知の快楽

戸坂潤の和辻哲郎批判

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戸坂潤が和辻哲郎の風土論を取り上げて、そのイデオロギー性を批判したのは1937年のことだ。「和辻博士・風土・日本」と題する小論がそれだが、この中で戸坂は、和辻の風土論を、一つにはアラモードでハイカラな時代性を感じさせるとしながら、他方ではそのハイカラな手法を使って日本という国の特殊性、それは他国にすぐれた特殊性という意味だが、その特殊性を強調することで、イデオロギー的な役割を果たしていると批判するのである。

道得と葛藤:和辻哲郎の道元論

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道元の思想は、我々現代の凡俗にはなかなか理解し難く、その著作「正法眼蔵」を読み解くのは容易なことではない。和辻もその全体像には通じていないと謙遜しているが、彼なりの読み方を「沙門道元」の中で披露している。道元には、精進とか仏性とかいった根本概念がいくつかあるのだが、和辻はその中から「道得(どうて)」と「葛藤」をとりあげて、道元の概念的な思考の特徴を彼なりに分析する。それがなかなか興味深い論じ方なのである。

沙門道元:和辻哲郎の鎌倉仏教論

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小論「沙門道元」は、和辻哲郎なりの日本仏教論である。和辻は、道元の禅と親鸞の念仏を日本で最初の本格的な仏教=宗教ととらえているようだが、それは真宗と禅宗に代表される鎌倉仏教を、日本で最初に民衆的な基盤の上に成立した宗教と位置づけた鈴木大拙の見方と共通するところがある。大拙の場合には、民衆宗教としては真宗のほうを重視したわけだが、和辻の場合には、道元の禅をより積極的に評価する、という違いはある。

和辻哲郎の平安文学論

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和辻哲郎は「日本精神史研究」の中で、日本の奈良時代以前の古代文化を仏教の受容によって代表させたが、平安時代の日本文化については、清少納言と紫式部によって代表される女流文学を以てその典型とした。ところで、平安時代の女流文学、特に紫式部の「源氏物語」に高い価値を認め、そこに現わされている「もののあはれ」なるものを、日本の文芸のみならず、日本人一般の精神的な本質として称揚した者に、本居宣長が上げられる。それ故和辻の平安文学論が、宣長の所説を大きく意識したものになるのは、ある意味自然なことであった。

和辻哲郎「日本精神史研究」

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「日本精神史研究」に収められた諸論文は、1920年代の前半、和辻の比較的若い頃の業績である。キルケゴールやニーチェなど、ヨーロッパの当時の最新思想の紹介者として出発した和辻が、日本の精神的な伝統について考察したもので、いわば日本文化研究家としての和辻の、処女作品のようなものである。多くの思想家の処女作品が、その後の彼の思想を要約しているように、この書物に収められた作品群は、和辻のナショナリストとしての姿勢を宣言しているようなところがある。

和辻哲郎の日本礼賛

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和辻哲郎は、日本の風土とそれが織り成す日本の文化、その担い手たる日本人をどのように論じたか。日本が東アジアに位置し、その限りでモンスーン型の風土類型に分類されることは間違いないが、しかし日本の風土は同じモンスーン型と言っても、インドや中国とはかなり違う。その違いをもたらす特殊性を和辻は、やはり日本の自然条件にまず求める。日本はインドや東南アジアとは違って、単調な熱帯・亜熱帯気候ではない。モンスーン型気候として夏の炎暑と湿潤を有する一方、冬には雪が降る。つまり、亜熱帯型と寒帯型とが共存している。そのことが日本の風土に独特の陰影をもたらす、そう和辻は主張するわけである。

和辻哲郎の風土論

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和辻哲郎にとって風土論は、彼の人間論と密接な関係にある、というより人間論の不可分の要素となっている。和辻にとって人間とは、個であると共に全体でもあるが、その全体とは人間の共同態としての社会的な性格のものであり、そこには人間の間柄が働いている。風土というのは、この間柄のあり方を根本的に規定しているのである。したがって風土とは、言葉の表面的な意味から連想されるような単なる自然のあり方ではなく、人間の生き方そのもの、「人間が己を見出す仕方」としてとしてとらえられている。人間は風土を離れて存在し得ない、風土が人間を作る。そのように和辻は考えているわけである。

和辻哲郎の存在論

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和辻哲郎が存在論を持ち出してくるのは、人間存在を基礎付けるための方便としてである。その点では、人間存在としての現存在を存在の典型として、そこからすべての存在を基礎付けようとするハイデガーと似ているところがある。存在概念を腑分けするにあたって、ことば遊びを駆使するところもハイデガーと似ている。もっとも似ているのは外面だけで、論理展開の内実はかなり異なっている。そこには和辻の和辻らしさがうかがえるのである。

「人間の学としての倫理学」と題したこの本を和辻は、「倫理とはなにか」という問いかけから始める。その問いに答えるに和辻は、ハイデガー流のことば遊びを以てする。ドイツでハイデガーに師事した和辻は、ハイデガーの存在論を自分の学問の基軸としたとはいえないまでも、ハイデガーのことば遊びは十分学んだようである。この書物はそうしたことば遊びの一つの優雅な成果といえなくもない。

ドルーズのサド・マゾ論

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サルトルは、サディズムとマゾヒズムを、基盤を同じくし、相互に反転可能な、密接な関係にあるものとしてとらえた。サディストの対象はマゾヒストでありえ、また、サディスト自身は容易にマゾヒストに反転可能だと考えたわけだ。それは彼の対他存在論から論理必然的に導き出される結論だった。対他存在としての私は、眼差しを向けられるものとして、相手の支配の対象となることを徹底することでマゾヒストとなるのであるし、逆に私が相手に眼差しを向け返し、相手を徹底的に支配することでサディストになる。というわけである。こうした考え方は、フロイトを初め精神分析学者たちも共有していたが、フロイトらがサディズムとマゾヒズムを精神病理の範疇として、つまり性的倒錯としてとらえていたのに対して、サルトルの場合には、倒錯ではなく人間関係の根本的なあり方を規定するものとしてとらえたわけである。

アルトナの幽閉者:サルトルの戯曲

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サルトルは戦後演劇活動に力を入れ、結構な数の戯曲を書いた。「アルトナの幽閉者」はその代表的なものである。1959年の作品だから、彼の演劇活動の後期に属するものだ。

サルトルのサド・マゾ論議

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サルトルの対他存在論の核心は、私の存在の根拠を他者のまなざしに求める点である。私が私であることの根拠を私のうちにではなく、他者のうちに求めるということは、私を自立した存在としてではなく、他者との関係性においてとらえるということである。ということは、私は自立した存在者として自己のうちに絶対的な根拠をもっているわけではなく、他者との相対的な関係性において成立するにすぎない。だから、他者の存在がなければ、私の存在もない。厳密な意味では、対他存在としての私がない。ところで私の本質的なあり方は、この対他存在ということにあるのだから、その対他存在が成り立たなければ、わたしの存在も成り立たないことになる。

私と他者:サルトルの対他存在論

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他者(人間としての)の問題は、デカルト以降の認識論的哲学の伝統の中では最大のアポリアだった。デカルトの提起した前提の上では、他者は自立した存在としての基盤を持たない。他者は私によって構成されるというかぎりで、無機物や動物と何ら変ることはなかった。要するに、私に対して従属的な関係にある、私の付属物のようなものだったわけだ。ところがサルトルは、私を他者に対して従属的な立場に置き、私を他社の付属物に転化させることで、私と他者との関係を逆転させた。そして、そのことによって、他者の問題に光を当てようとした。それが「存在と無」の中で展開される「対他存在論」である。

嘔吐:サルトルの哲学小説

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長編小説「嘔吐」は、サルトルの初期の活動を代表するものと言ってよい。彼は、「想像力」などの哲学論文や何遍かの短編小説を通じて、彼なりの存在論を展開していたが、この「嘔吐」はそうした試みを集大成しようとしたものだ。「しようとした」というのは、この小説が必ずしも、彼の意図を十全に実現したものとまではいえないからだ。どこか不消化な部分を感じさせる。そのことで、思想の開陳としては中途半端だし、小説としてはぎこちなさを感じさせる。

サルトルの短編小説

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サルトルは、論文「想像力」によってまず哲学者として登場したが、彼の名を高からしめたのは何本かの短編小説と一遍の長編小説だった。それらは文学の形式を通じて哲学を語ったといった体のもので、たしかに珍しさはあったが、文学作品としては奇妙な代物だったといえなくもない。ともあれ、これら一連の文学作品を通じて、サルトルは変な人間だという印象を世間に与えたようだ。

アドルノの「本来性という隠語」を読んだ後で仲正のこの本を読むと、落差の大きさに驚かされる。一方はハイデガーの民族主義的・全体主義的傾向を徹底的に批判する意図で書かれているのに対して、こちらは初心者を相手にした入門書だという違いもあるが、同じ「本来性」という言葉についても、両者の受け止め方は大分違っている。アドルノはこの言葉に、ハイデガーの狭隘な民族主義を読み取っているのに対して、仲正の方はハイデガーの意図を尊重して、それを人間の「本来的な」生き方というニュアンスで、肯定的に捉えている。

徳永洵「現代思想の断層」

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徳永洵は、三島憲一と並んでドイツ現代思想の紹介者として知られる。ドイツ現代思想は、フランスの現代思想のにぎやかさに押されて、日本ではいまひとつ流行らなかったが、徳永はそれを根気強く日本人に紹介してきた。とりわけ、フランクフルト学派の紹介で知られるが(「啓蒙の弁証法」を翻訳している)、それはフランク学派が戦後のドイツ思想を代表するものであってみれば、当然のことだろう。

細見和之「フランクフルト学派」

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細見和之はドイツ現代思想研究者で「啓蒙の弁証法」の訳者徳永洵の弟子として、フランクフルト学派を主に研究してきたとあって、フランクフルト学派を紹介したこの本は実に目配りが聞いており、しかもわかりやすい。フランクフルト学派研究の入門書としては非常にすぐれているといえよう。先日読んだ仲正昌樹の「現代ドイツ思想」も、フランクフルト学派を中心に現代ドイツ思想を手際よく紹介していたが、そちらは文意の解釈が主体で、フランクフルト学派の思想史的な意義についての突込みが足りない。それに比べるとこの著作は、フランクフルト学派の思想内容はもとより、その思想史的・社会史的位置づけがわかりやすく論じられている。対象への向かい方が、仲正と違っているせいだろう。仲正は「思想業界」の一員を自認しているとおり、商品の効用を説明するような気軽さを感じさせるのに対して、こちらは対象へのコミットメントというか、対象への同情が感じられる。その同情が文章に熱を含ませ、それが読んでいる者にも伝わってくるといった具合なのだ。

仲正昌樹「現代ドイツ思想講義」

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ドイツ思想というのは昔の日本人には大変人気があって、カントやヘーゲルの研究者はそれこそ雲霞の如くいたし、マルクスをドイツ思想に含めれば、日本人にとっての外来思想はほとんどドイツ色一色に染まっていたといってよいほどだ。そんなドイツ思想の勢いも、現代に入ると急に色あせる。戦後の日本人にとっては、かつてドイツ思想が誇っていた地位はフランス人の思想にとって代わられたばかりか、いまや現代ドイツ思想に親しみを覚える人はあまりいないのではないか。仲正昌樹は学校でドイツ研究を専攻した事情もあって、現代ドイツ思想に親しみを覚える数少ない人の一人である。

アドルノの著書「本来性という隠語」は、戦後ドイツの思想状況を批判したものである。アドルノはこの著書を当初、「批判弁証法」の一部として構想したが、扱っているテーマが、本体からの独立性が高いと自覚して、両者の分業を図ったという。この著作でアドルノは、隠語が横行している戦後ドイツの欺瞞的な思想状況を批判するのだが、その欺瞞性はハイデガーのような狡猾な哲学者だけではなく、ヤスパースのような誠実な思想家をも蝕んでいる。隠語の持つ独特の力が、戦後ドイツの思想界をまるまる包み込んでいるからである、とする。

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