知の快楽

デリダが「声と現象」を刊行したのは1967年のことで、「エクリチュールと差異」及び「グラマトロジーについて」と同年のことである。この三つの本に共通するテーマは記号の問題である。「エクリチュール」は「書字」としての記号であり、「グラマトロジー」は「所記」としての記号であり、「声」は音声としての記号である。デリダが記号に強い関心を持ったのは、記号を通じて、フッサールの現象学とソシュールの構造主義言語学との間に橋渡しをしたいと考えたからだ。デリダはフッサールの研究から出発したのだったが、それを単に現象学の視点だけから論じていては、サルトルやメルロ=ポンティを超えることはできない。かれらを超えるためには、かれらに対しての批判の武器となっていた構造主義的な概念を使う必要がある。そこでデリダは、フッサールの現象学を、記号論的なタームを用いながら再構築しようとしたのである。

「エクリチュールと差異」の第十論文「人文科学の言語表現における構造と記号とゲーム」は、主として構造の問題について論じている。デリダがいうところの構造とは、それ自身の内部にその成立の根拠を有するようなシステムのことをいう。しかもシステム全体を統べるような中心がない。ましてや、外部からそれを統制するような超越的な原理もない。構造とはだから、かなり偶然に作用される。そこには必然性の契機はほとんどなく、したがって歴史的な概念である発展という意味合いもない。すべての構造は、相互に独立を主張し、しかも優劣の関係にはない。こうした非歴史的で相対的な見方を押し出して、西洋哲学の形而上学的伝統に挑戦したのがレヴィ=ストロースだったとデリダは考えているようである。だから、構造を論じたこの論文は、デリダのレヴィ=ストロース批判という体裁をとっている。

「エクリチュールと差異」の第七論文「フロイトとエクリチュールの舞台」は、デリダ自身のエクリチュール論の文脈において、フロイトを論じたものである。デリダのエクリチュール論は、ソシュールの構造言語学を踏まえている。だが大きな改変を加えてある。ソシュールはエクリチュールをパロールとの対立関係で論じ、パロール(発話)を根源的な言語活動とし、エクリチュール(書記)を従属的なものとした。エクリチュールはパロールの内容を文字の形で定着したものであって、それ自体独立したものではない、というのがソシュールの考えだった。それに対してデリダは、エクリチュールのパロールからの独立性を強調する。エクリチュールは単にパロールをそのまま書記するのではなく、それ自体の構造をもっており、その構造がかえってパロールを制約することもある、と考えたのであった。

「エクリチュールと差異」の第六論文「息を吹きいれられた言葉」は、アントナン・アルトーを論じたもの。アルトーは詩人でありかつ狂人であった。詩人としてのアルトーは、批評家による批評の対象になってきた。また、狂人としてのアルトーは、精神医学者にによって精神病の一範例として扱われてきた。相互にはほとんど何の関わり合いもない。批評家たちはアルトーの作品を問題にし、かれの狂気を取り上げることはない。一方、精神医学者のほうは、かれの狂気の症状に注目し、かれの作品に関心を払うことはない。それでよいのか、アルトーをそんなふうに分解して別々に扱ってもよいのか。アルトーを一人の人間として、トータルな視点から見ることはできないのか。それがこの論文の問題意識である。

「エクリチュールと差異」は、デリダの最初の論文集である。これを出版したのは1967年のことであるが、同年に「声と現象」及び「グラマトロジーについて」も出している。この年はだから、デリダにとっては、哲学者としてのキャリアをフル回転で始めた年ということになる。そのうち、この「エクリチュールと差異」が、もっとも早い時期の論文を集めていることもあって、デリダの思想の萌芽のようなものをうかがわせる。この論文集の中で試論的に取り上げたテーマが、後に豊かな果実を生むというわけである。

ジャック・デリダ(Jacques Derrida 1939-2004)といえば、「脱構築」という言葉が真っ先に浮かんでくる。この言葉の意味は、とりあえずは、デリダ自身が属する西洋的なものの考え方を根本的に解体しようとする意思を示すものだ。「脱構築」は、フランス語では deconstruction といい、解体というような意味を持っているから、デリダの意図をあらわすにはふさわしい言葉だったわけだ。そういう意味で「解体」という言葉を使った哲学者にハイデガーがいる。デリダがハイデガーから強い影響を受けたことは明白な事実なので、かれの「脱構築」がハイデガーの「解体」の延長にあることは間違いない。そのハイデガーは、西洋思想の解体という思想を、ニーチェから受け継いだ。ニーチェが主張していたことは、プラトン的・キリスト教的な賤民の道徳を解体し、それにかわってエリートにふさわしい力の崇拝をめざすものであった。それをニーチェは、「金髪の野獣」に相応しいあらたな力の発現というふうに表現したが、その内実は必ずしも明らかとはいえなかった。

ヴァンサン・デコンブが「知の最前線(原題は Le même et l'autre. - Quarante-cinq ans de philosophie française」を刊行したのは1979年のことだが、フランス現代思想を概括したこの著作は、いまでも色あせていない。これ一冊で、フランス現代思想の流れを理解できるようになっている。まるでこの本が、フランス現代思想の全体像をもれなく伝えているかのようである。ということは、フランスの現代思想の発展が、その時点で事実上とまってしまったということか。この著作は、哲学の終焉よりもっとラディカルな主張である「人間の終焉」を語ることで終わっている。人間が終焉したというのだから、哲学の発展が終わっても何ら不思議ではないわけだ。

「眼と精神」所収の同名の論文は、メルロ=ポンティの存命中に刊行された最後のものである。これを彼が脱稿したのは1960年8月、その翌年5月に死んだわけだから、いわば遺書のようなものである。これを書いた時期の前後に、かれは、死後「見えるものと見えないもの」と題して刊行された大著を執筆中であった。この大著は結局未完成に終わったが、残された遺稿からは、自然と人間のかかわりあいをテーマにしたものであること、タイトルにあるとおり、見えるものと見えないものとの相互関係を掘り下げて論じたものだということが分かっている。「眼と精神」と題するこの論文も、見えるものと見えないものとの深い関連について論じているから、かれの最晩年の問題意識が集中的に考えられたものだということができよう。

「シーニュ」所収の「生成するベルグソン像」は、1959年の「フランス哲学会」におけるベルグソン追悼会での講演記録である。この講演の中でメルロ=ポンティは、ベルグソンの画期的な業績をほめたたえているのだが、かれはもともとベルグソンをそんなに高く評価していたわけではない。むしろ批判的であった。

メルロ=ポンティは若いころより現象学を標榜していたから、フッサールについては折につけて言及していた。「シーニュ」所収の「哲学者とその影」は、かれのフッサール論の集大成というべきものである。かれがこれを書いたのは死の前々年のことだから、ますますそう言える。とはいえ、これはフッサールという思想家をトータルに捉えようというものではない。「イデーン」第二部を中心にして、フッサール晩年の思想を、自分自身の思想にからませながら論じたものである。メルロ=ポンティは、彼自身の現象学を、フッサール晩年の思想によって改めて根拠づけたいと考えたといえよう。

「シーニュ」所収の文章「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」は、メルロ=ポンティによるレヴィ=ストロース論である。これをメルロ=ポンティは、モースの「贈与論」の英訳を記念して書いたのであったが、その趣旨は、構造主義的な社会学への共鳴を示すというものだった。メルロ=ポンティは、実存主義者を自認したことはあったが、自ら構造主義者と名乗ったことはなかった。だが、彼の思想には、レヴィ=ストロースに通じるような構造主義を思わせることろがあった。それは「知覚の現象学」の中で、ソシュールの言語論にたびたび触れていることにあらわれている。レヴィ=ストロース自身は、民俗学のフィールド・ワークから入ったのであって、かならずしもソシュールの徒ではないが、ソシュールの構造主義的言語学と共通するような考えをもっていたとはいえる。

メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の文章「どこにもありどこにもない」は、1956年に刊行された「著名な哲学者たち」という、ある種の哲学史に対する序文として書かれたものである。この哲学史を、小生は読んだことがないが、どうも東洋思想やキリスト教思想を含めた東西の著名な「哲学者」たちについて、その文章の一部を紹介するアンソロジー的な構成をとっているようである。要するに人類の知的遺産についての一覧を供するという建前をとっているらしい。そういうタイプのアンソロジーは、一時日本でも流行ったものだ。

メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の論文「間接的言語と沈黙の声」は、サルトルに捧げられている。この論文が書かれたのは1952年のことで、その年二人は決定的に別離した。そういう背景を念頭に読むと、この論文がサルトルへの批判を含んでいると思わせられる。もっともサルトルを直接取り上げたものではなく、サルトルの名はことのついでのように出てくるだけなのであるが、この論文の主要なモチーフの一つが歴史ということであれば、その歴史の解釈をめぐって、両者の間に溝があることは納得される。

「シーニュ」はメルロ=ポンティにとって、「意味と無意味」に続く二冊目の論文集である。これを刊行したのは1960年のことであり、「意味と無意味」の刊行から12年が過ぎていた。しかも彼は、この本の刊行の翌年、1961年に死んでいる。だからこの論文集は、「意味と無意味」以降の彼の文業の集大成的な意味をもっているわけだ。その間に彼は、サルトルと決別し、またマルクス主義とも一線を置くようになり、次第に彼の性にあった活動をするようになる。もっともその活動は、突然の死によって中断されるのであるが。

メルロ=ポンティがマルクス主義について積極的に発言したのは、大戦後の一時期、すなわち対ナチ戦争に勝利してからほぼ五年の間である。この時期は、マルクス主義の権威が非常に高まっていた。フランスにおいては、共産党がレジスタンスの有力な一翼を担ったこともあって、共産党への信頼が他の国より強かった。そういう事情を背景に、フランスの知識人は、マルクス主義に対して一定の態度表明をするのが知識人としての義務だと感じたようだ。メルロ=ポンティは、この時期サルトルと親密な関係にあったので、サルトルと共同戦線をはる形で、マルクス主義を擁護するような活動をした。

メルロ=ポンティは、身体と精神とは別のものではなく、人間という全体性の二つの現れであるといい、したがって外面としての身体、内面としての精神という具合に、対立関係において考えるのは間違っている、内面と外面は一致している、と主張する。そうしたメルロ=ポンティにとって、映画は、内面と外面とが一致するという真理を如実に表した芸術ということになる。我々は、映画の中の人物の動作(外面)から、かれの心の状態(内面)を推測するのではなく、つまり間接的な推理をするのではなく、かれの動作のなかに、外面と内面の一致を見るのであり、かれの動作の意味を直接的に認知するのである。

第二次大戦終了後しばらくの間、メルロ=ポンティとサルトルは蜜月関係にあった。そんな関係をもとに、メルロ=ポンティはサルトル論を書いた。「ひんしゅくを買う作家」(「意味と無意味」所収)と題された小文である。その小文の中でメルロ=ポンティは、作家としてのサルトルについて、かれが「ひんしゅくを買う作家」として攻撃の対象になっている事態に対して、かれなりにサルトルを擁護するのである。

メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中でたびたびセザンヌに言及した。それは、知覚とはゲシュタルト的なものであり、したがってすでにそれ自体意味を帯びたものだという彼の考えが、セザンヌにおいて好例を見出すというふうに思ったからだと思う。そのセザンヌについてメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」(「意味と無意味」所収)という論文を書き、主題的に論じている。

メルロ=ポンティの著書「意味と無意味」は、1945年から1947年初めにかけて書かれた小論を集めたものである。この時期メルロ=ポンティはサルトルとともに雑誌「現代(Les Temps modernes)」を主催しており、そこに掲載した文章を中心にして編集したものである。多くは時事評論的なものである。第二次大戦後まもない時代の空気を反映して、政治的な問題意識を感じさせる文章が多い。そうした政治的な文章は、先行する論文集「ヒューマニズムとテロル」にも収められている。

メルロ=ポンティにとって、自由は選択の問題である。その点では、伝統的な議論とつながるものがある。伝統的な議論は、自由を必然性との対立においてとらえ、必然性に束縛されることのない選択こそが自由の意味なのだとした。だが、そんな選択はありえないとメルロ=ポンティは言う。自分はたしかにある事柄について選択しないことはできるが、その点では選択を強制されるものではないが、しかしその場合でも、まったく何も選択しないわけではなく、別のものを選択しているに過ぎない。それがたとえ、ある事柄を選択しないという選択であるとしても。

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