知の快楽

ヘーゲルとキリスト教

| コメント(0)
「精神現象学」において、「宗教」は「絶対知」の直前に置かれている。このことは、二つの意味を持っていると考えられる。一つは、ヘーゲルが宗教を、精神がとる一つの形と考えていること、もう一つは、宗教が絶対知の直前に位置するに相応しい高度な精神の形と考えていること、この二つの意味あいを持っているということである。

デカルト、パスカル、ライプニッツといえば西洋哲学史上に聳える偉大な哲学者たちであるが、彼らはそれ以上に偉大な自然科学者であり、数学的な思考を重んじた人たちだった。スピノザは自分の哲学体系を幾何学の形式を借りて展開したし、カントもまた自然科学者としてスタートした。近代の西洋思想史においては、哲学と数学・自然科学とが手を携えあいながら進んできたのである。ところがヘーゲルに至って、哲学は数学や力学的な思考と距離を置くようになった。というより、数学や力学を軽蔑するようになった。これをラッセルなどは、知的退化と捉えるわけだが、当のヘーゲルは、数学や力学は現象の一面を説明できるに過ぎないのであって、全面的に説明できるのは、自分の哲学だけだ、と思い込んでいたわけである。

ヘーゲルのカテゴリー論

| コメント(0)
西洋哲学の伝統においてカテゴリーとは、概念のなかでも最も普遍的な概念という意味で捉えられてきた。ということは、概念を分類のものさしで図ったということである。概念を分類したうえでの最上位のランク、それがカテゴリーとされる。それ故、カテゴリーが問題となる場合には常に、分類の一覧表というものが作られてきたわけである。

ヘーゲルの理性

| コメント(0)
へーゲルの精神現象学は、意識、自己意識に続いて、理性へと進む。しかし理性の登場の仕方が聊か唐突なので、読者はちょっと面食らう。というのも、意識、自己意識と読み進んできた読者の前に、いきなり理性があらわれて、こう宣言するからだ。「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信である」(長谷川宏訳「精神現象学」Ⅴ、理性の確信と真理、以下同じ)

ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷

| コメント(0)
ヘーゲルの自己意識論にわかりづらいところがあるのは、ヘーゲルが同じ「自己意識」という言葉を使いながら、そこに二つの意味を含ませているからだ。つまり、一方では、対象を意識しているその意識の主体としての意識という意味での使い方。これは、デカルト以来の認識論が語っていたのとほぼ変わらぬ自己意識のあり方である。ところが他方では、同じく自己意識をもった他者との関わり合いにおける自己意識という使い方をしている。この場合の自己意識は、同じく自己意識を持った他者に向き合っているのであり、最初の自己意識のように、たんなる物としての現象に向き合っているわけではない。

ヘーゲルの無限概念

| コメント(0)
ヘーゲル哲学のキー概念の一つに「無限性」(Unendlichkeit)というものがある。「無限」といえば、日本語では数量を連想させる。数量的に限度がないこと、それが無限だというふうにまず受け取れる。それが時間や空間についても適用され、時間においては始まりや終わりのないこと、空間においては広がりに限りがないこと、それが無限だというふうに考えられている。こうした考え方は西洋哲学の歴史にあっても、主流であった。カントも無限というものを時間と空間との関連で考えていた。

ヘーゲル精神現象学における中心的な概念に、対自存在(Fürsichsein)、対他存在(Sein für ein Anderes)という一対の概念がある。これは長谷川宏訳ではそれぞれ「自立存在」、「他に対する存在」と訳されているが、日本のヘーゲル学者の間では、「対自存在、対他存在」の方が通りがよい。

カントは、人間の認識の源泉は直感と概念の二つであると考えた。直感を通じて対象が与えられ、それに概念を当てはめることによって思考が生じる。直感の能力を感性といい、概念的な思考の能力を知性という。人間は感性と知性を組み合わせることによって高度な認識を行うことが出来る。「この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているともいえない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない」(中山元訳)

ヘーゲルにおける時間と空間

| コメント(0)
時間と空間とは、対象的な世界が纏っている根本的な形式であると同時に、我々人間の認識活動を制約している根本的枠組でもある。それ故西洋の哲学の歴史にあって、時間と空間とは存在論の根本観念であったし、デカルト以降の近代認識論にとってもキーとなる概念であり続けた。

ヘーゲルの弁証法

| コメント(0)
ディアレクティックという言葉を、カントもヘーゲルも自分の哲学のキーワードとして使ったが、その使われ方はかなり異なっている。そのことから日本語では、それぞれ違う訳語が割り振られるのが普通である。すなわちカントの場合には「弁証論」、ヘーゲルの場合には「弁証法」という具合に。そんなところから、日本の読者の大部分は、この二つがもともと同じ言葉、同じ概念を現していることになかなか気が付かない。

ヘーゲルにとっての認識論

| コメント(0)
デカルトが人間の「考える」働きを問題として取り上げて以来、認識論は西洋哲学の中心テーマになった。人間の認識の働きは、一方では人間の存在の根拠となるとともに、それを通じて人間が世界を了解する通路ともなった。人間というものは、認識作用を媒介として、己自身と向き合うと同時に世界とも向き合う、というわけだ。

ヘーゲルの読みづらさ

| コメント(0)
筆者は学生時代に、日本語に訳されたヘーゲルの著作をひととおり読んだことがあるが、それはマルクス理解を深めることが目的だった。マルクスはヘーゲル哲学に多大な影響を受けており、ドイツ・イデオロギーなどに展開された初期の思想は無論、資本論などの円熟期の著作にもヘーゲルの影響が顕著に表れている。そんなことを先輩から知らされたからだ。そこで手始めに大論理学を読んでみた。資本論の論理の構築が大論理学のそれを踏まえているとされていたからだ。すると、資本論と大論理学との間に、極めて顕著な共通性のあることが分かった。論理の組み立て方がほとんど同じと言ってもよい、そんな風に思われたのだった。量から質への転化を弁証法的に論じるところ、また論理の飛躍を印象付けるフレーズとして、資本論には「ここがロドスだ、ここにて跳べ」あるいは「ミネルバのフクロウは夜飛び立つ」といった警句がちりばめられているが、これらの警句はヘーゲルの大論理学にもあった。そんなわけで筆者は、マルクスがヘーゲルに大きな影響を受けていたことを改めて感じとった次第なのであった。

ヘーゲルをどう読むか

| コメント(0)
バートランド・ラッセルは「西洋哲学史」の中で、「ヘーゲルの諸学説が殆どすべて誤りであるとしても(そしてわたしはそう信じているのだが)、なお彼はある種の哲学のもっともすぐれた代表者として、ただ単に歴史的なものではない重要性を、保持しているのである(市井三郎訳)」と言っているが、これはヘーゲルに限らず、一流と言われる哲学思想家には、多かれ少なかれ当てはまることである。というのも、西洋の精神的な伝統を支えてきた哲学というものは、一方では体系へのやみがたき情熱に駆り立てられながら、他方では体系を築き上げるための礎を必要とするものだが、多くの場合打ち立てられた体系が荒唐無稽の代物になりやすいのに対して、礎の方は別の体系のための土台(方法といってもよい)にもなりうるからである。

シェリングの思想

| コメント(0)
シェリングはヘーゲルより五歳若かったが、ヘーゲルよりも早く有名になったし、ヘーゲルに影響を与えもした。それ故、カントからヘーゲルへと至るドイツ観念論の流れの中では、フィヒテとともに、カントとヘーゲルをつなぐ中間項としての位置づけを与えられてきた。

フィヒテの思想

| コメント(0)
フィヒテは自分の思想をWissenschaft と名づけた。日本語では大方「知識学」と訳されているが、普通には英語の Science に対応するものとして「科学」という意味合いに近い言葉だ。フィヒテが自分の思想を、哲学 Philosophy ではなく、Wissenschaft と言ったのは、それが単なる思弁ではなく、生活を律する力を持っていることを強調したかったからだろう。彼は自分の思想を、生活を律するための「知の体系」、つまり「生きるうえでの知恵」と自負していたのである。

カントの政治思想

| コメント(0)
カントの政治思想は、人格の絶対性を内実とした道徳哲学の応用であるとともに、近代自然法の影響も強く受けている。また、アメリカの独立戦争やフランス革命からも大きな刺激を受けたと思えるが、フランス革命についてのカントの反応には複雑なものが伺える。カントは一方ではフランス革命の掲げた自由と平等の理念を高く評価しながらも、人民を主権者とする民主主義的な政治体制には拒絶反応に近いものを示したのである。

カントの道徳哲学

| コメント(0)
「実践理性批判」の中でカントは、理性の実践的使用を制約するものとして「道徳法則」なるものを持ち出した。道徳法則とは、すべての人間の道徳的な行為を制約する普遍的な基準のことを言う。それに対して、個々人が自分の良心に照らして自分に課す道徳的な基準を格律と言った。カントの関心は、この個人的な格律を普遍的な道徳法則に一致させるところにあったわけであるが、道徳法則そのものがどのような内実を持っているかについては、「実践理性批判」の中では詳細に触れることがない。というのもカントは、これに先立つ論文「道徳形而上学原論」のなかで、道徳法則を巡る議論を展開しており、したがって、改めて詳細を語る必要はないと、考えたのだろう。
純粋理性批判の目的は、理性の限界を定めることであった。それは、神や自由や魂の不死といった形而上学的な理念について、認識の対象としては語り得ないということを証明することで、理性が不毛な議論を展開することに待ったをかけた。しかし、だからといってカントは、こうした理念そのものの存在意義を否定したわけではなかった。こうした理念は、理性の理論的な対象とはなりえないとしても、実践的な対象とはなる。カントはこのように考え、神や魂の不死といった理念を救い出すのである。
人間の理性は、理念を持つだけでなく理想を持つこともできる。たとえば、ストア派のいう「賢人」がそれである、とカントはいう。賢人は、完全に純粋な徳と人間の知恵という理念を体現したものとして、人間の行動の基準となるものである。人間は自分自身をかかる理想と比較し、これを基準として判定し、自らを向上させる。我々はこれらの理想の客観的な実在性を認めるわけにはいかないが、だからといって、かかる理想を単なる想像力によって作り上げた幻像と見做すべきではない。理想は、理性にとっては欠くことのできない基準なのだ。そう、カントは強調するのである。
カントが取り上げた四つのアンチノミーは、伝統的な形而上学のテーマと密接な関係がある。それらはいずれも理念的なものを巡る問題なのだが、これらの問題は、プラトンがイデアを発見し、アリストテレスがそれを形而上学の中心テーマに据えて以来、ヨーロッパの形而上学にとっての主要課題であり続けてきたのである。
Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ