知の快楽

サルトルの言う「無」とは、要するに意識のことである。何故意識が無と同義になるのか。その理屈はわかりにくい。サルトルは基本的には意識絶対主義者であり、意識こそが存在を基礎づけるという考えに立っている。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言って、とりあえず意識が自己の存在の根拠となるとしたうえで、意識の対象である物質的世界も意識によって基礎づけられるとした。デカルトは、精神と物質との二元論を主張したというのが、哲学史の常識であるが、その二つの実体としての精神と物質がいずれも意識によって根拠づけられている点では、意識一元論といってよい。それを唯心論と呼ぶかどうかは、趣味の問題に過ぎない。

サルトルの哲学上の主著「存在と無」は、現象学的存在論の試みである。もっともサルトル自身はこれを、「存在論的現象学」と言っている。どちらにしても、現象学と存在論とを結びつけようとするるものである。そこで、現象学とは何か、存在論とは何か、ということが問題になる。サルトルが言うところの存在論的現象学が、存在論という言葉を先に持ってきているように、サルトルは存在優位の立場をとっているかのようにも見える。しかし、存在論という言葉には的という修飾語がついていることからすれば、これはあくまで形容詞であり、言葉の本体は現象学にあるといえないこともない。

長谷川宏は、ヘーゲルの文章を分かりやすい日本語に翻訳したことで知られる。小生も、「精神現象学」を読み直すにあたっては、かれの翻訳の世話になった。その長谷川は、ヘーゲルだけではなく、サルトルにも強い関心を寄せていたようである。かれがサルトルの本格的な哲学論文を日本語に訳したとは聞かないが、サルトルへの自分自身の思いを吐露した本を書いた。「同時代人サルトル」(講談社学術文庫)である。

日本でサルトルが流行したのは1950年代から1960年代にかけての十数年間のことで、1970年頃には誰も気にかけなくなってしまった。そんなわけか、サルトルについての本格的な研究書は、日本では書かれなかった。竹内芳朗が1972年に「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)というのを出していて、これが日本ではほとんど唯一といってよいサルトル入門書であるが、これを読んでもサルトルの思想は伝わってこない。著者の竹内が、サルトルの名を借りて、サルトルとは関係のない、自分自身の思いを語っているからだ。

人間の理性の働きを導く原理として、カントは構成的原理と統制的原理という一対の概念セットを持ちだす。これはカント哲学を理解するためのカギとなるものである。構成的原理というのは、我々の日常的な認識を導くものであって、実在的な対象を概念的に把握することを可能にする。与えられた対象をある特定の概念に構成するというところから、構成的原理と呼ぶわけである。それに対して統制的原理とは、対象の実在性についての認識を支えるものではなく、人間の認識の働きに一定の目標を与えるものである。具体的にいうと、神とか霊魂の不死とか人類の進歩とかいった概念である。これらの概念は対象の実在性を主張できるわけではなく、人間が取り組むべき目標という性格をもっている。実在性は主張できないが、目標としては意味を持つ。それをカントは理念と呼びかえ、その理念が人間にとっての導きの糸になるべきだということから、それを統制的原理と呼んだわけである。

カントは、その「人間学」において、女性と僧侶とユダヤ人について面白い比較を行っている。まず彼らの共通点に注目しているが、それは酒に酔うことがないということである。それは彼らが「市民的に弱いので、控えめを必要とするからである」(坂田徳男訳)とカントは説明している。じっさいこれらの人々の価値は、その人がどんな人かによるのではなく、他の人にどのように見られるかにかかっている。だからもともと弱くできている彼らは、他の人々によって控えめだと見られることが必要なのである。

日本語には人間の愚かさを表す言葉として、馬鹿、阿呆、間抜け、頓馬等々といったものがある。これらは人々が慣習的あるいは実用的に使っているもので、相互の間に明瞭な区別があるわけでもなく、いわんや哲学的に厳密な定義がなされているわけでもない。ところがドイツ人のカントは、こうした言葉に哲学的な考察を加えてみせた。カントはその著作「人間学」の中で、「認識能力に関する心の弱さ」について論じているのであるが、心の弱さとはある種の精神薄弱を意味しており、そうした精神薄弱の種類としていくつかのものをあげ、その中から「馬鹿」と「阿呆」をその典型として論じているのである。

カントは、「人間学」の中で、「いかなる人も死ぬことを自己自身について経験することはできない」(坂田徳男訳)といって、死について、あの有名なエピクロスの議論と同じようなことを主張している。エピクロスは、人間は生きている間は死んではいないのであり、したがって生きながらにして死ぬことを経験できない、また、死んでしまったあとではもはや生きてはいないのだからいかなる経験もできない、したがってやはり死を経験できない、と言った。

カントは夢を構想力の一種の産物だと言っている。構想力というのは、対象が現前していなくとも直感する能力を含んでいるが、その構想力の産物に睡眠中無意識にもてあそばれるものが夢であるというのである。カントは構想力を、創作的(生産的)なものと回想的(再生的」なものとに分類している。夢はそのどちらともかかわりがある。創作的な夢もあれば、回想的な夢もある。創作的といっても、まったくの無から有を作り出すわけではない。記憶の中にあるものを自在に組み合わせて、一見新奇と思われるような表象を作り出すのである。だいたい人間の想像力自体がそうしたものだ。人間が自分の手持ちの材料を組み合わせることで、いままでには見られなかった新奇な対象を作り出す。それを創造と言っている場合がほとんどだ。

カントの哲学は、意識の直接与件としての直感から始まる。その直感は感性と呼ばれ、感覚と構想力からなるとされる。感覚は現前している対象の直感であり、構想力は対象が現前していなくとも作用する直感をいう。いずれも具体的には表象という形をとる。その表象が意識の内容を占めるわけであるから、意識は表象に異ならないともいえそうである。事実ジョン・ロックは、意識と表象とは全く同じものだと考えた。しかしカントは、意識と表象とは厳密に一致しないと考える。意識されない表象もあると考えるのである。

「人間学」は、カントが74歳の時に書いたもので、カントの著作としては、最晩年のものである。カントは死ぬ直前まで精神活動が盛んで、「人間学」のあとでも「自然地理学」や「教育学」などの著作をものしている。だが本格的な哲学的著作としては、この「人間学」が事実上最後の業績といってよい。この著作においてカントが目指したものは、人間を総合的にとらえるための手引きを与えることであった。この著作の「序文」でカントは、人間に関する知識すなわち人間学は自然的見地における人間学と実用的見地における人間学からなると言っているが、三大批判の書が自然的見地における人間の諸能力を考察したのに対して、この「人間学」は実用的見地における人間学を考察したものといえる。そのことで、三大批判の書とあいまって、人間を総合的・複合的にとらえることが出来ると考えたわけであろう。

「実践理性批判」の目的は、道徳法則を絶対的・先天的な原理によって基礎づけ、その上で霊魂の不死および神の存在といった宗教的な概念に根拠を与えることである。その根拠をカントは最高善に求める。最高善という概念が必然的に霊魂の不死および神の存在を要請するというのである。わかりやすく言うと、最高善という概念には、言葉の定義からして霊魂の不死及び神の存在が含まれているというわけである。

「純粋理性批判」と「実践理性批判」の関係を、物自体の捉え方の差異に見たのはハイネである。ハイネは詩人であって、プロの哲学者ではないのだが、ベルリン大学でヘーゲルの講義を受けたこともあり、ドイツ哲学について一定の知見をもっていた。彼の学術的な書物「ドイツ古典哲学の本質」は、ドイツ古典哲学の創始者としてカントを位置付けているのであるが、その中でハイネは、カントは「純粋理性批判」において封印した物自体の概念を「実践理性批判」において、裏口から招き寄せたというようなことを言っているのである。

「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである」(「啓蒙とは何か」篠田英雄訳)とカントは、啓蒙を定義して言っている。未成年状態とは、「他者の指導がなければ自己の悟性を使用しえない状態」をさしていう。つまり自立していない状態をいうわけである。他人に決定してもらえなければ、何も決定することができない。それに対して、なんでも自分で決定できる状態を「啓蒙されている」という。その啓蒙されている状態は、個人についてのみならず、国家や世界全体についても言える。国家や世界全体も、未成年の状態から青年の状態へと、進化する過程にある、というのがカントの啓蒙に関する基本的な考えである。

共和制と民主主義を混同してはならない、とカントは主張する。この両者は、とかく政治体制という曖昧な言葉で言及され、したがって同じ原理の上に立つものと誤解されやすいが、じつは異なった原理に基くのである。民主主義は、「最高の国家権力を有している人格の差別」に基く分類によるものである。これを「本来支配の形式」に基く分類という。この分類によれば、支配権を有するものがただ一人の場合(君主制)、互いに結合した複数の人の場合(貴族制)、市民社会を形成しているすべての人の場合(民主制)の三つの支配の形式があるということになる。

カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

フロイトは1932年に、高名な物理学者で同じユダヤ人であるアインシュタインと書簡のやりとりをした。それは、国際連盟の一機関が企画したもので、まずアインシュタインがフロイト宛てに書簡を送り、フロイトがそれに応えるという形をとった。フロイトのほうが23歳も年上だったし、また、往復書簡のテーマについて深い見識を持っていると考えられたからであろう。そんなフロイトに後輩のアインシュタインが見解を乞うという形になっている。それに対するフロイトの返事は、「何故の戦争か」と題して著作集に収められている。

フロイト晩年の著作「人間モーゼと一神教」のそもそもの意図は、エジプト人であったモーゼが、エジプトに亡命していたユダヤ人たちに一神教を与えたということを証明することであった。モーゼから一神教を与えられたユダヤ人が、パレスチナへ進出する過程でその一神教をユダヤ人全体に拡散させ、もともとユダヤの地方神であったヤーヴェがモーゼの唯一神になった、というのがこの論文でフロイトが主張したことである。

フロイトの宗教論は、精神分析の成果を応用したものだ。精神分析は個人の心理を対象にしるいる点で個人心理学といえるが、宗教は個人を超えた人間集団の現象なので、フロイトはそれを集団心理学の問題だと言っている。そのうえで、個人心理学と集団心理学は同じ基盤に立っているとする。その基盤とは、無意識の衝動を中心にした精神的なダイナミクスのことをいう。その無意識的な衝動が宗教の源泉だというのがフロイトの基本的な考えである。

文化とは、動物とは異なった人間固有の事象である。それは二つの目的を有している。一つは自然に対する人間の防衛、もう一つは人間相互の関係の規制である。この二つが組み合わさって文化の体系が形成される。自然に対する人間の防衛は、個人としては無力な人間が集団を作ることによって強化される。人間は本来弱いものだから、その弱さを補うために集団を作らざるを得ないのである。一方人間相互の関係については、人間は本来利己的な生きものであり、互いにとって互いが狼である。それでは集団は維持されない。そこで、集団を維持するためのさまざまな工夫がなされる。それは個人を集団につなぎとめるための工夫だが、その工夫の総体が文化の内実となるのである。

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