知の快楽

パイドロスがリュシアスの著書を読み終わったときにソクラテスが見せた反応は、パイドロスの予想に反して否定的なものだったが、ソクラテスはその否定的な意見を皮肉たっぷりに言う。まずはリュシアスの文章を褒めると見せて、じつはけなすのだ。彼がリュシアスを褒めると見せたのは、リュシアス本人ではなく、リュシアスの言葉を読んだパイドロスを誉めるというやりかたを通じてだ。「どうですか、ソクラテス、すばらしい話しぶりだと思いませんか」というパイドロスの質問に対してソクラテスは、「いや、神業といってもよいだろう。友よ、ぼくは茫然自失してしまったほどだ」と答えるのであるが、じつは「ぼくのこの感動は君のせいなのだ」と言うのである。リュシアス本人の著書ではなく、それを読んだパイドロスに感動したというわけである。つまりリュシアス本人のことはどうでもよいと言っているわけだ。

ソクラテスにせきたてられる形でパイドロスは、上着の下から書物を取り出して、それを読み始める。ソクラテスは草むらに横になってそれを聞くのだ。ソクラテスに限らず、横たわりながら人の話を聞くのは、ギリシャ人が好んだことのようだ。前にも触れたとおり「饗宴」のなかにもそうした光景が描かれていた。

対話篇「パイドロス」は、ソクラテスが路上を歩いているパイドロスに声をかけるところから始まる。これから始まる対話の状況設定をしようというわけだ。対話は虚空でなされるわけではないので、いつ、どのような場所で、どのような雰囲気でなされたか、それをわかってもらったうえで、対話の内容を聞いて欲しい、そういう気持ちをプラトンはもっていて、対話を紹介する前に、それの状況設定をいささか細かく説明するのである。

「パイドロス」は、プラトンが五十歳前後の頃に、「国家」とほぼ同時に、おそらくは「国家」を書き上げてからすぐに書いたものと思われる。そんなことから、イデア論をはじめ「国家」と同じような問題意識が見られる。この時期のプラトンは、アカデメイアの運営もうまくゆき、心身共に最も充実している時で、思想ものびやかな展開を見せていた。この対話編はそうしたプラトンの思想ののびやかさがもっとも鮮やかに展開されているものである。しかも対話の舞台となっている場所は、他の対話編とは異なり。アテナイ郊外の自然の中に設定されていて、ソクラテスはその自然に包まれるようにして、自己の考えをのびやかに展開するというわけなのである。そういう点からいっても、この対話編はユニークな魅力を持っている。プラトンの対話篇のなかでも、もっとも魅力的な一編である。

藤沢令夫はプラトンを、ギリシャ文化の大きな伝統の中に位置づける。一つは対話を重視する伝統、もう一つはイオニアの自然哲学をはじめとするギリシャ人の宇宙観だ。この二つの伝統がプラトンにおいて融合し、壮大な思想体系が作られたというのが藤沢の見立てである。対話の伝統についてはともかく、自然哲学については、プラトンは物質的な自然よりも精神を重んじたという理解が定着しているので、藤沢の見立てはユニークと言えよう。

ソクラテスに対して有罪の評決がなされ、それについてソクラテスから自分に対する刑罰への意見が述べられたあと、いよいよその刑罰が下されるのだが、それは死刑だった。これをソクラテスは予期していたようであったが、自分に相応しい刑罰とは思わなかったようだ。というのもソクラテスは、「あなたがたは知者のソクラテスを殺したというので、非難されるでしょう」と言っているからである。そして自分が有罪で死刑になったのは、厚顔と無恥が不足したためだと言う。つまり、自分には何も悪いところはないが、法廷の裁判官たちの愚かさのために殺されるのだと強調するのだ。そんな裁判官たちには、ソクラテスの死後懲罰が下されるだろう。その懲罰は、ゼウスに誓って言うが、もっとつらい刑罰になるだろう。かれらを吟味にかける人間がもっと多くなり、彼らを悩ますことだろう。というのも、今までは自分に遠慮して吟味を控えていた者たちが、自分の死後は遠慮なしに吟味するようになるからだ。

自分には死を恐れる理由はないと語ったソクラテスは次いで、自分を殺すことはポリスにとっての損失になると主張する。その理由としてソクラテスがあげるのは、「わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに、付着させられているから」というものだった。「つまり神は、わたしをちょうどその(馬を目覚めさせておくための)あぶのようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難することを、少しも止めないものなのです」。そんな私を殺すことは、あなた方を目ざめさせる者がいなくなることを意味し、したがってポリスは全体が眠ってしまうようなことになるであろう。それは不都合なことに違いない。それなのに私を殺そうとするのは、「眠りかけているところを起された人々のように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、わたしを叩いて、軽々に殺してしまう」ようなものだ。

次いでソクラテスは、自分に対して直接に訴求したものらに反論する。「メレトスという、善良な自称愛国者」たちである。彼らの訴求の理由は、「ソクラテスは犯罪人である。青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神のたぐいを祭るがゆえに」というものだった。それに対してソクラテスは、手の込んだ反論を展開するのである。

弁明を始めるに先立ちソクラテスは、自分が弁明すべき相手は二通りあると言う。一つは今回自分を訴求したアニュトス一派だが、そのほかにもう一つ、「すでに早くから、多年にわたって」自分を訴えている連中だ。その連中は、もっと手ごわい連中であって、「諸君の大多数を、子供のうちから、手中にまるめこんで、ソクラテスというやつがいるけれども、これは空中のことを思案したり、地下の一切をしらべあげたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な知恵をもっているやつなのだという、何ひとつ本当のこともない話を、しきりにして聞かせて、わたしのことを讒訴」していたのだという。

プラトンの著作「ソクラテスの弁明」については、既に別稿において、その概要と解説とを披露したところだ。今度はもう少し踏み込んで、テクストを逐次的に読み込みながら、この著作の全容について明らかにしたいと思う。とりあえずタイトルを「ソクラテスの弁明を聞く」としたが、それはこの著作が、文字通りソクラテスの弁明から成り立っているからであって、それを読むことはまさに、「ソクラテスの弁明を聞く」ことになるからだ。あるいは、「ソクラテスの弁明読解」とすることもできよう。

岩田靖夫はギリシャ哲学が専門のようだが、レヴィナスにも関心があるようで、レヴィナスについての本も書いている。「神の痕跡」と題した本は、副題に「ハイデガーとレヴィナス」とあるとおり、ハイデガーとレヴィナスとの関連が主なテーマだ。この本は、ハイデガーとレヴィナスとの関連を見るには必読の書だと、レヴィナス学者の熊野純彦が書いていたので、その二人に深い関心を持つ小生は、是非もなく読んでみる気になったものだ。

合田正人はレヴィナスの翻訳者として、レヴィナスの主要な著作をほぼ網羅する形で、日本に紹介してきた。小生も「レヴィナス・コレクション」や「存在の彼方へ」といったレヴィナスの著作を合田の訳で読んだ次第だ。「レヴィナス・コレクション」はともかく、「存在の彼方へは」はかなり難解な書物で、読解するのに非常に難儀した。それがレヴィナス自身の文章に起因するのか、それとも合田の訳に原因があるのか、小生には断定できないが、熊野純彦訳の「全体性と無限」も、難解という点ではひけを取らなかったので、おそらくレヴィナス自身の文章に主な原因があるのだと思う。その難解な文章を合田は、よく訳しているといってよいかもしれない。

熊野純彦の「レヴィナス入門」は、レヴィナスの三冊の書物、すなわち「存在することから存在するものへ」、「全体性と無限」、「存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ」を取り上げながら、レヴィナスの思想の特徴とその偏移の様相をわかりやすく紹介している。わかりやすいと言っても、レヴィナスの思想そのものにかなりわかりにくいところがあるので、おのずと理解の限界はあるのだが。しかし、その難解なレヴィナスの思想の偏移を、わかりやすいフレーズを使って腑分けしているので、読んでいるものとしては、なんとなくわかったような気分になる。

主体性をめぐるレヴィナスの議論はかなり錯綜しているように映る。というのもレヴィナスは、主体性を受動性と結びつけて論じるからだ。普通、主体性の対立概念は客体制であり、受動性の対立概念は能動性である。であるから主体性と受動性とは違ったカテゴリにーに属するといってよく、論理的には、主体性と受動性が結びつくことには破綻はないはずなのだが、それでも奇異な感を与えるのである。それは、哲学の伝統の中では、主体性が能動性と結びついて来た歴史があるからだろう。

語ることと語られたこととの対立は、共時性と隔時性の対立とならんで、「存在の彼方へ」における主要な概念セットである。だが、共時性と隔時性の対立ほどには、語ることと語られたことの対立はわかりやすいとはいえない。というか、この両者が対立関係にあるとは、俄には思えないので、我々はレヴィナスが、これらを対立させることの理由がなかなかわからない。語ることの結果語られたことが生起するのではないのか。語ることと語られたたこととは、一つの事態の連続した様態であって、そもそも対立関係にはないのではないのか。そのような疑問が浮かんでくるのである。

レヴィナスは「存在の彼方へ」の中で、彼の後期思想を彩るいくつかの概念セットを持ち出している。「共時性と隔時性」という概念セットは、そのもっとも中核的なものである。共時性はともかく、隔時性とは聞きなれない言葉だ。共時性にしても、哲学のキー概念として使われることはなかった。隔時性はレヴィナスの造語であり、その新しい言葉との対比において、共時性という言葉も、蘇るようにして新たな意味を付与されたのである。

レヴィナスの第二の主著といわれる「存在の彼方へ」は、原題を「Autrement qu' être ou au-delà de l'essence (存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ)」といい、存在するとは別の仕方で生きることの意義について論じている。しかし、存在するとは別の仕方で生きる、とはどういうことか。人が生きているとは存在していることと同義ではないのか。生きていながら、存在するとは別の仕方をとるということがありえるのか。この問いは、存在するとは別の仕方でを、存在しないこと、つまり非存在と同義とする偏見から発している。レヴィナスによれば、存在するとは別の仕方でとは、かならずしも存在しないことを意味しないようなのだ。

「存在論は根源的か」と題するレヴィナスの小論(1951)は、根源的な知とはなにかをめぐる議論である。「この根源的な知を欠くとき、哲学的、科学的認識ばかりか日常的認識を含む、ありとあらゆる認識が幼稚なものになってしまう」(合田正人訳、以下同じ)とレヴィナスは言う。その根源的な知とは、哲学の伝統にあっては、存在論であった。存在論とは、存在者が存在しているという事実の了解を含むもので、その存在の事実はこのうえもなく明証的な事実と考えられる。こうした存在についての根源的な知は、人をして哲学の源泉に遡らしむ。

レヴィナスは、時間を死と関連付けて論じている。その点はハイデガーに似ている。ハイデガーも、時間は人間が有限であることに根差しており、その有限性は死によって区切られているという言い方をしていた。そのハイデガーにとって、時間は現存在としての人間、それも孤立した人間の問題であって、死ぬべき存在としての人間の個人的な事柄だった。ところがレヴィナスにとって時間は個人的な問題ではない。「時間は孤立した独りの主体の産物ではなく、主体と他者との関係そのものである」(「時間と他なるもの」合田正人訳、以下同じ)

レヴィナスの小論「ある(Il y a)」は、存在としての存在、存在者とは切り離された存在、存在一般をめぐる議論である。しかしそのような議論が可能なのだろうか。存在とは、哲学史の王道においては、つねに存在者と切り離されることはなかった。存在とは存在者の存在なのであって、存在者から切り離された存在などというものはナンセンス、つまりは意味を持たないと考えられて来た。たしかに、プラトン以来の伝統においては、イデアは具体的な個々の存在者とは切り離された存在一般としての意味を持たされてはいたが、それは個々の存在者の原因となる限りで意味をもつのであって、個々の存在者と全く切り離されてきたわけではない。ところがレヴィナスは、個々の存在とは切り離された存在としての存在を議論しようというのである。この問題についてのレヴィナスの合言葉は、<存在者が存在する>ではなく、<存在が存在する>である。

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