知の快楽

折口信夫の論考「大嘗祭の本義」は、大嘗祭を中心に皇室行事について語ったものである。皇室行事は神道をもとにしている。というか神道そのものである。折口自身は神道という言葉が気に入らないといっているが、ほかに適当な言葉がないので使っているようである。その神道とは、折口の理解によれば、皇室に集約的に体現されているので、皇室神道を語ることが即神道を語ることになる。神社の神道とか、民間の神道はみな、皇室の神道に淵源をもっている、というのが折口の主張である。

折口信夫が神道の興隆を意図していたことはよく知られている。しかしこの神道という言葉を折口は嫌い、「近来、少なくとも私だけは、神道という言葉を使わないようにしている」と言っていた(「神道に現われた民族論理」)。その理由は、神道という言葉は、神道の内部から使われるようになったものではなく、仏教側がつけた名だというのである。仏教側では神道を、仏の教えに対立するものとして(日本土着の)神の道と言い、仏教より一段劣ったものと考えていた。だから神道側ではこれを排斥すべきなのに、かえってそれを有難がって、自分でも神道と呼ぶようになった。これはおかしなことだ、とうのが折口の感想なのである。

能楽には「翁」という演目がある。いまでも正月には必ず演じられているほか、流派家元の重要行事の際にも演じられるなど、特別の意義を付与されている。この「翁」を折口信夫は民俗学的な視点から解説しているのであるが、その論旨を簡単に言えば、翁とは折口のいうところの「常世人」あるいは「まれびと」が芸能化したものだということになる。

折口信夫は小論「餓鬼阿弥蘇生譚」で、説経「小栗判官」の蘇生譚を取り上げている。この説経のテクストには多くの異本があるらしいが、折口はもっとも正統なものとして国書刊行会本を取り上げ、それにもとづいて、小栗の餓鬼阿弥としての蘇生を論じている。その論旨は、この蘇生譚に日本人古来の霊魂観が込められているというものだ。

まつりには屋台とか神輿がつきものだが、折口信夫はそれらが日本古来の信仰行事に由来していることを明らかにしようとする。折口によれば、こうしたものは、神の依代であるということになる。屋台やだいがくに神が降臨し、その神を人間たちが仰ぎ奉る。この構図は、幣束にもあてはまる。幣束とはもともと、神が目標とする依代だったというのが折口の主張である。したがって日本のまつりは、古代から一貫して、この神をお迎えして、仰ぎ奉るということを本質としていたということになる。

まつりについての折口信夫の言説は、まつりが行われる時期についての形式的な議論と、まつりの目的などについての実質的な議論とからなっている。まつりの時期については、春夏秋冬四季にわたって行われているものを、どれが最も古くて、したがってまつり本来の姿をあらわしているかについて、考察することを中心に議論している。

折口信夫は、「国文学の発生」においては、呪言を神の言葉とし、それを迎える人間の言葉を寿言としたうえで、この両者を含めて神事の言葉として、そこから国文学が生まれてきたという捉え方をしていた。ところがそのやや以前に書いた「万葉集の解題」においては、神の言葉を寿言、人間側の言葉を呪言としており、表面上はまったく反対の捉え方をしていたわけだが、この両者を含めて神事の言葉とし、そこから国文学が生まれて来たとする立場は異なっていないようである。

折口信夫は「国文学の発生」第四稿において、それ以前のまれびとや国文学発生論を踏まえながら、日本の芸能の発展史を概観している。折口の議論は直感に基づくものが多く、しかも話が前後してとりとめのないところがあるが、ここではいくつかの話題についてとりあげてみたい。

折口信夫の著作「国文学の発生」第一稿と第二稿は、我が国文学の発生の基盤を神事に求めている。我ら日本人の祖先たちは、神に仕えるための様々な行事とその担い手をもっていたが、その中から我が国文学の端緒が生まれてきたというのである。文学の発生を神話とか伝説及び叙事詩に求めることは世界どの国でもなされることで、それ自体は珍しいことではない。ただ日本の場合、神事の内実は他国に例を見ないユニークなものである。そこから日本の伝統的な文学のユニークさも生まれて来た。折口の説のユニークさは、そうした日本の伝統文学のユニークさと大いに関係がある。

「まれびと」は「常世」と並んで、折口信夫の思想の中核概念だ。折口はこの概念を「国文学の発生」第三稿のなかで初めて体系的に論じた。その論じ方がいかにも折口らしいのである。

折口信夫は小論「琉球の宗教」において、琉球の宗教を概括的に論じている。彼の主張の眼目は、琉球神道と内地の神道の類似性を指摘することである。琉球の神道は内地の神道の一分派だとも言っている。その理由について、折口は例によって組織立っては説明してはいないが、ヒントになるようなことは言っている。いまそれを列挙して、琉球と内地の神道の類似性と折口が考えているらしいことを見てみたい。

折口信夫が常世論を提示するのは三十台前半という若い頃のことだ。以後彼の民俗学の根本概念として生涯を通じて言及するようになる。いまその常世論の出始めを中公版全集で当たってみると、第二巻の冒頭をかざる「妣が国へ・常世へ」が最初の仕事のようである。この短い文章のなかで折口は、彼独特の直感にもとづいて常世の何たるかを解説している。そのやり口は柳田国男の実証的な方法とは対照的なもので、直感と言うかひらめきと言うか、科学的と言うよりも文学的とでも言うべき手法を以て独自の概念を定立し、その概念にもとづいて、様々な事象を演繹的に説明しようとするところに折口の折口らしい特長がある。

日本の民俗学は、知の巨人といってよい思想家を三人も擁している。南方熊楠、柳田国男、折口信夫である。彼らは唯に民俗学者というにとどまらず、知の巨人と言うにふさわしい知性と、思想家と呼ぶに値する思索を展開した。しかも面白いことに、その思索のスタイルが三人三様である。その相違をよくよく分析してみれば、我々はかれらのうちに、日本的な発想の典型的な形を認めることができる。かれらの偉大な知性は、日本人の発想の諸様式を、それぞれ代表しているのである。

柄谷行人は「遊動論」において柳田国男を、南方熊楠及び折口信夫と比較している。南方も折口も柳田と並んで日本民俗学の巨匠と言われているが、三者の間にはかなりな学風の違いがある。その違いについて柄谷は彼なりの視点から比較検討しているわけである。

柄谷行人の柳田国男論は、柳田の「山人論」を中核にして展開される。柄谷はそれを展開するにあたって、柳田の学説の変遷についての通説を強く批判することから始める。通説によれば、柳田は山人の研究から始めたが、途中でそれを放棄し、山人とは正反対の稲作定住民=常民の研究へと向かい、晩年はこの常民たる日本人の祖先を海のはるかかなたからやって来た人々とする日本人起源論を主張するようになった。そうした見方に対して柄谷は、柳田は生涯を通じて山人の研究を放棄したことはなかった、むしろ彼が生涯をかけて追及したのは、山人についての思想を深化させることだったと言う。

「郷土生活の研究」は、柳田国男が昭和十年に行った講演を骨子としたものだ。その講演の中で柳田は、発足せんとする日本民俗学会に向けて、日本の民俗学研究のとるべき方向のようなものを示唆した。その議論については、常民の研究とか一国民俗学といったものをめざしているという見方が長い間なされてきた。それについては、柳田の研究の転回点となったという評価がさなれたり、あるいはそれまで柳田が強調してきた被抑圧民へのまなざしが後退して、常民を中心とする日本の支配的な文化を強調するようになったといった批判もなされて来た。

「後狩詞記」は、「遠野物語」とともに柳田国男の民俗学研究の出発点というか、原点となったものだ。柳田はこの本を通じて、自分自身の実証主義的な学問の方法論を実践する一方で、その後の彼の中核的な関心事となった山人についての研究を開始した。もっとも柳田は、この本のなかでは山人という言葉を使ってはいない。その点は遠野物語とは異なる。しかも、彼が対象とした焼畑農業民兼イノシシ猟師たちを、他の普通の日本人とは決定的に異なるユニークな存在とも規定していない。ただ、日本の辺境のしかも山の中には、このような変った人々がいるといっているだけである。しかしその変りかたがあまりにも常軌を逸していることには気が付いていたようで、そこから後日彼らに代表される山の人あるいは山の民についての研究を本格化させるようになったとは推測される。

「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらは本の出版日たる明治四十三年からさかのぼる余り遠くない時期に交わされたと思われる。その時期はあたかも遠野物語の執筆時期とだいたい重なっている。そんなこともあって、遠野物語と同じような問題意識に貫かれている。それは、日本の各地に残っている淫祠と言われるものの、起源や分布、現代の日本人へのかかわりあいなどを明らかにしたいというものだった。

柳田国男が昔話に拘ったのは、それらが日本人の古い考え方を比較的もとの形で保存していると考えたからだ。昔話の中には、時代の変遷や地方の相違によって、もとの形とは違ってしまったものも認められるが、少なからぬものの中に、日本人古来の思想の痕跡が残っている。それらを丁寧に読み解くことで我々は、日本人の本来抱いていた思想がどのようなものであったか、知ることができると柳田は考えて、昔話の収集と比較・分析に熱意を注いだのだろう。

柳田国男が「口承文芸史考」を書いたのは昭和二十一年のことだが、その序文で柳田は、この本の目的を、我々日本人の祖先が何を信じ、いかに信じていたかを知ることが一つ、もう一つは日本人がいかに自国の言葉を愛重し、どれほど力を尽してこれを守り立てていたかを尋ね極めることだと言っている。これらの目的を追求するためにも、口承文芸は欠くべからざるものであるが、今日では書かれた文章のみを尊重する気風が強くて、口承文芸に注目するものが少ない。その典型的な例は、記紀を以て日本の神話を代表させる風潮であるが、柳田によれば記紀はそれまで行われていた口承文芸の一部をたまたま保存したものであって、それを以て日本神話の全体をカバーするものではない。日本神話の全貌を明らかにするためには、記紀だけにとらわれず、日本人が口で伝えて来たものに広く目を向ける必要がある。また、我が国にはそうした古い口承の残りがまだいくらも残っており、日本神話解明への豊富な手掛かりを提供してくれるのである。しかしそれも放っておいては速やかに消える運命にある。だからいまのうちに口承文芸を広く研究し、保存しておく必要がある、というのが柳田の基本的な問題意識であったようだ。

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