知の快楽

哲学の書物には、うんうん唸りながら読むタイプのものと、うきうき楽しみながら読むタイプのものがある。ヘーゲルの書物がうんうん唸りながら読むタイプの最たるものだとすれば、ベルグソンの書物はうきうき楽しみながら読むタイプを代表するものだろう。ベルグソン以外にも楽しく読める書物はある。近代以降に限っても、スピノザやライプニッツは楽しく読める、だがベルグソンの書物はレベルを超えた楽しさを与えてくれる。その最大の理由は、かれの文章の流麗さと感性的な色合いだろう、それを小生は文章のつやとか色気とか言いたいが、その色気に満ちた文章をベルグソンは書く。その色気ある文章を以て、どんな人間にとっても深い関心を持っているようなことについて語ってくれる。うきうきと楽しまないではいられないではないか。

「思想と動くもの」への緒論第二部の主要なテーマは、哲学と科学の関係についてである。このことにベルグソンがこだわるのは、かれの説が反科学主義だとの批判が強く出されたからであった。そういう批判が出るのは、科学と哲学との関係が正しく理解されておらず、哲学は科学を厳密化したものだとか、科学を基礎づけるものだとかいう考えが広まっているからだ。ベルグソンはそうした誤解を解消して、哲学と科学とのあるべき関係を模索するのである。

ベルグソンは「思想と動くもの」を刊行するについて、未発表の二編の小文を緒論として置いた。河野与一訳の岩波文庫版では、三分冊の最後に置かれているが、原著では冒頭に置かれている。また、河野訳では、便宜上「哲学の方法」という総題が付されているが、これは緒論の扱っているテーマを要領よく表現したものといえる。この緒論は、哲学の基礎となるものをまとめたもので、ベルグソンなりの方法序説と言うべきものであるからだ。

ベルグソンの小論「可能性と事象性」は、アリストテレスが提起し、西洋哲学の存在論を彩ってきた問題「可能態と現実態」の対立について、ベルグソンなりの回答を与えたものである。原題はLe possible et le réelとなっており、le réelを訳者の河野与一が事象性と訳したものだが、この言葉には現実性とか実在性といった意味も含まれる。ベルグソンはこの小論を1930年にスウェーデン語で発表した。1927年に受賞したノーベル文学賞への、遅ればせながらの受賞講演の代わりのつもりだったようだ。

ベルグソンとウィリアム・ジェームズは強い友情で結ばれていた。ジェームズのほうが17歳も年長だが、年齢の差を越えて互いに尊敬しあった。それは二人の思想に親縁性があったからだ。ジェームズは意識に直接与えられた感性的なものを自分の思想の土台として、ある種の唯心論を展開したわけだが、ベルグソンにも唯心論的な傾向が強い。ベルグソンの哲学的業績が「意識の直接的与件について」の考察から始まったように、かれの思想も意識に直接与えられた感性的なものを土台としている。そういう共通性が二人を強く結びつけたのだと思われる。もっともこういう意識内容を重視する思想(現象一元論と呼ばれる)は、当時流行していた新カント派にも共通するところで、その影響を受けた日本の西田幾多郎にも見られるところである。

ベルグソンの著作「思想と動くもの」に収められた「哲学的直観」という小文は、哲学と科学を比較しながら、哲学固有の意味について考えたものである。科学はある時代における知を代表しているものであるから、その時代の哲学は科学に対して意識的にならざるを得ない。じっさいどの時代の哲学思想も、同時代の科学の成果を自分に取り込んでいる。そのうえで、哲学はすべての科学を基礎付けるものだと言ってみたり、科学の成果を一段と高い視点から総合したものだと言って自慢したがるものである。しかしそれは思い上がった考えだとベルグソンは言う。哲学と科学とは本来異なったものだから、それぞれが自分の領分を持っているのであり、一方で他方を代用するわけにはいかず、また一方が他方より優れているともいえない、と言うのである。

ベルグソンの意図したことをごく簡略化して言うと、人間の知識についての西洋哲学の伝統的な考えを根本的に批判し、新しい知のあり方を提示することにあった。西洋哲学の伝統的な考えは、これもまたごく簡略化して言うと、プラトンのイデアに代表されるような、概念的かつ理念的なものを基準にして、その抽象的な原理にもとづいて具体的な事象を説明するということになる。事象は我々にとって知覚を通じて与えられるから、その知覚をそのままに受容するのではなく、概念のフィルターを通して知覚を理解するという形になる。これはいわば逆立ちした考えだとベルグソンは批判して、知覚の根源性と概念の派生性を主張するのである。

半世紀ぶりにベルグソンを読み返している。テクストは、学生時代に大学生協で買った岩波文庫。インクが退色して読みづらくなっているが、まだ読めないわけではない。このテクストにこだわるのは、かつての読書の跡が記録されているためで、横線や書き込みを手がかりに、読んだ本の内容を再現しやすいからである。はじめて読むよりは、理解が進みやすい。

マルクスの「ブリュメール18日」への注釈「象徴と反復」の中で、柄谷行人はボナパルティズムについて考察している。かれはファシズムもボナパルティズムの一形態であると考えている。そのファシズムには日本の(全体主義の)例も含まれるとする。かえって日本の例も含んだファシズムを整合的に説明できる原理がボナパルティズムだと言うのである。

熊野純彦は広松渉に学恩があるそうだ。その広松を通じてマルクスに接してきたらしい。哲学的なマルクス論というと、マルクスの初期の文章を手掛かりにして疎外論を展開するものと、資本論によって物象化論を展開するものとに大別される。広松は後者のタイプの研究者だったが、熊野はその広松の学風を受けて、資本論を中心にマルクス論を展開しているわけであろう。

マルクスの思想の哲学的な側面は、疎外論と物象化論に代表される。疎外論は、「ヘーゲル法哲学批判」から「経済学・哲学草稿」にかけての若い頃の思想を特徴付けるもので、人間のあるべき姿を想定した上で、それからの堕落形態を疎外と見るものだった。物象化論は、資本論で確立された思想で、人間同士の社会的な関係が、物と物との関係に見えるという資本主義社会に特徴的な現象を解明したものだった。この二つの思想の間には断絶があると見るのが主流になっているようだが、小生は連続していると見たい。物象化論は疎外論の一つの変奏だと見たいのである。物象化論もまた、人間関係の本来的なあり方を想定し、それからの堕落として物象化を論じているからである。

資本主義が終わった後の時代の政治体制はどのようになるか。マルクスはこれを二段階に分けて考えていた。究極的なあり方としての共産主義社会の政治体制と、資本主義社会から共産主義社会への移行期における政治体制である。共産主義社会における政治体制は、階級が消滅した社会を前提としているので、階級支配の道具としての国家は消滅するというのがマルクスの基本的な考えである。国家が消滅するわけは、共産主義社会においては、経済的・社会的資源が無限大になるので、人々が相互に争う理由がなくなり、したがって利害調整の必要もなくなるから、利害調整のための機関である国家も不要になるからである。ではどのような政治体制が形成されるのか。これについてマルクスは確定的なことは言っていない。おそらく、人々に争う理由がなくなれば、政治そのものが存在意義を持たなくなるから、国家を含めあらゆるタイプの政治的な装置は意義を持たなくなると考えていたのであろう。

20世紀に成立した社会主義諸国は、いずれもマルクス主義を標榜し、マルクスの経済思想を具体化したと主張した。マルクスは、資本主義後の経済システムのあり方を詳細に示したわけではないが、私有財産の廃止と財産の共同的な所有及び協同組合的な経済運営などをほのめかしていた。ソ連型といわれる社会主義経済システムは、マルクスのほのめかした考えを、私有財産の廃止と財産の国有化および国家による計画経済という形で具体化した。しかしそうした経済システムは、一時はうまく機能するように見えたが、結局は破綻して、市場経済システムに復帰する動きを強めた、というのが大方の了解になっている。つまり、国有企業を中心にした計画経済はうまく機能しないという了解が、資本主義諸国を中心にして強化されているわけである。

議会と革命

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ブルジョワ革命としてのフランス革命は、議会を舞台として起こった。革命以前のフランスは、基本的には絶対王政の体制であり、王の臣下たちが専制的な統治を行っており、議会などは存在しなかった。だから、ブルジョワは自分たちの政治的な代理人を持たなかったのである。そのかれらが曲がりなりにも議会を召集させ、そこに自分たちの政治的な代理人を持つことができたことで、自分たちの政治的な要求を実現させる機会を獲得したわけである。その機会は最大限活用され、ブルジョワたちは自分たちに都合のよい統治システムの構築に成功した。それは前の時代からは断絶していたので、革命という名前が相応しかった。

カール・マルクスが人類史上に持つ意義は、資本主義の歴史的な制約を指摘し、それには始まりがあるとともに終りがあると主張したことだ。どのような事情が資本主義を終わらせるか。それについてマルクスはかなり詳細に語っている。しかし、その終わり方がどのようなプロセスを経て実現するのかについては、かならずしも明確なメッセージを発したわけではない。とりあえず考えられることとして、資本主義システムの矛盾が労働者階級にとって耐えられない桎梏になったときに、人間らしく生きたいと願う労働者階級が、その桎梏を取り払い、自分たちの生きやすいシステムの構築に向けて立ち上がるだろうと予測した。その場合に、桎梏を取り除くための労働者の行動は革命という形をとるだろうと考えていた。その場合に、マルクスの念頭にあったのは、1871年のパリ・コミューンであった。パリ・コミューンの経験を踏まえれば、成功裏に革命を成就することができるのではないか。そんなふうに考えていただろうと思われる。

ゴータ綱領とは、1875年にドイツ社会民主労働党(アイゼナッハ派)と全ドイツ労働者協会(ラサール派)とが合同して成立したドイツ社会主義労働党の綱領である。合同大会がドイツ中部の都市ゴータで開催されたことからゴータ綱領と呼ばれる。これは両派の妥協の産物だが、マルクスやエンゲルスの目には、自分たちが肩入れしてきたアイゼナッハ派がラサール派に必要以上の妥協をした結果、ほとんどラサール派の主張が支配していると映った。エンゲルスに言わせれば、妥協とは共通点にもとづいてなされるもので、対立点については棚上げするのが当たり前だ。ところがこの綱領はラサール派の主張を一方的な形で採用している。それはアイゼナッハ派がラサール派に屈したということであり、ドイツの労働者政党としてはきわめて反動的なものである。そういう立場からこの綱領を痛烈に批判したのが、マルクスの「ゴータ綱領批判」である。

フランスが生んだ天才少年詩人アルチュール・ランボーは、普仏戦争の勃発からパリ・コミューンの成立と崩壊という歴史的な事件に遭遇し、自分自身パリ・コミューンに深くかかわった。その体験の中から、輝きを放つ一連の作品を書いた。そのランボーは、マルクスとは全く接点を持たないと言ってよかったが、パリ・コミューンを介して何らかの因縁のようなものを感じさせるので、ここに取り上げて見る次第である。

パリ・コミューンの20周年を記念して発行された1891年版の「フランスの内乱」に、エンゲルスが緒言を寄せている。これは、マルクスによるパリ・コミューン論の核心的な部分を再確認するものだが、エンゲルスが最も強調しているのは、パリ・コミューンが崩壊した理由と、それに関連して、プロレタリアートの国家に対するかかわり方についてである。

「フランスの内乱」は、パリ・コミューンの歴史的な意義を主張した政治的パンフレットである。マルクスはこれを、パリ・コミューンが崩壊した直後(おそらく数日以内)に書き上げたといわれる。マルクス自身による奥書には「1871年5月13日 ロンドン」とあるが(新潮社版マルクス・エンゲルス選集第10による)、これは何かの勘違いだろう。というのは、パリ・コミューンが最終的に崩壊したのは1871年5月28日のことで、マルクスの文章はその日までカバーしているからだ。

資本主義的生産様式を基盤とする社会システム=資本主義システムが終わりを告げたあとにはどのような社会システムが現われるのか、資本論では具体的なイメージには触れていない。抽象的なスローガンが置かれているだけである。それは一つには原始共産制の発展形態としての新しい共産主義社会の到来であると言われたり、必然性の国から自由の国への進化と言われたりする。しかしそれらはあくまでもスローガンにとどまっており、読者はそこから具体的で明確なイメージを得ることはできない。

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