読書の余韻

「天皇制ファシズムの成立は、北一輝、大川周明、西田税、井上日召、橘孝三郎、天野辰夫など、民間の行動的右翼の思想と運動をぬきにして論ずることはできない」(<近代の超克>論、第五章)廣松渉はこういって、日本の天皇制ファシズムの成立に果たした民間右翼の「貢献」を強調する。

廣松渉は「近代の超克」論を目して、日本における上からのファシズムに下から呼応する動きとしたのであるが、日本ファシズムの二大要素たる全体主義的「国体」と対外戦争のうち、後者を見事に合理化したものとして、京都学派の学者高山岩男を取り上げている。

廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。

丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)

丸山真男は、日本的思考(日本の思想の疑似形態ともいうべきもの)への国学の影響を大いに問題視している。丸山は国学を、儒仏の思想へのアンチテーゼとして出発したと抑えたうえで、それの基本的な特徴を、儒仏がイデオロギー的な体系性なり理論的な性格を持っていたのに対して、非イデオロギー的であり感覚的であることに求めた。

丸山真男の「日本の思想」は不思議な本である。この本はいまや、日本の思想というテーマに関する古典の一つとしてゆるぎない名声を獲得しているといってよい。それ故、日本の思想を学ぶ学生にとっての必読書にもなっている。ところがこの本を読んでも、日本の思想というテーマについて、具体的な知見が得られるかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ期待が裏切られることの方が多いかもしれない。というのもこの本は、「日本の思想」をテーマにしていながら、日本には厳密な意味で思想といえるようなものは存在しなかったというのだから。

丸山真男と加藤周一の対話「翻訳と日本の近代」(岩波新書)を読んだ。これは、日本の近代化を支えた翻訳というものについての対話形式による省察だ。何を、どのような人がどのように訳したか、また日本では何故翻訳が巨大な役割を果たし、その影響も広くかつ深かったのか、ということについて、主に加藤が問題を投げかけ、丸山が応えるという形で進んでいく。その過程で、興味あるワキ話も出てきて、むしろ本題よりも面白かったりする。知的刺激に富んだ面白い対話だ。

古在由重と丸山真男の対話「一哲学徒の苦難の道」(岩波現代文庫)を読んだ。体裁の上では丸山真男が聞き手になって、戦前・戦中のあの思想弾圧の困難な時代を生き抜いた一知識人の生きざまを聞こうというものだが、丸山自身もこの時代に深い個人的な思い入れがあるために、一方的なインタビューではなく、二人が共同して、時代分析にあたるといった観を呈している。要するにこの時代についての同時代人の回想といった趣がある。

福沢諭吉の小論「丁丑公論」は、西南戦争で逆賊とされた西郷隆盛を弁護し、併せて時の政府の横暴を非難したものである。福沢はこの小論を西南戦争の起きた明治十年に書いた。しかしてその年の歳次丁丑を以て題にあてたのであるが、その内容の過激にわたるのを憚って公刊を見合わせ、長く抽底に眠らせていたものを、弟子の石河幹明が明治三十四年に発表したのであった。

福沢諭吉の小篇「瘦我慢の説」は、勝海舟と榎本武揚の生きざまを痛烈に批判したものである。両者ともに幕臣として幕末に生き、それぞれの信念に従って行動したとはいえ、その行動に疑うべきものがあるのみならず、維新後新政府に身を屈して立身出世を貪ったのはまことに鼻持ちならぬ卑劣な輩である、というのである。

福沢諭吉の思想については、丸山真男が「"文明論の概略"を読む」の中で詳細に説明しているから、それを読むのが最も手っ取り早い理解の方法である。その本の中で丸山も言っているとおり、福沢の思想はそんなに複雑なものではない。一国が独立するためには個人が自立する必要があるというもので、その自立とは簡単に言えば、封建的な奴隷根性から脱して、西洋人並みに自由な人間になることだというものである。そこから有名な「脱亜入欧」という言葉が生まれてくるわけだが、これは別に自らを卑下した言い方ではなく、日本の文化の底にあるアジア的な奴隷根性を排して、ヨーロッパ並みの人権感覚を身に着ける必要があるということを、一言で言い現わしたのに過ぎない。

福沢諭吉は、自分が自伝を著したのは、子どもたちのために父親や祖先の来歴を伝えるのが主な目的だったといっている。かといってそれは単なる系図の延長のようなものではない。系図なら血筋の連綿たるを記せば済んでしまうが、福沢が行なったのは、それにとどまらない。自分の生き方について飾らずに書き、自分がどんな人間であったか、どんな考え方をして、どんな風に生きたか、それを詳細に描き出している。ということは、子どもや孫たちに、父親乃至祖父の生き方をさらけ出して、彼らが生きていくうえでの一つの参考にしてもらいたい。そんな思惑が込められているのだと思う。つまり福沢は、一種の家族愛から出発して、この自伝を書いたということになる。

福沢諭吉は明治維新の激流に自ら飛び込んで主体的に活動するということをしなかった。終始傍観者として過ごしたといってよい。幕府に仕官することはあっても、政治を云々することは一切慎み、かたわら洋学塾を経営して、塾生たちに洋学を教授することに専念した。熟を経営した人間のたちの中には、吉田松陰のように塾生を煽動して、極めて政治的な活動をした者がいなかったわけでもなかったが、福沢は自分自身が政治に膾炙することを慎むのは無論、塾生たちにも政治を云々することを望まなかった。

福沢諭吉は青年時代に三度にわたって欧米諸国に渡航した。万延元年(1860年、25歳)の渡米、文久二年(1862年、27歳)の渡欧、そして慶応三年(1867年、32歳)の再度の渡米である。これらの欧米体験によって福沢の視野は飛躍的に広がり、明治の啓蒙思想家として、巨大な影響力を及ぼすようになっていくのである。

福翁自伝には、福沢諭吉の修業時代の様子が実に生き生きと描かれている。これを読むと、星雲の志というものがいかなるものか、また、人間というものは、志に鼓舞されてどこまで進むことができるか、大いに考えさせてくれる。

筆者は、小学生だった頃、「毎日小学生新聞」というものを母親にとってもらって読んでいた。その中で最も興味をそそられたのは、福沢諭吉の伝記であった。細かいことは大方忘れてしまったが、全体的な印象はいまでも覚えている。昔の日本に生きていた一人の人間の、気骨ある生き方が、まだ小学生であった少年の心に響いた。そんなところだろうか。どんなところが響いたかというと、それは反骨精神のようなものだったと思う。少年の筆者は、福沢諭吉という一人の男に、反骨精神と、その裏返しとしての自尊自立の精神を感じとり、できれば自分もそのように生きたいものだと思ったのだった。

岸信介が昭和史を跋扈した妖怪だとしたら、その弟の佐藤栄作は何といったらよいのか。そんなことを考えていたら、面白い言い方に出会った。佐藤栄作は道化だというのである。
岸信介は日本の政治家の中でも最もスケールの大きな人物の一人だったと言える。そのスケールの大きさは、いまだに日本の政治に対して大きな影響力を及ぼしていることからも測られる。なにしろ孫にあたる人が総理大臣となり、彼の政治思想の枠組を実現しようとしている。そればかりか、今や日本の保守勢力のプロパガンダの中身は、まさに岸信介が生前主張していたものの延長に過ぎない。今の日本には、岸信介の亡霊が跋扈しているといってもよいほどだ。
日本の政治が急に右傾化したというので、右翼思想と云うものに関心が集まっているそうだ。右翼思想と云うと、北一輝や井上日召などがまず浮かび上がってくるが、その彼らがいったいどのような主張をし、それを今日の右翼勢力がどのように受け継いでいるのか、誰しも興味ある処だろう。そんな興味に応えようとした本がある。片山杜秀著「近代日本の右翼思想」だ。
西欧諸国の今日における政治状況をごく大まかに定義づけるとすれば、保守主義対社民主義の対立ということになろう。この場合、社民主義には各国を通じて理念の共通性を指摘することが出来るが、保守主義と言うのは、各国それぞれに多様でありうる。というのも保守主義と言うのは、伝統的な価値観を尊重するということを最大の特徴としており、その伝統的な価値観と言うものが、国によってそれぞれ異なるからである。したがって、社民主義者は国境を超えて団結することができるが、保守主義者はかならずしもそういうわけにはいかない。
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