読書の余韻

政談巻四は、巻三までの議論を踏まえて、それに漏れた事柄を雑多に並べたものであるが、中でも武士の身分にかかわるものが興味深い。身分についての議論には、婚姻や養子縁組などの問題も含まれる。これらは今の民法体系のなかでも、身分法の一部をなすものだ。

国の締まりや経済・財政を実際に取りさばく者は役人である。したがって役人の器量や彼らの使い方が、政治をよくするためのポイントとなる。そう徂徠は言って、役人の望ましいあり方について提言する。それを徂徠は役儀という。徂徠の役儀論は、今で言えば公務員制度論のようなものと考えてよい。公務員の良し悪しは、いまでも一国の政治のかなめとなるものだが、徂徠の時代にあっても、いや、その時代だったからこそ、喫緊の課題として意識されたのだろう。

政談の巻二を徂徠は次のように書きだす。「太平久く続くときは漸々に上下困窮し、夫よりして紀綱乱て終に乱を生ず。和漢古今共に治世より乱世に移ることは、皆世の困窮より出ること、歴代のしるし、鑑にかけて明か也。故に国天下を治るには、先富豊なる様にすること、是治の根本也」

荻生徂徠が「政談」を書いたのは享保十一年頃のこと。享保元年から始まっていたいわゆる享保の改革がピークを記すときにあたる。徂徠は享保七年に将軍吉宗の身近に仕えるようになって以来、改革の行方に大きな関心を持ったに違いない。この「政談」には、そうした徂徠の関心というか、問題意識が強く盛られている。かれがこの書を将軍に献上したのは、享保十二年四月のことらしい。死の一年前のことである。そこには幕府の政策に活用してもらいたいという実践的な意図があったのだと思われる。この書は、「政談」という題名が語る通り、政治のあるべき姿を語った書なのである。

「近代日本の陽明学」と題したこの本は、大塩平八郎に始まり吉田松陰、西郷隆盛を経て三島由紀夫に至る、著者が陽明学的と考える人々を対象にしたものである。おもてづらは陽明学という思想運動を取り扱っているようにみえるが、普通の思想史とは大分違う。第一、水戸学とか山川菊枝とか、陽明学とはかかわりのなさそうなものに多くのページを費やしているし、三島由紀夫に至っては、著者自身、かれは陽明学の精神を体現した革命家というより、むしろ朱子学的精神を体現した能吏タイプの人間だと言っているくらいなのだ。

朱子学と陽明学はとかく対立する面が強調されがちだったが、実は深い絆で結ばれているというのが中国史家島田虔次の見方である。陽明学は朱子学の内在的な展開であり、「朱子学は、必然的に陽明学にゆきつくべき運命にあった」というのである。

桑原武夫といえば高名なフランス文学者だったが、新井白石を非常に高く評価し、白石の文章のいくつかを現代語訳したり、「荒井白石の先駆性」という小文を書いたりしている。それらを通じて桑原が言いたかったことは、白石が名文家だったということらしい。桑原は言う、「従来の日本文学史家がこうした白石の作品を文学として十分に評価していないことは、まったく遺憾といわざるをえない」と。

岩波版日本思想体系新井白石編に、加藤周一が「新井白石の世界」と題する結構長文の解説を寄せている。バランスのとれた解説なので、とりあえず新井白石という人物のプロフィールを知るには適当な文章だと思う。

新井白石は正徳二年(1712)すなわち将軍家宣が死んだ年の春から夏にかけて、侍講が終わるたびに、「本朝代々の沿革・古今の治乱」と題して、日本の歴史について進講した。「読史余論」は、その講義録というべきものである。序章に、「本朝天下の体勢、九変して武家の代になり、武家の代また五変して当代に及ぶ総論のこと」とあるように、清和天皇の代から始めて公家の政治の変遷を説き、引き続いて秀吉の代に至るまでの武家の政治の変遷を説いている。この間、公家の代九変のうち、六変以降の内容については、武家の代の五変と重なるが、歴史を語る視点が異なっている。すなわち六変以降の内容については公家の視点からこれを語り、五変については武家の視点から語っているわけである。

宝永五年(1708)十月、イタリア人宣教師シドッティが屋久島に上陸し、長崎を経て翌年江戸に移送されてきた。その頃幕府の要職にあった新井白石は、数回にわたってシドッティを尋問し、それにもとづいて幕府としてとるべき措置を上申した。それは三つの選択肢からなっていて、本国送還を上策、監禁を中策、処刑を下策としていたが、幕府がとった措置は中策の監禁であった。シドッティは茗荷谷の切支丹屋敷に監禁され、正徳四年(1714)十月に死んだ。

「東雅」は、語源解釈を中心とした語義解釈辞典というべきものである。古い日本語の成り立ちや特徴が浮かび上がるように配慮されている。いまでも日本語語源辞典としての意義を失っていない。白石がこれを作ったのは、失脚後間もなくのことで、その頃子供相手に学問を教えていたのだが、講義の中心が古い日本語について説き明かすことだった。その講義を集大成したのがこの辞典で、享保四年に現在の形に完成した。この辞典を白石が「東雅」と名付けたのは、中国最古の辞典「爾雅」を意識している。「東雅」とは、東の国、つまり日本の「爾雅」というわけである。

「藩翰譜」は、甲府城主だった頃の徳川綱豊(後の家宣)に仕えていた白石が、綱豊の命を受けて書いたものである。その成立経緯は「折たく柴の記」に詳しい。それによると、元禄十三年(1700)に、俸禄一万石以上の人々のことを調査して書き記せとの命を綱豊から受け、約一年間の下準備をしたうえで、翌年七月十一日に起稿し、十月に至って脱稿したということになっている。内容は、慶長五年(1600)から延宝八年(1680)に至る間の大名三百三十七名について、その事績を記したものである。

「折たく柴の記」は新井白石の自叙伝として知られている。上・中・下の三巻からなるが、自叙伝としての要素がもっとも大きいのは上巻である。この部分は、白石自身やその父親の生き方について述べたもので、白石の人間像が鮮やかに浮かび上がって来る。それを読むと、新井白石という人間は、なにはともあれ古武士的な心情を生涯失わなかったことがわかる。

江藤淳は、昭和54年秋から翌年春にかけてアメリカに滞在し、アメリカの対日本検閲政策の実情について研究した。そしてその成果を「閉ざされた言語空間」という書物に著して刊行した。これは、日本は敗戦とともに連合軍=アメリカから「言論の自由」を与えられたという通説に対して、反駁するのが主な目的だったらしい。江藤のアメリカ嫌いは相当のものだから、そのアメリカに言論の自由を貰ったというような言説が同時代の日本にゆきかっていることに憤懣やるかたないものを感じたからだろう。そんなバイアスを抜きにしても、これは日本の戦後史の一端を解明するうえで非常に有益な研究だといえる。江藤の最大の業績をこれに帰する意見があるのも、うなずけないことではない。

江藤淳は夏目漱石と勝海舟が好きだったようで、漱石については大部の書物を書いているし、海舟については折につけて色々な文章を書いている。この二人を江藤が評価する視点はナショナリズムだ。江藤によれば、漱石も海舟もいつも自分を国家と関連付けて考え、国家のためになることを自分自身に優先した。そうしたナショナリズムを漱石は文学の面で表現し、海舟は政治行動として実行したということになる。

江藤淳には浩瀚にわたる漱石研究があるが、ここでは小論「明治の一知識人」を参照して江藤の漱石論の要諦を見てみたい。結論から先に言うと、江藤の漱石論は、漱石を国士とみるところに特徴がある。つまり漱石を、文学者としてよりは愛国者=ナショナリストとして高く評価しているのである。漱石の文学者としての意義は、江藤によれば愛国者=ナショナリストとしての一面を物語っているにすぎない。とうことは、江藤なりの愛国心が、漱石にも投影されているわけである。

江藤淳が時事評論「"戦後"知識人の破産」を書いたのは、1960年安保騒動の最中である。この小論の中で江藤は、戦後知識人の破産と、彼らの主張の奇妙な空々しさを感じたと書いた。この連中を見ていると、「戦後十五年間というもの、知識人の大多数がそのうえにあぐらをかいてきた仮構の一切が破産した」と感じた、そう言うのである。

江藤淳といえば、今日では比較的穏健な保守主義者というイメージが流布しているようであるが、彼の政治評論の代表作といわれる「『ごっこ』の世界が終わった時」を読むと、変革を志向していた改革家としてのイメージが伝わって来る。普通保守といえば、社会の現状を支えている制度・思想を尊重する姿勢を言うが、彼がこの小論の中で展開しているのは、同時代の日本の現状に対する痛烈な批判であり、それを乗り越えようとする意志だからだ。

吉本隆明は小論「世界史の中のアジア」で、竹内好に言及して次のように言っている。「竹内さんのアジア認識のなかにもし弱点が考えられるとすれば、竹内さんが<アジア>という場合、近代以降におけるヨーロッパとアジアとを対比させた概念だったことにあるとおもいます」と。これだけ取り出してみれば、何を言っているのかわかりにくいところがあるが、要するに、竹内はアジア特に中国を、ヨーロッパとほぼ対等のものと見ているが、それは間違った解釈だ。中国は、すくなくとも社会構造という面では、ヨーロッパの古代以前のような状態にあり、それを近代のヨーロッパと比較することはナンセンスだと言いたいようである。

「世界認識の方法」は、吉本隆明とミシェル・フーコーの対話を活字化したものだ。この対話は、世界最高の知性と日本を代表する知性との対話として大いに喧伝されたようだが、その割には収穫がないと評された。議論がかみ合っていないというのである。たしかに、今読んでも、二人の議論がかみ合っている様子はない。二人とも、相手の思想を尊敬しており、互いに認め合っているところもあるのだが、どうも相手に対する理解が表層的で、本質に迫っていないと思われるし、したがってその表層的な理解に基づいた対話も表面的なものに流れている。

Previous 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ