知の快楽

ハンス・ケルゼンはハロルド・ラスキとともにシュミットが最大の標的として強く批判した相手だった。どちらも権力の多元主義を肯定しているところが、権力の一元性にこだわるシュミットには我慢がならなかった。ラスキは国家をほかの形態の団体と並ぶ相対的な存在としてとらえ、その特権的な位置を認めない多元的権力論の立場をとった。ケルゼンは国家の特権性は認めたが、国家権力の一元性には懐疑的で、国家権力が複数の機関に分有され、それらが相互に牽制しあうという権力分立論を主張した。この考え方の背後にあるのは自由主義的な国家観である。

カール・シュミットの著作「政治神学」の邦訳(未来社刊)には、カール・レーヴィットによるシュミット論の小文が二本掲載されている。「シュミットの機会原因論的決定主義」と「マックス・ヴェーバーとシュミット」だ。どちらもシュミットの決定主義的な議論を厳しく批判している。

カール・シュミットが「政治的なものの概念」のなかで展開した「友/敵」論は、彼の政治理論の核心をなすものだが、その評価をめぐっては、プラスとマイナス(肯定と否定)があい別れる。これを否定的に見るものは、シュミットが政治を「友/敵」の枠組に単純化することで、国家の行う戦争や内乱に積極的な意義を認め、その結果ナチスのようなものにも理論的な根拠を付与したと批判するもので、多くの政治学者はこの立場をとっている。シュミットが「ナチスの桂冠学者」といわれるのは、こうした見方が普及したことの一つの効果である。

シュミットが自分の著作の題名に用いた「政治神学」という言葉を筆者は、否定的な文脈で批判的な意味で使われていると受け取ったのだが、仲正はそうではなく、シュミットの立場を含めた政治学全般を特徴付けるような積極的な言葉として受け止めているようだ。そうした受け止め方によれば、政治学と政治神学は密接に重なりあう概念だということになる。

仲正昌樹はこの本の中で、カール・シュミットの主要著作三点(政治的ロマン主義、政治神学、政治的なものの概念)を取り上げ、テクストに添ってシュミットの思想を解釈している。例によって、学生相手の講義形式を踏まえているので、わかりやすい。

カール・シュミットの1924年の著作「ライヒ大統領の独裁」は、ワイマール憲法第48条の解釈をめぐる議論である。この条項は大統領の非常権限を定めた規定であり、それが後にヒトラーの独裁を許したものとして、公法学史上非常に議論のあるものとして知られるが、シュミットがこの論文(初版)を書いた1924年の時点では、1919年の制定からまだ5年しか経っていないにもかかわらず、ドイツの未曾有の政治的・経済的危機を前にして、すでに何度も実際に発令されており、しかもそのたびにその法的根拠とか効果をめぐってさまざまな議論が交錯し、この条項についての統一的な見解は成立していないような状態だった。シュミットをそれに一石を投じ、ワイマール憲法48条が定める大統領の独裁権限の範囲と効果について明らかにしようとしたわけである。

カール・シュミットは「独裁」の最終章を「既成法治国家的秩序内における独裁」と題して、戒厳状態に関するかなり詳しい議論を展開している。章題から伺われるようにシュミットは、戒厳状態を独裁と密接に結びつけて考察する。それはここで分析されている戒厳状態が、近代的な意味での権力の分立を廃止し、権力の一元化をもたらすとの認識から来る。シュミットが独裁を国家の危急(例外)事態における主権者の振舞と明確に規定するのは「政治神学」においてであるが、この著作においては、戒厳状態がなぜ独裁を要請するようになるのか、そのメカニズムを考究することで、独裁と主権とをつなげる道筋を明らかにしようとしたのだと思う。

カール・シュミットにとって、政治をめぐる議論のなかでもっとも我慢がならないのは自由主義的政治論だ。民主主義はまだ我慢ができる。民主主義なら、シュミットが主張する主権者の議論とか独裁とも両立する。民主主義から独裁が生まれた歴史的な例もある(フランス革命におけるジャコバン独裁)。ところが、自由主義からは絶対に独裁は生まれない。独裁と自由主義的政治体制は、水と油の関係、というより両立不可能な対立関係にある。そこでシュミットは、ケルゼンとかラスキの自由主義的議論を目の仇にするわけだが、自由主義的な立憲主義の元祖といわれるモンテスキューについては、かなり屈託した思いを抱いているようだ。基本的には批判しながらも、その歴史的意義については一定の理解を示している。

カール・シュミットが「独裁」を刊行したのは1921年のこと、「政治的ロマン主義」(1919)と「政治神学」(1922)にはさまれた時期である。この著作を通じてシュミットが本当に目指していたのは、「独裁」を例外状態における主権者の行為として正当化することだったと思うのだが、表向きにはそこまでは主張していない。とりあえず独裁というものに、政治的・公法的な存在意義を付与しようという意気込みだけが伝わってくるように書かれている。独裁をめぐる価値論ではなく、独裁の存在論というべき議論が、この著作の表向きの風貌なのである。

「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」。これは、カール・シュミットの著作「政治神学」の冒頭の文章だ(田中浩、原田武雄訳)。この文章でシュミットは、政治の本質を簡略に表現している。シュミットはこのように簡潔で断定的な文章を通じて自分の思想を表現しようとする傾向が強い。まず断定することが大事なので、その意味するところは追々説明してゆけばよい、というスタンスである。

「政治的ロマン主義」は、カール・シュミットの始めての本格的な政治学論文である。これが書かれたのは1919年だが、その時点でロマン主義を取り上げたことに何か特別の事情があるのか、21世紀の日本の読者にとっては腑に落ちないところがある。しかもこの論文は、アダム・ミュラーとかフリードリッヒ・シュレーゲルとか、政治理論の上でも、またほかのいかなる精神史的な歴史においてもほとんど関心の対象とならないような人物について、延々と退屈極まる論及を行っている。そうした退屈な論及が、シュミットがこれを書いた1919年のドイツにおいては、ことさらに意義を持っていたかと言えば、どうもそうでもないらしい。にもかかわらずシュミットは、なぜこんな文章を書いたのか。

ルソーの社会契約論における全体主義的傾向を指摘する議論は結構根強く行われているが、カール・シュミットはそうした議論の先駆者といってよい。彼のルソー批判は、全体主義を批判する議論の中では、いまだに強い論拠として引用され続けている。

カール・シュミットは、「現代議会主義の精神史的状況」のなかで、民主主義と議会主義とがかならずしも結びつかないということを主張したが、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」という小論の中では一歩進んで、民主主義と議会主義との根本的な対立について述べている。ここでシュミットが想定している民主主義とは、民主主義の現代的な形態としての大衆民主主義のことだが、それは単純化して言えば、多数による支配の徹底ということらしい。

カール・シュミットが「現代議会主義の精神史的状況」のなかで主張したことは、一つには、民主主義と独裁とは対立するのではなく親密な関係にあること、もう一つには、民主主義と議会主義とは必然的な関係にはないこと、というより対立関係に陥りやすい傾向があること、この二つのことであった。民主主義と独裁との関係については、先稿でふれたので、ここでは民主主義と議会主義との関係についてのシュミットの議論を見ておきたい。

カール・シュミットは、「現代議会主義の精神史的状況」の中で、民主主義と議会主義とは必ずしも密接な結びつきを持つわけではないことを明らかにしようとした。議会主義の極端な反対物は独裁だが、民主主義は容易に独裁を導く。「近代議会主義と呼ばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は民主主義の決定的な対立物ではなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない」(樋口陽一訳から)というのが、シュミットの基本的な考え方である。

マキャヴェリ以来、近代西欧の政治理論は、政治を権力と関連付けて論じてきた。政治というものは、権力の獲得とか配分をめぐる現象であって、権力の動機を持たない政治的な行為というものはありえない。権力をめぐる戦いがあるところには、当然敵・味方の区別が生じるが、それは権力闘争に付随する現象であって、それ自体を独立したものとして概念規定しようとするのは行き過ぎである、とされてきた。ところがカール・シュミットは、政治とは友・敵(敵・味方)の区別が生じるところに始めて成立するものだとすることで、友・敵の区別こそが政治の本質であって、権力はそれに付随するものだとする。つまり、権力と友・敵区別の関係を、伝統的な政治理論とは180度異なった仕方で捉えるのである。権力をめぐる戦いが友・敵の区別を作るのではなく、友・敵の区別の生じるところに権力をめぐる戦いが生まれる、とするわけである。

本居宣長をひととおり読んでみたら、その延長で荻生徂徠に関心が向いた。宣長と徂徠は、徳川時代の思想家の双璧と言える。その思想は、対極的と言ってもよいほど、違う方向を向いている。その対極性が、日本人の思想にある種の彩を添えている。日本人はすでに徳川時代において、こうした思想の多様性を経験したおかげで、明治以降もさまざまな思想を吸収消化する態勢ができていた、というふうにも言えそうである。

「呵刈葭」後編では、「日の神論争」として知られる日本の思想史上有名な論争が展開される。この論争は、藤貞幹が「衝口発」という著作で宣長の国粋主義を笑ったことに対して、宣長が「鉗狂人」を著して反論したことを踏まえ、秋成がさらに宣長を再批判した、それについて宣長が再反論を行った、というものである。「鉗狂人」は「狂人」を「たわめる(鉗)」という意味で、その狂人とはとりあえず藤貞幹をさしている。

本居宣長は天明六年(1786)頃に上田秋成と二度にわたって論争した。その結果を、宣長は「呵刈葭」という形で、秋成は「安々言」という形で著した。「呵刈葭」は「かかいか」と読んだり「あしかりよし」と読んだりされるが、意味は「あしかる(刈葭)」人、つまり悪人を、「しかる(呵)」ということらしい。ここで宣長に叱られている対象が、論争の相手である上田秋成というわけだ。

「直毘霊(なほびのみたま)」は「古事記伝」の序に当たるものだが、古事記伝の刊行に先立って独立した著作として発表された。宣長自身が言っているように、道について論じたものである。表題の「直毘霊」とは「直毘神」の霊という意味であるが、直毘神は穢れを払い、禍を直す神とされているとおり、直毘神の霊を以てわが国に取り付いた穢れを祓い清め、わが国固有の道を明らかにしようとしたものである。ここで祓い清めるべき穢れとされているものは異国の悪しき影響であり、わが国固有の道とされているものは、皇祖神天照大神によって示された日本人として歩むべき尊い道のことを言う。したがってこの書は、激しい排外主義と神がかった国粋主義を煽ったものとして、日本の思想史上にきわめてユニークな位置を占めるものである。

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