知の快楽

資本論第三巻「資本主義的生産の総過程」は、剰余価値の利潤への転化についての分析から始まる。転化といっても、あるものが別のあるものに転化し、それに従って内実も変化するということではない。剰余価値も利潤も、その内実は同じものである。ただ呼び方が異なっているに過ぎない。しかし呼び方の相違は、概念の実質的な変化を伴なうのである。マルクスはそこに、資本家の立場からする現実的な利害と、資本家の立場を弁明する資本主義経済学の欺瞞を見る。

資本論第三巻は、総題を「資本主義的生産の総過程」として、剰余価値の利潤への転化と、それの各プレーヤー(資本家、地主、商業資本及び金融資本など)への分配について論じている。これにエンゲルスは結構長い序文を付している(小生使用の普及版で35ページを占める)。この序文は二つの部分からなり、その一つは刊行が遅れたことへの言い訳、もう一つは同時代の経済学者への批判である。

マルクスの単純再生産モデルは、理論上の仮定としてはありえても、現実的にはありえない。単純再生産モデルは、剰余価値のすべてが非生産的に消費され、あとかたもなくなってしまうことを想定していたが、現実には、剰余価値の一部は、生産の拡大のための追加資本として使われるのである。この追加資本の部分が、生産の拡大をもたらす。

前稿の表式は、部門Ⅰと部門Ⅱとが互いに作用しあって、全体として見れば、単純再生産がとどこおりなく実現することを示していた。その場合に前提となるのは、部門Ⅰの生産物である消費財と、部門Ⅱの生産物である生産財とが、もれなく売れるということだった。つまりその年に生産されたものは、その年のうちにもれなく売れると仮定することで、単純再生産が成り立つというわけだった。しかしこの仮定はかならずしも現実的ではない。というのも、この仮定では、部門Ⅰのcも部門Ⅱのcも全部売れるということになっているのだが、現実にはかならずしもそうではないからである。固定資本の更新については、特別な事情が働くので、その年に作ったものがその年のうちにすべて売れきれるというわけにはいかないのである。

社会的総資本は、個別資本を総和したものである。だからその運動は、個別資本の運動と基本的には違ったものではないが、しかし個別資本だけを見ていては見えないものが見えて来る。たとえば、資本を形成しない商品の流通である。資本を形成しない商品の流通とは、労働者による消費と資本家による私的消費を含んでいる。これらの消費は、個別資本だけを視野に入れている限りは、前景には出て来ずに、背景に沈んだままである。ところが社会的総資本を論じる時には、総資本の循環の不可欠な要素となる。

資本論第二部第17章「剰余価値の流通」は、商品形態で存在する追加剰余価値を実現するための追加貨幣はどこからくるのか、という問題の解明にあてられる。資本主義的生産の本質は剰余価値の生産であるから、その発展にともなって経済の規模も拡大し、その拡大した部分が新たな貨幣需要を呼ぶ。なぜなら剰余価値は貨幣を通じて実現されるほかはなく、その貨幣が社会的に不足していては、正常な形での剰余価値の実現ができないからである。

資本の回転という概念をマルクスは、当初生産資本の回転について論じていた。生産資本を含めた資本の総循環については、資本の循環という言葉を用いていた。要するに、貨幣による資本の調達、それの生産への投入、生産された商品の流通からなる全体を資本の循環と言い、その中の生産資本にかかわる部分を取り出して、資本の回転を論じたのであった。論じる対象は固定資本と流動資本である。この両者では回転期間が異なる。そのことによってどのような問題が生じるか。それを解明するのが「資本の回転」という概念の役目だったわけである。

マルクスは、資本の循環という概念と並んで、資本の回転という概念を持ち出してくる。資本の循環というのは、資本がその目的たる剰余価値の実現のために通過する総過程をさし、単純化していえば、資本の流通過程と生産過程を合わせたものである。流通過程を通じて、労働力を含めた生産手段を調達し、それらを組み合わせて生産を行い、生産の結果得られた生産物を、再び流通過程に投げ入れて(剰余価値を含めた)商品の価値として実現するわけである。これに対して資本の回転とは、マルクスによればもっぱら生産過程にかかわる概念である。生産過程に投げ入れられた生産手段が一回転する期間、それを簡単にいえば、資本の回転期間ということになる。

資本主義的経済システムは、これを大きく区分すれば、生産過程と流通過程からなっている。生産過程は剰余価値を生みだす。流通過程はその剰余価値を実現する。ものを作っても、それが売れなければ何の意味もない。流通過程はしたがって、資本主義的経済システムにとって不可欠な部分である。

資本論第二巻の総題は「資本の流通過程」である。第一巻は「資本の生産過程」であり、その主な内容は、剰余価値の源泉についての考察であった。それに先行するかたちで価値形態論が論じられ、特殊な商品としての貨幣の本質が語られた。資本はその貨幣の形を通じて自己の運動を貫徹する。資本の目的は剰余価値の獲得である。剰余価値は資本の生産過程を通じて生まれるが、無条件に実現するわけではない。それが剰余価値として実現するためには、生産された商品が適正な価格で売れなくてはならない。すなわち資本は流通過程を通じてはじめて自己の目的たる剰余価値の取得を実現できるわけである。マルクスが資本の生産過程に続いて資本の流通過程をくわしく論じるわけはそこにある。

資本論全三巻のうちマルクスが生前に刊行したのは第一巻のみで、残された部分は盟友のエンゲルスの手によって編集・刊行された。第二巻の刊行は、マルクスの死後二年目の1985年、第三巻の刊行は更にその九年後の1894年のことである。第二巻の刊行にあたってエンゲルスは序文を付し、マルクスの残した草稿をどのように編集したかとか、資本論全体についてのマルクスの構想などについて説明している。

資本論第一巻の最終に近い部分、それは実質的には第一巻の総まとめと言ってもよいが、マルクスはその部分を「資本主義的蓄積の歴史的傾向」と題して、資本主義の行き着く先としての、資本主義の否定の必然性の分析にあてている。非常に短い部分だが、ここに我々は、資本主義がいかにして共産主義社会を生み出すのかについての、マルクスの基本的な展望を見いだす。もっともその展望は、あまり実証的な分析には支えられておらず、多分に予言的なものではあるのだが。

資本主義的生産は、商品生産者たちの手の中に相当の資本と労働力とがあることを前提としている。資本とは生産のための手段とか材料のことであり、労働力はそれに結合されることで剰余価値を生みだす源泉である。この両者がなければ資本主義的生産はなりたたない。経済学は、神学が原罪を論じるのと同じような具合に、これらの起源を無限の過去の物語として論じる。ずっと昔のそのまた昔に、一方では勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物を、又それ以上を使い果たしてしまうクズどもがあった、というわけである。

ジェレミー・ベンサムといえば、功利主義の先駆的思想家という位置づけを付与されている。そのベンサムをマルクスは、「生粋の俗物」、「十九世紀の平凡な市民常識の面白くもない知ったかぶりで多弁な託宣者」と呼んだ。

資本の蓄積はますます多くの労働者を労働力として吸収するが、しかしそのことで労働力の絶対的不足という事態はおこらないとマルクスは考える。絶対的不足が起る前に、労働への重要が労賃の上昇をもたらし、それが剰余価値の減少につながり、剰余価値の減少が資本の蓄積にストップをかけるからだというのである。資本主義的生産は、つねに過剰な労働力を伴っている。その過剰な労働力が労働の供給圧力として働き、労賃の上昇を妨げ、そのことによって剰余価値の生産を可能にする。この過剰な労働力のことをマルクスは相対的過剰人口と呼ぶ。そして、その相対的過剰人口こそは資本主義的生産に固有の人口法則なのだというのである。

資本の蓄積は、剰余価値を資本に転化することによって促進される。資本の蓄積は資本の集積を生む。資本の集積とは、資本が外延的に拡大することを意味する。要するに資本の絶対的な量が増大することである。資本論第七編「資本の蓄積過程」は、資本の集積が労働に及ぼす影響を主として考察する。

資本論第一部第七編は「資本の蓄積過程」と題して、剰余価値の資本への転化を論じる。剰余価値の資本への転化は、資本主義的生産の拡大、つまり拡大再生産をもたらし、それによって資本主義経済の不断の拡大・発展をもたらす。資本主義経済は、拡大するように宿命づけられているというのがマルクスの基本的見解である。それは今日の主流派の経済学も共有している見解だ。経済はつねに右肩上がりに成長していくことを、経済学は暗黙の前提にしている。経済が成長しないで停滞状態にあるというのは、不健全であることを超えて、ありえないことだと認識されるのである。停滞は安定とは違う。安定とは適度な成長を意味するのだ。

資本主義経済システムにおいては、労働力も商品としてあらわれる。商品であるから当然価格がつく。労働力の価格は賃金という形をとる。その賃金はどのようにして決まるか。資本の利益を代弁する主流派の経済学は、賃金も労働に対する需要と供給のバランスによって決まるとする。これに対してマルクスは、賃金は労働力の再生産に必要な金額で決まるとした。

労賃という概念は、アダム・スミスに始まる古典派経済学に特有の概念だとマルクスは言う。労賃は、労働力の価値ではなく、労働の価値によって基礎づけられる。人間そのものの価値ではなく、人間の一定の労働に対して支払われる価格、それが労賃だと言うわけである。そうすることによって古典派経済学は、労働力という商品に含まれている価値と使用価値、それに対応する支払賃金と不払い賃金の対立・矛盾といったものを覆い隠す、とマルクスは批判するのだ。

マルクスが剰余価値と呼ぶものを、主流派の経済学(リカードやミルに代表される)は利潤と呼ぶ。どちらも物理的には、つまり量的には同じものである。だが、その意義は違うとマルクスは主張する。剰余価値は、労働力の再生産に必要な労働=必要労働を超える剰余労働によってもたらされる。だから、剰余価値率は剰余労働/必要労働となる。これに対して主流派経済学のいう利潤率は、労働を含めた投下資本に対する利潤の割合のことをいう。

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