知の快楽

レヴィナスの小論「ある(Il y a)」は、存在としての存在、存在者とは切り離された存在、存在一般をめぐる議論である。しかしそのような議論が可能なのだろうか。存在とは、哲学史の王道においては、つねに存在者と切り離されることはなかった。存在とは存在者の存在なのであって、存在者から切り離された存在などというものはナンセンス、つまりは意味を持たないと考えられて来た。たしかに、プラトン以来の伝統においては、イデアは具体的な個々の存在者とは切り離された存在一般としての意味を持たされてはいたが、それは個々の存在者の原因となる限りで意味をもつのであって、個々の存在者と全く切り離されてきたわけではない。ところがレヴィナスは、個々の存在とは切り離された存在としての存在を議論しようというのである。この問題についてのレヴィナスの合言葉は、<存在者が存在する>ではなく、<存在が存在する>である。

スピノザには、バルフとベネディクトスという二つの名前がある。ということは、スピノザには二つの人格があるともいえる。あるいはスピノザの人格は二つに分裂しているとも。本人がこんな具合だから、レヴィナスのスピノザを見る目も分裂せざるを得ないようだ。レヴィナスはスピノザについていくつかの言及をしているが、それらを読むと、スピノザについてのレヴィナスの屈折した感情が伝わって来る。その屈折した感情を、「レヴィナスコレクション(ちくま学芸文庫)」に収められた三つの小論をもとに論考してみたい。

「逃走論」と題した1935年の小論でレヴィナスが論じたのは、人間の自己自身からの逃走ということだった。この奇妙な考えをレヴィナスは文学から借りたといっている。レヴィナスは言う、「現代文学は、逃走という奇妙な不安をあらわにして見せたが、この逃走は、われらが世代による存在の哲学に対するもっとも根底的な糾弾のごときものだったろう」。つまりレヴィナスは、哲学に向って、逃走という奇妙な不安を通じて根本的な糾弾を浴びせた文学の方法をもって、現代哲学を糾弾したかったのだろう。その理由のようなものをレヴィナスは次のように言う。「逃走という措辞を、われわれは現代の文学から借用したのだが、それは単なる流行語ではない。それは世紀の病なのだ」(合田正人訳、以下同じ)

レヴィナスは一ユダヤ人として、ヒトラーにひどい目にあわされたわけだが、自分のそうした運命を予感するかのように、比較的早い時期からヒトラーの危険性を認知していたようだ。1934年に書いた小論「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」は、レヴィナスのそうした予見を表明したものだ。1934年といえばヒトラーがドイツで政権を奪取した直後であり、その政治的な存在感が圧倒性を増しつつあった時期である。ユダヤ人に対する攻撃はまだ本格化してはいなかったが、人種差別的な政策は公然のものとなっていた。その人種差別主義にレヴィナスは、ヒトラーのきな臭い意図を嗅ぎつけたことだろう。

ちくま学芸文庫から出ているレヴィナス・コレクションは、1929年から1968年にかけてレヴィナスが発表した比較的短い文章を集めたものだが、それぞれがレヴィナスの問題意識の対象となったことがらを主題的に論じており、しかもコンパクトでわかりやすい文章なので、難解なレヴィナスの思想を理解するうえで、大いに助けられる。レヴィナスが現象学の研究からスタートしたことはよく知られているが、このコレクションはレヴィナスのフッサール論を冒頭に置いている。以後、他者とか死とか時間とか存在にかかわるレヴィナス固有の問題領域が次々と取り上げられる。それらを読むことで、読者はレヴィナスの思考を追体験できるだろう。

大江健三郎の短編小説に「死に先立つ苦痛について」と題されたものがある。ほとんどの人間は死を恐れるが、死そのものを体験することはない。人間が体験するのは死に先立つ苦痛である。その苦痛が我々人間に死についての恐れを抱かさせる。しかし死そのものは恐れる必要はない。何故なら、我々に死が訪れるときには、我々はもはや生きてはいないのだし、我々が生きている間は、我々は死んではいないからだ。

レヴィナスの<他者>は顔として現われる。それはとりあえずは性別をもたない人間の顔として現われる場合もあるが、神として現われる場合もあるようである。<他者>の絶対的な超越性が、神を連想させるからである。レヴィナス自身は、<他者>を神とは明言していないが、文章の行間からそのように伝わって来る。<他者>はまた女性である場合も当然ある。しかし女性として現われる場合には、<他者>は特別の様相を呈する。それは単なる顔であることにはとどまらない。そこには「顔における<他者>の顕現を前提するとともに、それを超越しているなんらかの次元」がある(「全体性と無限」熊野純彦訳、以下同じ)。そうレヴィナスはいって、女性としての他者の解明に踏み込んでいく。

他者にせよ、<私>が~によって生きている始原的なものにせよ、それらは所有されえないものであった。だからレヴィナスには、所有の視点がないかといえば、そうではない。レヴィナスは「全体性と無限」のなかのかなり多くの部分を所有について費やし、所有が<私>つまり人間にとって持つ意味を考察している。

レヴィナスの思想の核心は、他者をすべての始まりに据えることにあり、その他者との関係を中心にして<私>を考えるところにあった。といってレヴィナスが、<私>の自存性を軽視しているというわけではない。「全体性と無限」の第二部は、もっぱら<私>の自存性の解明にあてられているのである。この個所は、第一部で他者の意義を強調したあとに置かれているので、他者との関係における<私>の分析かと思えば、そうではない。あくまでも、他者を考慮に入れない次元での<私>の分析なのである。その分析のトーンは、ハイデガーを強く意識したものになっている。ハイデガーが現存在の世界内存在としてのあり方を分析して見せたのに対して、レヴィナスは世界を享受する主体としての<私>の存在の仕方を分析して見せるのである。

レヴィナスは真理と正義を一体のものとして論じる。これは一見して奇怪にうつる。西欧の哲学的伝統においては、真理とは認識論上の概念であり、正義とは倫理的あるいは政治的な概念であって、この二つが同じ土俵の上で論じられることはなかったからである。それをレヴィナスは同じ土俵に据えたうえで、しかも一体のものとして論じるのである。

西欧哲学におけるレヴィナスの意義は、他者を主題的に論じたことだ。その論じ方は極めて徹底していた。レヴィナス以前にも他者を論じたものはいたが、それらは他者を私によって構成された対象の一種として見ていた。初めて他者を本格的に論じたといえるフッサールにおいてそうだったし、また、他者を共同現存在として、私とともにすでにこの世界に投げ出された所与であるとしたハイデガーにおいても、他者が存在の一類型として、したがって結局は私によって構成されたものとして捉える限りにおいては、やはり他者をそれ自体として絶対的な存在者とはみていない。ハイデガーのいう存在とは、私の思考から生み出されたものなのであり、その限りで私の意識による構成の産物だからだ。

「全体性と無限」の序文を、レヴィナスは戦争への言及から始めている。レヴィナスは、「聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである」としたうえで、その「聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか」といい、「戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎとられ、かくて無条件な命法すら暫定的に無効となる」という(熊野純彦訳「全体性と無限」から、以下同じ)。「戦争によって道徳は嗤うべきものになってしまう」というのである。もしそうならば、「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」。そうレヴィナスは問いかけるのである。問いかけの相手は、読者でもあるし、またレヴィナス自身でもあるようだ。

レヴィナスは、リトアニアのカウナスに生まれ、フランスで自己形成をした。第二次大戦時にはフランス兵として従軍したが、すぐにドイツ軍の捕虜になり、終戦まで捕虜収容所で過ごした。その間にカウナスにいる自分の親族はすべて殺されてしまった。ユダヤ人であるレヴィナスにも殺される可能性がなかったわけではないが、一応フランス兵としての処遇を受けていたので、なんとか生き延びることができた。しかし、愛する家族が皆殺しにされ、自分だけが生き残ったことに、深い絶望を感じたように思う。レヴィナスの独特の倫理学には、そうしたかれの絶望が反映しているように思われるのだ。かれの倫理学は、二人の人間の間に成立する関係を中心に展開されるものだが、その関係は非対照的なものであり、あたかも神と人間との関係の如くである。そしてその神が、レヴィナスは積極的な定義は控えているが、ユダヤの神であることは間違いない。レヴィナスはユダヤの神に向き合うことで、自分自身の、ひとりの人間としてアイデンティティをつかみ取ろうとしているように見える。レヴィナスにとって神は、どうやら自分自身の自己イメージでもあるようなのだ。

エマニュエル・レヴィナスはフィリップ・モネとの対話「倫理と無限」のなかで、彼の最初の著作「実存から実存者」に触れながら、この本は「ある」について語っており、自分はそのことを Il y a という言葉で表したのだったが、その時には「Il y a」と題されたアポリネールの有名な詩のことは知らなかったと言った。知っていたとしても、どうということもないようなのだが、フランス語で「Il y a」というと、どうも人はそれに存在への賛歌のような気持ちを感ずるようなので、存在からの超越を究極的に目指している自分としては、誤解されやすい恐れはあるかもしれない、ということらしかった。

エマニュエル・レヴィナスは、難解と言われる現代フランスの思想家の中でも、とりわけて難解と言ってよい。レヴィナス研究者を自認する内田樹でさえ、レヴィナスの書物は一度や二度読んだだけでは理解できないと言っているくらいだ。実際小生も、「全体性と無限」や「存在の彼方へ」という書物を読むのに、大変な苦労をした。ちゃんと理解できているかどうか、まだわからない始末だ。その理由は色々あるが、小生の能力不足を脇へ置いて言えば、レヴィナスの文章があまり論理的ではないことだ。レヴィナスは自分でも、語りえないことを語るところから自分の思想は始まると言っているくらいだから、やはり自分の主張の非論理性を自覚していたのだと思う。ところが、非論理的な主張ほど、他者にとって理解に苦しむものはないのである。

折口信夫は国学院の教授として、国学院の学生を前に講義を行ったなかで、しばしば国学の伝統について語った。その国学の伝統とは、単に学問としての伝統ではなく、道徳としての国学の伝統ということだった。そのことを折口は、次のように語っている。「道徳に到達しないで国学というものはないのです。だから文献学がいくら文献学でも、それは国学ではありません」(平田国学の伝統)

晩年の折口信夫が、神道を宗教として純化し、日本人にとっての国民宗教になることを強く願ったことはよく知られている。そのきっかけは敗戦であった。折口は、アメリカの若者たちが第二次世界大戦を、十字軍の兵士たちがエルサレムを奪還しようとしたのと同じ情熱をもって戦っているということを悟って、そんな敵を相手に日本が勝てるわけはないと思った。何故なら日本の若者には、そういう宗教的な情熱はないからだ。だから、日本が負けるのは無理もない。日本が勝つためには、アメリカの若者に劣らぬような宗教的情熱を、日本の若者も持たなければならない。その場合に、日本の若者が持つべき宗教的な情熱は、神道しかそれを与える可能性はない。そういうような思いから折口は、神道の宗教化を強く主張したのである。

日本人の他界観についての折口の考え方は、日本人の死生観と深くかかわりながら展開されている。折口は、人間が他界の観念を持つようになった理由は、人間が死ぬるものだからだと言っている。人間が死ぬるものなら、死後それがどのようになるのか、という疑問が生まれて来る。他界とは、その疑問に答えるものなのである。

折口信夫によれば、古代の日本人にとって、生死の境は曖昧だったという(「古代人の思考の基礎」)。「平安時代になっても、生きてゐるのか、死んでゐるのか、はっきりわからなかった」。人間というのは、肉体と魂が結びついて生存しているのだが、この魂というのが、しょっちゅう肉体を離れて遊離すると思念されていた。魂が遊離すると肉体は一時的に死んだような状態になるが、再び魂が肉体と結びついて生き返ることがままあった。そこで、魂があまりにも長い間肉体を遊離して、再び戻らないと観念された時に、その人は死んだというふうに理解された、というのである。

折口信夫は「古代人の思考の基礎」という論考の中で、古代日本人の思考法の特徴について触れている。折口によれば、古代日本人の思考は、ある種の循環論法に従っていたという。それを折口は逆推理とか比論法とか呼んでいるが、これは西洋的な因果的思考とは非常に違ったものだ。今でこそ日本人は、西洋的な考え方になれてしまったが、その発想の根底には、この古代的な論理のかけらがいまでも残っていると考えているようである。

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