知の快楽

ニーチェのショーペンハウアーかぶれ

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「反時代的考察」の第一論文において教養俗物を徹底的に批判したニーチェだが、それを批判するだけでは時代は前進しないままだろう。教養俗物が人間像のマイナスの典型としてドイツをスポイルしているのであるならば、ドイツを救済して前進させていくようなプラスの人間像の典型がなければならない。そのような人間像とはいかなるものなのか。それを取り上げて考察したのが、第三論文の「教育者としてのショーペンハウアー」である。

「反時代的考察」の第二論文は「生に対する歴史の利害」と題しているが、むしろ「歴史に対する生の利害」と題したほうが相応しい。というのもニーチェがこの論文で展開したのは、生に対して歴史が抱く利害、すなわち歴史からみた生の意義ではなく、生から見た歴史の意義、すなわち歴史に対して生が抱く利害についてだからである。これをニーチェは、次のように端的に定式化している。

反時代的考察:ニーチェの教養俗物批判

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ニーチェはすでに「悲劇の誕生」において、近代人のものの見方を規定している合理主義的・主知主義的考え方を、「ソクラテス批判」という形をとって強烈に批判していたが、なにしろ批判の直接の対象が古代の哲学者であったということもあり、同時代人にはあまり痛烈には響かなかったきらいがあった。ニーチェの同時代人たちは、そんな批判に気を配る程の暇人ではなかったためでもある。そこでニーチェは、批判が批判としてスッキリと判るような形で、つまりストレートな言い方を以て彼の同時代人たちの物の考え方を批判することにした。その成果が「反時代的考察」という表題のもとに収められた四つの論文である。まさに題名が如実に物語っているように、この書物は同時代のドイツに対する強烈な批判、反ドイツの書なのである。

「悲劇の誕生」は、ニーチェの著作の中では別格扱いされることが多い。処女作だということを別にしても、扱っているテーマがギリシャ悲劇を軸にした芸術論であり、またヴァーグナーとショーペンハウアーの影響が顕著である。この著作自体がヴァーグナーに捧げられている。しかし、枝葉の部分をカッコに入れ、全体の樹幹にあたるところをよくよく見ると、ここでニーチェの論じているテーマが、その後のニーチェの思想の大枠を先取りしたような形になっていることが見えてくる。そうした意味でこの著作は、ニーチェが初めて自己の思想の輪郭を提起したものだと言えるように思う。つまりニーチェにとっての文字通りの処女作、生涯をかけて追及することになるテーマを始めて提起した著作、そういえるのではないか。

ニーチェをどう読むか

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ニーチェの読者がまず最初に感じるのは、その逆説的なものの言い方をどう受け取ったらよいかというとまどいだろう。ニーチェは善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかいった言葉を通常の意味で使った上で、自分は「悪い」とか「醜い」もののほうを評価するというような言い方をする。そこで読者はそれを一種の逆説だろうと推測したくなるのだが、これは逆説などではない、とニーチェは言う。つまり彼は本気でそう思っていると言うのだ。

キルケゴールとドイツ・ロマン主義

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キルケゴールの学位請求論文は「イロニーの概念」をテーマにしたものだった。この概念は究極的にはソクラテスに淵源するものであるが、キルケゴールの生きた時代に一定の影響力を振るっていたドイツ・ロマン主義が、自分たちの方法として採用していたものである。このことから、キルケゴールはドイツ・ロマン主義に関心を抱き、それから一定の影響をうけたと考えられる。

今日「現代の批判」という題名で知られているキルケゴールの著作は、もともと「文学評論」と題した書評の一部として書かれたものである。その書評は匿名作家による小説「二つの時代」を対象としたものであったが、その小説が取り上げた二つの時代というのは、「革命の時代」と「現代」なのであった。原作者の意図はともかくとして、キルケゴールの受け止め方としては、革命の時代は本質的に情熱的であったのに対して、現代は情熱のない時代である。なぜそうなってしまったか、それをキルケゴールなりに考えたというのが、この書評の大まかな意義なのであった。

不安と絶望:キルケゴールの思想

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キルケゴールにとって、主体的実存に生きる人間の本来的なあり方とはキリスト者としてのあり方である。それも世間一般で当然のこととして考えられているように、キリスト教会の一員として、日曜日には牧師の説教を聞き讃美歌を歌うようなあり方ではなく、単独者として神と直接向き合うようなあり方である。しかしそのようなあり方は、世間一般が考えている程簡単なことではない。世間一般は教会で洗礼を受けさえすれば真のキリスト者になれると考えているがそうではない。人が真のキリスト者になるためには飛躍が必要である。そしてその飛躍を成し遂げるのには強い意思が必要である。人間というものは、この強い意志によって飛躍することにより単独者となり、そのようなものとして神と直接向き合うようになれるのである。

真理は哲学にとっての大きなテーマのひとつであるが、哲学史上の主流(多数)意見においては、真理とは存在と認識との一致ととらえられてきた。存在とは対象世界のことであり、認識とは我々人間の主体的な作用である。その両者が一致するとは、主観的な認識作用が客観的な対象と一致するということである。したがって、この場合の真理とは、対象が"なにであるか"があきらかになることである。

キルケゴールの実存概念

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キルケゴールの実存概念は、シェリングの「現実存在」という概念をヒントにしたものだ。シェリングはこれを、ヘーゲルのいう「存在」の概念と対比させながら持ち出したのであるが、それがヘーゲルの「存在」のような抽象的な概念なのではなく、具体的な存在についての現実的な概念だというだけで、中身は必ずしも明らかではなかった。そこでキルケゴールは、自分なりにヘーゲルの存在概念を徹底的に批判することを通じて、「実存」概念を充実させていったのである。

キルケゴールにおける生成の概念

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キルケゴールは生成の概念をおそらくヘーゲルから学んだのだと思う。だが、その概念の用い方はヘーゲルとは全く異なる。ヘーゲルにおいては生成とは変化に関わる概念であったのに対して、キルケゴールはそれを無から有への移行、すなわち発生あるいは出現のようなものとしてとらえたのである。


キルケゴールにとっての神の存在証明

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キルケゴールは「哲学的断片」の一節で、「一般に、何かが存在することを証明しようということは困難なことである」(矢内原伊作訳、以下同じ)と言っている。これは、神が疑いもなく存在することを証明しようとしてやっきになっている人々を念頭においた言葉である。キルケゴールにとって、そういう人々の思惑は理解できないのであった。

内在と超越:キルケゴールの思想

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「おそれとおののき」のなかでキルケゴールは、旧約聖書のアブラハムの物語を取りかかりとして、人が単独者として直接神の前に向き合うことの重要性を強調したのであったが、その時には、アブラハムが直接神に向き合い、自分の最愛の息子であるイサクを生贄に捧げろと言う神の命令を、大きな疑問もなく受け入れたのは、彼の神に対する信仰が然らしめたのである、と説明していた。しかし、ではアブラハムはその信仰を、どうやって身に着けたのか、については一言も述べてはいなかった。だが、これは極めて重大な疑問である。何故ならこの疑問が解消されない限り、アブラハムの行為が正当化される根拠が成り立たないだろうからである。もしかしたらアブラハムは、誤解によって自分の息子を殺そうとしたのかもしれない。もしそうだとすれば、アブラハムはただの殺人者だったということになるではないか。

おそれとおののき:キルケゴールの思想

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キルケゴールの著作の中でも、「反復」と「おそれとおののき」は一対のペアとして論じられることが多い。いずれも同一の問題意識をきっかけにして書かれた。その問題意識とは、レギーネとの関係について、もう一度自分の考えを整理しておきたいというものだった。キルケゴールは、レギーネとの婚約を解消した後、「あれかこれか」を書くことで、そのことについての自分の立場を弁明するとともに、レギーネが名誉を保ったまま自分と別れられるようにと取り計らったつもりだったわけだが、その後、レギーネから心のこもった挨拶をされたことで、もしかしたらもう一度彼女との愛をやり直せるのではないかという希望を持つに至り、その希望が「反復」を書かせた。「反復」とは、当初は「愛のやり直し」を意味していたのである。ところがこれを刊行する前に、レギーネは他の男と婚約してしまった。そこでキルケゴールは「反復」を書き直すとともに、「おそれとおののき」を書いた。「反復」の決定稿では、愛の反復が不可能だったことを振り返り、「おそれとおののき」では、自分がレギーネを手放さなければならなかった理由を、あらためて論じたのである。

キルケゴールのヘーゲル批判

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キルケゴールは、マルクスやニーチェ同様ヘーゲルを乗り越えることによって自分なりの思想を構築し、新しい時代の導き手の一人となった思想家である。マルクスは、ヘーゲルの思想の観念論的性格を問題にし、それがいわば頭で立っている状態を足で立たせることによって、つまり姿勢を逆にしてやることによって、観念論から唯物論への転化を図った。つまりマルクスは、ヘーゲルをひっくり返すことによって、自分の思想を構築したわけである。これに対してニーチェは、ヘーゲルに集約されるような西洋的な知の全体に対して異議を唱え、それがもはや意味のない念仏でしかないことを暴露した。彼の言う「神は死んだ」という言葉は、ヘーゲルに集約される西洋的な知がもはや意味を持たなくなったという事態を意味しているのである。

キルケゴールの審美的著作

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キルケゴールの実質的な処女作は「あれかこれか」である。この中に含まれている「誘惑者の日記」が世間の話題となり、これをキルケゴールは仮名で出版したにかかわらず、たちまちその著者であることがばれて、忽ちデンマーク一の有名人になってしまった。無論文学者としてである。この作品は、思想的な作品などとは到底言えないし、文学作品としても奇妙な作品なのであるが、とにかく人の心をつかんで離さない迫力がある。であるから、筆者のようなものまでその魅力のとりこになったとしても不思議ではないだろう。筆者がこれを始めて読んだのは大学一年生の時のことだったが、読んでいる最中から感激に包まれ、読み終わったあとでは深いため息をついたものだ。というのも筆者には、この日記の作者のことが他人事のようには思えなかったからだ。これを読んだとき、筆者は恋が破れた直後のことであり、その不幸な恋の切ない思い出が、この作品によって掻き立てられて、筆者は心が二重に痛手を負うのを感じないではいられなかったのだ。

キルケゴールは何故仮名を用いたか

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キルケゴールは、決して長いとは言えない生涯に、夥しい量の文章を書いた。あたかも書くことこそが生きることそのものであるかのように。それらの文章は、日記を別にすれば、二つの系列にわけられる。一つは文学的著作であり、もう一つは宗教的著作である。文学的な著作には、文字通り文学作品と言えるもののほかに、倫理的あるいは宗教的なテーマを扱った思想的なものも含まれるが、キルケゴールの場合には、思想を語るときにも文学的に語るので、それらも含めて文学的著作と称する。

キルケゴールにおけるイロニーと弁証法

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キルケゴールが自分の生涯をかけた研究の出発点としてイロニーを選んだことは興味深いことである。イロニーの概念自体は、キルケゴールの同時代の精神状況の中で一定の存在意義を主張していた。その意味では新しい概念ではない。それは主に理想主義的なロマン主義者たちが、退屈な現実を糾弾するにあたっての武器として用いられた。とりすました相手をからかってみたり、陳列棚に収まった真理の剥製からその実在性を剥ぎ取ったりするための方法、それがイロニー、つまり皮肉の機能なのであった。だからそれはある種のファッションといってもよかった。こうしたイロニーの概念にキルケゴールが付け加えたものは、それを単なるファッションにとどめず、現実批判のための根本的な方法に高めることであった。後にキルケゴール自身、その方法を意識的に実践することによって、実存としての自己を確立していく。したがって彼のイロニー研究は、彼の生涯の方向付けを定める機能を果たしたといえるわけである。

キルケゴールの読み方にはいろいろある。文学作品として、倫理的あるいは心理学的著作として、あるいは哲学書として読めるだろうし、勿論深い宗教的真理を語った著作として読むこともできる。「誘惑者の日記」や「酒中に真あり」などの文学的な著作は、世界の文学史を飾るに足るすばらしい作品であるし、彼の倫理的・宗教的な主張はその後の時代の倫理学説や宗教上の議論に深刻な影響をもたらしたところだし、彼が展開した哲学的な議論は、ハイデッガーやヤスパースらによって取り上げられ、いわゆる実存主義哲学の形成に甚大な影響を及ぼした。どんな切り口から入っても、キルケゴールは尽きせぬインスピレーションを与えてくれる偉大な人物だ。それ故筆者のようなものまで、青年時代のある時期、キルケゴールにいかれたことがあったのも、無理もない話だといえよう。

ヘーゲルとギリシャ悲劇

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ヘーゲル「精神現象学」は、意識、自己意識、理性と進んできた後、精神の章へと移るが、ここで叙述の仕方ががらりとかわることに、読者はとまどうかもしれない。というのも、それまでは個人の意識を主語として叙述されてきたのが、この章以降では、主語が共同体へと切り替わるからだ。

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