知の快楽

資本主義的経済システムにおける利子は、利潤の一部である、とマルクスは主張する。資本家が、自分自身の所有する貨幣で事業を行う場合には、その果実としての利潤は、すべてかれの懐に入る。ところが、自分では貨幣を所有せず、他人から借り入れて事業をする場合、その果実たる利潤のすべてを独占するわけにはいかない。かれはその利潤を、貨幣の貸し手と分け合わねばならない。でなければ、必要な貨幣を調達することができないからである。このことから、資本主義経済システムにおける利子は、資本家が貨幣資本家と産業資本家(あるいは機能資本家)の二つに分かれることから生じる、と言える。

マルクスが「貨幣取引資本」と呼ぶものは、今日金融資本とか金融機能とか呼ばれるものである。金融資本には、一般の商業銀行のほかに、証券、保険、投資銀行などが含まれるが、マルクスはこのうちもっぱら商業銀行を念頭において考察している。商業銀行が行う基本的な機能は、産業資本家のために、あるいは産業資本家にかわって貨幣を蓄蔵し、その蓄蔵した貨幣を産業資本家の必要に応じて用立てることである。

商業部門における労働をマルクスは「商業労働」と呼んでいる。商業労働の内実は流通をすみやかに実現するということである。ところでこの流通というプロセスは、それ自体では剰余価値を生まない。剰余価値を生むのは、商品生産に投ぜられた労働であって、流通に投ぜられた労働は、それ自体としては剰余価値を生まないのである。商業労働が剰余価値を生まないのであれば、それは剰余労働を含んでいないのだろうか。含んでいるのである。商業労働といえども、その価格すなわち労賃は、その(労働力の)生産に必要な費用である。ところが実際に行われる労働は、その労賃、すなわち労働の支払い部分を超えて行われる。この超過の労働部分が剰余労働にあたる。しかしこの剰余労働は、新たな剰余価値は生まない。では、剰余労働はどんな働きをするのだろうか。それは、剰余価値は生まないが、その価値の実現に寄与するというのがマルクスの考えである。生産と生産物の価値の実現とは異なったレベルの事象だ。剰余価値が実際に実現するためには、売れなければならない。売れてはじめて剰余価値としての意味を持てる。その売るためのプロセスが流通の機能なのだが、その機能を通じて剰余価値が実現される。商業労働は、その剰余価値の実現を媒介するというのがマルクスの考えなのである。

商業資本をマルクスは商人資本と呼び、商品取引資本と貨幣取引資本とをそれに含めている。より重要なのは商品取引資本である。貨幣取引資本は、基本的には、商品取引を媒介するにすぎない。商品取引資本とは、資本の運動を構成する生産過程と流通過程のうち、流通過程の機能が独立したものである。資本主義の低い発展段階では、生産者自身が流通の機能を実行しているのであるが、それによって、資本主義的生産は大きな制約を受ける。なぜなら、流通過程に費やされる時間は、生産が中断されるからである。これを第三者に任せて、生産に専念すれば、余計な手間が省ける。そのことによって、生産をスムーズに行い、また規模を拡大することもできる。というわけで、商品取引資本は、資本主義的生産にとって、必然的なものなのである。

資本の有機的構成が高くなると、利潤率は低下する。資本の有機的構成が高くなることは、可変資本に比較して不変資本の割合が高くなることを意味するが、それは必然的に利潤率の低下をもたらすのである。なぜなら、利潤率は費用価格に比較した利潤の割合だが、その費用価格が高まれば、それと比較した利潤の割合すなわち利潤率が低下するのは論理必然的なことだからである。

利潤が平均利潤に転化するのは、個別資本にとっての費用価格が社会的な平均としての生産価格に転化するからである。それらをもたらすのは競争である。競争は需要と供給の外観のもとで行われる。需要の多いところには資本が集中し、その逆の場合には逆の事態が起こる。その結果、商品価格は需要と供給が一致するところに落ち着く。こういう外観があるために、個別資本家にとっても又資本の代理人である経済学者にとっても、需要と供給のバランスこそが商品価格決定の要因だというふうに映る。しかし、それは現象の外観に目を奪われた皮相な見方だとマルクスは批判する。

利潤と剰余価値は、量的には同じものである。利潤率と剰余価値率は違う。剰余価値率は、可変資本(労賃)と比較した剰余価値の割合をあらわすのに対して、利潤率のほうは前貸し資本としての費用価格すなわち不変資本プラス可変資本と比較した利潤の割合をあらわすからである。だから、利潤率は常に剰余価値率より低くなる道理である。しかも利潤率は、全産業を通じて平均化される傾向がある。競争が働くからである。産業間で利潤率にデコボコがあれば、資本の流動が円滑に行われるという前提のもとでは、利潤率の高い分野に資本は流れる。そうした動きが利潤率を平均化させるのである。マルクスは資本論第三部第二編「利潤の平均利潤への転化」において、個別の利潤率がいかにして平均化されるか、そのメカニズムを分析している。

資本論第三巻「資本主義的生産の総過程」は、剰余価値の利潤への転化についての分析から始まる。転化といっても、あるものが別のあるものに転化し、それに従って内実も変化するということではない。剰余価値も利潤も、その内実は同じものである。ただ呼び方が異なっているに過ぎない。しかし呼び方の相違は、概念の実質的な変化を伴なうのである。マルクスはそこに、資本家の立場からする現実的な利害と、資本家の立場を弁明する資本主義経済学の欺瞞を見る。

資本論第三巻は、総題を「資本主義的生産の総過程」として、剰余価値の利潤への転化と、それの各プレーヤー(資本家、地主、商業資本及び金融資本など)への分配について論じている。これにエンゲルスは結構長い序文を付している(小生使用の普及版で35ページを占める)。この序文は二つの部分からなり、その一つは刊行が遅れたことへの言い訳、もう一つは同時代の経済学者への批判である。

マルクスの単純再生産モデルは、理論上の仮定としてはありえても、現実的にはありえない。単純再生産モデルは、剰余価値のすべてが非生産的に消費され、あとかたもなくなってしまうことを想定していたが、現実には、剰余価値の一部は、生産の拡大のための追加資本として使われるのである。この追加資本の部分が、生産の拡大をもたらす。

前稿の表式は、部門Ⅰと部門Ⅱとが互いに作用しあって、全体として見れば、単純再生産がとどこおりなく実現することを示していた。その場合に前提となるのは、部門Ⅰの生産物である消費財と、部門Ⅱの生産物である生産財とが、もれなく売れるということだった。つまりその年に生産されたものは、その年のうちにもれなく売れると仮定することで、単純再生産が成り立つというわけだった。しかしこの仮定はかならずしも現実的ではない。というのも、この仮定では、部門Ⅰのcも部門Ⅱのcも全部売れるということになっているのだが、現実にはかならずしもそうではないからである。固定資本の更新については、特別な事情が働くので、その年に作ったものがその年のうちにすべて売れきれるというわけにはいかないのである。

社会的総資本は、個別資本を総和したものである。だからその運動は、個別資本の運動と基本的には違ったものではないが、しかし個別資本だけを見ていては見えないものが見えて来る。たとえば、資本を形成しない商品の流通である。資本を形成しない商品の流通とは、労働者による消費と資本家による私的消費を含んでいる。これらの消費は、個別資本だけを視野に入れている限りは、前景には出て来ずに、背景に沈んだままである。ところが社会的総資本を論じる時には、総資本の循環の不可欠な要素となる。

資本論第二部第17章「剰余価値の流通」は、商品形態で存在する追加剰余価値を実現するための追加貨幣はどこからくるのか、という問題の解明にあてられる。資本主義的生産の本質は剰余価値の生産であるから、その発展にともなって経済の規模も拡大し、その拡大した部分が新たな貨幣需要を呼ぶ。なぜなら剰余価値は貨幣を通じて実現されるほかはなく、その貨幣が社会的に不足していては、正常な形での剰余価値の実現ができないからである。

資本の回転という概念をマルクスは、当初生産資本の回転について論じていた。生産資本を含めた資本の総循環については、資本の循環という言葉を用いていた。要するに、貨幣による資本の調達、それの生産への投入、生産された商品の流通からなる全体を資本の循環と言い、その中の生産資本にかかわる部分を取り出して、資本の回転を論じたのであった。論じる対象は固定資本と流動資本である。この両者では回転期間が異なる。そのことによってどのような問題が生じるか。それを解明するのが「資本の回転」という概念の役目だったわけである。

マルクスは、資本の循環という概念と並んで、資本の回転という概念を持ち出してくる。資本の循環というのは、資本がその目的たる剰余価値の実現のために通過する総過程をさし、単純化していえば、資本の流通過程と生産過程を合わせたものである。流通過程を通じて、労働力を含めた生産手段を調達し、それらを組み合わせて生産を行い、生産の結果得られた生産物を、再び流通過程に投げ入れて(剰余価値を含めた)商品の価値として実現するわけである。これに対して資本の回転とは、マルクスによればもっぱら生産過程にかかわる概念である。生産過程に投げ入れられた生産手段が一回転する期間、それを簡単にいえば、資本の回転期間ということになる。

資本主義的経済システムは、これを大きく区分すれば、生産過程と流通過程からなっている。生産過程は剰余価値を生みだす。流通過程はその剰余価値を実現する。ものを作っても、それが売れなければ何の意味もない。流通過程はしたがって、資本主義的経済システムにとって不可欠な部分である。

資本論第二巻の総題は「資本の流通過程」である。第一巻は「資本の生産過程」であり、その主な内容は、剰余価値の源泉についての考察であった。それに先行するかたちで価値形態論が論じられ、特殊な商品としての貨幣の本質が語られた。資本はその貨幣の形を通じて自己の運動を貫徹する。資本の目的は剰余価値の獲得である。剰余価値は資本の生産過程を通じて生まれるが、無条件に実現するわけではない。それが剰余価値として実現するためには、生産された商品が適正な価格で売れなくてはならない。すなわち資本は流通過程を通じてはじめて自己の目的たる剰余価値の取得を実現できるわけである。マルクスが資本の生産過程に続いて資本の流通過程をくわしく論じるわけはそこにある。

資本論全三巻のうちマルクスが生前に刊行したのは第一巻のみで、残された部分は盟友のエンゲルスの手によって編集・刊行された。第二巻の刊行は、マルクスの死後二年目の1985年、第三巻の刊行は更にその九年後の1894年のことである。第二巻の刊行にあたってエンゲルスは序文を付し、マルクスの残した草稿をどのように編集したかとか、資本論全体についてのマルクスの構想などについて説明している。

資本論第一巻の最終に近い部分、それは実質的には第一巻の総まとめと言ってもよいが、マルクスはその部分を「資本主義的蓄積の歴史的傾向」と題して、資本主義の行き着く先としての、資本主義の否定の必然性の分析にあてている。非常に短い部分だが、ここに我々は、資本主義がいかにして共産主義社会を生み出すのかについての、マルクスの基本的な展望を見いだす。もっともその展望は、あまり実証的な分析には支えられておらず、多分に予言的なものではあるのだが。

資本主義的生産は、商品生産者たちの手の中に相当の資本と労働力とがあることを前提としている。資本とは生産のための手段とか材料のことであり、労働力はそれに結合されることで剰余価値を生みだす源泉である。この両者がなければ資本主義的生産はなりたたない。経済学は、神学が原罪を論じるのと同じような具合に、これらの起源を無限の過去の物語として論じる。ずっと昔のそのまた昔に、一方では勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物を、又それ以上を使い果たしてしまうクズどもがあった、というわけである。

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