知の快楽

純粋理性批判の目的は、理性の限界を定めることであった。それは、神や自由や魂の不死といった形而上学的な理念について、認識の対象としては語り得ないということを証明することで、理性が不毛な議論を展開することに待ったをかけた。しかし、だからといってカントは、こうした理念そのものの存在意義を否定したわけではなかった。こうした理念は、理性の理論的な対象とはなりえないとしても、実践的な対象とはなる。カントはこのように考え、神や魂の不死といった理念を救い出すのである。
人間の理性は、理念を持つだけでなく理想を持つこともできる。たとえば、ストア派のいう「賢人」がそれである、とカントはいう。賢人は、完全に純粋な徳と人間の知恵という理念を体現したものとして、人間の行動の基準となるものである。人間は自分自身をかかる理想と比較し、これを基準として判定し、自らを向上させる。我々はこれらの理想の客観的な実在性を認めるわけにはいかないが、だからといって、かかる理想を単なる想像力によって作り上げた幻像と見做すべきではない。理想は、理性にとっては欠くことのできない基準なのだ。そう、カントは強調するのである。
カントが取り上げた四つのアンチノミーは、伝統的な形而上学のテーマと密接な関係がある。それらはいずれも理念的なものを巡る問題なのだが、これらの問題は、プラトンがイデアを発見し、アリストテレスがそれを形而上学の中心テーマに据えて以来、ヨーロッパの形而上学にとっての主要課題であり続けてきたのである。

カントのアンチノミー(二律背反)

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アンチノミー(二律背反)に関するカントの議論は、理性概念としての理念(イデア)を論じるときに人間が陥りやすい罠について、その原因とそれが生じる必然性のようなものについて論じたものである。先に取り上げた誤謬推論や神の存在証明にまつわる議論と並んで、カント哲学のハイライトともいうべき部分である。

理性の誤謬推論:カントの「心」

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カントが「純粋な理性の誤謬推論」と呼んだものは、「心」の問題についての人間の誤った考え方を批判するための概念装置である。「心」とは人間の精神の働きを統一しているものとして、我々人間にとっての根本的な理念であるといえるものなのだが、この理念に実在性を付与して、「心」が恰も自立した存在者としての実体であるかに考えることから、誤謬が生じる。カントはそうした誤謬をもたらす推論を「誤謬推論」と名づけたわけである。

理性と理念:カントの純粋理性批判

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「純粋理性批判」の題名にある理性とは広い意味での理性を指している。即ち、感性、知性を含めた人間の思考と認識のすべてをカバーする精神作用としての理性である。これに対してカントは、理性という言葉を狭い意味でも使っている。狭い意味での理性とは、感性や知性とは異なる次元の精神作用を指す。感性や知性が人間の認識活動にかかわる能力なのに対して、理性は知性による経験的認識の成果を材料にしつつ、経験を超えた思考を可能にする能力である。
カントは、認識が対象とすることのできるものは現象に限られるのであって、現象の背後にあってその源となっているとされる物自体については、認識することができないとした。しかしそのことは、物自体の存在そのものを否定することではない。物自体は存在するのかもしれないが、人間の認識能力を以てしてはとらえることができない。そういっているわけである。

カントの図式論と想像力

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カントの図式論は、感覚に与えられた個別的な像と知性の一般的な概念を媒介する論理である。感覚に与えられた個別的な像は、それだけを取って見れば、多様で混沌としているばかりであり、その中には何らの秩序はない。そこに秩序をもたらし、混沌とした感覚内容に論理的で明晰な形を与えるのは純粋知性概念としてのカテゴリーである。しかし、カテゴリーと個別の感覚とは、無媒介に結びつくことはできない。そこで、この両者を媒介する第三のものとして、図式と言うものが登場するわけなのだ。
アプリオリとアポステリオリという一対の概念はカント哲学の基礎をなす重要な装置というべきものである。カントの基本的な問題意識は、人間の経験に必然性と普遍性を保証するものはなにかということであったが、それをときあかす鍵として、アプリオリとアポステリオリの相互関係というアイデアを思い付いたのだといえる。
人間の認識は感性と知性の協働によって成り立っている。感性によって対象が現象として与えられ、知性によって現象が概念的に認識される。その関係をカントは次のようにいう。「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」(中山元訳「純粋理性批判」超越論的な論理学)

カントの物自体

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人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体そのものは認識できない。これは哲学史上「カントの物自体」として有名になったテーゼである。カントはこのテーゼを次のようにわかりやすく書いている。

カントにおける空間と時間

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空間と時間という観念を、感覚の対象が備え持つ属性としてではなく、したがって経験を通して得られる客観的な観念としてではなく、人間の感性にそなわった主観的な形式であると主張したのは、哲学史上カントが最初だった。無論極端な観念論者の中には、感覚の対象全体に客観性を認めず、単なる意識の創造物だと主張するバークリーのような哲学者もいたにはいたが、その場合、客観性を否定されるのは感覚の対象全般であって、そのごたまぜの中に空間と時間も含まれていたにすぎない。空間と時間を特定して、それを主観的な形式だと喝破したのは、やはりカントが初めてだといってよい。
20数年ぶりにカントを読みなおそうとしてはたと思ったのは、どんな日本語訳を選んだらよいかということだった。筆者はドイツ語に堪能ではないので、原文でスラスラ読むというわけにはいかない。そこで以前読んだ岩波文庫版はどうかというと、これがかなり問題ありという評判だ。篠田英雄の訳したこの本は、日本語の表現が堅苦しいことはともかくとして、カント哲学の根本となる概念の用語が適切に訳されていないという批判がもっぱらなのである。その代表的なものは、トランツェンデンタールというドイツ語を、先験的と訳している事である。
カントがアプリオリな総合判断を重視したのは、経験から得られる認識すなわち総合的な認識の中にも普遍的で必然的な真理が含まれていることを証明するためであった。そうすることで、因果関係についてヒュームが下した結論を覆し、人間の認識は経験に根差しながらも、(因果関係を含めて)普遍的・必然的な真理に達することができるのだと主張したかったわけであろう。

カントの問題意識:ヒュームとの対決

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カントがヒュームによって独断のまどろみから目覚めたと告白していることは、哲学史上有名なことである。ドイツ哲学をあまり評価していないラッセルもそのことを、カントにとってよかったと評価している。もっともラッセルは、その目覚めは一時的なもので、カントは催眠術を発明して再び眠りにつくことができたと皮肉っている。

西洋哲学と男色

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ミシェル・フーコーが同性愛者であったこと、またあのソクラテスやプラトンが少年愛に溺れていたこと、などは筆者にも分かっていた。しかし、西洋哲学史に登場する哲学者の圧倒的な部分が同性愛者であることまでは知らなかった。それを分からせてくれたのは、丸谷才一氏である。
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