知の快楽

ニーチェのいう超人をドゥルーズは「価値の創造者」として捉える。その前に「価値転換」とか「価値変換」とか言っているが、それはある価値をほかの価値で置き換えるということではない。ドルーズが言うには、「これは諸価値を変えることではなく、諸価値の価値を生み出す境位を変えることである」(足立和弘訳)。ちょっとわかりにくい言いかたであるが、既存の価値とは全く違った新しい価値を生み出すようなそういう境位の転換ということを意味する。要するに、まったく新しい価値を生み出す、つまり価値を創造する、それが超人だと言うのである。

ニーチェはニヒリズムを神の死と関連づけながら論じる。ニヒリズムとは、神が死んだあとにおとずれる状態である、というのが、「ツァラツストラ」の中で展開された思想である。神とは奴隷の発明品だとニーチェは考えるから、その神が死んだということは、奴隷道徳が根拠を失ったということを意味する。奴隷道徳こそは、人間一般の生きる基準であったから、その基準がなくなるということは、基準を成り立たしめている一切の価値がなくなることを意味する。そうした価値の不在をニーチェはニヒリズムと呼んだ。すくなくとも、「ツァラツストラ」からはそのように伝わってくる。してみれば、ニヒリズムとは否定的でマイナスイメージの概念ではなく、肯定的でプラスイメージの概念だということになる。「ツァラツストラ」は非常に文学的に書かれているので、かならずしも明晰な概念ばかりではなく、ニヒリズムという概念にも曖昧な部分が多いのであるが、ニーチェがそれにある積極的な意味をもたせようとしていたことは読み取れるのではないか。ニーチェの超人は、神が死んだ後のニヒリズムを背景にして初めて現れるのである。

ニーチェの「永遠回帰」についてのドゥルーズの解釈はかなりユニークなものである。ニーチェがこの概念を前面に押し出したのは「ツァラストラ」においてだったが、その内実はかならずしも明らかではない。多様な解釈を許すようなものである。たとえば、もし世界が無限だとすれば、一度おきたことがもう一度繰り返されないという断定はできない、したがって世界は永遠に同じことの繰り返しである、というような解釈も成り立つような書き方である。それに対してドゥルーズは、彼独自の解釈を施す。ニーチェの永遠回帰は、同じものが繰り返されるのではなく、常に新たなものが生成するというのである。その新たなものの生成をドゥルーズは、「差異の反復」という言葉で表現する。この言葉自体はニーチェのものではないので、ドゥルーズは自分自身の作った概念によって、ニーチェの永遠回帰の概念を基礎づけようとした、と言える。

「力への意思」は、「永遠回帰」とならんで、ニーチェの思想の根幹をなす概念である。ドゥルーズもそのように捉えている。だが、そのわりに概念の内実が明確だとはいえない。「力への意思」は、力と意志とから合成された言葉だが、その意思の部分については、ニーチェはショーペンハワーの影響を引きずっているようである。ショーペンハワーの意志概念は、主著のタイトル「意志と表象としての世界」が暗示するように、表象とセットで打ち出されている。表象の根拠となるものが意思だという具合にである。そういう使い方だと、意思は非常に精神的な色彩を帯びることとなり、したがってその意思が表象としての世界の根拠だとする考えは限りなく独我論に傾く。しかし、ニーチェは狭い意味での独我論を軽蔑していた。そういう独我論をニーチェは、賎民の思想だと呼んだことだろう。賎民は、強者の存在を認めたくない。だから自己の内部に閉じこもりたがる。そういう姿勢は独我論と親和的である、というのがその理由だ。

怨恨とやましい良心についてのニーチェの議論は、かれが奴隷の道徳と呼ぶものの起源をめぐる議論である。奴隷は主人との関係で意味を持つので、主人の存在を前提とする。主人を否定することで、奴隷は積極的な意味を持つようになり、したがって単なる主人の付属物ではなく、自立した人間になれる。その場合、主人との関係における「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と卑劣」といった対立概念が大きな意味をもつ。奴隷は主人との関係において、能動に対する反動、肯定に対する否定、高貴に対する卑劣の側を代表する。いずれも積極的なものに対する受動的なものの反乱という形をとるが、それは具体的には怨恨をばねとし、また怨恨という形をとる。怨恨とは、能動に対する反動の反応であり、肯定に対する否定なのだ。怨恨はしたがって、強いものに向けられた精神の状態であるが、その怨恨が外にではなく、内側に、つまり自分自身に向けられるとやましい良心となる。怨恨はストレートな反応であるが、やましい良心のほうは宗教的で屈折した構えである。

ドゥルーズはニーチェの哲学を、「力への意思」をはじめとしたいくつかのキー概念を分析しながら解明していく。それらのキー概念の中には、「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と低劣」といった一連の概念セットがあるが、それらは外見から思われるほど単純な二項対立ではない。通常の二項対立を構成する二つの項目は、互いに対立しあうものの、価値的には同等のものであり、より高度な概念のもとでは、相互に置き換え可能なものである。ところがニーチェの一連の対立概念セットは、一方が他方より価値的に高度なものであって、それが反対概念との対立を超越して、それ自身が無条件の存在を主張するといったものだ。その無条件の存在をもとに、存在を無条件に肯定しようというのがニーチェの思想の根本的な特徴である。その存在の無条件の肯定という境位から、永遠回帰とか超人といった思想が生まれてくる。

ドゥルーズは、ベルグソン、ヒューム、ニーチェ、カントといった思想家たちと向き合うことから自分自身の思想を生み出していった。なかでも彼に決定的な影響を与えたのは、ベルグソンとニーチェである。ベルグソンについては、差異という概念を彼なりに基礎づけるにあたって大きな手がかりとした。ベルグソン自体には差異という概念を大げさにあつかう気はなかったはずなのだが、というより差異つまり分節以前の現象の全体を主題とした思想家であるはずなのだが、ドゥルーズはベルグソンを差異の思想家として解釈しなおし、それを材料にして自身の差異の哲学を構築しようとした。ニーチェについては、西洋思想の伝統の破壊者として位置づけることで、その破壊の意思を受け継ぐ形で、自分自身西洋思想の破壊者として振舞う決意をしたというふうに言えるのではないか。もう一人、ドゥルーズが大きな影響を受けた思想家としてスピノザがあげられる。そのスピノザをドゥルーズは、ニーチェを通して再解釈した。それを簡単にいえば、キリスト教の否定と唯物論的な快楽主義と道徳的な価値の転倒ということになる。いずれにしても、ニーチェに依拠しながら既成の哲学を批判し、西洋思想の伝統を根本的に解体しようとする意志を、ドゥルーズには感じることができる。そんなことから、ドゥルーズはニーチェの最良の弟子ということができる。かれの初期の著作「ニーチェと哲学」は、かれが解釈したニーチェ思想の真髄を披露したものである。

ジル・ドゥルーズは、差異についての考察から自分の哲学を始めた。かれの初期の代表作「差異と反復」はその最初の本格的な成果だ。かれが「差異と反復」を刊行したのは1968年のことで、前年のデリダの「エクリチュールと差異」と並んで、「差異の哲学」の宣言のように受け取られたものだ.。かれらが差異をことさらに強調したのは、西洋の伝統的な哲学思想への挑戦を、この言葉に託したからだ。西洋の伝統的な哲学思想の根本的な内容は、同一性によって規定されている。同一性というのは、プラトンのイデアがそうであるように、永遠にかわらぬ(不変の)ものを基礎づける概念である。その概念から形而上学が構成された。その形而上学に代表される西洋の伝統思想を解体するためには、同一性との対立関係にあると思念される「差異」の概念を、とりあえず押し出そうというのが、二人の考えだったといえる。デリダとドゥルーズによって代表されるフランスの現代思想は、差異の哲学といわれることがあるが、それは差異こそが伝統的な西洋思想を解体するうえで、最重要な役割を果たすと考えられるからである。
ハイデガー晩年の「精神」概念は極めて特異なものである。それは深く特定の民族性と結びついている。つまりドイツ的な民族性である。世界中の民族のうちでドイツ民族だけが、真の意味での精神を持っている。その他の民族は、偽の精神しか持ちえない。だから本物の哲学を語ろうと思ったら、ドイツ語で語らねばならない。なぜならドイツ語だけが真の精神を体現しているのであり、真の精神こそが哲学の源泉だからである。それゆえフランス人が哲学を語るときには、かれもドイツ語で語らざるをえないのである。

ジャック・デリダが「精神について」を書いたのは1990年のことだ。「脱構築」の哲学者としての名声を確立していた。かれの脱構築の思想は、ニーチェやハイデガーの強い影響を感じさせるのだが、初期の活動においては、ハイデガーを主題的に論じたことはなかった。この書「精神について」は、副題「ハイデガーと問い」にあるとおり、ハイデガーについて主題的に論じたものだ。デリダはそのハイデガー論を「精神」という概念を中心にすえて展開する。

ジャック・デリダが1972年に刊行した「ポジシオン」は、三篇の対談集を集めたものである。そのうち、表題と同じく「ポジシオン」と題したものは、デリダとマルクス主義者との対談である。対談の相手は、ウードビーヌとスカルベッタ。この二人について小生は名前を含めて何も知らない。この対談を読む限り、いわゆる主流のマルクス主義に属しているようだ。デリダがなぜかれらとの対談に応じたのか。デリダは若いころから実在論を観念論と一緒くたに批判してきた経緯があるので、その実在論の変種と言えるマルクス主義に一定の理解を示している姿はちょっと異様に見える。

デリダの著作「グラマトロジーについて」は、足立和弘の邦訳(現代思潮社刊)では「根源の彼方に」という副題がついている。というより「根源の彼方に」の方を先に表示しているので、こちらの方をメーンに受け取るものがいるのではないか。「グラマトロジーについて」の主要テーマが、根源としての(音声言語の)現前性とその代理としての文字言語との関係を論じることにあれば、「根源の彼方に」という副題は理にかなった命名といえよう。根源とその代理との関係では、対立しあう二つのうち、根源のほうが重視されるので、その根源に議論が収束していくのは自然なことである。普通なら、代理に対する根源の根源性を確認することで、根源をめぐる議論は終わるはずなのだが、それが終わらない。根源が文字通りの意味での根源ではなく、代補をそのなかに含んだ根源だというややこしい事態が明らかになるからだ。つまり、根源を求めての議論が、根源まで到らないわけである。そこで、どこに本当の根源があるのか、それともあると思ったのは幻覚で、実際にはそんなものはないのか。そういう疑問が生じてくる。その疑問が「根源の彼方に」むかって開かれるのである。

ルソーの「社会契約論」は、社会の始まりとその社会における権力の正統性をめぐる議論というふうに、受け取られるのがふつうである。ルソーは、社会は自然発生的に生じたもではなく、人々の間の契約によって生じたと考える。その場合に、社会を運営するためには社会の意思を決定し、それを執行する権力が必要となる。その権力は社会の成員によって支持されていなければならぬ。でなければ、人々は自発的に権力に従うことはせず、権力との間に緊張が高まるであろう。そういう社会は長続きしないだろう。そこで、権力が人々によって受容される根拠として権力の正統性ということが問題になる。ルソーの「社会契約論」は、その権力の正統性について、議論したものという風に理解することができる。

デリダの書物「グラマトロジーについて」の第二部は、ルソーの言語論をテーマにしている。この第二部は、書物全体の三分の二以上を占めているので、それからしてもデリダが、ルソーの言語論を重視していたことは伝わってくる。ルソーには、言語を主題とした著作が複数あり、そうした著作の中では、人間の文明の起源について深い考察を加えているので、とかく「社会契約論」ばかりに注目するあまり、ルソーのもつ壮大な文明論のスケールが無視されていることを考えれば、デリダのルソー論は、ルソーを単なる政治思想家としてではなく、文明論者としても捉えなおすものだといえよう。

西洋形而上学における存在の目的論的階層秩序の問題をデリダは、自民族中心主義あるいは西洋中心主義と結びつけて考える。もっとも単純な話としては、文字を持つ西洋文化は文字を持たない「未開文化」よりも進んでいるといった具合に、文化の相違を発展段階の相違と同一視することがあげられる。この発展段階思想は、目的論的な色彩を強く帯びているので、発展段階の進捗具合がそのまま階層秩序を構成する。西洋は発展のもっとも高度な段階に達したものであり、その場合の発展とは、ある種の目的としての機能を持つがゆえに、発展段階による差異の体系は、存在の目的論的階層秩序を構成する、というふうに考えるわけである。

ロゴス中心主義とは聞きなれない言葉だ。人間の知的活動はロゴスを基礎としており、ロゴスという概念は、人間という概念と同じように明白なものであるから、あえてそれについて云々する必要もなかった。中心もなにもなく、ロゴスとは人間性と同義といってよかった。中心というと、いくつかの事象があって、その中のもっとも肝心なものというイメージになるが、ロゴスは人間性そのものなのであって、そもそも中心とか周縁とかいうものとは無縁なのである。そのロゴス中心主義という言葉をデリダは、西洋形而上学批判の土台の一つとして設定する。ロゴス中心主義とならぶ形而上学批判の土台にはほかに、音声中心主義があげられるが、デリダはその音声中心主義とロゴス中心主義とは深く結びついているという。「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学である」(足立和弘訳)というのだ。表音的文字言語とは表音文字のことだが、それは音声を文字化したものである限り、音声中心主義と結びついているのである。

デリダは西洋形而上学への批判を徹底させる道具概念として現前性を提示し、それをプラトン以来の強固な歴史を背負った中核的な概念だとする根拠として、現前性をパロールと関連させ、そのパロールを音声と関連付けた。パロールは、エクリチュールとの対立関係においては、根源的なものだとされる。だから、西洋形而上学はパロール中心主義と言えるのだが、それは言い換えれば音声中心主義ということになる。なぜなら、音声こそがパロールの担い手だからである。

デリダの形而上学批判におけるキー概念となるのは「現前性」である。この現前性という概念をデリダは、かれの哲学的営みの出発点となったフッサール研究から思いついた。フッサールの現象学は、意識の与件としての現象に定位したもので、現象こそがあらゆる人間的経験の根源をなすと考えた。その経験の根源としての現象そのものをフッサールは現前性という概念で説明した。現前性というのは、すべての対象が意識にとっての現前性という形で与えられていることを意味する。対象的なものとして捉えられた自己自身もまたその一つである。自己とは、自己の意識に現前する自己のことをさすのである。

デリダは1967年に一挙に三冊の書物を刊行した。「エクリチュールと差異」、「声と現象」、「グラマトロジーについて」である。いずれも言語の問題を主なテーマにしている。「エクリチュールと差異」は、まさしく言語の問題をストレートに思わせる言葉を題名にしているし、そのほかの二冊も言語に関連する言葉を題名に使っている。「声と現象」はコミュニケーション言葉の担い手である声をテーマにしたものだし、「グラマトロジーについて」も言語に関連した言葉が題名に使われている。グラマトロジーとは、デリダによればエクリチュールについての学問という意味であり、そのエクリチュールは、話し言葉との対立における書き言葉をとりあえず意味している。

「声と現象」は、デリダの哲学的出発を画す業績であるから、かれの思想の骨格となる概念がひとそろい提示されている。かれの思想が哲学史にとって持つ意味は、西洋の形而上学の伝統を解体し、新たな思想的な可能性を探ることであったわけだが、その仕事にとって重要な役割を果たす概念が、ここで一応出そろった形で提示されているわけである。そうした重要な概念はいくつかあるが、ここでは「差延」について考察したい。

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