読書の余韻

マイク・サンデルの共通善

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マイク・サンデルは、ジョン・ロールズにおいて極限形態をとったと思われる自由主義的正義論に異議を唱え、共通善と言う伝統的な概念を改めて正義論に持ち込んだ。その際に彼が依拠したのは、アリストテレスの目的論的な見解である。アリストテレスの目的論的な正義論にあっては、個人の自由などということはそもそも問題にならない。個人というのは、共同体の一員としてしか存在しえないのであるから、正義とは、ロールズが言うように個人の選択の自由に根差すのではなく、共同体の一員としての望ましい在り方を示すということになる。正義とは、共同体全体の道徳的な目的と離れてあるものではないのだ。

マイク・サンデルの正義論

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マイク・サンデルといえば、一時期日本でも大流行したから、筆者も名前だけは知っていた。サンデルが流行した当時は、同じく政治思想家のジョン・ロールズも、サンデルとセットのようにして流行した。ロールズは、アメリカのリベラルの考え方を哲学的に基礎づけたと言われており、現代思想の流れの中ではそれなりの位置を占めていた。サンデルは、そのロールズの思想を高く評価しながら、その限界を指摘し、リベラルな政治思想に共同体的な要素を持ち込もうとした、というのが大方の批評だったように思う。

ハンナ・アーレントの革命論

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革命は、少なくとも西洋文明にとっては、近代化の巨大な推進力だという理解が支配的だが、ハンナ・アーレントはその理解に対して異議を唱えた少数者の一人である。彼女は、「革命について」と題する書物の中で、革命を戦争と並列させ、この両者は暴力を「公分母」としていると書いている。つまり、両者とも、その本質は暴力にあり、したがって基本的には、なくて済ますべきものだと考えるわけである。彼女の革命に対する忌避感情は、とりわけフランス革命について極端に現れている。彼女にしたがえば、フランス革命は、人間性という言葉を使いながら、人間性に悖るものだったのであり、したがって、人間の歴史にとってプラスの側面よりも、マイナスの側面の方が大きかったのだと断定するのである。

アーレントの世界疎外論

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「世界疎外」の概念は、アーレントの近代社会批判のキーワードだが、彼女はそれを、マルクスを意識しながら展開した。しかし、同じく「疎外」という言葉を使っていても、そのニュアンスはだいぶ違う。マルクスの場合には、人間が自分のあるべき姿(類的本質)から逸脱している事態をさして「自己疎外」と言っているのに対して、アーレントは、人間が自分の居場所であるところの「世界」から追放されている事態を「世界疎外」と言っている。そしてこの「世界疎外」という事態は、近代に特有の事態だとして、次のように言う。

公的領域と私的領域をめぐるアーレントの議論は、人間の活動力をめぐる議論と同じく、ギリシャのポリスをモデルにした議論である。ギリシャにおいては、公的領域はポリスの領域として、私的領域は家族の領域として捉えられ、両者は截然と区別されていた。その上で、公的領域たるポリスの領域、それは政治の領域と言い換えてもよいが、それが優位を占め、私的領域たる家族の領域は、価値の劣るものとして認識された。

アーレントとマルクスの労働観

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アーレントの政治思想の基礎付けともいうべき「人間の条件」についての考察を、彼女はマルクスとの鋭い対立を意識しながら展開している。マルクスの人間観の基礎には、労働を人間の本質とみなす考え方があったわけだが、彼女はその考え方を正面から否定して、労働は人間の本質どころか、人間の諸活動のうちもっとも程度の低い活動なのであり、したがって自由な人間ではなく、奴隷が従事するのに相応しいと断言したのである。

人間の条件:アーレントの政治思想

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「人間の条件」という日本語は、人間が人間であるために必要な前提条件といった意味合いに聞こえるが、アーレントはこの言葉を、かならずしもそういう意味合いで使っているのではないようだ。この言葉の英語の原文は Human Condition であり、文字通り訳せば「人間的な条件」ということになる。人間には生き物として動物と共通の側面もあるが、人間特有の生き方というものもある。そうした人間の生き方を人間らしくさせているもの、それをアーレントは「Human Condition(人間の条件)」といっているようである。

ハンナ・アーレントは、早い時期から日本に紹介され、「全体主義の起源」を始めとした主要著作もほとんど翻訳されてきたが、そのわりには、いまひとつ評価が芳しくなかった。彼女は日本では、保守的な思想家として受け取られ、広範な読者を獲得することがなかったからだろう。ところが、最近になって、日本でも幅広い層に読まれるようになってきた。

民主主義(デモクラシー)という言葉がギリシャ語のデーモクラティアに由来するように、民主主義を議論する際に、ギリシャのデモクラシーの意義を軽視することはできない。そこで、ギリシャ人が、デーモクラティアという名前で何を観念していたかが問題になるが、それは文字通りに受け取れば、デーモス(民衆)のクラティア(権力)を意味した。つまり権力の主体が民衆であることを表す概念であったわけだ。その点で、権力の主体が一人である君主制、複数である貴族性との、対立関係において表象され、理解された概念である。

民主主義の二つの源流

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民主主義という言葉には二つの意味が込められている。一つは統治システムにかかわるもので、多数者としての人民を統治の主体とするものをさして民主主義と言う場合である。この意味での民主主義は、歴史的には、ひとりによる統治である王制や、少数者による統治である貴族制と対立する。もうひとつは、政治理念にかかわるもので、これには自由と平等があげられる。これらの理念は、歴史上たまたま民主主義と結びついてきたのであって、かならずしも論理必然的に結びつかねばならない筋合いではないといえる。だが、少なくとも今日の民主主義を語るさいには、この二つの理念は民主主義にとって欠かせない要素となっている。

民主主義とポピュリズム

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サッチャー、レーガン、小泉らのいわゆる新保守主義的な政権が、一方ではポピュリズムの性格を持っていたことはよく指摘されることである。ポピュリズムの定義は必ずしも明らかではなく、民主主義との関連も多義的であるが、ゆるやかに解釈すると、政治と民衆とをストレートにつなげようとする動きだといえよう。民衆の要求をストレートに政治に反映させようとする点で、民衆による下からの運動という形態をとることもあろうし、あるいは民衆の要求を上から吸い上げる形をとることもあろう。いずれにしても、政治を民衆にとって身近なものにする試み、それがポピュリズムだと言えなくもない。

グローバル化とナショナリズム

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グローバル化とナショナリズムは一見正反対のように見える。グローバル化は基本的には経済をめぐる現象であり、ナショナリズムのほうは政治的な現象だという違いはあるけれど、グローバル化が進めば国境の壁が低くなり、したがってナショナリズムも弱くなるのではないか。というのも、ナショナリズムとは基本的には国境の壁があることを前提にした現象だから、今後、グローバル化がいっそう進んでいけば、国境の壁が低くなることでナショナリズムはいよいよ足場を失い、「世界はひとつ」に向かって進んでいくのではないか。こんな期待が生まれるのも無理ではないように思える。

保守革命と新保守主義

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冷戦終結後に登場したサッチャーやレーガンの政権を、「新保守主義」ということができる。新保守主義はやがて国境を越えて広がり、日本にも押し寄せてきた(小泉政権)が、その登場は革命的といってもよいような衝撃を伴っていた。その衝撃の大きさを、政治学者の森政稔氏は「保守革命」と表現している(「変貌する民主主義」)。

1980年代以降、いわゆる新自由主義的な潮流が政治の分野にも押し寄せてきたことで、民主主義の変貌が云々されるようになった。そうした流れのなかで、民主主義はもはや万能の思想ではなく、人間の自由をとことん追求する自由主義的な思想こそが時代をリードすべきだとする極端な考え方が生まれるまでになった。筆者はそうした潮流を、冷戦の終了によって、社会主義の権威が失われ、資本主義が唯一のものとして残った結果の現象であると考えていた。唯一の制度として残った資本主義が、もはや人間の平等とか生存への権利といった社会民主主義的要請を気にせず、資本家の欲望追及が無制限に許されるような時代になった。新自由主義はそうした時代の自己主張と考えたわけである。

廣松渉「今こそマルクスを読み返す」

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廣松渉といえば、「物象化論の構図」とか「事的世界観への前哨」とか「世界の共同主観的存在構造」とかいった著作を若い頃に読んだものだが、それらを通じて筆者が抱いた印象としては、マルクスの思想に新カント派やフッサールの現象学を接ぎ木したようなものだというものだった。物象化論はマルクスが資本論の中で展開したところであるし、事的世界観というのはマルクスの言う関係性やカッシーラーの関数概念とつながるところがあり、共同主観にいたってはフッサールの現象学に非常に近い。

「天皇制ファシズムの成立は、北一輝、大川周明、西田税、井上日召、橘孝三郎、天野辰夫など、民間の行動的右翼の思想と運動をぬきにして論ずることはできない」(<近代の超克>論、第五章)廣松渉はこういって、日本の天皇制ファシズムの成立に果たした民間右翼の「貢献」を強調する。

廣松渉は「近代の超克」論を目して、日本における上からのファシズムに下から呼応する動きとしたのであるが、日本ファシズムの二大要素たる全体主義的「国体」と対外戦争のうち、後者を見事に合理化したものとして、京都学派の学者高山岩男を取り上げている。

廣松渉「<近代の超克>論」

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廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。

丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)

丸山真男は、日本的思考(日本の思想の疑似形態ともいうべきもの)への国学の影響を大いに問題視している。丸山は国学を、儒仏の思想へのアンチテーゼとして出発したと抑えたうえで、それの基本的な特徴を、儒仏がイデオロギー的な体系性なり理論的な性格を持っていたのに対して、非イデオロギー的であり感覚的であることに求めた。

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