知の快楽

「千のプラトー」の第十二のプラトーは「BC7000年―捕獲装置」と題する。テーマは、直前のプラトーに続き、国家についてである。タイトルにある「捕獲装置」とは、国家の機能の一つ。ドゥルーズらは、国家の政治的な至上権力を、デュメジルに従って、二つの極にわける。「政治的な至上権力は二つの極をもつ。捕獲、絆、結び目、網を操る魔術師としての恐るべき皇帝という極と、条約、協定、契約といった手続きを行う法律家、司祭としての王という極・・・戦争の機能は、政治的な至高権力の外部に存在し政治的至上権を構成する二つの極のいずれにも所属せずそれらから区別される」(宇野ほか訳)。

「千のプラトー」の第十二のプラトーは「1227年―遊牧論あるいは戦争機械」と題する。テーマは遊牧民、戦争機械、国家についてである。戦争は国家の専権事項だというのが常識的な理解だが、このプラトーはそうした理解をくつがえし、戦争は国家の外から国家にやってくると説く。戦争機械はもともとは、国家ではなく遊牧民のものなのだ。遊牧民は国家をもたない。国家は領土と領民からなっているが、遊牧民は領土をもたないからだ。領土を持たない民は領民とはいえない。その二重の意味で、遊牧民は国家をもたない。その遊牧民の首長であり、戦争機械の権化ともいうべきチンギス・ハーンが死んだ年が1227年である。なぜその年をタイトルに含ませたのか。

「千のプラトー」の第十一のプラトーは「1837年―リトルネロについて」と題する。リトルネロとは、音楽用語で、同じ主題を何度も繰り返すことをいう。ベートーベンの第五で、あの衝撃的で短い主題が何度も繰り返されるのがその例だ。だが、このプラトーの真の意図は、リトルネロではなく領土化である。なぜリトルネロが領土化と結びつくのか。それは小鳥が介在することによってである。小鳥の鳴き声は、同じ旋律を繰り返すことからリトルネロといってよい。小鳥はそのリトルネロのような鳴き声を、テリトリーの宣言として用いる。なわばりの主張なのだ。なわばりは領土といってよいから、小鳥においてリトルネロは領土と強く結びつくわけである。このことをかれらは次のように表現する。「リトルネロはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ。たとえば鳥の歌。鳥は歌を歌うことによって自分のテリトリーを示す・・・リトルネロは、本質的に、<生まれ故郷>や<生来のもの」と関係しているのだ」(宇野ほか訳)。

「千のプラトー」の第10プラトーは「1730年―強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること」という奇妙な題がついている。動物になることというのは、人間が動物になることをいい、メタフォルフォーゼの伝説を想起させてわかりやすい。だが、強度になることとはどういうことか、また知覚しえぬものになるとはどういうことか。しかもこのプラトーは、さまざまな者らの思い出を紹介するという形式をとっている。ある観客の思い出から始まり、ある博物学者の思い出、あるベルグソン主義者の思い出、ある魔術師の思い出、ある<此性>の思い出、あるプラン作成者の思い出、ある分子の思い出、秘密の思い出といった具合だ。スピノザ主義者やベルグソン主義者のように明らかに人間と思われるものの思い出と並んで、<此性>の思い出とか分子の思い出とか、わけのわからぬものの思い出がある。これら思い出の紹介に続いて、思い出と生成変化、音楽への生成変化についての考察があり、思い出とは生成変化のことだと語られる。実に奇妙なプラトーである。

「千のプラトー」の第九のプラトーは「1933年―ミクロ政治学と切片性」と題する。1933年はヒトラーが権力を掌握した年だ。ということはこのプラトーのテーマにヒトラーがかかわりあることを示しているようである。そのヒトラーが喚起する政治的イメージを「ミクロ政治学」というのか。一方「切片性」という言葉は何を意味しているのか、よくわからないところがある。切片とは、文字通り切れはしという意味もあるが、数学の用語でもある。ドゥルーズは、若い頃から数学の概念を援用するのが好きだったから、ここでも数学的な概念としての「切片」という言葉を使ったということはありうる。数学的な概念としての切片は、座標軸上の線にかかわるものである。X軸とY軸からなる二次元の座標上で、方程式であらわされる線(直線あるいは曲線)が、X軸あるいはY軸と交差する点を切片というのだが、ドゥルーズの切片の定義は、どうもそれからはずれているようである。ドゥルーズはかつて、数学の概念である微分というものについて、数学の専門家からバカにされるようなことを言っていたが、この切片という言葉の使い方にも、彼一流の恣意性が指摘できないでもない。

「千のプラトー」の第七のプラトーは「零年―顔貌性」と題される。ゼロ年という年次はキリスト生誕の年だ。ここでの顔貌性についての議論はだからキリストと深い関係があるように思える。じっさい、キリストの顔が、顔貌性の議論を象徴しているようなのである。キリストの顔とともに顔貌性が生産された。キリストの顔が生まれるまでは、顔貌性というようなものはなかった。キリスト以前にも人間は存在していたわけで、それら古代の人間たちにも顔と呼ぶべきものはあったはずなのだが、それは真の意味での顔ではないとドゥルーズらはいう。キリスト以前の人間たちにも、頭の一部としての顔はついていたが、それは顔貌性を伴わない、出来そこないの顔である。真の顔ではない。真の顔はキリストが代表するような顔なのである。キリストの顔は白人の顔を代表している。白人の顔こそが人類の基準となるべき顔なのであり、その他の人種の顔は、多かれ少なかれ出来そこないの顔である。そうした人種差別的なニュアンスが、ここで議論の対象となっている顔貌性という言葉には込められている。

「器官なき身体」という奇妙な言葉は作家のアントナン・アルトーが使った言葉だ。アルトーは分裂症を病んでおり、自身の分裂症的な体験をこの言葉であらわした。通常の医学的な説明では、分裂症は自我の統一性が破壊される病気である。だから分裂症者は、確固とした自我の自覚をもてず、外界と内界の区別ができない。自我と対象とが区別できないために、主体性の感覚をもてない。そういう事態は、普通の言葉では病気というほかはないが、アルトーはそれに積極的な意義を与えた。かれにとって器官なき身体とは、さまざまな器官に分節化される以前のただの肉のかたまりとしての身体をイメージしていた。その肉の塊として生きるというのが、アルトーにとって望ましい生き方だった。

言語と記号は、互いに深い関係にあるというのが通常の見方だ。言語が記号の一種だという見方もあり、逆に記号は言語によって基礎づけられているといった見方もある。どちらにしても言語と記号は互いを前提としあっているというのが通常の見方である。それに対してドゥルーズ=ガタリは異なった見方を提示する。それをごく簡単にいうと、言語と記号はそれぞれ独立したもので、かならずしも相互にかかわりをもつことはないというものだ。言語と記号を相互関係性において見るのではなく、それぞれ自立した相において見るわけである。

「千のプラトー」の第三のプラトーは「道徳の地質学」と題されている。このタイトルはニーチェの「道徳の系譜学」を意識したものだろう。ニーチェはその言葉によって、道徳の起源とその歴史的な生成変化を意味したものだったが、ドゥルーズ=ガタリも同じような意味作用をこのタイトルに込めたようである。地質はある特定の時代を象徴するものだ。というか、ある時代のトータルなありかたを地層という言葉で表現している。系譜という言葉には連続性を感じさせるものがあるが、地質という言葉には、連続性よりも重なり合いという意味合いを強く感じる。重なりあう者同士は融合することはないから、連続性よりも断絶性を強く感じさせる。ドゥルーズは生成変化を必然的なプロセスとは考えず、むしろ偶然のたまものと考える傾向が強いので、系譜学よりは地質学のほうが自分の考えに似合っていると思ったのであろう。

ドゥルーズ=ガタリの共著「千のプラトー」は、15のプラトーと称される章から構成される。そのうち第一のプラトーである「リゾーム」は著作全体の序文の役割を果たしており、第二のプラトー以下が本体部分をなす。その冒頭に位置するのが「オオカミはただ一匹か数匹か」という奇妙なタイトルを付せられた文章である。これはフロイトの精神分析を批判した文章である。タイトルにある狼とは、フロイトが1915年に発表した有名な症例分析のテーマとしたものである(この「狼は・・・」と題する小論には1914年という年号が付されている)。その症例分析のなかでフロイトは、狼をオイディプスと結びつけて論じていた。その分析手法をドゥルーズらは批判するのである。精神分析批判は、二人の最初の共著「アンチ・オイディプス」でも展開されていたから、狼についてのこの小論は、「アンチ」と「千の」を結びつける役割を果たしているともいえる。

ドゥルーズとガタリの共同執筆論文「リゾーム」は、1976年に独立した論文として発表され、日本でもすぐに翻訳が出たほど注目を浴びた。その後、一部手直しをして「千のプラトー」の序文として取り入れられた。まさしく「千のプラトー」の序文にふさわしい文章である。「千のプラトー」は、差異の思想にもとづいて世界の再解釈を実行するという使命を持たされているが、「リゾーム」というアイデアは、その世界再解釈のエンジンとなるべき要素を含んでいるのである。

ドゥルーズ=ガタリの共著「千のプラトー」は、二人の最初の共著「アンチ・オイディプス」の続編と受け取られている。「アンチ」の刊行が1972年、「千の」の刊行が1780年だから、八年の合間がある。その合間に「カフカ マイナー文学のために」を刊行している。「カフカ」はやや特殊な問題関心から生まれたもので、かれらの大筋の問題意識は「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」を貫く資本主義批判にあったと思う。実際この二つの著作には「資本主義と分裂症」という総題が付されているのである。そんなことから、この二つの著作は資本主義批判を目的とした姉妹作というふうに見られている。かれらが資本主義批判を行ったのは、資本主義こそが西欧文明の最後の姿であり、それを乗り越えることなしには、新しい時代は切り開けないと考えたからだろう。なにしろドゥルーズは、フーコーやデリダとともに西洋哲学を解体して新たな思想を確立しようと模索した哲学者だ。その哲学者が、ガタリという盟友を得て、資本主義批判を徹底させたことにはそれなりの理由がある。

ドゥルーズ=ガタリは、精神分析と分裂者分析とを資本主義分析の二つの対立しあう理論体系として捉える。分裂者分析という奇妙な言葉を発明したのはかれらだが、それはフロイトの精神分析に一定の敬意を払っているからだろう。精神分析は資本主義の従僕として、それに帰属し、資本主義の利益のために働く。それに対して、分裂者分析は、精神分析の虚偽性をあばき、精神分析が提示する欺瞞的な概念たるオイディプスに攻撃を加える。分裂者分析の役割は、なににもまして破壊にある、「破壊せよ。破壊せよ。分裂者分析の仕事は破壊を通じて行われる」(市倉訳)。分裂者分析は、「全力をあげて必要な破壊に専念しなければならないのだ。信仰や表象を、劇場の舞台を破壊せよ。そしてこの仕事に従事するためには、分裂者はいかに敵意ある活動をするとしても、決してしすぎるということにはならないであろう。オイディプスと去勢とを破壊せよ」。

精神分析と資本主義の結びつきは、ポリティカル経済学(政治経済学)と資本主義との結びつきと同じほどに深いとドゥルーズ=ガタリはいう。ポリティカル経済学の資本主義への貢献は、抽象的主観的労働を発見し、それを資本のために最大限活用させるための理論的根拠を提供したことである。精神分析の資本主義への貢献は、欲望する生産における抽象的主観的リビドーを発見し、それによって資本主義に堅固な基盤を与えたことである。資本主義は基本的には社会的生産であるが、しかしそれは生きた人間によって活気を付される。その活気は家庭を通じて個人に備給される。資本主義システムは、そうした家庭主義的な要素に支えられているのである。

ドゥルーズ=ガタリが資本主義について否定的なのは、二つの理由による。一つは、資本主義が西洋的な社会システムの行きついた先であるということである。ドゥルーズはもともと、ニーチェに触発される形で、西洋の伝統哲学の解体と、それにかわる新しい思想の構築を目指していた。そんなかれにとって、資本主義は、西洋の哲学的伝統が体現されたものだと映った。だから、西洋哲学の解体と資本主義の否定はパラレルな関係にある。西洋の伝統哲学を解体するためには、資本主義を否定する必要がある。資本主義を温存したままでは、西洋哲学の解体などなしえないのである。

ドゥルーズ=ガタリの社会理論は、国家を中核概念として成り立っている。かれらは自らの国家論を、マルクスを常に意識しながら展開しているが、マルクスの国家は上部構造として扱われたのに対して、かれらの国家はあらゆる社会を成り立たせるための基盤あるいは土台である。かれらの社会理論は、原子土地機械の分析からはじまるのであるが、その原子土地機械の上に国家が成立する、その国家は、マルクスの国家とは違って、上部構造ではなく下部構造をなす。なぜなら、国家とは、かれらによれば、欲望の主体であり、その対象であるからだ。欲望とは精神現象としての上部構造ではなく、社会をなりたたせるための下部構造なのである。

神経症と精神病は、資本主義の生んだ障碍だとドゥルーズ=ガタリは考える。神経症は個人の資本主義への過剰な適応の産物であり、精神病は個人が資本主義への適応から脱落し、あるいはそこから排除された状態をさす、とかれらは考える。いずれにせよ、神経症も精神病(分裂症)も、資本主義に固有な精神障碍である。それらは、資本主義以前の社会においては、基本的には存在しなかったし、また、資本主義が死滅した後では、存在する根拠がなくなる。

「アンチ・オイディプス」と題する著作の中で、ドゥルーズ=ガタリが意図したのは、資本主義の批判であった。資本主義を根本から批判することで、その限界を明らかにし、別のもっとましなシステムへの展望を示すことがかれらの目的だったといえる。なぜ、そんなことを意図したのか。資本主義こそが西洋的な社会システムの行きついた先であり、したがってそれを超えなければ、新しい社会の展望は得られない。西洋の伝統哲学の解体を目的としてきたドゥルーズにとっては、資本主義こそが西洋文化の土台であるかぎり、西洋の伝統哲学を踏まえた思想はその土台の上に咲いたあだ花とみなすべきである。そのあだ花を、ドゥとルーズはガタリとともに、フロイトの精神分析に認めた。フロイトの精神分析こそは、西洋の伝統哲学の最終的な形なのである。したがって、フロイトの精神分析の思想を解体すれば、西洋の伝統思想の解体という理想に限りなく近づくことができる、そのように考えるのは不自然ではない。

「アンチ・オイディプス」という書物の第一章のタイトルは「欲望する諸機械」であり、その第一節は「欲望する生産」と題されている。「欲望する諸機械」といい「欲望する生産」といい、実に奇妙な言葉である。どちらの言葉にも欲望という言葉が含まれているから、どうやら欲望がカギを握っているようである。実際、欲望という言葉は、この書物のいたるところで現れるから、この書物の提示する思想の中核をなすものだと見当がつく。それが諸機械と結びついたり、生産と結びついたりする。しかし、欲望が諸機械と結びついたり、生産と結びついたりするというのはどういうことか。欲望は極めて人間的な感情を表す言葉であり、機械とは直接結びつきそうにない。機械は人間がそれを用いて対象に働きかけるための道具のようなものではないのか。だから、欲望の主体は人間であり、その人間が機械を用いて対象に働きかけるということはできるが、機械そのものが欲望するとはいえないのではないか。「欲望する諸機械」とは、機械そのものが欲望するというイメージを喚起する言葉だ。「欲望する生産」という言葉についても、同じようなことが言える。欲望の主体としての人間が何者かを生産するということはできるが、生産そのものが欲望だとは言えないであろう。

「アンチ・オイディプス」は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが初めて共同で執筆した作品だ。二人が出会ったのは1968年のことで、それから四年後にこの著作を出している。その後、「カフカ=マイナー文学とはなにか」(1974)、「リゾーム」(1976)、「千のプラトー」(1980)、「哲学とは何か」(1891)を共同執筆し、密接な関係を保った。ガタリが死んだのは1992年であり、ドゥルーズはその四年後に死んでいる。

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