読書の余韻

「実践の哲学」という言葉をグラムシは、ほぼマルクス主義哲学と同義語として使っている。それには、獄中ノートへの官憲の検閲をほばかったからだとする見方もあるが、もっと本質的な理由は、レーニンを含めたマルクス主義思想の主流派と目されるものが、人間の認識を反映論によって説明し、その主体的な側面を軽視していることへの批判だと思われる。グラムシは人間の認識における主体的で実践的な側面を重視し、単なる客観主義ではなく、主観と客観とを深い相互関係において捉えようとした。そういう彼の基本的な態度が、マルクスの哲学を「実践の哲学」として位置づけなおすことにつながったといえよう。

マルクスは国家を、基本的には階級支配の道具と考える。だから、プロレタリア革命を経て階級が廃絶されれば、国家は死滅するものと考えた。これに対してグラムシは、国家は単なる道具ではなく、社会が成立するための基盤であると考えていたようだ。だからグラムシは、社会主義国家という言葉を多用する一方、国家の死滅というようなことは言わなかった。グラムシは、社会主義革命を通じての社会の抜本的変革は、一朝一夕でなされるものではなく、気の遠くなるような長い時間を要すると考えていた。そうした長い時間において、プロレタリアートがヘゲモニーを確保するためには、国家を積極的に活用するほかはない。無政府主義者のように、国家を無視しては、政治はなりたたないのである。

機動戦といい陣地戦といい、もともとは軍事用語である。機動戦とは短期決戦を目的とした正面攻撃をさし、陣地戦は長期的な戦いのために陣営をととのえることを意味する。これらの軍事的な用語を、グラムシは社会変革を説明するものとして活用した。グラムシのイメージでは、機動戦とはフランス革命に見られたような、ある階級つまりブルジョワジーが、短期間で敵対階級に正面攻撃をしかけ、成功裏に権力を奪取した事態を想定するいる。無論権力奪取に失敗することも考えられる。その場合には失敗した機動戦という言葉があてられるであろう。一方陣地戦とは、戦線が膠着し、局面の抜本的な打開が期待できない状況のなかで、陣営を優位を保つために、継続的になされる戦闘準備行為というようなイメージで語られる。グラムシは、フランス革命後1870年代までのヨーロッパを俯瞰して、革命時の機動戦ののち、1815年以降は長い陣地戦の時代に入ったと考えていた。

ヘゲモニーは政治的な指揮権の確立をめぐる概念である。ある集団がほかの集団に対して支配的な力を行使する事態を意味する。これをロシアの社会主義者たちが、階級対立に適用した。その場合には、労働者階級の、農民その他の階級に対する指揮権というような意味合いに使われた。レーニンもそのような意味で使っていたが、やがて「プロレタリアート独裁」という言葉をもっぱら使うようになった。レーニンにあっては、プロレタリアートこそが、ほかの階級を指揮、支配して政治的な権力を独占的に掌握しなければならない。それを「プロレタリアート独裁」と呼んだわけである。

「歴史的ブロック」は、グラムシの思想におけるもっとも重要な概念の一つである。グラムシはそれをマルクスの「下部構造ー上部構造」の議論から導き出した。マルクスの議論は、ごく単純化して言えば、下部構造としての経済システム(生産力と生産関係の統合)が社会の土台・基盤であって、その上に、法的・政治的・文化的なシステムが上部構造として乗っているというものだ。その関係は、一方通行的なもので、下部構造が上部構造を規定し、上部構造のほうは下部構造の単なる反映に過ぎないとするものだ。無論、具体的な議論はそんなに単純なものではなく、マルクスといえども、政治的な意思が歴史を動かす力を持つことを認めているのであるが、その場合にも、そうした上部構造に属する事柄は、基本的には下部構造が設定した枠組みのなかに限定されると考える。

日本でグラムシの著作といえば、1960年代初頭に合同出版社から刊行された「グラムシ選集」が初の本格的なテクストだったが、一般の読者向けには、1964年に青木文庫から出された「現代の君主」がもっともポピュラーなものとなった。小生なども学生時代に読んだものである。これは、グラムシ自身の編集になるものではなく、日本のグラムシ研究者のグループが、グラムシの「獄中ノート」から政治にかかわる部分を抜粋して一冊にまとめたものである。その研究者のグループとは、石堂清倫をはじめ五人からなり、「東京グラムシ研究会」といった。その一人であった上村忠男が、1994年に青木文庫から再版を出した。再版にあたっては、訳語の変更はじめかなりな手直しをしたそうである。その再版本が今日ちくま学芸文庫から出ている。だから今日グラムシに関心のある人は、まずこのちくま学芸文庫版の「現代の君主」からとりかかるのがよいだろうと思う。

グラムシは、かつて1960年代を中心に世界的な社会主義運動の高まりに乗った形で大いに読まれたものだったが、いまではほとんど「忘れられた思想家」扱いである。一部の好事家的なマニアの研究対象になっているくらいだ。グラムシがもてはやされたのは、ソ連型社会主義への対抗軸としてであり、西欧先進資本主義国における社会主義の可能性を示したものとしてであった。スターリン批判の本格化によって、ソ連型社会主義の威信が極度に低下し、社会主義全般が強い疑問にさらされたときに、ソ連型とは異なる先進国型社会主義の一つの有力なモデルを提供したことで、グラムシは社会主義思想の有力な論客として迎えられたわけである。しかし、そのソ連型社会主義が、20世紀の末近くに崩壊すると、社会主義をトータルに否定する議論が盛んになり、そうした風潮が強まる中で、グラムシも次第に忘れられていったのである。

吉田裕の著作「昭和天皇の終戦史」は、「昭和天皇独白録」の公表に強く刺激されて書いたものだ。この「独白録」の所在が新聞各紙で報じられたのは1990年11月のこと、その直後には全文が「文芸春秋」1990年12月号に掲載された。吉田が「昭和天皇の終戦史」を岩波新書から出したのは1992年12月のことだから、かなりのスピード感をもって、この著作に取り組んだわけだ、

小川洋子が「心と響き合う読書案内」の中で藤原ていの「流れる星は生きている」を取り上げ、絶賛に近い褒め方をしていたので、小生も読んで見る気になった次第だ。小川がこの本を読み返す気になったのは、小説「博士の愛した数式」の取材のために数学者の藤原正彦と対話を重ねたことが直接の機縁だったそうだ。「流れる星は生きている」に出てくる藤原ていの次男正彦ちゃんが、今自分の目の前にいる人だと思い重ねたという。それで、小川の「流れる星」の読み方は大分違ったものになったようだ。

西洋史学者の堀米庸三が書いた「正統と異端」を、キリスト教神学者の森本あんりは、「出版後半世紀以上を経た今もなお光輝を失わない古典的な名著である」と言って、絶賛している。小生もこの本を読んだ記憶があるが、詳しいことは忘れてしまった。そこで改めて読んでみた次第である。

正統と異端の問題は、西洋の神学ではおなじみのテーマなので、キリスト教神学者である森本あんりにとっては、専門分野に属する事柄だといえる。しかし森本がこの本「異端の時代」で取り組んでいるのは、単なる宗教上の問題ではなく、広く社会的な問題としての正統と異端である。そうした問題を森本が取り上げたのは、トランプの登場に象徴される異端の普遍化といった事態だ。森本はアメリカの歴史の底流としての「反知性主義」に深い関心を持っており、トランプもその反知性主義の嫡出子だと捉えるわけだが、その反知性主義が今日では、全体に対する批判というにとどまらず、全体を僭称するようになっている。いわば現代的な意味での全体主義をトランプが体現していると言うのである。そこに森本は民主的な社会にとっての危機を感じ、「正統と異端」という古くて新しい問題を、森本なりの視点から取り上げたということらしい。

2016年に刊行された西山隆行の著作「移民大国アメリカ」は、トランプの移民排斥の主張に強く刺激されて書いたということだが、その二年後に刊行された貴堂嘉之「移民国家アメリカの歴史」もやはり、トランプの主張に刺激されているようだ。移民をどう見るかについては、肯定、否定色々な見方があるが、いづれにしても今日のアメリカが移民なしで成り立たなかったことは明らかだ。移民と言ってもさまざまな背景や、受け入れ方の相違がある。白人の受け入れはおおむね好意を以てなされたが、アジア系の移民はひどい差別待遇を受けてきた。この本はそんなアジア系の人々の立場からアメリカの移民の歴史を振り返ろうとするものである。

この本は2016年に書かれた。アメリカ大統領選挙の真っ最中で、有力候補者のトランプが移民を激しく攻撃していたときだった。トランプは、メキシコからの不法入国者をやり玉にあげ、かれらを殺人犯や強姦魔だと根拠もなく罵り、その不法入国を防ぐためにメキシコとの国境に壁を作り、その費用をメキシコに負担させることを公約にした。そんなことで、移民問題は熱いテーマになっていた。この本はそうした事態を背景に書かれた。

渡辺靖の著作「白人ナショナリズム」は、トランプ在任中の2020年に書かれたものだから、当然トランプを意識しながら書かれている。トランプは「アメリカ・ファースト」を実行したわけだが、トランプの言うアメリカは白人のためのアメリカというふうに受け取られたので、白人至上主義者たちを勢いづけた。その彼ら白人至上主義者の思想を渡辺は白人ナショナリズムという言葉で表現するわけだ。

「文壇アイドル論」で上野千鶴子を話題に取り上げた中で、上野が「おまんこ」という言葉を臆面もなく使っているのは、多くの人々(たとえば小生のような東京圏に暮らしている人間)にとっては非常に抵抗を感じるものだが、使っている上野自身はそうでもないらしい、という指摘があった。その理由を斎藤美奈子女史は、呉智慧の批評を持ち出しながら明かしている。呉は次のように批評したのだ。

「文壇アイドル」とは奇妙な言葉だ。命名者の斎藤美奈子はこの言葉を厳密に定義しているわけではないので、その中身がいまひとつ明らかではないが、どうも芸能界のアイドルを横引きしているらしい。芸能界のアイドルといえば、いわゆるミーハーたちの人気者で、その人気を芸能プロダクションや放送業界が盛りあげながら、そこからもたらされる巨額の収入を分け合うというような構図になっているらしい。だから業界の連中は金のなる木としてのスターの育成に余念がないし、スターはスターでミーハーの人気を獲得するのに余念がないというわけであろう。

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ドキュメンタリー作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。彼女はまたノーベル賞を貰ったはじめてのベラルーシ人でもある。彼女の仕事としては、戦争体験についての聞書きとかチェルノーブィリの原発事故の後日譚などが有名だという。「戦争は女の顔をしていない」は、彼女の最初の仕事であり、また代表作となったものだ。

独ソ戦は、人類の歴史上もっとも大規模で凄惨な戦争であった。この戦争によるソ連側の死者は従来2000万人といわれていたが、近年の研究で2700万人に上方修正された。ドイツ側の死者数も、さまざまな見積もりがあるが、全体で600万人ないし900万人と推測され、その大部分が独ソ戦にともなうものである。そんなにも巨大な犠牲を出したわけは、独ソ間での全面戦争であったということのほかに、この戦争が、普通の戦争とは違って、民族の奴隷化とか絶滅を目的としたものだったことだ。ヒトラーは、独自の民族観から、ロシア人を劣った人種と見なし、その奴隷化と殺戮を公然と行った。そうした破廉恥な思想が、この戦争を凄惨なものにした。著者の大木毅はこの戦争を、ヒトラーが仕掛けた絶滅戦争と定義づけている。

森嶋通夫は、1999年に書いた「なぜ日本は没落するか」の中で、日本が没落を免れるための施策として「東アジア共同体」構想を提起した(アイデアそのものは1995年に「日本の選択」の中で提示していた)。その構想を、中国人に向かって直接説明したのが、「日本にできることは何か」(2001年)である。これは、天津の南開大学で行った講演をもとにしたものである。森嶋は、中国の大学生は日本のそれよりずっと優秀だから、自分の構想を前向きに受けとめてくれるのではないかと期待していたようだ。

トランプを贔屓する日本人がいるように、サッチャーを贔屓する日本人もいた。トランプやサッチャーを贔屓するのは、だいたいが右翼だと思うのだが、右翼というのは民族主義的心情を強く持っていて、したがって排外的なのが普通である。排外主義者同士が面と向き合うと、それぞれ自国中心の立場から反発しあうのが自然なはずなのに、事情によっては惹きつけあうこともあるらしい。そのへんは人間のことだから、合理的に割り切ることが出来ないということか。

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