産婆術の比喩を述べた後ソクラテスは、いよいよ本題に入っていく。それも単刀直入に。つまりソクラテスは、「何がそもそも知識であるか試みに言ってみたまえ」と、テアイテトスにいきなり問いをぶつけるのだ。すでに産婆術の比喩によって、自分の腹のなかにあるべきものに自覚的になっていたテアイテトスは、このソクラテスの問いに対して率直に答える。「何かを知識している人というものは、知識しているそのものを感覚(感受)しているものなのです。すなわち、何はともあれ今あらわれているところでは、知識は感覚にほかなりません」と。これに対してソクラテスは、議論のとっかかりが出来たことに満足し、そのうえで、「それが正に純正なものか、それとも虚妄のものか、一緒によく見てみようではないか」と言う。こうしてソクラテスによる、テアイテトスを相手にした産婆術の実践、すなわち思想の出産へ向けての試みが始まるのである。
知の快楽
ソクラテスはテアイテトスに向かっていう。君のことをこのテオドロスがたいそう褒めているが、君が果たしてその通り素晴らしい少年なのか、確かめさせてくれたまえ、どうか期待を裏切らないでほしい、といった具合の言葉だ。するとテアイテトスは、テオドロスのいったことは冗談かもしれませんと謙遜しながら、ソクラテスの問いかけに真面目に答えていくのだ。
プラトンの対話篇「テアイテトス」は、プラトン中期の作品群の最後近くに位置するものと考えられる。この対話篇はテアイテトスを記念するかたちで書かれているのだが、テアイテトスが死んだのは紀元前369年であり、その年プラトンは60歳近くになっていたのである。また専門家の鑑定によれば、この対話篇の文体はプラトン後期の作品と共通するところが多いという。そんなことからこの作品は、プラトンの著作活動の中期から後期へと移行する過程に位置するものと考えられるのである。
以上で魂の不死・不滅についてのソクラテスの証明は終った。この証明を、21世紀の日本人である小生はなかなか受け入れがたいのであるが、紀元前399年にソクラテスの死に立ちあったギリシャ人たちは、納得した様子である。その彼らに向かってソクラテスは最後に、自分の魂が肉体を離れたあと、どのようになるのかについて語り掛ける。それは当時のギリシャ人の抱いていた神話的な考えのように聞こえる。この神話をソクラテスは、後に「パイドロス」の中で詳細に展開して見せるのだが、ここではそのさわりというべきものが語られる。
ソクラテスがアナクサゴラスに失望したワケは、アナクサゴラスが世界の究極原因としてのヌースを折角思いついたにも拘わらず、実際に世界における物事の原因を説明する段になると、他の自然学者と異ならない態度をとったことにあった。ソクラテスとしては、ヌースを究極原因として、それに基づいて世界の生成と消滅を説明して欲しかったわけだ。ヌースを説明原理とするといっても、単にむき出しのままのヌースでは能がない。ヌースつまり精神の産物であるような原理、そういうものが説明原理としてふさわしい。ソクラテスにとって、そのような原理とはイデアにほかならなかった。イデアはソクラテスによれば、自己同一的でしかも永遠に亡びない。もし魂がこのイデアと同じようなものであれば、魂の不死・不滅を証明できることになる。
以上でソクラテスは、魂は合成されたものではなく、不可分で単一の形相をもつものであり、常に自己自身と同一であることを理由にして、魂の不死・不滅を証明したつもりになっていた。ソクラテスの定義によれば、亡びる、つまり死ぬとは、散り散りになって消え去ってしまうことを意味するから、散り散りにならないことを証明すれば、不死であることを証明したことになるからだ。ところがその説明に、ケベスとシミアスは納得しないようなのだ。しかし死にゆくソクラテスを前にしては、その疑問を率直に言えない。そこでもじもじしていると、ソクラテスは遠慮せずに疑問をぶつけたまえと言う。君たちが私に遠慮しているのは、私が死を前にして悲しんでいると思っているからだろう、そんな遠慮は無用だ、私は、悲しむどころか陽気な気持ちでいるのだ、と。
死から生が生まれること、したがって死者から生者が生まれることを確認したうえで、生者を生んだ死者は生者が生まれるまえから存在していることがわかった。その存在は魂としての存在である。したがって魂は、生者が生まれる前からずっと存在していたのであり、そのことは魂が不死・不滅である証拠である。このようなソクラテスの議論を、ケベスはじめ聴衆はみな納得したようなのであったが、しかし、といってケベスは別の疑問を突き付ける。魂が、生者が生まれる前から存在していたことは認めるとしても、人が死んだならば、そのまま存在し続けるとは限らない。魂は、人の死とともに終りをとげてしまうのではないか。もしそうではなく、魂は人が死んだ後も生き続けると主張するためには、今までとは別の論証が必要ではないか、というのである。
以上の議論でソクラテスは、魂は肉体とは別に、それだけで独自に存在できるということを、無条件の前提としていたわけだが、その前提は、果たして盤石なものなのだろうか。そういう疑問をケベスが提出する。魂は肉体から離れると煙のように飛散消滅してしまうのではないか。こういう疑問をケベスが出したワケは、かれがソクラテスの意見に同意しておらず、魂の不死・不滅を信じていないからではない。ケベスはピタゴラス派の影響を受けた人として、むしろ魂の不死・不滅を信じているはずなのである。そのかれがこういう疑問を出したのは、魂の不死・不滅についての強固とした証明を、ソクラテスの力を借りながらなしとげたいという魂胆があるからだ。つまりケベスは、ソクラテスの魂の不死・不滅説に異論をとなえ、その異論をソクラテスに反駁させることで、魂の不死・不滅の証明を確固としたものにしたいわけである。この場合、ケベスの異論はアイロネイアの役割を果たす。そのアイロネイアを踏まえて、新たなディアレクティケーが始まるのである。
魂の不死・不滅についての議論をソクラテスは、かれ一流のアイロネイアから始める。自殺すること、つまり自分自身を殺すことは許されないと人々は信じているが、それには相応の理由があると言って、その理由を説明してみせるのである。ソクラテス自身は、後に明らかにされるように、死ぬことはよいことだと思っているわけであるが、とりあえずは、世間の人びとに譲歩して、死ぬことはよくないという主張を受け入れ、その理由をあげる。なぜよくないのか。ソクラテスは次のように言う。神々は人間を配慮するものであり、人間は神々の所有物(奴隷)なのである。ギリシャ人としては、これには何らの異存もない。ギリシャ人にとって、神々と人間との関係はそのようなものだからだ。そうだとしたら、所有物が所有主の意向をまったく無視して、自分勝手に自分を毀損することは、道理に反したことだ。我々普通の人間だって、自分の所有物が、自分の意思に反して自分自身を殺すとしたら、腹を立てることだろう。このような理由によって、人間は勝手に自殺してはいけないのだ、というわけである。
対話篇「パイドン」は、プレイウスの町にやってきたパイドンを、土地の人エケクラテスが訪問し、ソクラテスの最後の日について、かれがその日にどんなことを話し、どんな様子だったかを尋ねたことがきっかけで始まる。その問いかけに対してパイドンは、自分はソクラテスの最後の日に一緒に居合せたということを認めたうえで、自分が見聞したソクラテスの最後の様子について語るのである。その際に、その場に居合せていた者は、パイドンのほかに十名以上の名があげられる。プラトンは病気でいなかったといわれている。かれらは、普段から牢獄にソクラテスを訪ねては、一日中ともに話すのを日課にしていたが、デロス島から船が返って来たという話を聞くと、その翌日がソクラテスの処刑の日だとさとり、いつもより早い時間に示し合わせて、ソクラテスを訪ねたというのだった。
「パイドン」は、プラトンの著作活動中期の比較的早い時期に書かれたと考えられる。「饗宴」とほぼ同じころ書かれたのではないかと思われるが、どちらが先かははっきりしない。「パイドン」が先だと主張する学者は、「パイドン」で大きなテーマになっている想起説が、初期の最後に位置する「メノン」の議論の延長であることに注目する。「メノン」で初めて取り上げた想起説を、引き続き「パイドン」でも取り上げ、議論を深化させたというのが、彼らの主張の要旨である。つまり「メノン」との連続性において「パイドン」を位置付けているわけである。これに対して「饗宴」のほうが先だとする主張は、イデア説の取り扱い方に着目する。イデア説が、イデアとかそれに類似した言葉で語られるのは「パイドン」が最初なのだが、その概念の実質的な内容は、「饗宴」でも語られていた。その「饗宴」で語られたイデア的なものについての議論を、「パイドン」で深めたというのが、この主張の要旨である。
ソクラテスが語り終わったことで、饗宴の参加者は全員発言をすませたことになった。そこで普通なら、各自の言論を比較しあったり、批判しあったりという段取りになるはずなのだが、じっさいアリストパネスがそのきっかけをあたえようともしたのだったが、そこへ一人の酔っ払いがあらわれた。アルキビアデスである。アルキビアデスといえば、ソクラテスの一時期の愛人として、またアテナイの衆愚政治の指導者の一人として知られる人物だ。そのアルキビアデスが、菫ときづたで飾った花冠を被って、笛吹き女の笛の音に送られながら現われたわけは、前日アガトンの優勝を祝う会に参加できなかったので、その埋め合わせをしに来たのである。
アガトンとの予備的なやり取りをすますと、ソクラテスがいよいよエロースについての自説を述べる段となった。ところがソクラテスは、自説をストレートに述べるのではなく、自分にエロースのことを教えてくれた人とのやりとりを紹介するのだ。そのやり取りの中から、エロースとはなにか、またそれが人間にもたらす贈り物について、おのずから明らかになってくるというわけなのだ。ソクラテスにそれを教えてくれたのは、マンチネイアの巫女ヂオチマだという。
アリストパネスが話し終えると、まだ話していない者は、ソクラテスとホスト役のアガトンだけとなった。そこでアガトンがソクラテスに敬意を表して、先に話すことになった。アガトンは、さすがに戯曲大会で優勝しただけあって、見事な話しぶりを披露した。彼は、他の人びとがエロースをたたえると言いながら実際はエロースその神自身をたたえず、エロースが人間にもたらす幸福を讃嘆したに過ぎないと言った。そして、自分はエロースを真にたたえるために、第一にエロース自身いかなる神であるかについて、第二にその数々の贈り物について、たたえたいと宣言する。
エリュクシマコスの次はアリストパネスの番だが、彼はエリュクシマコスが語っている間にしゃっくりが収まっていたのだった。彼は医師であるエリュクシマコスから、しゃっくりを収める秘訣を三通り教わって、それを試したのだったが、三つのうち最後の方法を試してやっと収まったのだった。それはくしゃみをほどこすというもので、それについてアリストパネスは、体の中の、エリュクシマコスのいう節度ある部分が、くしゃみのような騒音やくすぐりを欲求するものなのかと不思議に思うと言うのだった。
エリュクシマコスの提案に基づき各自エロースをたたえる言論を披露することが決まると、ソクラテスがパイドロスを言論レースのトップバッターに指名した。神々の加護のもとにエロースをたたえよというのだ。そこでパイドロスが口火を切った。かれの言論は以下のようなものだ。
プラトンは、最初のイタリア旅行から帰った40歳頃に、アカデメイアに学園を開き、弟子に教える一方、旺盛な著作活動を始めた。この40歳頃から60歳頃までを、プラトン著作活動の中期と呼ぶのが大方の了解となっている。「饗宴」は、その中期のうちの比較的早い時期に書かれたと思われる。というのも、この著作では、イデア論をはじめ、プラトンの主要思想がそれほど深くは論じられておらず、初期の対話篇を特徴づける倫理的なモチーフが取り上げられる一方、師ソクラテスへの強い尊敬の念が窺われるからである。
弁論の技術すなわち弁論術について、ソクラテスはそれを話すことと書くことにわけて考える。話すにせよ書くにせよ、その内容、つまり話されることと書かれることに違いはないだろうから、分けて考える必要はないようにも思えるが、ソクラテスがそれをわざわざ分けて考えるのは、それなりの理由があってのことだ。それは、話すことは、基本的には一時的なことで、後には形を残さないのに対して、書くことは後に形を残すことだ。書くことは後に書かれたものを残し、それがいつでも読まれる状態となる。ということは、書かれたものには、それ自体に自立した存在意義があるということだ。
弁論術の技術的な部分についてソクラテスは、弁論家たちによるさまざまな技法を紹介する一方、自分自身の見解も打ち出す。それには、大きくわけて二つのものがあった。一つはディアレクティケーと総称されるようになる(二つの種類の)手続きであり、もう一つは魂の導き方についての技術である。
蝉の声やムウサの女神たちの手前、対話を続けることにしたソクラテスとパイドロスは、何について話したのだったか。それはそもそもパイドロスがこの日の話題としてとりあげた弁論術であった。パイドロスから、リュシアスの弁論術について、範例を示しつつ聞かされたソクラテスは、その欺瞞性を暴露するために、自分自身で相対立した内容の物語を語りつつ、弁論というものの様々な条件について語ったのであったが、いまやそれを体系的に整理することで、弁論の本来のあり方を明らかにしようと思ったようなのだった。
最近のコメント