。だから、ユダヤ人たちは、息子に大学教育を受けさせる動機が弱かったし、当の息子たちも大学に入りたいという強烈な願望を持たなかったようである。

井上正蔵のハイネ論「ハインリヒ・ハイネ」が岩波新書から出たのは1952年のことだが、いまだに日本におけるハイネ論の標準的なものとして読まれている。といっても、重版はされていないらしいが。どうやら今の日本人には、ハイネを読もうという人は非常に限られた数しかいないようなのだ。そんな日本人の一人として、小生がハイネを再読しようという気持ちになったのは、昔に受けた感動をもう一度味わってみようということが一つ、もう一つは革命の詩人といわれたハイネを、自分なりに再評価してみたいと思ったからだ。近頃、マルクスを読み直すことにはじまり、シュンペーターやグラムシを読み進むうちに、今の世界を律している資本主義の秩序が崩壊に瀕していることが見えてきたし、その先には新しい世界秩序への展望のようなものも感じられてきた。ハイネはそうした新しい世界秩序の可能性を最初に洞察した人だったのではないか。そんな思いが湧きおこってきて、ハイネを再読しようという強い気持ちを抱くようになったのである。

ハインリヒ・ハイネといえば日本では、「ローレライ」や「歌の翼」といった歌曲の歌詞を書いた抒情詩人として知られてきた。かれの詩集を読む日本人は今ではあまりいないと思うが、歌曲のことは今でもよく知られているのではないか。しかし小生のようないわゆる団塊の世代に属する人間にとっては、ハイネは単なる抒情詩人ではなく、きわめて政治的なメッセージを発した革新的な文学者としての名声のほうが高かった。ハイネはマルクスやエンゲルスと親交があったし、マルクス以前に共産主義とかプロレタリアートという言葉を使っていた。要するに黎明期の社会主義者の代表的な人物だった。詩人としての名声があまりにも高いことで、政治思想家としての彼は実像より低く評価されたきらいがある。

対談本というのは、だいたい一回限りで、二回出すのは珍しいのだそうだ。内田樹と鈴木邦男は、その珍しいことをやった。よほど相性がいいのだろう。かれらの相性がいいのには理由がある。まず、反米愛国という点で一致している。それに加えてこの二人は、反共でも一致している。これだけ一致していれば、相性が悪いはずがない。内田は左翼で通っているし、鈴木は「新」がつくが右翼で通っている。ふつう相性がよくない左右がここまで仲良くできるのは、やはり以上三つの共通項があるためだろう。

中田孝は、2015年に中東でISILによる日本人拘束事件が起きた時に、仲介役を買って出て、余計なことをするなと安倍政権に眼の敵にされ、またメディアのバッシング対象になったことで一躍有名になった。中田はイスラム研究者であり、自身イスラム教徒であることを公表している。その中田について内田は、「僕たちはまったく対立的な、相容れない立場にいる」と言っている。その意味は、内田自身はナショナリストであるのに対して、中田は国境を軽視するコスモポリタンであるということのようだ。

「憂国論」と題した鈴木邦男と白井聡の対談は、三島由紀夫と野村耿介の話題から始まる。三島はいわゆる新右翼の誕生に大きな影響を及ぼしたようだ。鈴木はその三島を人間として尊敬しているわけではなく、右翼にとっての理論的な支柱として尊重しているという。三島の右翼めいた活動は、晩年の五・六年のことだが、鈴木が三島について評価するのはその部分だけで、それ以前の三島は全く眼中にない。また、右翼としての三島についても、三島個人というよりも、森田必勝と一体となっている三島を評価するのだという。鈴木は、三島問題は森田問題だというのである。例の事件で、三島だけが死んでいたら、川端康成と変わらぬ扱いを受けたのではないか。ただの作家の自殺だと。ところが森田が一枚かむことで、極めて政治的な事件として受け取られた。その政治性は、その後の日本の右翼を強く刺激してきたというのである。

内田樹と白井聡は、どちらも日本の対米従属を強く批判してきた人間だから、この対話本の中で、日本の対米従属ぶりを属国にたとえて議論しているのは、わかりやすい。かれらは、この数年前にも、「日本戦後史論」と題する対談の中で、戦後日本の対米従属を厳しく批判していた。今回は、その批判を一層深化させたというふうに読める。

スラヴォイ・ジジェクは、21世紀の今時、共産主義の実現を声高に主張する珍しい人間である。「ポストモダンの共産主義」と題する書物は、そんなかれにとっての「コミュニズム宣言」ともいうべきものだ。ポストモダンという言葉を冠したのは、21世紀にも共産主義は有効だと言いたいからだろう。かれにとってポストモダンとは、21世紀をさしているようだから。

今日ではグラムシは忘れられた思想家として扱われている、と先に述べた。このまま再び取り上げられることなく、忘却の闇の中へと消え去ってしまうのであろうか。それとも復活するチャンスはあるのか。もしグラムシに復活するチャンスがあるとすれば、それは二つの条件を満たす場合である。一つはグラムシが絶対的なものとして設定した社会主義の実現が現実味を帯びて迫って来ること、もう一つはその社会主義の実現主体として労働者階級が役割を果たす覚悟を決めることである。この二つの条件がともどもに前景化して人々の意識を捉えるようになったとき、グラムシの思想は再び脚光を浴びることになるであろう。

アントニオ・グラムシは、第二次大戦後の西欧で社会主義運動が高まりを見せた時期に、ソ連型の社会主義とは異なった、西欧型社会主義の魅力的なモデルを提示したものとして、非常に人気を集めたものだ。日本でもグラムシの研究は盛んだった。だが、今日、一部の熱心なファンを除き、グラムシを研究しようとする動きはしぼんでしまった。それには、ソ連の崩壊をはじめ、既存の社会主義体制が有効性を失ったことが働いている。そんな趨勢の中で、グラムシを研究しようにも、なかなかよい手がかりが見つからず、研究予備軍は、グラムシの著作に直接あたりながら、手探りで研究を進めていかざるをえない状況にある。そんな中で、イギリスの歴史学者J・ジョルが1976年に刊行した「グラムシ」は、いまだグラムシ研究の入門書的役割を果たしている。

フォーディズムとかテーラー・システムと呼ばれるものは、大量生産時代を迎えた20世紀初頭に、アメリカで生まれた「科学的」経営管理法をいう。基本的には、労働者を合理的・効率的に働かせ、最大限の労働力を引き出すことを目的とする。要するに人間を、生身の生きものとしてではなく、労働力の体現したものと捉え、その労働力をできるだけ多く絞り出すために考案されたものと言ってよい。それが「科学的」という言葉を冠しているのは、人間を科学技術的な操作の対象として、目的合理的に捉えているからだ。

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