知の快楽

サルトルの著作「実存主義とは何か」(1945)は、一応サルトルの倫理思想をはじめて披露したものということになっている。同時に第二次大戦直後に俄かに流行現象となった実存主義について、その思想的な意義を弁明したものである。というのも、サルトルの認識によれば、サルトルらの実存主義は大きな誤解を受けている。左翼のマルクス主義者も、右翼のカトリック勢力も実存主義を激しく攻撃しているが、それは彼らが我々を誤解しているからなのだと言って、サルトルは実存主義の弁明にあいつとめているといった具合なのである。

穴に関するサルトルの議論は、フロイトの肛門性愛論に対抗したものだ。フロイトは、幼児の肛門愛こそが、人間にとって最初の性的リビドーの発露であり、それは、意識の発達していない幼児にとっては、無意識の衝動であるとした。それに対してサルトルは、二重の観点から反撃を加える。一つは幼時には性欲などありえないということ、もう一つは、無意識の衝動などナンセンスだということだ。衝動といえども、サルトルにとっては、意識の自由な選択なのである。

サルトルの遊戯論は、所有論の一バリエーションである。サルトルによれば、人間は、かれが所有するところのものと一致する。所有するものが大きければ大きいほど、かれの人間性は大きくなる。逆に、所有するものが少ないほど、かれの人間性は小さくなり、所有するものがない人間は、存在しないも同様の、要するになにものでもない存在という、形容矛盾的な状況を甘受せねばならない。ところで、遊戯の精神とは、心のゆとりから生れてくるものであり、その心のゆとりとは、人間性のゆとりから生れるものであることを考えると、人間は所有するものが多いほど、遊戯の精神に富むということになる。

サルトルの所有論は、単に経済的な概念ではなく、形而上学的な概念である。それはまた単独の概念ではなく、創作論、存在論とともに三位一体をなしている。所有は、創作によって根拠を与えられ、存在の根拠となっている。この三位一体の中核には、無論存在があるのだが、それは所有によって基礎づけられるかぎり、所有こそが真の中核である。それはキリスト教の三位一体の教義において、神なる父が名目上の中核ではあるが、その子であるキリストが実質的な中核であるのと同じである。

サルトルの「存在と無」は、徹底的に意識に定位した議論であるから、無意識は考慮に入れていない。というより、サルトルは無意識の存在自体を認めていなかった。サルトルが「存在と無」を書いた頃には、フロイトの無意識についての主張が広く知られており、また、哲学者のなかにもベルグソンのように無意識の重要性を指摘する者が出てきていた。これは西洋の精神的な学問の流れにおいては画期的なことであり、いまや無意識を無視して人間の精神的な営みについて論じることは時代遅れのそしりを免れなかった。にもかかわらずサルトルは、徹底的に無意識を無視し、人間の精神活動をあくまで意識の領域に限定した。サルトルは自分のそうした立場を次のように表明するのだ。「実存的精神分析は、無意識的なものというこの要請をしりぞける。心的事実は、実存的精神分析にとっては、意識と広がりを同じくするものである」(松浪信三郎訳)

共同存在についてのサルトルの議論は、「われわれ」についての議論である。サルトルは即自存在としての自己(わたし)から出発して、その即自存在の無化としての対自存在へと移行し、対自存在の他者にとってのあり方としての対他存在を経て、共同存在へと到達するのである。だからサルトルの「われわれ」は、対他存在が対自存在に根拠づけられているように、個人によって根拠づけられる。まず共同体があり、そこから個人が抽出されるというのではなく、あくまで個人が先にあって、その個人の集まりとしての「われわれ」が現れてくるのである。

「存在と無」におけるサルトルの対他存在論は、サルトルなりの他者論である。サルトルはそれを、ヘーゲルの他者論から導き出している。ほとんどヘーゲルの精神現象学における自己と他者の相克の議論の焼き直しといってよい。ヘーゲルはその相克関係を、主人と奴隷の関係で代表させたが、サルトルもまた同じような議論を展開している。

サルトルの存在論は意識に定位した議論であるが、その議論の中核をなすのは、意識の即自存在と対自存在という一対の概念である。この概念セットをサルトルがヘーゲルから受け継いだのは間違いない。しかし、その使い方はかなり異なっている。ヘーゲルは、即自と対自との対立を、認識の弁証的発展過程の段階と見たのに対して、サルトルはそれを存在の様相のようなものとしてみた。ここでサルトルが存在という言葉で扱う対象は、意識である。その意識に、即自存在と対自存在の対立があると考えるわけである。

サルトルの言う「無」とは、要するに意識のことである。何故意識が無と同義になるのか。その理屈はわかりにくい。サルトルは基本的には意識絶対主義者であり、意識こそが存在を基礎づけるという考えに立っている。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言って、とりあえず意識が自己の存在の根拠となるとしたうえで、意識の対象である物質的世界も意識によって基礎づけられるとした。デカルトは、精神と物質との二元論を主張したというのが、哲学史の常識であるが、その二つの実体としての精神と物質がいずれも意識によって根拠づけられている点では、意識一元論といってよい。それを唯心論と呼ぶかどうかは、趣味の問題に過ぎない。

サルトルの哲学上の主著「存在と無」は、現象学的存在論の試みである。もっともサルトル自身はこれを、「存在論的現象学」と言っている。どちらにしても、現象学と存在論とを結びつけようとするるものである。そこで、現象学とは何か、存在論とは何か、ということが問題になる。サルトルが言うところの存在論的現象学が、存在論という言葉を先に持ってきているように、サルトルは存在優位の立場をとっているかのようにも見える。しかし、存在論という言葉には的という修飾語がついていることからすれば、これはあくまで形容詞であり、言葉の本体は現象学にあるといえないこともない。

長谷川宏は、ヘーゲルの文章を分かりやすい日本語に翻訳したことで知られる。小生も、「精神現象学」を読み直すにあたっては、かれの翻訳の世話になった。その長谷川は、ヘーゲルだけではなく、サルトルにも強い関心を寄せていたようである。かれがサルトルの本格的な哲学論文を日本語に訳したとは聞かないが、サルトルへの自分自身の思いを吐露した本を書いた。「同時代人サルトル」(講談社学術文庫)である。

日本でサルトルが流行したのは1950年代から1960年代にかけての十数年間のことで、1970年頃には誰も気にかけなくなってしまった。そんなわけか、サルトルについての本格的な研究書は、日本では書かれなかった。竹内芳朗が1972年に「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)というのを出していて、これが日本ではほとんど唯一といってよいサルトル入門書であるが、これを読んでもサルトルの思想は伝わってこない。著者の竹内が、サルトルの名を借りて、サルトルとは関係のない、自分自身の思いを語っているからだ。

人間の理性の働きを導く原理として、カントは構成的原理と統制的原理という一対の概念セットを持ちだす。これはカント哲学を理解するためのカギとなるものである。構成的原理というのは、我々の日常的な認識を導くものであって、実在的な対象を概念的に把握することを可能にする。与えられた対象をある特定の概念に構成するというところから、構成的原理と呼ぶわけである。それに対して統制的原理とは、対象の実在性についての認識を支えるものではなく、人間の認識の働きに一定の目標を与えるものである。具体的にいうと、神とか霊魂の不死とか人類の進歩とかいった概念である。これらの概念は対象の実在性を主張できるわけではなく、人間が取り組むべき目標という性格をもっている。実在性は主張できないが、目標としては意味を持つ。それをカントは理念と呼びかえ、その理念が人間にとっての導きの糸になるべきだということから、それを統制的原理と呼んだわけである。

カントは、その「人間学」において、女性と僧侶とユダヤ人について面白い比較を行っている。まず彼らの共通点に注目しているが、それは酒に酔うことがないということである。それは彼らが「市民的に弱いので、控えめを必要とするからである」(坂田徳男訳)とカントは説明している。じっさいこれらの人々の価値は、その人がどんな人かによるのではなく、他の人にどのように見られるかにかかっている。だからもともと弱くできている彼らは、他の人々によって控えめだと見られることが必要なのである。

日本語には人間の愚かさを表す言葉として、馬鹿、阿呆、間抜け、頓馬等々といったものがある。これらは人々が慣習的あるいは実用的に使っているもので、相互の間に明瞭な区別があるわけでもなく、いわんや哲学的に厳密な定義がなされているわけでもない。ところがドイツ人のカントは、こうした言葉に哲学的な考察を加えてみせた。カントはその著作「人間学」の中で、「認識能力に関する心の弱さ」について論じているのであるが、心の弱さとはある種の精神薄弱を意味しており、そうした精神薄弱の種類としていくつかのものをあげ、その中から「馬鹿」と「阿呆」をその典型として論じているのである。

カントは、「人間学」の中で、「いかなる人も死ぬことを自己自身について経験することはできない」(坂田徳男訳)といって、死について、あの有名なエピクロスの議論と同じようなことを主張している。エピクロスは、人間は生きている間は死んではいないのであり、したがって生きながらにして死ぬことを経験できない、また、死んでしまったあとではもはや生きてはいないのだからいかなる経験もできない、したがってやはり死を経験できない、と言った。

カントは夢を構想力の一種の産物だと言っている。構想力というのは、対象が現前していなくとも直感する能力を含んでいるが、その構想力の産物に睡眠中無意識にもてあそばれるものが夢であるというのである。カントは構想力を、創作的(生産的)なものと回想的(再生的」なものとに分類している。夢はそのどちらともかかわりがある。創作的な夢もあれば、回想的な夢もある。創作的といっても、まったくの無から有を作り出すわけではない。記憶の中にあるものを自在に組み合わせて、一見新奇と思われるような表象を作り出すのである。だいたい人間の想像力自体がそうしたものだ。人間が自分の手持ちの材料を組み合わせることで、いままでには見られなかった新奇な対象を作り出す。それを創造と言っている場合がほとんどだ。

カントの哲学は、意識の直接与件としての直感から始まる。その直感は感性と呼ばれ、感覚と構想力からなるとされる。感覚は現前している対象の直感であり、構想力は対象が現前していなくとも作用する直感をいう。いずれも具体的には表象という形をとる。その表象が意識の内容を占めるわけであるから、意識は表象に異ならないともいえそうである。事実ジョン・ロックは、意識と表象とは全く同じものだと考えた。しかしカントは、意識と表象とは厳密に一致しないと考える。意識されない表象もあると考えるのである。

「人間学」は、カントが74歳の時に書いたもので、カントの著作としては、最晩年のものである。カントは死ぬ直前まで精神活動が盛んで、「人間学」のあとでも「自然地理学」や「教育学」などの著作をものしている。だが本格的な哲学的著作としては、この「人間学」が事実上最後の業績といってよい。この著作においてカントが目指したものは、人間を総合的にとらえるための手引きを与えることであった。この著作の「序文」でカントは、人間に関する知識すなわち人間学は自然的見地における人間学と実用的見地における人間学からなると言っているが、三大批判の書が自然的見地における人間の諸能力を考察したのに対して、この「人間学」は実用的見地における人間学を考察したものといえる。そのことで、三大批判の書とあいまって、人間を総合的・複合的にとらえることが出来ると考えたわけであろう。

「実践理性批判」の目的は、道徳法則を絶対的・先天的な原理によって基礎づけ、その上で霊魂の不死および神の存在といった宗教的な概念に根拠を与えることである。その根拠をカントは最高善に求める。最高善という概念が必然的に霊魂の不死および神の存在を要請するというのである。わかりやすく言うと、最高善という概念には、言葉の定義からして霊魂の不死及び神の存在が含まれているというわけである。

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